幸田たつ

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2024年度 卒業制作と皆へ

こんにちは文芸研究同好会 2024年度部長の空色です。ブログの投稿は前回の挨拶を最後にしようと思っていたのですが、文字数おばけさんの卒業制作見てていいなぁと思ったので、最後に急遽作ってみました。ギリセーフ!それから、ここまで読んでくださった方々、一緒に活動してくれたみんな。改めて今までありがとうございました。最後の定例会で言い忘れていた最後の挨拶をここでさせてください。きっと誰も気づかないだろうけれど…!(笑)海苔むすびさん短い間でしたが、サークルで一緒に活動してくれてありがとうございました!機転が利くところに、いつも頼りっぱなしで本当に助かりました。百合小説永遠に待ってますね♡かなさん卒業おめでとう!学部の方でも忙しかった中で、沢山会議や企画に参加してくれてとても助かりました。サークルでは規制かかってたけど、これからは気にすることなく不穏ネタを沢山書いていってくださいね。応援しております!詩歌さん短い間でしたが、会議や企画にたくさん参加してくれてありがとう。一気にサークル内の人口が減って不安な点もあるかもしれませんが、これからも楽しく活動していってくださいね!月夜さん大学一年の時に会ってからずっと、創作の趣味もキャラの好みも何もかもが真反対だったけれど、良き仲間でいてくれた文字数おばけさん。君の作風は名前を伏せて、どーれだ!ってしても一秒で分かるくらい甘々で、可愛くて、大好きだよ。分かり合えないからこそ、一緒にする創作の話は刺激的で、わくわくして、たまに理解できなくて、非常に楽しかった。来来来来来世くらいには癖も分かり合えているといいね…。と、いうことで挨拶はこれくらいにして卒業制作の話に入りたいのですが、何を載せようか一生決まりませんでした。新しく書くにはカロリー高いし、過去作はほぼ載せられないような内容だし。そもそも卒業してからもずっと小説書いているので全然「卒業制作」感がありませんが、私が書いた一次創作の中で三番目くらいに好きな作品を、私の卒業制作としようかなと思います。人魚に恋におちた男の子の話です。まだ恋愛未満。素直じゃない男の子同士がすれ違っているのが好きなので、書いていてすこぶる楽しかったです。陸のあるレディに会いに行きたいシルと、陸に行ってほしくない幼なじみのスピカ。その本当の訳とは。私も月夜と同じであらゆるサイトで書いていますが、またどこかですれ違ってもこっそりと、二人だけの秘密にしましょう。それでは、またどこかで!以下、本文です。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――その時、俺の初恋は小さく地味に弾けた。海面から差し込む光がレースカーテンのように柔らかく揺らいで、目の前の金髪を照らす。昔から何かと目立つタイプの幼なじみは、それすらもスポットライトにしてしまう。こうして並んでいるだけで俺とは違う生き物みたいに見える。同じ人魚のはずなのに。「なぁなぁ、足ってどこで貰えると思う?」「……は?」幼なじみのシルはなんて事ないような顔で、声でそう言って退ける。まるで世間話をするかのように。綺麗な顔がもったいないくらい。「俺さぁ、陸に行くことにしたんだよね」「は、いや、なんだ急に」「いやあ、セレネちゃんに言われちゃってさ。陸に来てーって」セレネというのは、シルが最近ご執心になっている人間のメスで。なんでも、鮮やかなヒレを持つベタのように華やかで美しいんだと。一度や二度、沖で逢っただけのメスによくそこまで熱くなれるよな、と心底呆れる。「それで、行くことにしたのか?」「そりゃもちろん。可愛いメスに来てって言われて、行かない理由なんて無いさ」いや理由だらけだろ。と喉元まで出かかった。よく考えてもみろよ、俺たちは人魚で、人間とは住む環境も、寿命も、姿形も違う。なにより深海に慣れてしまった体は、数時間も海水からあがっていられないし、重力が重すぎて立つのもやっとで。それだけでも理由としては十分すぎるくらいだ。それなのに。「……そんな理由か?」「そ。そんな理由」それなのに、それをただ「逢いに来て」と言われたから、という動機だけで無しと思えてしまうのか、お前は。指をピースの形にして、にこにこと笑うシルにはきっと、伝わらないだろうけれど。「考え直せよ。そんな一時の迷いで決めていいことじゃない」「えー、でももう決めちゃったし」「お遊びじゃないんだぞ、魔女との契約は」「魔女?」しまった。教えれば絶対魔女に会いたがるだろうから言うつもりなんて無かったのに、つい口が滑った。案の定、シルはヤドカリの殻を見つけた子供みたいに口角をにんまり上げた。「ほぉ?魔女と契約すれば足が貰えるんだ?」「ちがう、よくあるおとぎ話だ」「はは、教えろよ〜水くさいぞ」水臭いのはお前もだろ。既に期待で揺れ動いている背ビレが、海藻から出る泡をパチパチと弾いている。こうなったシルは執拗いから嫌いだ。しばらくは俺について回るに違いない。昔、たまたま拾ったフォークを使っていたら目を爛々に輝かせて追いかけて来たのを思い出して脱力する。「とにかく俺は教えないからな」ただでさえ人間界で人魚が捕獲対象である以上、人魚が人間と関わろうとするのだって禁忌なんだ。捕まったら最後、どんな実験、研究に使われるか分かったもんじゃない。それに、人間になりたいとか、魔女の話とかしてるなんて噂流れたら学校の先生に厳しく叱られる。結局、諦めが悪い幼なじみは何日も何日も付きまとってきた。選択授業、いつもは実技の方にばかり行くくせに、最近はよく座学に着いてきて五分も持たずに潰れている。実技、今日はシルが好きな狩りリレーだったのに。そう教えてやると、逆さまに持っていた教科書から顔を出して「ちょっと後悔してる」と悔しそうに笑った。たったそれだけだけど、やっぱり幼なじみは眩しい。ランチだって、ミドルスクールに上がってからはよく周りの人魚からサンゴ礁に誘われていたけど、最近はほとんど俺に引っ付いてくる。俺が小エビを食べればシルも合わせて小エビを食べる。俺がカニ味噌を食べればシルもカニ味噌を食べる。だけどシルの方が狩りが上手くてちょっと悔しいから、今日はシルが苦手な海藻サラダだ。エレメンタリースクールの頃、調子に乗って海藻を大食いして、腹痛を起こしたのがトラウマらしい。乾燥ワカメを食べて胃袋が破裂する話なら聞いたことあるけど、既に原寸大の物を食べて破裂しそうになるヤツ初めて見た。「意地悪だ」「着いてこなくてもいいのに。教えないぞ?」「意地悪だ!」ヤケになって海藻を口いっぱいに頬張っては顔をシワシワに歪める姿に吹き出してしまう。「スピカ、さては楽しんできてるな〜」「さぁな」本当は心当たりが無いわけでも無かったけど、素直に言うのも悔しいので絶対言ってやらない。帰りも、出来るだけシルに絡まれないように普段は通らないような裏道を通る。「なぁー教えろよー」「あぁ、もう。着いてくるなってば」帰る家が近いから当然そんな小さな抵抗も虚しく、どんな裏道を使ってもすぐにバレる。さらに何でも持ってる幼なじみは泳ぐのも早かった。今日も今日とて、あっという間に距離を詰められて、俺のより少しだけ大きなヒレで岩陰に追いやられる。「ずるだ、こんなの」「人魚聞き悪いなぁ、追いかけっこしたくて」「追いかけっこなら他のヤツとしろよ」「えーいいじゃん。まだ飽きてないでしょ」「はぁ?なに、」行き場をなくした手をぎゅっと絡め取られる。座学ばかりで体を動かしていないから体力が有り余ってるんだろう。尾ヒレが楽しげに岩を打っている。「教えないって言ってるだろ。第一、海の魔女の話が本当だったとして、彼女はお前のこと人間にしないと思うよ」「どーして?」「彼女が一番嫌う話だから。女に会いに陸に行くだなんて」薄暗く、光の当たらない岩の裏。稚魚の一匹も通らない。目の前の人魚がにっ、と口角を上げる。幼なじみの、初めて見る表情に背筋がゾッと冷えた。なんだ、それ。そんな顔、俺は知らない。「ふぅん?詳しいね」「いや……別に」「まるで一度自分がしたみたいだけど」「そ、んなわけないだろ」一度目を逸らした隙にグッと距離を詰められる。相変わらず口元にはあの笑みを浮かべていて、感情が読めない。何を考えているんだこいつは。「おい、近いって」「……ね、もしかして妬いてる?」「んなっ、馬鹿ちがう、俺は心配してやって」「ふぅん。心配してくれるんだ?優しいね」目頭に力を入れて睨んでも、緩く笑って返されるだけ。何を言ってもシルを煽ってしまう。視界の端で揺らぐ金髪が腹立たしい。「後悔、することになっても知らないぞ」「いいよ。俺は可愛い子を泣かせるくらいなら、ヒレの一つや二つ惜しくないからね」心配してやったことが阿呆らしく思えるほどあっけらかんと言い切ってしまうところがシルらしくて。あぁ、このまま逃げても無駄だな、そう悟った。お前は俺が何を言っても陸に行くんだろ。「……わかった。教えてやる」「やった。スピカならそう言うと思った」白々しいな、毎日ガチガチに岩陰に追い詰めておいて。「ただし、教えたからには最後まで手を貸してもらうからな」「手?」「魔女に変身薬を作ってもらうには、色々と足りないものがある。昔は禁忌とされていた魔法だから危険な材料ばかりだ。それでもいいのか」「もちろん!スピカこそ、手伝ってくれるんだ」「……まぁ。秘密を教えるのも重大な罪だからな」「ふぅん?そっか。ありがと」そんなに純粋な笑顔で礼を言われると困る。俺は自分のことしか考えてないよ。手伝うのだって本当は、なんて。いい加減で気まぐれなやつだから、どこか「やめる」と言い出すのを期待していた自分がいることに、気付かないふりをした。「まずはチョウザメのウロコだな」「へえ、それもおとぎ話で学んだの?」「うるさい。余計なこと言ってないでお前も海底探せよ」「え、まさか、底に落ちてるのを探すつもり?」他に何があるんだ。と、海底に貼りつけていた顔をあげるとシルは想像よりずっと目をまん丸にして驚いていた。「面倒だし、パパッと巣窟に行っちゃおうよ」「は!?馬鹿か、チョウザメの群れに勝てるわけないだろ」チョウザメはサメじゃないとはいえ、凶暴なのには変わりない。以前にお遊び半分で群れに突っ込んで死にかけた魚の話を聞いたことがある。「だーいじょーぶ!俺に任せろって」それなのに、シルは自信に満ちた表情で近くに落ちていたガラスの破片で海草を引きちぎって、同じく近くに落ちていた網に器用に絡みつけた。「じゃん。どう?シルバーくん特性チョウザメホイホイ」どう、と言われても。いかにも褒めて欲しそうな顔をしている。「そんな手に引っかかるかぁ?あいつら」今のままだと海藻が絡みついた、ただの網でしかない。こんなのに引っかかるのは小さなプランクトンやカニくらいだ。「……ん?あぁ、そうか。ここにチョウザメの餌になるプランクトンやカニを誘き寄せて罠にするわけだな」「そ。どう?天才でしょ」「でもウロコ取ったあとどんな目にあうか」それでも世紀の大発明とでも言わんばかりに胸を張って、大雑把に網を手繰る幼なじみに思わず笑みが零れた。あぁ、こいつはそういう奴だよなと不意にこれまでの思い出が蘇った。初めて会った時も、エレメンタリースクールで出会った時も、俺が落ち込んだ時も。思い返せば、いつもお前はこんな顔で悪さをしていたな。おかげで証拠隠滅の腕が上がった気がする。「ん、どうかした?」「いや。少し昔のこと思い出してた」「なぁに、急に。俺が陸に行くの寂しくなっちゃった?」そう、笑って問いかけてくるシルに、同じように笑い返せなかった。眩しい幼なじみは海面からの光までもをスポットライトにしてしまう。まるでこの海はすべて、お前を引き立たせる舞台であるかのように。陸のものは全て手に入れたような顔をして。俺はそれがずっと羨ましかった。お前みたいになりたかった。隣でフジツボみたいに大きな岩にくっついているだけの、そんな自分になりたかったわけじゃない。俺も、好きな人に好きだと笑って言える自分になりたかった。「俺は……お前に後悔してほしくないよ。幼なじみだから」それでもお前は行くんだろ、陸に。もうここまでくれば嫌でも分かる。シルは本気だ。後悔したとしてもいいと、そう言い切ったその真剣な目は、どこか見覚えがあった。あれは本気だ。よく分かる。分かるからこそ、素直に応援出来ない自分がいる。「魔女は、変身術をかける前に必ずこう契約させるんだ。『もし想いが叶わなかったら、お前は心臓が破けて泡になる』ってな。変身術で変身したやつが幸せになったところを俺は見たことない」「すごくリアリティある話だけど」「昔読んだ本の話だ」「ふ。そっか?」「怖く、なったか」やっぱり少しだけ期待した。じゃあ辞める、と言い出すのを。お前は俺と同じになって欲しくないよ。だけど眩しい幼なじみは、眩しい笑みを浮かべてあっけらかんと言い切る。「いいや。叶えればいいってことでしょ?ならモーマンタイだね」「……馬鹿なヤツ」わかってた。もう今更遅いんだろ。何を言っても、俺ではきっと。「なら、さっさとチョウザメを捕まえて、万年貝の真珠とウツボの乳歯探しに取りかかるぞ」「わー、これまた難しそうな物ばかりだ」いいな、お前は。どれだけ入手困難な物でも、欲しいものが手に入る運命で。俺は今にも、心臓が張り裂けて、泡になってしまいそうだ。いや……初めから、俺は泡になる運命だったのかもしれない。十五年前、初めてあいつを見た時から。ー沖に棄てられて、今にも流されそうになっていたガキの俺を救ってくれたのはある人魚だった。その人魚は、俺と同じくらいの歳に見えるのに美しくて、優しくて、だけど瞬きの間に消えてしまいそうな儚さがあって。例えるなら海に音もなく沈んでいく夕日のようで。見蕩れているとその人魚は美しい顔をくしゃりと歪ませて笑いかけた。『追いかけっこは好きか?』あまりにも自然に話しかけてくるもんだから、つられて好きだと答えると『俺も好きだ。お揃いだなっ。俺と競走してくれよ』と嬉しそうにヒレを揺らした。そもそも誰なんだ、とか。どうやって走るんだよ、とか。聞きたいことは色々あったはずなのに、気がつけば俺はその人魚と海を走っていた。俺は砂浜で、人魚は海。バシャバシャと波間を打つヒレも、大雑把に掻きあげた前髪も、楽しいなと笑いかけるその顔も。全部が夕陽色に輝いて、綺麗だと思った。綺麗なそいつと、これ以上近づけないのがもどかしい。どんだけ走っても縮まらない距離感が気に入らない。もっと近くで、話したい。笑わせたい。走りたい。『お前ヒレがあってずるいぞ』『羨ましいだろ〜』『……俺もお前みたいになれる?』『もちろん!なれるよ。俺が保証する』『そしたらずっと、俺と追いかけっこしてくれる?』『いいよ。君が飽きるまで、いや飽きても追いかけっこしてあげる』『えぇ、それはいいよ』今でも思い出す。そんな、泡より軽くて脆い約束をしたこと。……出来ない約束なんて、するなよ。馬鹿。飽きても追いかけっこ付き合ってくれるんじゃなかったのか。なんて。あいつは俺のこと覚えていないだろうけれど。「その人魚は後悔してるのかな」「え?」「そのスピカが読んだおとぎ話?の人魚はさ。人間になっても想いが叶わなくて泡になったんだろ?」「あ、あぁ。それか」「どれだと思ったの」「いや別に」一瞬ドキりとした。懐かしい思い出に浸っていたら余計なことまで思い出してしまったせいだ。「でもさぁ、それって本当に不幸だったのかね」不幸だろ。想いが叶わなかったんだから。相手の幸せを願えるほど、綺麗な心は持ち合わせちゃいない。俺はいつも自分のことばかりだ。「俺は思うんだよ。想った通りの幸せにはなれなかったかもしれないけどさ、でも好きな相手にもう一度会えたらなら、きっとそいつは後悔なんてしてないよ」僅かに先を泳ぐシルの横顔を盗み見る。想像していたものよりずっと真剣で、穏やかな顔をしていたから。あの夕日の下で見た表情と重なって見えたから。思わず、その手首を掴んでいた。「スピカ?」俺はずっと、シルのことが羨ましくて。シルみたいになりたかった。シルみたいに綺麗で、強くて、輝いていて、そんな人魚に俺はなりたかったんだ。そうしたらずっと、お前といられると思ったから。「……いくなよ、陸になんて」静かな海底に、俺の詰まる息遣いと、シルの言葉を飲み込む音がやけに大きく響いた。あぁ、こんなこと口走ってしまうくらいなら。あの時足じゃなくて、声を引き換えにすればよかった。かの有名なおとぎ話みたいに。「お前が行ったら、俺が、不幸になる」だけど、十五年間の想いは一度溢れ出したらもう止まらなくて。行かないで欲しい。お前が行ってしまったら俺はなんのためにここまで来たのか。お前は「後悔なんてしない」なんて言うけど、また一人ぼっち残されて、誰にも気づかれず泡になってしまうなんてそんなの嫌だ。俺は、俺は……。「じゃあやーめた」「え?」こんなにも静かな海じゃ、聞き間違いをする方が難しい。だからきっと、聞き間違いじゃない。なら、俺の耳が病気になったのか。「行くの、やめる」「は?急になんで」「なんでって、スピカが行くなっておねだりしてきたんだろ〜」「いや、おねだりはしてないけど」「俺が陸に行ったらスピカが不幸になるんだろ?」「え?まぁ…そうだけど」「俺はスピカが不幸になるのが一番困るからね」どうやら俺の耳が壊れたわけでもなさそうで。相変わらずシルはへらへらと笑いながら「ということで!」と持っていた網をその辺に放り投げた。岩間に隠れていたプランクトンが餌を求めて群れを作って網の海藻に飲まれていく。シルの作戦はきっと上手くいっただろう。「いやでもセレネちゃんはどうすんだよ」「お前は俺に行って欲しいのか、行って欲しくないのかどっちなのさぁ」「それは、ほしく、ない……けど」「おー、素直。んじゃあ行かない。スピカの方が大事だから、それだけだよ」いや本当にそれでいいのか、本気で陸に行きたかったんじゃないのか。というか、その位の覚悟で振り回すな。色々考えてしまった時間を返せ。言いたいことは山ほどあるけれど。「馬鹿。お前なんて魔女の餌にでもなってしまえばいいのに」「えぇっ、なんで怒ってんの」ほんの少しだけ、安心した。いい加減な幼なじみにそう言ってやってもいいと思えた。「――それに『飽きてもずっと』って約束したから、ね」

2024年度『卒業制作』①

こんにちは。文芸研究同好会です。今回は卒業する部員が書いた作品を公開します。とても長いので前編のみここでは公開します。後編は②で。少し手違いがありまして、①と②の投稿順序が逆になっています。さて、今作は魔法少女×妖怪の不思議な世界。この世界で何が起こっているのか。それはどうか、あなたの目でお確かめください。以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。『救えない世界』①   月夜 急募。空からぬいぐるみが降ってきた時の対処法について。……答え。持ち帰りましょう。 うん、そうだよな。そう、だよな。 小さくため息をついて目の前にいるぬいぐるみを拾い上げる。綿と糸と布でできていると聞いたことのあるぬいぐるみだが、思っていたよりも重い。大きさのせいか、はたまたぬいぐるみとはこれ程の重さなのだろうか。 分からないがとりあえず……。「なに、あれ……」 視線の先にはぬいぐるみを追ってきたらしい上半身は女性、下半身は蜘蛛な化け物。それも三体。嫌な予感しかしない。 顔を見合わせた彼女らは小さく頷きあった後、勢いよく俺のところへと駆けてきた。「ま、じかっ」 仕方なく壁を駆け上がって逃げる。もしかして、良くないもの?ただのぬいぐるみじゃない? そんなことを考えても蜘蛛の化け物は追いかけてくる。しかし、俺のように屋根を駆けることはしない。というかできないようだ。ということは、あの化け物は蜘蛛のようで蜘蛛じゃないのかもしれない。「わっかんない、分かんない」 化け物たちの視界に入らないところでサッと屈む。この場所は下からは壁があって見えないはずだ。「なあ、起きろって」 ぬいぐるみを揺さぶったらパチリと目を開けた。ぬいぐるみは自身を見た後、ゆっくりと俺を見て目を丸くした。「え、なん、きみ、」「俺のことは後。化け物に追われる心当たりは?」 ぬいぐるみはハッとした後、小さく頷いた。チッと小さく舌打ちをする。というかここまでがっつり関わってしまったら今さら見捨てることはできない。それこそルール違反だ。「今回だけだから」 ぬいぐるみを一度屋上の床に置き、目を閉じる。ざわりと風が吹いた後、ゆっくりと目を開けた。これまで短く黒かった髪が一気に白く長くなった。ぬいぐるみの口がぱっかりと開いている。目の前で姿が変わったらそんな反応になるだろう。「え、どういう、」「話は後。倒せば良い?」「う、うん……」 袖口から出した黒い狐面を右こめかみにあてて紫の組紐を結んで顔を少し隠す。こんな昼間にこんな格好をするとは思ってもいなかった。「僕も、行く」「……分かった」 ぬいぐるみを抱き上げ、小さな白い狐面を渡す。ぬいぐるみはそれを受け取り、俺と同じように面をつけた。それだけでぬいぐるみの服が俺と同じになった。白い上着と黒の袴。俺とは色違いだ。「離れないで」 ぬいぐるみを肩に乗せて立ち上がる。少し先に化け物がおり、それに向けて人差し指と中指をぴったりくっつけて指差す。「燃えろ」 ゴオッと音がして蜘蛛が燃えた。壁を越えフェンスを越えて他の化け物を探す。もう一匹はすぐ見付かったが、最後の一匹だけはどこにも見当たらなかった。「いない……?」「……いるよ」「は?」 ぬいぐるみを見た次の瞬間、何かに足をとられてすっ転んだ。振り返った先、そこに化け物がいて俺の上にのしかかっていた。細かな毛の生えた足が両手両足を床に押し付ける。 化け物はギャアギャアと何かを言っていたが俺には分からない。大抵の言葉なら分かるのに分からないということは、言語が俺の知り合いとは異なっているのだろう。「ひぃっ」「……目閉じて」「な、なんでっ?」「見たいなら良い」 押さえつけられていた左手を動かす。ちょっと重いけど動かせないことはない。というか、拘束が緩い。ただの人間と思っているのだろう。「よいしょっと」 ザクッと首を斬り落とす。拘束から逃れ、ぬいぐるみと共にその場を離れる。返り血なんて一滴も浴びていない。 チラリと化け物を見たらピクリとも動かなくなっていた。倒した、ということで良いだろう。「……家、来る?」 小さく震えているぬいぐるみに問うと、ぬいぐるみは小さく頷いた。 丸いちゃぶ台の上にぬいぐるみを置いてその対面側に座る。「……助けてくれてありがとう」「いーえ」 ぬいぐるみはぺこっと頭を下げた。意外と礼儀正しい。こうして見ると最近流行りの『AI』が埋め込まれているわけではないことが分かる。「僕は小町」「……ヨミ」「ヨミ?」「そう。ついさっきの、何?」「……あの、あんまり口外しないでほしいんだけど」 こくんと頷くと小町は目線をそらしながら話した。「あれは人間の負の感情から生まれた怪人なんだ。僕は少し前まで『魔法少女』をしていて、それと闘う力があった。でも、サポート役の裏切りにあって、こんな姿に変えられたの」 聞いたことがある。『魔法少女』とは、怪人に対抗する力を持つ者のことらしい。日曜日にとあるテレビ局でやっているアニメのようなことが、数年前から現実におこっている。人間を襲って不安にさせたり恐怖を与えることで怪人は力を増すらしい。それに対抗できるのが『魔法少女』で、彼女らの活躍は時にテレビで取り上げられるほどだった。 俺は昼の時間にあまり動かないので、その存在を知識としてしか知らなかった。実物を見るのは初めてだ。「なんで追われてた?」「ぬいぐるみ化すると動けないんだって。でも僕は動けた。だから逃がしたくなかったんだと思う」 小町はうつむく。そうされると俺からはつむじしか見えない。表情が見えないから何を思っているかは分からない。けれど、行く場所がないことやこれからどう動こうか考えていることは分かった。「……匿う」「良いの?」「良い」 俺は怪人を倒すことはできても、こういう人間たちの問題に深く関わってはいけない。そういう決まりだからだ。まあ、例外はあるけれど、その条件はまだ満たしていない。だから小町を家の中に置くことしかできない。「家から出ないで」「うん、それはもちろん」 俺は立ち上がり、ベッドに横になる。まだ外は明るい。けれど疲れたし今は仮眠をしていた方が良い。ふと小町の方を見ると、彼はじっと俺を見ていた。「……寝るけど」「うん」「……いっしょに寝る?」 すると小町は驚いた顔をした後、笑って頷いた。ちゃぶ台からベッドに飛び乗ろうとしていたが難しかったようで床に敷いた毛足の長いカーペットに吸い込まれていった。 ジタバタと暴れてカーペットに立つとベッドをのぼり始めた。しかしうまくいかなくて何度も落ちていた。五回落ちたところで俺は諦めて身体を起こした。「ほら」 ちょっと身体を折りたたんで手を床ギリギリまで差し出すと小町はぴょんとそれに飛び乗った。「ありがとう」「いーえ」 身体を起こした後は小町をベッドに無事着地させて枕に頭を乗せた。目を閉じればどろっとした疲労感が身体を襲う。やはり昼間に外出なんてするもんじゃない。おかげでいつもよりも長く寝ないといけない。「あ、ふ……」 欠伸を噛み殺して心臓を守るように丸くなる。大丈夫、ここに怖いものはない。そう言い聞かせて、意識がゆっくりと落ちていくのに身を任せた。 ぼんやりと発光するその人物をじっと見る。誰なのかはもう分かっている。そもそも、こうして夢に現れるしか言葉を交わす術がない相手は俺が知る限り少ない。 この周囲には何もない。どこまでも広い白一色の空間。壁も障子も扉もない。こんな孤独な空間にひとりだとしたら俺は十分もいられない。「なに」「貴方はもう、深く関わりすぎた」 何に、なんて聞かなくても分かった。小町のことだろう。俺もやりすぎたとは思っていた。けれど例外にはならないだろうと高を括りすぎていたらしい。「そうかもね」「なのでトコトン関わりなさい」「命令?」「ええ」 俺はため息をついた後、恭しく頭を下げた。あくまで上品に見えるように頑張った。俺は元々、粗雑なのだ。「承りました」「ヨミ」 俺の返事をうけてその人物はどこか寂しそうな声を出した。顔が見えなくても、何を考えているかは分かる。「大丈夫、だいじょうぶ」 その人物は俺に近付こうとした。けれど、俺はそれを拒否する。数歩さがってさらに距離をとる。それだけで相手は察したらしい。何百年をこえる付き合いだからだろう。「……いつも見守っているから」「時々で良い」「そうはいかないの」 強大な力を持つから、か。好きで持ったわけじゃないのに、なんて言ったってこの人物以外には通じない。この人物が担当な俺はまだマシな方だと改めて痛感させられる。「気を付けて」「……はい」 俺は振り返らずにその場を去った。 ゆっくりと目を開ける。ベッドサイドに置いていた時計を見るともう夕方の六時だった。今は冬。この時間には外はもう、真っ暗だ。 ベッドからぬけ出すとカーテンを閉め、鍵の確認をした後、机の上に置いたままにしていた黒の狐面をとった。「ヨミ?」「小町」 振り返れば小町が身体を起こしていた。普通の人間と同じように目をこすり、眠そうに欠伸を噛み殺す。そうしていればぬいぐるみとは思えない。「来る?」「どこ行くの」「……散歩」 狐面で顔を隠すようにして組紐を結ぶ。小町はぼんやりとしていたが、ベッドからおりて俺の足元までやって来た。「行く」「分かった」 先ほどと同じように白い狐面を渡せば少しもたつきながらも組紐を結んでつけた。それだけで先ほどと同じ格好になる。小町を抱き上げ、じっとそのオレンジがかった黄色の目を見る。俺の視線に気付いた小町は俺を見た。「小町、出発前に約束。俺をヨミと呼ぶこと」「うん」「俺に声をかけたやつとは良いと言うまで話さないこと」「うん」「聞きたいことは帰ってから聞くからまとめとくこと」「うん」「最後に。絶対に離れないこと」 ぜんぶ聞いた小町は大きく頷いた。俺はそれを見た後、ゆっくりと玄関の扉を開けた。ヒュウ、と身体を凍らせるような風が吹いた。 カチャリと鍵をかけて歩き出す。カランカラン、とはいている下駄の音がする。正直、冬に下駄なんて寒くてしかたない。けれど、これでスニーカーだと格好がつかないと言われて渋々はいている。スニーカー、便利なんだけどな。 ゆらゆらと暗い街を照らす提灯の光。俺の持つ提灯は普通の赤いやつではない。江戸時代に流行っていた百物語で使われていた青い提灯だ。今どき提灯を持つ者は少ない。俺だって違うのが良い。というか持ちたくない。けれどこれが分かりやすいからって言われて持っている。「おや、ヨミ様」「おそよう」「おそようございます」 コートを着た美しい女性が声をかけてくる。彼女も知り合いだ。にっこりと笑う彼女の正体なんて人間は知らない方が良い。鬼だなんて知ったら卒倒してしまうだろう。「そちらは?」「彼の紹介もしたい。いつものとこ?」「ええ」 ゆらゆらと揺れる袖を見ながら小町に耳打ちする。見た目に惑わされないで、と。小町は不思議そうに首を傾げていた。「よお、おそよう」「おそよう。もうそろってるね」「おうよ」 いつもの廃墟には既に昔から仲の良いメンバーがそろっていた。鬼、狐、野猪、天狗、精。それぞれ種族も寿命も違うけれど、代々俺を護る家に生まれている。「集まってくれてありがとう」「なあに、そろそろ集まり時だっただろ」 大柄な男の姿をした彼は野猪だ。豪快に笑う彼は俺の肩を叩いた。「ふふふ、楽しみだったものね」 コートを着た美女は鬼。穏やかで優しげな見た目とは裏腹にとんでもない怪力の持ち主で怒らせると怖いタイプだ。「それよりはやく話してよ〜!気になるじゃん!」 九十センチほどの大きさの彼女は無機物が心を持って生まれる精。テンションが高いが、今の俺はそのテンションについていけそうもない。「ヨミ様」 大きな葉をうちわのようにしてあおぐ男は天狗。彼は東京の高尾山に住み、周辺の人間の生活を見守っている。 その隣でじっとしている幼い少女は狐だ。かわいらしい顔立ちだがムッとした顔をしているのでなんとも言えない。「うん」 俺はぐるりと周囲を見る。この周辺に人間の気配も不審者の気配もない。それならば話しても大丈夫だろう。「神から依頼された。……怪人を倒す」 その場が一瞬だけ静まった後、一気に嬉しそうな声が上がった。「やっとか!」「えへへぇ、頑張っちゃうよ〜!」「珍しいの。言われてもやりたがらないのがヨミ様なのに」「そのぬいぐるみが関係しているのでしょう?」「……うん。彼は元魔法少女」 俺は小町の頭を撫でた。小町が俺を見上げる。小さく頷くと小町は彼らをじっと見た。おずおずと口を開いた。「小町です。ヨミの家でお世話になっています」 その瞬間、んぎゅ、と彼らが酸っぱい梅干しでも口にしたような顔をした。「う、」「う?」「うらやましいっ!」 野猪と鬼を中心に小町の肩を掴んでぎりぎりと締め上げる。小町が小さく悲鳴を上げた。顔をつめ、怒涛の勢いで小町に様々なことを問いかけている。俺は小町を取り返すと奪われないように抱きしめた。「い〜ない〜な!」「ヨミ様を呼び捨てにできるなんて」「ヨミ様が庇護すると決めたなんて」 小町は不安げな目で俺を見てきた。俺はそんな彼らを見てドン引きしながら数歩さがった。「ヨミの親衛隊?」「近い。護衛隊」「そんなにすごいの、ヨミ?」「伝説的ですよ」「……まさか」 ちょっと手を貸しただけだ。「陰陽師を説得したり」「暴れる大きな鬼を配下にしたり」「生きやすいよう知恵を与えたり」「ヨミ様の功績は様々だよ!」「……だって」「うーん、忘れたい過去」 俺はそっぽ向く。正直、巻き込まれてやったことが多かった。「まあ、落ち着こうか。怪人を倒すって言っても難しいんじゃなかったかえ?」 狐がそう言って俺を見た。「本来の姿を見せないで怪人を少しずつ倒す」「オッケー!」「んで?俺たちは?」「怪人と魔法少女について知りたい」「情報収集ですか」「そう。とりあえず三日。集められるだけ集めて」「はっ」「ヨミ様の仰せのままに」 彼らはそろってきれいな一礼をした。「じゃあ解散。次回は三日後」「見回りもしないので?」「しばらく昼に活動する。俺も怪人について調べる」 すると狐が涙ぐんだ。狐とは護衛隊の中でも付き合いが一番長い。狐はもとから非常に長生きな種族で、俺の護衛隊の狐は一度も変わっていない。「そうですか」「うん」 彼らは俺の終わりの言葉を聞くとそれぞれが全国にいる同種の仲間へと連絡をとった。それを横目に見ながら俺はカランカランと下駄の音を鳴らして家に向かって歩き出した。 家に帰ると狐面を外す。それだけで和装が消える。首元がもたついたパーカーにジーンズ。いつも通りの服装だ。「小町。外して良い」 声をかければ狐面を外して顔を見せた。ベッドに小町を座らせて狐面をしまう。「聞きたいことはある?」「……さっきの人たちは?」 小町は真っすぐ俺を見て聞いた。たしかに護衛隊の彼らは性別も年齢(見た目だけでの判断だが)もバラバラだったが、ただの人間に見えただろう。江戸時代、いや、種族によっては平安時代以前から人間の姿をとって人間たちにまぎれて生きてきた。「聞いて後悔しない?」「しない」「……そう。じゃあ言うけど。彼らは人ならざる者だ、一般的な言い方をすれば」「人ならざる者?」「人じゃない者ってこと」「妖怪とかってこと?」 俺は頷いた。小町の座るベッドに座って向き合う。ちゃんと説明しないといけないと思った。「今日、いたのは鬼と狐、天狗、精、野猪」「野猪?」「どんな動物かは不明。俺も知らない。一般的には狸とか猪とかって言われてる」「ヨミはどんな妖怪なの?」 顔に動揺は出さなかったと信じたい。けれど、ドクドクと心臓が煩い。耳元で叫んでいるようだった。「……たいしたやつじゃない」「そっかあ」 小町はそれ以上深く追及してこなかった。それに俺は安堵した。小町にこれ以上深く追及されたらこたえられないところだった。「ヨミは怪人と闘うの?」「そのつもり」 それを聞いた小町はぴょんとベッドから降りて玄関へと向かう。俺はそれを追いかけて抱き上げた。「どこ行く?」「家。怪人対策ノートがある」「……明日で良い?ねむ、い」 あふ、と欠伸を隠さずにすれば、小町は時計を見た。指し示している時間は午後八時。寝るにはずいぶん早い時間かもしれない。けれど、もう俺は眠くてたまらないのだ。「うん、明日行こう」「そ」 小町を抱いたままベッドに背を預け、ふわふわの布団を身体にかけて目を閉じる。「おやすみ、ヨミ」「お休み、小町」 翌朝九時ぐらいに目が覚めた。十二時間ほど眠っていたことに驚いたが、昨日は昼間にも活動したせいで疲れていたのだろう。 それよりも小町が俺のそばにいたことに驚いた。昨日は俺にとっても濃密な一日だったが、小町にとっても同様だったのかもしれない。 俺は小町を起こさないように気を付けてベッドから出ると顔を洗ってキッチンへと足を向けた。さすがに何か食べないと日中を乗り越えられそうもない。 冷蔵庫から卵とベーコンを出すと卵はボウルの端で数回ノックした後に割り、コンロに火をつけてフライパンを乗せる。フライパンが熱されたタイミングで油をしいてボウルの卵をかき混ぜて流しこむ。ぐちゃぐちゃと菜箸でかき混ぜてスクランブルエッグとやらを作ると、それを皿に盛り付けて今度はベーコンをいれた。「ヨミ?」「小町」 弱火にして振り返ると小町が身体を起こしているところだった。どう挨拶したものかと戸惑っていたら、小町は俺を見て目を細めた。「おはよう」 俺もそれにおはよう、と返した。「朝ごはん?」「そ」 決して上手とは言えない俺の手作り料理。小町はそれを見て目を輝かせた。「はやく食べよ」「ん」 食パンにジャムとマーガリンを塗る。小町は食パンを一枚も食べられないだろうからこれで十分だ。焼き上がったベーコンをスクランブルエッグの乗った皿に乗せて、ちゃぶ台に持っていく。小町もいそいそとベッドから落ちていた。「小町の家ってどこ?」「日暮里の方だよ。実家暮らしだから両親がいるかも」「……友だちで通すか」「そうだね」 小町をちゃぶ台の上に乗せて手を合わせる。頂きます、と口にして小町用に用意した小さな皿にスクランブルエッグと小さく切ったベーコン、パンを少量乗せた。「どうやって行くの?」「電車」 小町は意外そうな顔をした。昨日、化け物を相手にしていた時に異常な身体能力を見せたせいだろう。さすがに真っ昼間は例外がない限り使わないんだけど。「行き方分かる?」「乗換え地点だから知ってる」「そうなんだ」「小町」「うん」「人間に戻ったら何したい?」 小町はピクリと動きを止めた。その目が俺を見る。「どうして?」「……気が向いた」 小町はしばらく沈黙した後、寂しそうに笑った。「魔法少女に戻るよ」「なんで」「僕の使命は終わってないからね」「使命?」「人間を怪人から守ること」 その言葉になんとも言えない感情が胸を満たした。きっと小町は知らない。魔法少女は替えがきくことを。 数年前、知り合いがテレビに出たからその番組を観ようと集まったことがあった。その番組の前にやっていたニュース番組で魔法少女が特集されていた。そこで取り上げられていた魔法少女を、俺は何故か覚えていた。綺麗な黒髪に青い目の印象的な魔法少女だった。名前は若葉。その数日後、若葉の名前はニュースや新聞で取り上げられることがなくなった。若葉のそばにいた、よく分からないかわいいキャラクターは別の魔法少女についており、世間で若葉という魔法少女はなかったことにされた。「知ってるよ」「え?」「魔法少女は消耗品だってこと」 俺は表情を崩さなかっただろうか。思わず息を飲んでしまった。だって小町は知らないと思っていた。「サポート役がね、先代の魔法少女について教えてくれたの」 小町は真っすぐ俺を見て言った。どこまでも澄んだ目は、穢い世界を知ってなお輝く、宝石のようだった。「すごい魔法少女だったって。でも、怪人の親玉には敵わなかったって」 俺は一度も見たことがない怪人の親玉。それが倒されない限り、怪人は増えるし人間は餌にされる。「僕にできることはやろうって決めたの。だって、僕の平和な日々は魔法少女たちのおかげだったから」「……そんなの、」「うん、僕が勝手に恩義を感じているだけだよ。でも、それでも良いんだ」 綿と糸と布。子どもたちに愛されるためだけに生まれたようなぬいぐるみ。小町の身体はそれでしかない。けれどその後ろに、しっかりと人間の小町の姿が重なって見えた。「僕が繋ぐって決めたから」 あぁ、眩しい。なんて眩しいんだろう。いつの時代も、こうして何かに燃える人間は俺が触れることを躊躇うほどに眩しく、そして……、脆い。「……そっか。俺も手を貸すよ」「ありがとう、ヨミ」 そう言って笑った小町を見ながら、俺は食パンにかぶりついた。口の中で人工的な甘さが舌にまとわりついた。それをさも美味しいもののように飲み込んでお茶で胃まで流しこんだ。 日暮里駅から十数分。俺は小町が描いた地図通りに歩いて小町の実家に辿り着いた。「ここだよ」 背負ってきたリュックをお腹側にすると、大きなチャックのところから顔を出していた小町が小声でそう言った。「ありがと」 俺はそう言ってチャックをしめる。ここからは小町の存在に気付かれてはいけない。震える手でチャイムを押すと女性が出てきた。小町によく似た目の色に、親子だと一目で分かった。「どなた?」「小町くんの友だちのヨミと言います。小町くんがちょっと体調を崩しているのでかわりに必要なものを取りに来ました」 俺史上初めての長台詞だった。なんとか噛まなかったけれど舌がつらい。「まあ。小町の母です。ご丁寧にどうも。小町は大丈夫なの?」「ええ。薬を飲んで落ち着いています。お部屋にあがっても?」 家の中をさすと小町の母は頷いた。ずいぶん警戒心の薄い親だ。しかし、ここで疑われないことはありがたかった。「小町の部屋は奥です」「ありがとうございます」 靴をぬいであがった後、小町の部屋に行くと扉を閉めた。母親の気配が離れたことを確認すると、小町に言われた通りに本棚の本を取り出す。この本棚の本は手前と奥の二段構えになっており、奥にノートが隠されていた。それを取ると手早くリュックにしまった。すると床に置いたリュックが小さく揺れ、ノートが正解だと伝えてくる。 リュックを背負って立ち上がろうとして俺は一度動きを止める。窓際の机、そこにおさまる教科書やノートたち。本棚には本が収納され、少し開いたクローゼットから服がはみ出している。生活感のある部屋だった。つい先刻まで小町がいたと言われても納得してしまうほどの。 俺はそれを目に焼き付けて、踵を返した。部屋を出て帰ろうとした時に呼び止めてきた彼の母親には、小町はしばらく俺の家に泊まることを伝えた。小町の母親はご迷惑をおかけします、と言っていたが、俺はご丁寧にありがとうございます、とだけ返した。 行きと同じ道を通って日暮里駅に戻ると黄緑色のラインが引かれた電車に乗った。この時間、俺が乗りたい水色のラインの電車は快速運転で日暮里駅にはとまらない。面倒だが二駅先まで行かないと乗れないのだ。 二駅先で乗換えをして家のある方へと向かう水色のラインの電車に乗った。ぼんやりと窓の外の景色を眺めていたらリュックがもぞもぞと動いた。リュックのチャックを開けると小町が何か言いたげにこちらを見ていた。 困っていると小町は両手を上に伸ばした。ゆっくりとリュックから出すと嬉しそうに少しだけ表情を変えた。周囲に人は少ないけれど、いないわけではない。動くぬいぐるみはまだ珍しいだろうし、目立つことは避けたかった。 俺はそっとリュックのチャックをしめて小町を抱え直した。俺の胸の前をすっぽりと隠してしまうほどの大きさの小町は、普通のぬいぐるみに比べても大きいと言えるだろう。「窮屈だった?」 虫の羽音ほど小さな声で聞くと小町は少しだけ口を開けた。どうやら違うらしい。「景色見たかった?」 すると口をきゅっと結んだ。肯定だ。ならば、ということで窓の外が見えるようにして小町を抱え直す。窓の外を流れていく景色は、いたって普通のもの。人間の営みの一端だ。「……次で降りる」 景色だけを眺めていたら最寄り駅に着いてしまった。開くドアに近付いて待っているとどこからか悲鳴が聞こえてきた。小町を見れば小さく頷いていた。面倒だが、魔法少女の出番らしい。 ドアが開く。俺は階段を駆け上がり、改札をぬけると悲鳴のした方へと駆け出す。「怪人?」「そうだね」 さすが怪人。昼間に現れるのが普通とは聞いていたが、まさか今だとは。せめてもう少し夕暮れ近くが良いんだけど。「そこまで強力な怪人じゃないっぽいけど、用心して」「分かった」 リュックから狐面を出すとそれで顔を半分ほど隠すようにつける。あっという間に夜の格好になる。小町の分もつけてやれば格好が変わった。「飛ばす」「うん」 小町が胸にしがみつく。俺は更に加速して高い街灯の上に着地した。声が聞こえた場所に到着したのだ。 そこでは猪のような形の怪人が三体、巨人兵のような怪人が二体いた。彼らの近くには人間が複数人倒れており、迂闊に攻撃はできない。 そう、普通ならば。「貫け」 俺は普通ではないし、魔法少女でもない。ただの妖怪だ。 一瞬で猪三体に見えない矢が当たり、彼らは倒れた。しかし巨人兵には効かなかったようだ。これには直接手を下すしかなく、地面に着地した。突如として現れた俺たちに他の人たちは驚いていた。逃げるでもない俺たちは異様だろう。なにせ魔法少女らしからぬ和装だし、顔を隠しているのも不審感しかないだろう。「どうするの?」「砕く」「いやいやいや」 小町とそんなことを話しながら巨人兵へと向かっていく。周囲の人間が動きを止め俺たちに注目が集まる。巨人兵を見ても臆することがないからか、はたまた、無謀と思われているか。「小町、頭の上に乗れる?」「うん」「支えられないからそこ乗って」「……振り落とさない?」「善処する」 できるとは言わない。頑張るけど落ちる可能性はある。ただ、俺の腕の中にいるよりは安全だし、落ちないと思う。「そんじゃ」 巨人兵の目の前。小町が頭上に移動し、髪をぎゅんと掴んだのが分かる。巨人兵が腕を振りかぶった瞬間、思いっきり胴体を殴った。ボコッだかドゴォッだかよく分からないが、すごく大きな音を立てて殴った箇所からあっという間にヒビが入って、巨人兵は砕けていった。「もう一体」 真後ろにいた巨人兵に左脚で遠心力も利用して回し蹴り。巨人兵は人間で言うところの脇腹辺りからあっという間に砕けていった。「終わり」 もはやただの猪の丸焼きと砕けた石ころしかない場所を眺めてそう言った。これで怪人は倒した。「ヨミ。あの人を助けて」 さて帰ろうかと思ったら小町に呼び止められた。小町の指す方を見れば、女性がうずくまっていた。「立てる?」 近付いて出来るだけ優しく声をかけた。女性は俺を見た後、小町を見た。そして、俺の手をとって立った。「立てるなら大丈夫か」「それじゃあ帰ろう」 女性が立ったのを見た後、周囲を確認すれば怪我人もいないようだった。小さく息を吐いて街灯の上や五階建てほどのビルの屋上を駆けながら狐面を外した。服が戻り、小町の分も外してリュックにしまった。それからゆっくりと家への帰路に足を向けた。 家に帰ると小町に頼まれてテレビをつけると俺たちのことが報道されていた。たった十数分前の出来事なのに、もうメディアが報道するなんて。情報の行き交う速度が異常にはやい社会だ。 まあ、報道される理由も分かる。これまでの魔法少女と違って名乗ることもせず、また、『ゴシックロリータ』というフリフリも着ておらず、詠唱もなしに魔法を使ってみせたからだ。「やっぱ話題になるよねぇ」「そう?」 報道では新しい魔法少女かと言われていたが、そもそも俺は魔法少女じゃないし魔法も使っていない。あれは妖術の一部だし、巨人兵に関してはもはや武術だろう。それに俺の性別は男である。どんなに中性的に見ようとしても骨格は男だし、声もどちらかと言われれば低い方だ。『少女』に間違うなんて失礼だ。「怪人はどうだった?」「……まあまあ。あれは弱い」「そうだね。そこまで強くない怪人だね」 小町は頷くとテレビの電源を消した。他に何か見ると思っていたため、その行動に驚いた。その後、小町はよじよじとなんとかベッドをのぼるとぽすぽすとベッドを叩いた。俺がぼうっとそれを見ていたら小町は不満そうな顔をした。「なに」「寝るでしょ」「……なんで分かるの」「なんとなくだね」 小町の言葉に限界だったのか、ふらふらとベッドに横になる。眠気が強く、もはや寝るしかない。けれど何故か目を閉じることを身体が拒んでいた。「大丈夫。僕はここにいるから」「うん」 少し強引に目を閉じるといつも通り視界は真っ暗になり、自分の呼吸音と小町が触れてくれる目元の温もりだけが感じられる。ほう、と息を吐くと強張っていた肩の力が徐々にぬけていく。 深呼吸が続き、ゆっくりと意識が落ちていく。今日は見回りに行かなくて良い日なのでもうこのまま寝てしまおう。 お休み、と小町の優しい声が聞こえた気がする。けれどそれに俺は何も返せなかった。 初めて怪人を倒してから二日が経った。護衛隊との約束の三日が経ったので、その日の夜中にこの前と同じ格好をして、この前とは別の廃墟に向かった。いくつか知っている廃墟だが、やはり都心に多い。持ち主の死亡後、相続人が不明のまま放置されることも多々あるからか。便利だから俺たちはいっこうに構わないが。 そこに行くと野猪以外は全員がそろっていた。野猪は少し馬鹿だけど時間に遅れるような奴ではない。珍しいこともあるものだ。「野猪は?」「今日は欠席すると連絡が」 俺は頷くと腐食して倒れた柱の上にあぐらをかくようにして座ると小町を膝の上に置いた。小町の定位置だ。これなら小町の表情も見えるだろう。「情報は」「まずは関東からですね。この周辺はまだ弱い怪人しか出ていないように見せて数体だが強い怪人が目撃されています」「九州の方は特に何もなし〜。強い怪人はあんまりいないっぽい〜」「関西はほどほどね。強いのも一定数確認されているわ」 全国の情報を聞きながら頭の中の地図帳をめくる。うーん、関東と関西に強いのが集中しているけど、それは人口数に比例しているのだろうか。「倒した怪人数は」「関西がダントツで多く、三十七体じゃ」「次点が関東で三十二体です」 全部合わせても百いかないほどだった。ここ数日のニュースで確認した通りだった。俺は頷いた後、小町を見た。まあ、俺からは頭頂部しか見えないけれど。「小町。何か気になることはある?」「怪人の姿はどうだった?」「ノートの通り動物系が多かったよ」 初討伐の日、家で眠りから覚めた俺は小町のノートの情報を他にも共有した。弱点や小町が対峙して気付いたことが書かれており、とても精密らしく重宝されていた。俺は一度も見たことがないが。そんなので良いのかと小町にも言われたが、大抵の物質は燃やせば消える。燃やしても消えなければ砕けば良い。なんて言えば物騒だと言って苦笑いを浮かべていた。「テレビでも報道され始めたから、そろそろ中位怪人が出てくると思う」 小町の言葉に中位怪人を思い浮かべる。小町が見返しているのをチラッと見た限りでは、植物や動物と人のキメラ系が増えるらしい。まあ、それも燃やせば良いと思うのだが。「中位になると知恵をつけてくる。これまでの怪人は知能が低かったおかげで短時間に大量に討伐できたと思うけれど、今後は難しくなると思う」「怪我をしたら深追いせずに」「ヨミ様はお優しいですね」「そうそう!もっと壊れるまでやれって言っても平気なんだよっ?」 精が不安そうな顔で俺を見上げてくる。けれど俺はもう、俺のせいで誰かに傷付いてほしくない。言ってしまえば俺のエゴだ。「妖怪って丈夫なの?」「人間よりは丈夫じゃよ、小町様」 その言葉に小町はむず痒そうな顔をした。それは敬称によるものだろう。小町は俺の膝の上からどくと、むんっと不満そうな顔をした。「小町で良いよ。僕は敬われるような存在ではないし」「そういうわけにはいかないのよ」 鬼はそう言って小町に目線を合わせた。着ていた美しいワンピースの裾が床につく。汚れることすら厭わず、そうすることがさも当前といった態度は女性という性別を差し引いても惚れ惚れするものだった。まるで忠誠を誓う騎士のようだ。「ヨミ様が保護されると決めたお方は貴方で二人目なの。私たちからすれば、ヨミ様と同等、もしくはほんの少し下の扱いになるの」「どういう……?」 俺が守護すると決めたのは、たしかに小町で二人目だ。妖怪という種族を除けばの話ではあるが。一人はずっと前に俺を救ってくれた恩人の子孫。これは結構長く守護しているが、この前の世界大戦のせいで行方不明となっている。 そして二人目が小町だ。元魔法少女の青年。妖怪でもない上に、恩義を感じているわけではないのでよけい珍しいのだろう。そう、珍しいのだ。「珍しいってこと」 出た結論を簡潔に俺は答えた。これまでの俺のことを話したところで小町が理解できるとは思えなかった。頭のおかしい人と思われるならまだしも、軽蔑されたらやっていられない。あとは、長い話をしないといけないのが面倒だった。「まあ、それもありますけど」「ヨミ様が友だちや守るべきものと思っている方だよ〜」 精はそう言うと狐を見た。狐は小さく頷いた。狐は俺の事情に詳しい。俺がこうなった理由も知っていれば、そこに至るまでの葛藤も知っている。だから何も言わずに頷くだけ。「でも、様付けは距離を感じるよ。せめて『さん』とかにしない?」「え〜、でも〜」「良いでしょ。小町のお願いだ」 俺が言うと鬼と精が顔を見合わせて頷いた。「まあ、良いかしら」「じゃあ小町さんって呼ぶねっ」「うん、ありがとう!」 小町はにこにこと笑って頷いた。それを見た天狗がさりげなく俺に近付いて体調には気を付けてください、と言った。天狗の家との付き合いは都が江戸になってから百年後ぐらいからなので三百年程度だ。 彼に関しては四代目で、俺の護衛隊になったのは十年程前のことだろう。しかし彼は非常に目が良く、隠し事を簡単に暴くことができた。きっと、俺がちょっと無理をしていることなんてお見通しなんだろう。「分かってる」 そう返せば天狗は不安そうな顔をした。俺が言うことを聞かないと思っている顔だ。まあ、前例が多すぎるから信じてもらえないのも納得だが。「今、倒れるわけにはいかないから」 そう言えば天狗は目を丸くした後、目を細めて笑った。それがまるで成長を喜ぶ親のようだった。「なに」「いえ。嬉しいです」「はあ?どういう、」「さて。そろそろ帰った方が良いじゃろ。小町さんも眠そうだしのう」 見れば小町が船を漕ぎ始めていた。今日は集まりがあるからと言って昼過ぎまで寝ていたのにもう眠いのか。俺は小町を抱き上げると狐面をつけ直した。「じゃあ、帰る。犠牲なしで頼む」「もちろん」「お休みなさい、ヨミ様」「お休み」 ゆらゆらと提灯の青い光が揺れる。街は完全に眠りにつき、あちこちで同類たちがうごめくひそやかな息遣いが聞こえる。ひそひそと話す声も聞こえるが、誰も俺に話しかけることはない。せいぜい噂話をする程度の力しかない。 家に着いた俺は眠った小町をベッドに乗せ、狐面を外した。天井を見ると真っ白で面白みも何もない普段通りの天井が見えた。そこにじわりと天狗の顔が滲んで見えた。「分かってる」 無理はしない。そう決めたから。 俺はもぞもぞと動いて布団をかけた。柔らかな羽毛布団は俺の体温を感じたせいか、じわじわと温かくなる。目を閉じれば、小町からお陽さまの香りがした。そう言えば、ここ数日の自分からも同じ香りがする。微睡みの中でふと、そんなことを感じた。「小町」「うん」「本当にこっち?」「そう」「目の前にあんの、山なんだけど」 今、俺の目の前にはそれほど高くない山がある。埼玉県にあるこの山は、初心者向けらしい。しかし、俺には初心者向けには見えないのが現状だ。 なぜ俺たちがこの山の入り口にいるかというと、ある依頼が関係していた。数日前からこの山に怪人が住み着いたらしく、俺が退治することになった。別に人間の被害はあまりないが、妖怪内でかなりの被害が出ているらしい、主に食料面で。「天狗でも良くない?」「用事があるんだから仕方ないでしょ」 そもそもが天狗に来た依頼らしい。しかし、天狗は別の山の天狗からの救援要請に二日前から行っており、対処できるのが俺だけだった。狐に言ったら山に気分転換に行くのだと思えば良いじゃろなんて言われた。 たしかに最近はお陽さまの香りが自分からするぐらい昼間に染まってきた俺だけど、夜が生きやすいのは変わらない。本当だったら家でゴロゴロ寝ていたかった。 そんなことを思いながら歩いていたら山の頂上付近の展望台に着いた。しかし、頂上と依頼場所はもう少し先だった。息をきらしながら欄干に両腕を乗せてもたれかかっていると小町が頭をぺしぺしと叩いた。ぬいぐるみの手は綿と布でできているので全く痛くはなかったが。「少し休憩しようか」 小町はそう言ってベンチに置いていたリュックに向かう。今日のことを話したら鬼がお弁当を作ってくれた。リュックにはそれが入っている。「何がはいってるかなぁ。ねぇ、ヨミ」「おにぎりだろ」 あの鬼は肉の調理だけはとんでもなく上手だが、他はからっきしだ。元々そういう家系らしい。きっとそれは、ずっと昔は人間の肉を食べていたからだろう。魚にはあまり馴染みがないこともそれが原因だと思う。「あ、卵焼きだ」「え?」 慌ててお弁当を覗くとたしかに卵焼きが入っていた。その隣にはウインナーも行儀良く鎮座している。これをあの鬼が作ったのかと疑うほどだった。「上手だねぇ」「そう、だな」 しかしよく見ればお弁当のおかずにお魚はなかった。お魚以外を使っているのを見ると本当に鬼が作ったのだと実感が持てた。「ね、ピクニックみたいだね」 小町はのほほんとのんきに笑う。俺はそうだな、としか返せなかった。「いただきっ」「あ、おい」 小町は卵焼きを食べると目を輝かせた。うまっ、と口にする様は本当に人間みたいだ。「ヨミも食べてみてよ」「後で」「えー」 つまらなそうに頬を膨らませて小町は目を細める。その様子が精と重なった。嫌な予感がしてお弁当の蓋をしようとしたところ、小町の方が動きがはやかった。 シュバッと卵焼きを手にとると俺の口に放り込んだ。あっという間の出来事だった。柔らかな卵焼きに歯を入れ、舌で転がす。ちょっとしょっぱめの味付けは、懐かしさよりも新鮮さが勝った。 もごもごと口を動かしていたら小町と目が合った。文句を言おうと口を開いた。「これで共犯だね」 まさに小悪魔。俺は小さなおにぎりを小町の口に押しつけてため息をついた。 その後、頂上に辿り着いた時には登山を開始してから四時間が経っていた。展望台からは三十分。小町を抱っこして歩くのは疲れたが、だからと言って小町に地面を歩けとは言えなかった。 誰もいない頂上でレジャーシートを広げ、そこに座って残しておいたお弁当を食べる。それはなんと平和な光景だろう。でも俺たちの目的はピクニックではない。「出るかなぁ」「出てくれないと困る」「あっ」 おにぎりを食べていた小町が小さく声を上げた。俺は狐面をつけると小町の分も組紐を結んであげた。見慣れた和装に俺は唇だけで笑った。ぶわりと風が吹いてそこに木の形をした怪人五体と下半身は根っこ、上半身は女性のような怪人がいた。「燃やすのは駄目だよ」「もちろん」 この山には様々な妖怪がいる。彼らの眠っている時間である今、この山で火事がおこると逃げられない。火や雷は絶対に使用してはいけない。妖怪を守護する俺が彼らを危険にさらすわけにはいかない。「ウワさノ魔法ショウじょ」 ギギギと機械音のような声が聞こえた。よく分からない女性の怪人の声のようだ。とするとその怪人は中位怪人のようだ。「ヨミ」 小町がひょいと肩に乗る。見ればお弁当の蓋はしめられ、ゴムで蓋が開かないようになっていた。多分、怪人を倒したら食べるつもりなのだろう。小町の期待にこたえるためにも、さっさと終わらせようか。 ヴンと重い音が空気を震わせて長い刀がその姿を見せた。俺の愛刀だ。付き合いはとても長く、俺の手によく馴染む感じがある。これまで数多の妖怪の血を吸ったせいで妖刀とも噂されていることを俺は知っている。 数秒の睨み合いの後、俺は地を蹴り木の形をした怪人に向かっていく。一気に距離を詰め刀を振れば動きの遅かった三体に命中したが素早かった二体は逃してしまった。着地した俺の足元の地からボコッと顔を出した彼らの出した木の根を右へ左へとかわし、再び距離を詰める。しかし、あと一歩のところで足を取られて転んだ。中位怪人が出したものらしく、かなり締め上げてくる。血流が悪くなるのが感じられた。「ヨミッ」「枯れろ」 根は俺の言葉に呼応して一気に茶色い砂のようになって地に落ちていく。瞬時に脱した俺が距離を詰めて動きが止まっていた木の怪人を斬り伏せ、女性の怪人と向き合う。怒っているのか、顔を真っ赤にして何やら喋っていた。「ヨミ、気を付けて」「ん?」「あの中位怪人、仲間を増やすタイプだよ」「は?どうやって……」 中位怪人が足元の根を俺の方へと向ける。それを飛んでかわすと根はそのまま後ろにあった木へと突き刺さった。するとその木は先ほど倒した怪人へと姿を変えた。根から何かを注入するタイプか。 俺は中位怪人をキッと睨む。中位怪人は一切気にすることなく、俺へと根を伸ばしてくる。根をかわせば木が怪人になるし、かわさなければ斬るしか方法はない。「弱点は?」「燃やすのが一番お手軽だけど」「やっぱ叩くしかないか」 俺は大きなため息をつくと小町を頭上に乗せた。つかまってて、と小声でささやけば髪がきゅっと掴まれる感覚があった。ぬいぐるみの握力はどれ程だろう。分からないけれど信じても良いはずだ。 ペロリと唇を舐める。久し振りにこの刀の力を使う時が来た。刀を人差し指で撫でると薄皮が切れた。そこから血が流れるが、これはたいした怪我ではない。刀はその血を吸って禍々しくも美しく色付き、俺の身体を乗っ取る。 俺がやるよりもずっと刀の使い方が上手いので強敵や面倒な時、相手を刀に喰わせる時は乗っ取りを許可していた。その合図が人差し指の薄皮を自らの意思で切り、刀にその血を吸わせることだった。ずいぶん面倒な発動条件だが、その方が誤作動をおこさなくて良い。 俺を乗っ取った刀は相手を喰って良いという許可をもらえたことが嬉しかったのか、はたまたしばらく喰っていなかったからか、ずいぶんと楽しそうな様子だった。「ヨミ……?」 動きを止めた俺を小町が呼ぶ。刀を手で持っていてもいっこうに振る素振りを見せない。中位怪人はそれを好機と思ったのだろう。増やした下位怪人と共に根で俺を捕らえようとする。「ヨミ!」 だいじょうぶ、なんて小さく口にして刀は向かってきた根を全て斬り、その力を吸収してしまった。聞くに堪えない不協和音の悲鳴を聞きながらも刀は楽しそうに笑う。それに合わせて俺も笑った。目にも止まらぬ速さで糸をいくつかの針穴に通すように怪人を斬り伏せていく。 次々と倒れ伏していく下位怪人を見て恐れをなしたらしい中位怪人は逃げようとしたが、背を向けた時点で勝ち目はない。刀は自身を中位怪人に突き立てるとその力を全て吸い尽くした。 ずるりと中位怪人だったモノが地に落ちる。倒れ伏した下位怪人にはたいした力がないのか、刀は全く興味を示さなかった。何を基準にするのか知らないが、美味しくないのかもしれない。 ふっと身体が重くなり、刀は乗っ取りをやめたようだった。お腹いっぱいになったのか、はたまた餌がないことを感知したのか、戻りたそうにしていた。たぶん、休みたいというのもあるのだろう。 ゆっくりと刀を戻すと頭上にいた小町の脇腹辺りを掴んでおろす。小町は驚いた顔をしていた。俺の動きが変わったことや武器について思うことがあったのだろう。「ヨミ……、どういうこと……?」「え?……あー、後で」「そんなことよりお弁当食べよ」「っ、うん!」 お弁当箱のところに戻るとお弁当箱はひっくり返っていたが、中身はこぼれていなかった。ゴムでとめていたおかげだ。「ヨミ」「ん」「ありがとう」「いーえ」 何に対してのお礼だろう。分からなかったけれど、受け取ることにした。「小町」「うん?」 おにぎりを食べる小町の頬についた米を指でとって小さくありがとう、と言った。俺を外に連れ出してくれたこと、感謝してるよって気持ちをこめて。「ふふっ、うん」 まぶたの裏に小さな少女がいる。記憶の底にいる少女だ。どんな子かと言われれば、答えるのは難しい。けれど、悲しそうな顔をしてジメジメと泣いていたのが気に食わなかったんだろう。 俺はその子の頬を両手ではさんでこちらを向かせた。大きなまあるい青い目に俺がうつっていた。その顔は泣きそうに歪められていた。「泣きそうなの」 高い声で語尾が上がる。それは問いだったのだろう。でも俺は気付かなかった。「お前こそ泣きそう」 少女はポカンと口を開けた後、おまえじゃないもん、と不満げに言った。「わかばだもん」 かわいらしい顔を歪めて名前を口にした少女は、目を伏せた。なにが理由かは分からない。けれど、やっぱり俺はそんな風に諦めたような顔が嫌いで。「言いたいことは言え。言わないと何も言えなくなる」 少女はまた口を開けた。まあるい青い目を更に丸くして、驚いたような顔をしていた。今思えばこの年頃の少女に言うには難しいことだった。理解なんてちっともしていない。でもやっぱり、俺はそれに気付かなかった。 口を開ける理由をお腹が空いたからだと思ってポケットを右手であさった。するとキャンディが出てきた。オレンジがパッケージに描かれたそのキャンディの袋を破り、小さな口に入れる。 少女は目を丸くした後、ふにゃりと笑った。俺はそれを見て、笑えるじゃんと思ったことをよく覚えている。その黒い頭をひと撫でして俺はそこを立ち去った。 小町と会う十五年ほど前の話である。 天狗に依頼された山の怪人を退治をしてから一ヶ月が経った。相変わらず怪人は現れるし、それを退治するために昼間に活動をしていた俺は、遂に身体を壊した。 一週間前から喉がゴロゴロしていたし、頭は割れんばかりに痛かった。喉が痛いせいで食事はまともに食べられなかった。おかゆや流動食も試したが、喉が痛いことにかわりはなく、ジュースぐらいしか口にしていなかった。しかしせめて小町の分だけでも食事を、と思って頑張って作っていたが、遂に鼻が食事の匂いを拒否した。 ぶっ倒れた俺に小町は助けを呼ぼうとスマートフォンをぺしぺしとその綿だらけの手で叩いたらしく、それが奇跡的に野猪に繋がったらしい。野猪は飛んで来て俺を家に運んでくれた。 野猪の家は短命故に薬師をしていた。薬の力で少しでも寿命を伸ばそうとしているところが健気すぎる。「無茶すんなって天狗の旦那に言われただろ」「めんぼくない」 熱でも出てきたのか、頭がぼんやりとする。それにしても繋がったのが野猪で本当に良かった。馬鹿で単純でも彼は一番腕の良い薬師だ。「小町さんがいなけりゃ死んでたぞ」「ん」 そうだろうなとは思う。もちろん、簡単に死ぬような身体ではないが、危険な状態だったのは自分でも分かる。小町は泣き疲れて寝ているが、俺が意識を取り戻すまで三日ほどずっと泣いていたと言う。これは小町からの小言を覚悟した方が良いかもしれない。「ホントに、危なかったんだからな」 野猪はそう言って頬を緩めて俺の髪を撫でた。汗もかいてペッタリと額にはりついた髪を触って何が楽しいんだ。「わかってる」 ズキリと頭が締め付けられる。俺はため息をついて目を閉じた。こんな時に考え事をしても無駄だ。全部がぜんぶ、悪いことのように感じてしまうから。 真っ黒に塗り潰された視界の中、小町の泣き顔と十五年ほど前に出会った少女の顔が重なった。顔の造りは全く似ていない。けれど、どこかが確実に似ている。それが何かは分からなかった。「今は寝とけ。大丈夫。俺が見とくよ」 野猪の声が子守唄に聞こえるなんて末期かもしれない。けれど、俺はその声に導かれるままに意識を落とした。 次に目覚めた時には、陽は完全に落ちていた。あれからどれくらい経ったのかは不明だ。しかし、腕に刺さった点滴の針や時計のカチコチと鳴る音が、俺の生存確認のようだった。 頭痛や熱は治まったようだが、喉は相変わらずゴロゴロしている。小さく咳をもらした。これは本格的に医者に診てもらった方が良いかもしれない。腕をかけ布団から出すとチーンとベルが鳴った。 しばらくすると野猪がやって来た。その隣には、あまり会いたくない医者がいた。野猪よりも小さな身体に大きな赤い目と目元の泣きぼくろ。髪は長く、後ろで雑に結ばれている。あちこちがはねているが、白衣を着ているせいでそれも個性と認められている気がしてならない。「もう、そんな風になるぐらいだったら僕のところに来てって言ってるでしょ!」 声は甘ったるく起き上がろうとする俺を押しとどめる力の強い腕。なぜ、野猪は竜神を連れているのだろう。「悪い。でも、ヨミ様が倒れたって結構話題だぞ」「なん、でだ」「鬼と精が家に行ったらいなかったって俺んとこ駆け付けたんだよ」 野猪は申し訳なさそうに言った。「まあ僕が来たからには安心してね!」 赤い目に好奇心の三文字が浮かび、ベシベシとウロコのついた尾が床に叩きつけられる。変身がとけているのは興奮している証拠だ。「おてやわらかに」 どれだけ嫌いでも腕だけはたしかだ。抵抗するだけ長引くならさっさと終えておきたい。「うん、すぐやるよ!」 よいしょ、とベッドに腰かけると額へと手を伸ばして熱をはかり、その手を頬、首筋へと滑らせる。ちょっと生ぬるい手だ。「うん、熱はないみたい!野猪の薬のおかげだね!」「効いて良かったなあ」 次に着ていた寝間着のボタンを外して胸元をはだけさせた後、そこに耳を当てた。生ぬるい体温に思わず息を飲んだ。その反応を見た竜神が冷たいねーごめんねー、と幼子でもあやすように言った。「異常なしっと!うーん、喉がゴロゴロするんだよね?」「ああ」「うん、ちょっと起こすね!口開けて、あーん!」「あー」 素直に口を開けると竜神はじいっと開けた口を見た後、腫れてるね!と何でもないように言った。こんな状況でなければ天気を聞かれた時のようだ。「こりゃ痛いわけだよ!逆によく飲んだりできてたね?しばらくは点滴かなあ!」「じゃあその成分について話し合うか」「うん!それじゃあヨミ様!大人しくしててね!」 竜神は野猪を連れてバタバタと部屋を出ていった。別にベッドのそばで話してくれても構わなかったのに。急に部屋が静かになって何もすることがなくなった俺はゆっくりと布団へと戻った。柔らかな布団が背に当たる。この感触も久しぶりだ。 お陽さまの香りのしない布団は安心する。自身にこびりついたお陽さまの香りに違和感を感じなくなったことに、今更だけど気付いた。「ごめん小町」 目を閉じて深く呼吸をする。 俺はやっぱり、関わるべきではなかったんだと思う。 ゆっくりと意識が浮上する。枕元に小町がいた。パチリと目が合う。「ヨミ」「ん」 その小さな手がぽすっと俺の頬へと触れる。じんわりと広がる温もりに、小さく息が漏れた。「心配、したんだから」「ん。ごめん」「もう起きないかと思った」「俺も」 こんなに寝たのはどれくらいぶりだろう。身体はまだ睡眠を欲しているが、そろそろ一度ぐらい起きた方が良いだろう。ゆっくりと身体を起こすと小町がすかさずクッションをたくさん挟み込んでくれた。そのおかげで多少は楽だ。「ありがと」「ううん!」 掛け布団を腰の位置に合わせ、まっすぐに小町を見る。小町がハッと息を飲んだ。俺は首を傾げる。何かあっただろうか。「ヨミ……、ごめん」「どうした?」 小町は俺の手をそっと握った。柔らかな綿の感触がした。「僕のせいだよね?ヨミが倒れた後、野猪に聞いたの」 ——妖怪は、夜に動くのが普通で昼に動くことはあまりないって。 あの馬鹿。勝手に話したな。「ヨミだって例外じゃないって。もしかしたら、ヨミの方が昼に行動なんてできないかもしれない、って」 たしかに俺は昼間には動けない。これは『こう』なる前から変わらない。しかし、よく勘違いされることが多いが、俺は別に夜にしか動けないわけではない。昼間は妖怪の姿(和装)で動くことが自殺行為なだけで、人間姿(洋装)ならば多少は動ける。それでも一週間に三回ほどが限度ではあるが。「小町」 どこから溢れたのか分からないが、大きな目には涙が浮かんでいた。ぬいぐるみなのにどうして涙が浮かんでいるのだろう。本当に不思議だ。「たしかに俺は昼間にはあまり動けない」「うん」「でも、和装じゃなければ少しは耐えられるんだ」「狐面をつけなければ良いの?」「まあ、ぶっちゃけ。でも毎日は出られない」 毎日は無理なのにこの一ヶ月、外に毎日出た理由は。「小町の望みを早く叶えたかった」「そんなに焦らなくても」「言っただろ。これは俺のためなんだ」 そう言うと、小町は一瞬だけ悲しそうな顔をした。俺の言葉に傷付いたのが分かった。けれど、俺は言葉を取り消さなかった。「そっか。……僕、ちょっと外の空気を吸ってくるね」 部屋を出ていく小町の背は寂しそうだった。けれど俺はそれを黙って見送った。「……ねむ」 欠伸がもれる。目尻に浮かんだ涙を拭い、背と壁の間に挟まれたクッションをなかばテキトーにその辺に放り投げる。ゆっくりと背を布団に預けると目を閉じた。 どうしてこんなに眠いのだろう。やはりまだ体力が戻っていないのだろうか。いや、少なくとも三日は経っているだろうし、その間ほとんど眠っていたはずだ。普段ならばとっくに回復している。じゃあ、どうして? 考えようとしても頭が回らない。意識しなくても呼吸が深くなって思考がボロボロと溶けていく。こんなに眠いのは初めてのことできっと戸惑っているだけだ。きっと、そう、だ。 パチリと目を開けるとそこは野原だった。辺りは真っ暗。空を見れば今ではほとんど見えない小さな星たちの光まで見えた。視線をまっすぐ前に戻す。遠くに見える黒い物体はほとんど見えないが、輪郭だけでなんとなく想像ができる。「なんで、ココに」 見覚えしかない景色。そう、こんな風に月が雲に隠された夜だった。風が吹き、ふわりと草の香りを運んでくる。手を見ると今よりも小さくてふよふよしていて、幼い。まとっている服も、『あの時』と変わらない。これは、もしかして——。「『日見』?」 小さな声に振り返ると『アイツ』がいた。夜に溶けるような黒い服と濃い紫の帯。髪にさした簪に使われた月と星の飾りが揺れる。長い丈の裾が足元の草たちと触れて小さく音を立てる。どうしたの、と聞いてくるその顔は心底不思議そうだった。「日見……」 思わずそう言えば、俺の服を着た日見は顔をしかめた。俺のやりそうな顔だった。「違うだろ、『日見』」 その言葉にバッと自分の服を見れば、彼のまとう服とは正反対な白の衣と太陽のような美しいオレンジの帯。これは日見がいつも着ていたものだ。丈は短く、動きやすさを重視した服。「あは、そうだね、『夜見』」 絞り出すように声を出した。俺の格好をした日見は少しだけ笑った。白い髪がふわりと揺れた。俺のフリをした日見がボソボソと言葉を口にする。「珍しいな、『日見』が夜に散歩したいなんて」「そうかな?良いでしょ、たまには」 ここまできたら俺はもう、なぞるしかできない。口にした言葉は少しも覚えていないのに、口から勝手に言葉が飛び出していく。「夜も綺麗だね」「だろ?」 すべて分かった上で日見を見ると、覚悟の決まった目をしていた。そうやって俺を守ろうとしてくれた。なのに、俺は日見に何をしてあげたんだろう。「今度、『夜見』に昼を案内してあげるよ」 どうして気付かなかったんだろう。日見はなぜこの日、俺と服を替えたのか。それは、人間が俺を恐れたから。夜の住人たちと手を組んで自分たちを殺しにくると恐れたから。俺はそんなこと、少しも企んでいないのに。 風が、ひときわ強く吹いた。思わず目をつぶった。目を開けた俺の視界は変わっていた。 赤い血の花が舞う。 刺された『夜見』はどこか満足げに笑って目を閉じて重力に従って身体を倒していく。伸ばした手は空を切った。 その途端、すべての音が消えた。『夜見』を刺した人間が何かを言っている。唇の動きを見れば言葉は分かったかもしれない。けれど俺は見なかった。そんな余裕はなかった。とにかく逃げないといけないと思った。刺された『夜見』が『日見』だとバレる前に。 踵を返して走る。もうあの村には戻れない。俺の居場所はない。あるのは『日見』の居場所だ。俺は『日見』にはなれないし、また殺されてしまう。 どうしてこうなったんだろう。俺が、妖怪に近かったから?人間を守っていると知られていなかったから?俺が、悪いから? 俺が生きるよりも日見が生きるべきだった。俺は刺されたって構わなかったのになんで庇ったんだろう。日見が生きて、俺が死ねば。世界はもっと、良くなっていたんじゃ。なのに、なんで。 あの時と同じように涙が溢れて頬を滑って落ちていく。俺には泣く価値だってないのに。目元はとにかく熱いし、胸を埋め尽くす死にたいほどの黒い気持ち。あぁ、もう。「さいっ、あく」 ゆっくりと月が雲のすき間から顔を出し、どんどん姿を消していく。ずっと遠くの山の向こうが明るくなっていく。 ああ、夜が明ける。日見の企みがすべて明らかになる、そんな朝が始まったのだ。『苦しいね?』 気付けば周囲は黒く塗りつぶされていた。闇ばかりのその世界では、輪郭すら掴めない。そんな中響いたその声はさも同情するように沈んでいた。「分かるかよ」『分かるよ。誰かの犠牲の上に立つ苦しみが』 いぜん姿の見えない声の主を不気味に思う。俺の苦しみが分かるという言葉でさえ信じられない。『きみはよく頑張った。だからもう、』 ——頑張らなくても良いんだよ。 その言葉はじんわりと心に溶けていった。もしかしたら、俺はその言葉がずっと欲しかったのかもしれない。 ずっと頑張らないといけなかった。生かされた俺にできることを考えて、せめて人間と共存しようとした。千年の間にそれは叶っても、今度は人間が争い始めた。俺たちが脅威だったから人間同士の争いはなかった。そのことに気付いても手遅れだった。 次の千年の間に人間はどんどん進歩し、争いを繰り返しながら俺たちを置いていった。今では俺たちを信じる者だってほとんどいない。それで良かった。そうなれば、死ねると思った。日見のところへ逝きたかった。もう、疲れてしまったから。『ほら楽になろう』 いつの間にか目の前に絞首台があった。これで首をくくれば死ねる。苦しいものから逃げられる。ひたひたとそれに近付いて縄に手をかける。首を輪の中に入れて目を閉じた。 これでぜんぶぜんぶ終わる。俺という存在が消えて世界は混乱するだろうか。否。俺がいない方が世界だって回るだろう。護衛隊も好きなことができる。小町だってもっと昼に活動できる人間と組める。それがお互いにとっての幸せで——。「馬鹿言わないで!」 キンッと響く声に驚いて目を開ければ小町がいた。けれどその姿は見慣れたぬいぐるみ姿ではなかった。とびきり綺麗でかわいい青年の姿。長い手足、ふわりと舞う髪、丸く大きなタレ目と小さな口。薄紫色の狩衣のような上衣に『パニエ』の広がる膝上のスカートに淡い水色のブーツ。何度かテレビで見た『魔法少女』の姿だった。 けれど、記事などで見た『魔法少女小町』ではない。『魔法少女小町』は、もっと髪が長かったはずだ。「こま、ち?」 まっすぐに俺を見るオレンジよりも黄色の強い目が、ふんわりと溶ける。まるでもう大丈夫と言うように。それがどこか安心できて、肩の力がふっとぬける。「僕の大切な人をこんな暗い牢に閉じ込めないで」 その言葉を言われる資格なんて、俺にはないのに。目を伏せたその一瞬の間にふわりと香る藤の香り。気付けば小町がそっと俺の手を握っていた。「大丈夫だよ、ヨミ。もう帰ろう」「帰る?どこに?」「みんなのところだよ」 みんな?それは、鬼とか狐とか野猪とか天狗とか精の、とこ?本当に帰れる?俺の帰る場所は、ある?「帰れる?」「当たり前でしょ!帰れるよ」 俺は縄の輪から首を外した。そっと、小町の手を握り返す。小町が笑った。そのまま駆け出す小町の背を見る。ぬいぐるみ姿では見れなかったものだ。「ありがとう」「んふふ!どーいたしまして!」 闇の中だと思っていたこの場所は、実は広い野だった。何もない広い野。いや、あちこちで花が咲いていて自由に風に揺れていた。なんだ、ひとりじゃなかったんだ。 小町の背の背景にどこまでも青い空があって、俺は足を動かしながらまた、笑った。「どうしたの?」「ううん。来てくれてありがとう」 小町はまた笑っただろうか。どこか弾んだ足取りで駆けていく小町に手を引かれて、俺たちは光に包まれていった。 目を開けるとぬいぐるみ姿の小町が俺と手を繋いでいた。綿の詰まった手は柔らかく人間の手とは違った。「小町……」 本当に迎えに来てくれたのだろうか。 あの暗い世界は夢だと今では分かっている。けれど、あの時は現実だと思っていた。『日見』を喪ったあの時を繰り返すだなんてひどい悪夢だ。 ぴくりと小町が動き、ゆっくりと目を開ける。その目に俺が映り、俺は小さく笑いかける。「おはよ、小町」 俺がそうしてもらった時、安心したから。小町はじっと俺を見た後、ふにゃんと笑った。「お帰り、ヨミぃ」 とろんとした目は俺を見ていない。寝ぼけているのだろうか。俺はぎゅっと小町の手を握った。「うん、ただいま」「……うん!」 右手を伸ばしてその頬を撫でればくふくふと笑い声がもれた。やっぱりかわいい。「俺、なんかヤバかった?」「そうだよ!もう、いつの間に『夢魔』なんて近付けたの!」「『夢魔』?」「そう!悪夢を見せる怪人の一種だよ!」「小町さん。それについてはこっちで調べるので」 その声のした方を見るとそこに天狗がいた。パッと見ただけで怒っているのが分かる。天狗の忠告を聞かないで倒れたからか、はたまた、勝手に危険に巻き込まれていたからか。「ごめん」 そう言えば天狗は目を丸くした後、ふんっとそっぽ向いてしまった。「ヨミ様は『ごめん』と言えば解決するとお思いですか」「そうじゃないけど」 怒りを回避するために言ったことは事実だ。けれど、天狗に対して申し訳ないとも思っているわけで。「はあ。ヨミ様はそういう人ですし」 天狗は勝手に納得したようだった。「天狗さん。今回はヨミが悪いんじゃないから」 ——怒らないであげて。 今回は、と強調した小町を見る。まるで今回のこと以外は俺が悪いと言いたげな顔をしていた。天狗も同意するように頷いているし、俺はトラブルメーカーか。そんなことないはずだけど。「俺に教えてくれたって良いだろ」「おや、興味がおありで?」「天狗」 いさめるように言うと天狗は小さく咳払いをした。「ヨミ様の体調不良の原因は昼間に無理をしたことでしょう。その弱っている隙を狙って『夢魔』がヨミ様を悪夢へと誘い出したのです」 つまり、弱っている時に別のウイルスが来たということか。「『夢魔』の影響でヨミ様は更に一週間眠っておりました」「なんで起きれたんだ?」「僕がヨミの夢の中に入って起こしたの」 小町は申し訳なさそうな顔をしていた。それは夢を見てしまったせいだろうか。そうだとしても俺はそのおかげで助かったも同然だ。「ごめん。嫌なもの見せた」「う、ううん!ヨミが、関わらないようにしていた理由が分かったよ」 まさかそんな風に思われていたとは。いや、たしかに深く関わろうとしなかった。面倒だからというのもあったが、たぶん心のどこかで恐れていたのだ。深く関わった相手が死ぬことを。「ヨミは、僕を遠ざけようとしたんだね」「そんなこと」「ないって言える?」 思わず言葉を飲んだ。たしかに言えない。遠ざけようとしたのは本当だ。けれどそれは——。「ヨミは優しいよ」「優しくない」「そんなことないよ。ヨミはできないことはできないと言う。期待させないんだ」 俺は恥ずかしくなって布団の中に逃げる。頭から掛け布団をかぶったせいで布団の中はあつかった。「僕はヨミと一緒に闘いたい」 ——ヨミが、僕を拾ってくれたから。「そんなヨミ様だからこそ我々も信じているんです。そして、守りたいとも」「俺は男で、少なくとも天狗よりも長生きだぞ」「ええ、存じてます」「ヨミってちょっと危ういよね」「は?」 ガバッと布団をはねのけて小町を見る。小町はにこにこと笑っていた。「優しくないって言いながら僕みたいな怪しい者を拾うし、おまけに協力までしてくれた」「ええ。先祖たちも何度も助けられています」「それは——」「ヨミ様は無視することもできたんですよ」 天狗はまるで全て見てきたような目をして俺を見た。俺の半分も生きていない子どもに何が分かるのだろう。「大事な方を亡くされた後、全てを放り投げて逃げることもできました。関わらないこともできました。けれどヨミ様はそうはしなかった」 天狗は目を閉じる。優しく言葉を選びながら話す天狗は、しっかりと俺に伝えようとしているようだった。「それはヨミ様の優しさです」 天狗は知っているのだろうか。あれから恩人に救われた俺が、妖怪たちまで亡くしたくないと思っていたことを。いつの間にか大切になっていたことを。「自分のためかもしれません。けれど、その『エゴ』に小町さんも私たちも救われて、守られてきたんですよ」「だから、今度は僕たちの番だよ」 ぎゅっと小町が手を握ってくる。にこっと笑う顔は、今日だけで何度見たことだろう。「ヨミのできない、苦手なことは僕たちがやる。独りで突っ走らなくても良いんだよ」「なんのための護衛隊だと思っているんですか。ヨミ様のために働きたい変わった妖怪なんですよ」 ふ、と息が漏れた。突っ走って、倒れて、心配かけて。そうやって抱え込むことは良くないことだったようだ。少なくとも俺の周囲の変わった奴らは、もっと頼って良いと言った。ならば。「天狗」「はい」「任せても良いか」 もう少し、楽になるまで。甘えても許されるのだろうか。「はい!ヨミ様がよくなってもずっと」 心底嬉しそうに天狗が笑った。ほんと、変な奴。②へつづく

2024年度『卒業制作』②

こんにちは。文芸研究同好会です。前回投稿した作品の後編を公開します。さて、現実ではありえない世界はいかがでしたでしょうか。ヨミの過去、怪人の親玉など考えることはたくさんです。では、ここで一つ問いを出しましょう。作者はなぜ、『救えない世界』とタイトルをつけたのでしょう。答えはもうすぐ、分かると思います。以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。『救えない世界』②   月夜 連日テレビで報じられる怪人退治のニュース。そこに映るのは『魔法少女』ではない。美しくも可憐な少女ではなく、人間に擬態したおぞましくも醜い『化け物』。それは千年以上前に実在していたという鬼や天狗をかたちどり、人間に恐怖を与えるはずのものだった。 けれどそれらは『怪人』と共闘することなく、『怪人』を狙い、人間を守った。こうなると人間は彼らを『化け物』ではなく『ヒーロー』とする。「いやあ、大盛況だね」 テレビの電源を切った小町はそう言って俺を見た。まだ本調子じゃないせいでベッドに座ったままだが、以前より身体は辛くない。「ずいぶん派手だな」「まさか!これぐらいで良いんだよ」 小町は楽しそうだ。イタズラを考えた精と同じようだった。俺はため息をついて布団をかけ直す。 俺の護衛隊たちは俺の家まで来るようになった。この前、倒れたことがよっぽどこたえたらしい。俺の生存確認と共に様々な情報を持ってやって来る。 そしてもう一つ、変わったことがある。それが小町の態度だ。「小町。そろそろ買い物に」「駄目だよ。もう少し顔色を良くしてから言って」 非常に過保護になった。これは多分、目をはなした隙に『夢魔』にとりつかれたせいだろう。怪人に立ち向かう強い俺でも、精神一つで『夢魔』につけ入る隙を与えてしまう存在だと認識したのかもしれない。 小町の過保護は俺にとっては予定外だった。俺はもう充分回復しているし、外にだって出ないといけない。食べ物がないのだ。つい数日前に食べ物を買ってきてくれた狐以降、誰も訪れないこの家では食べ物が枯渇していた。妖怪の俺は生きられるかもしれない。 けれど、小町は?三食しっかりと食べている小町は?いくら人間姿ではないとは言え、一食抜くのも良くないだろう。 俺はベッドにもぐりこみ、目を閉じる。小町が俺のためにやってくれることは嬉しい。けれどそれは、俺を飼い殺しにしているも同然で。 真っ黒に染まった視界だけが今も昔も変わらなくて俺は知らず知らずのうちに涙を流していた。 数日後、やっと許可がおりた。多分、天気も関係していただろう。曇り。別に太陽が駄目なわけではないが、それでも曇りの方が息がしやすかった。「ヨミ、どこ行くの」「怪人の出現場所」 南関東の怪人出現場所は家から近いので実際に行ってみようと思ったのだ。もちろん、移動距離が長い神奈川の西部及び南部は既に海関連の妖怪や山関連の妖怪に実地調査をお願いしていた。今日はそれ以外に行くということだった。「だから精がいるの?」「そうだよ〜!えへへ、一緒にお出かけなんて楽しいね!」 にぱっと笑った精は元気な子どもといった様子だった。幼稚園にあがっているかいないかぐらいに見える精と一緒であれば、ぬいぐるみの小町も抱えていられる。それに小町が喋っていても誤魔化すことができると考えたのだ。「あれ、でも天狗が八王子周辺はやるって」「そう。だから二十三区と埼玉南部だ」「横浜も範囲でしょ」「そうだった」 見慣れた水色のラインの引かれた電車に乗って揺られること一時間半ほど。到着したのは横浜駅の先の石川町駅だった。そのまま坂をのぼって丘の上を目指す。人々の生活の息遣いの聞こえる商店街や小学校の横を通ってただひたすらあがっていく。子どもにはキツイかもしれないが、あいにく精はただの子どもではなかった。「ヨミ様〜、倒れたのはもう大丈夫なの」「ん」「頑張りすぎちゃ駄目だよ」「ん。あ、あっち」「私も、鬼も、狐だってヨミ様の味方だから」 精の方を見ると彼女はじっとこちらを見ていた。俺はその頭を撫でた。「ありがと」「ヨミ様が、いなくなるのだけは嫌だから」 そうならないと良いとは思う。けれど俺には未来予知なんて力はないし、いなくならない保証なんてない。「じゃあ願ってて」 願えば叶う、なんて神様みたいだっただろうか。精はしばらくポカンとした後、大きく頷いた。 坂をあがりきった先の丘の上、そこには横浜外国人墓地があった。近くには洋風の綺麗な建物があり、無料で中に入れるし美しい庭園も見られる。けれど、俺たちの用事は墓地にあった。「ねぇ、そろそろ教えてくれても良いんじゃない?」 外国人墓地は観光地ではあるが、あまり人はいなかった。精は海を見ながらそう言った。「全国の怪人出現場所の調査でなぜ墓地が周囲にあるか確認させたのさ」 小町は不思議そうな顔をしていた。俺は小町の実家に行った時のことを思い出した。日暮里駅の南口には有名な墓地があった。小町の家に行くにもそこを通った。小町が魔法少女になったのも日暮里駅付近だと聞いた。そうなると必然的に墓地の近くだったことが分かる。 また、新設された高輪ゲートウェイ駅付近でも怪人が出現しており、その近くにも墓地がある。俺が最寄りとしている駅の近くにも墓地がある。 怪人が出現する場所、魔法少女になる場所の付近に墓地がある。これはこの前天狗に依頼された山も該当した。山の麓に小さな寺があり、山に隣接する形で墓地があった。「怪人と墓地に密接な関係がある」「それは分かったよ。でも、それがどうしたの?」「小町さんは、墓地に何がいると思う?」 精の問いに小町は霊?と言った。「そう。霊だよ〜。そして霊はヨミ様の守護範囲外なんだ〜」「う、ん?霊と妖怪って何が違うの?」「精」「うんうん!任せてよ!小町さん、霊と妖怪の違いは大きく二つ!一つは死んでること」「死んでる?」「そうだよ〜。ちなみに妖怪は生きてる。生きてるから触れるんだ〜」「たしかに、幽霊は死んでるね」「そう。そして、不思議なことができるかどうか」「不思議なこと?」「まあ、これは曖昧なものだと思って聞いてほしいんだけど〜」 精はそう前置きした後、にっこりと笑った。「妖怪は妖術ってものを使って人間を驚かしたりからかったりするの。ほら、狐とか分かりやすいんじゃない〜?」「あ、たしかに」「うん。だけど、霊ってそういうことはあんまりできないっぽい〜。もちろん、呪ったりする霊もいるし、小豆洗いみたいな妖術を使わないタイプもいる。だから、補足的なものだと思って〜」 精はくるっと俺の方を向くと目を輝かせた。ちゃんと説明できたから褒めろと言いたげな顔だった。その頭をちょっと乱雑に撫でると精はちょっと痛そうにしながらも笑って受け入れた。「じゃあ、霊はヨミと関わりがないってこと?」「そう。特に俺は霊を避けてたから」「ん?どうして?」「……アイツに伝わるのを防ぐためだ」 小町は俺の言うアイツに心当たりがないようだ。どうやら俺の悪夢の全てを覗いたわけではないようだ。「ヨミ様……」 精は分かっているようで目を伏せていた。「じゃ、じゃあ、ここに長居しない方が良いんじゃ」「いいや」 俺は小さく笑う。長居はした方が良いのだ、今回ばかりは。「あくまで仮説だからこそ調べている」 次の瞬間、精めがけて細い枯れ枝が伸びた。精はそれをかわして枯れ枝が来た方向を見た。そこにいたのは精よりも大きな少女だった。 胸元は黒いレースとグレーのシャツで隠され、腰から焦げ茶のふんわりしたスカートをはいている。靴も靴下も黒く、髪まで黒い。毛先にかけて緩くウェーブがかけられている。小さな黒薔薇が少女の右耳の上あたりで咲いている。「私は彼葉。邪魔者を排除します」 顔を上げた少女の綺麗な青い目にどこか見覚えがあるような気がした。「ッ、ヨミ!」 俺は狐面を手早く身に着けると刀を取り出した。伸びてくる枯れ枝を斬りながら小町と合流する。精は既に逃げ出していた。もちろん、俺は事前に精にそう指示していた。 精はあまり戦力にはならない。しかし、条件さえそろえばどこにでも移動できるのが便利で重宝していた。今回はすぐに他の人に伝えるためには狐や鬼ではなく精が必要だったのだ。「上位怪人だよ」「えぇ……。倒さないといけないんだろ?」「そうだね。じゃないとこっちが危ないかも」 刀は少女を見て楽しいのか早く身体をよこせと言いたげだった。向かってくる枯れ枝を全て斬りながら隙をうかがう。皮膚の薄皮を切ることはできても、それを吸わせることは難しい。そんな時間はないのだ。「どうするの、ヨミ」「小町は魔法とか使えない?」「さすがにステッキなしはできないよ」「ステッキがあればできる?」 小町はうん、と言った。なら。 俺は右手で小さく陣を描いてそこから昔使っていた折れたステッキを出した。ふわふわと浮いているそれは古い物だが綺麗な状態だった。「これ、折れてるじゃん!」「昔使ってた。妖術の発動補助もしてたからいける」「いけるかは分かんないよ!」 俺は刀を左手に持ちかえて右手でステッキを持つ。「小町。できるから」 ほんの少しのおまじないを乗せて小町を見れば彼はため息をついてステッキを握った。「全ては意思次第。夜見の名の下に彼の者に力を与えよ」 小声で告げると折れたステッキが光り出し、あっという間に小町を覆う。あまり眩しさに少女が目元を腕でおおった。その時、もう嫌だ、と小さくその唇が動いた。声に乗っていないため、本当にそう言ったのかは分からない。でも。「まさか」 なぜ少女に見覚えがあったか。数年前、テレビに映っていた魔法少女『若葉』。彼女の目も綺麗な青で、美しい黒髪だった。そしてそれは、十五年ほど前に出会った少女と同じだった。 しかし気付いた時にはもう遅い。小町は人間の姿を取り戻し、少女と闘っていた。あの夢で見た時と同じ格好だった。二人のそれは俺が加わらなくても互角以上の闘いだ。正直、ここまで小町と俺の妖力や妖術が親和性が高いとは思ってもいなかった。でもそれは嬉しいことだけど、今は嬉しくないことでもある。 怪人化した人間を倒したらどうなるだろう。人間に戻るのか。それとも、死んでしまうのか。俺は、また『人間』が死ぬ原因になるのか? ぎゅっと胸が痛い、苦しい。怪人を倒さないといけない。けれど、少女は元魔法少女だ。このまま倒したら。 躊躇っているとぐいっと腕が引かれた。そのひょうしに刀が手から滑り落ちて消えた。 振り返るとそこにアイツがいた。なんでここに、死んでいるんじゃ、と色々なことが頭を駆け巡る。しかし、冷ややかな目をして俺を見るアイツを見て気付く。コイツに俺の記憶はない。なのにどうして——。「妖怪たちの『王』だね。一緒に来てもらうよ」 俺はアイツの手を振り払う。狙いは妖怪の『王』としてのヨミだ。魔法少女代理でもなく、人間をしていた時の『夜見』でもない。「行かない」「そう言われてもねぇ」 ふう、とわざとらしくため息を吐く。アイツはそんな顔はしなかった。「なら多少強引にでも」「それはやめていただけると嬉しいですわ」 ぐにょんとアイツの腕があらぬ方向に曲がった。その腕を掴む女性は、見覚えのある人だった。「鬼」「遅れて申し訳ありません。精から場所を聞いたものの、想定以上に遠くて」「……いや、ありがとう」 霊の腕を曲げるなんて聞いたことがないんだけど。というか、霊のはずなのに触れられることの方がおかしいんじゃ……。「まあ、今日は仕方ないか。でもまた来るね」 アイツはそう言うとスウッと消えていった。俺は思わずブルリと震えた。寒気がしたのだ。そんな俺に鬼は羽織っていたストールをかけてくれた。柔らかな手触りのそれは、ひと目で高いものだと分かる。「さすがに受け取れない」「少し貸すだけよ」 ——あげるわけないじゃない、お気に入りよ。 鬼はそう言ってくすくすと笑い出した。俺は思わず赤くなる。「そんなことよりも、小町さんは大丈夫なの?」「互角以上の勝負。俺の介入なしでもいけるよ」 見れば既に怪人が地に倒れていた。その周囲には彼女のつけていた黒薔薇の花びらが散っていた。「小町」 声をかけると小町は振り返った。肩にかからない程度の黒髪が揺れた。「ヨミ、大丈夫?」「ん、小町は?」「うん平気」 するとぽしゅんと音がして小町がぬいぐるみ姿に戻った。折れたステッキを胸に抱き、目を丸くしている姿を見て思わず笑ってしまった。「なんじゃい、終わってもうたか」「無事で良かったぜ、小町さん、ヨミ様!」 狐と野猪がふわりと地に降り立った。野猪は俺の髪を乱雑に撫でた。「うむ?ヨミ様、その手首のアザはなんじゃ?」 見れば右手首に黒い太陽のようなアザができていた。「痛くないから大丈夫」「そういう問題じゃなさそうじゃぞ」「え」「これはマーキングですかね」「お、天狗!遅かったじゃねえか」「これでも飛ばしましたよ」「あら?精は?」「疲れて今は水に戻ってますよ。ほら、ここに」 天狗はそう言ってペットボトルを見せた。たしかに精だ。「それよりマーキングって?」「……さすがにここでは場所が悪いですね。山に招待します」「さすがに俺たちは飛べねえよ?」「後ろ、山でしょう。繋げますよ」「さすがじゃのう」 のんきな会話だ。俺は小町を抱き上げてぎゅっと抱きしめた。小さく震えていたのが伝わったのか、小町が綿だらけの手で俺の腕をぽすぽすと叩いた。「行こう、ヨミ」「ん……」 歩き出そうとして視界が回る。妖力がなくなったのかもしれない。どうしたものかとぼんやりとしていたら狐が気付いて俺を抱き上げた。少女に抱き上げられるのはちょっと、絵面が良くないんだけど。「小町さんはこっちへ」 鬼が腕を広げて小町を手招く。俺の腕から小町がぬけだし、鬼に抱っこされた。 ずり落ちた狐面を手で掴みながら俺は目を閉じた。ゆらゆら揺れて揺りかごのようだ。そのまま眠れるかと思ったらあっという間についた。いつの間にか鬼がストールを回収していた。もう震えていなかったからだろう。「寝ないで聞いてくれると嬉しいんですけど」「ごめん、天狗。巻きでお願い」 右手首のアザを見せながら欠伸を噛み殺して言うと天狗は俺の右手をそっと取った。「痛みがないならば、傷ではありません。マーキングといって、獲物を見分けたり居場所を把握したりするのに使います」「ヨミ様の玉体になんてことを!」「野猪、お前玉体なんて言葉、知ってたのか」「いや、玉体じゃないんだけど」 野猪も鬼も狐も天狗も俺のことをなんだと思っているんだ。俺は国宝でもなんでもないんだけど。「どんなマーキングか分かるのかえ?」「追跡と識別ですね」「なんじゃ、吸収とかはないんじゃな」 狐はちょっと残念そうに言った。吸収は妖力とか生命力とか吸うやつだ。「というわけで、誰かしらそばにいるようにしましょう」「うむ。これは他の妖怪にも声をかけるとするかの」「いいかげんオンラインで族長などと繋がりません?さすがに手紙は手間ですよ」 どんどん話が進んでいく。俺は欠伸を今度こそ噛み殺さずに目を閉じた。目尻に浮かんだ涙をそのままに身体を倒した。背中に落ち葉が当たる。そう言えば昨日は雨だった。じゃっかん背中が濡れた気がしたが風邪をひくほどではないし、と放っておいて空を見た。 どんよりとした空に俺は若葉を重ねる。彼葉と名乗った上位怪人になった若葉は、どうなったのだろう。「ヨミ」「小町」「あの怪人、黒薔薇が散って人間に戻ったよ」「え」「ヨミの知り合いだったんでしょ?」 小町の顔を見れば少し切なげに目を細めていた。「そして魔法少女でもあった」 小町も気付いていたのか。俺の腹の上に乗って小町は小さく笑う。「もしかしたら魔法少女たちは上位怪人になっているのかもしれないね」「そうだな」「助けられないかな」「怪人としての死を迎えれば、もしくは」「そっか」 小町が空を見上げる。その目には何がうつっているんだろう。ふと、そんなどうでも良いことが浮かんだ。「あの娘ね、最後にありがとうって言ったの」「ありがとう?」「うん。もしかしたら強制的に怪人にさせられたのかもね」 俺は小町の頬を撫でる。さわさわと風が吹いて俺の前髪をさらって遊ぶ。灰色の空に若葉の顔が浮かんだ。その顔は初めて会った時の泣き顔でもなければ、テレビ越しに見た真剣な顔でもなかった。俺はふっと笑って、幻覚か、と呟いた。 その後、若葉の家を精が調べたところ、若葉が家に帰り感動の再会をしていた、とのことだった。 若葉は数年前から行方不明になり、あと二年遅ければ死亡者扱いされるところだったらしい。とても運が良い。しかし既に数人の魔法少女がその扱いになっている。今更帰ってきたところで、彼女たちに居場所はあるのだろうか。分からないが、あると信じるしかない。 それから、俺は驚くほど表舞台から離れた。かわりに小町が魔法少女に復活して上位怪人をどんどん倒して人間に戻し始めた。 小町が時間制限付きではあるが人間の姿を取り戻したことも大きな一歩だった。小町は定期的に家に顔を出しているらしい。家にぬいぐるみを持っていくため、母親もぬいぐるみを小町の部屋に置くようになったらしい。これは小町の安全のためでもあった。もし時間を忘れて楽しんでしまったとしても、小町の部屋であればぬいぐるみにまぎれることができるからだ。 さて、怪人が倒されるニュースばかりが報じられ、少しずつ人々も元気を取り戻してきたように見えた。そう、表面上は。「ねぇ、聞いた?三丁目のコンビニで強盗ですって」「あら二丁目で放火があったって」「向こうで交通事故よ、もう。危ない世の中ねぇ」 あちこちで事件や事故がおこることが増えた。ちょっと気になって全国の事件や事故の件数を調べてみたところ、怪人が現れ始めてからは減少、怪人が倒されていくと増加することが分かった。 怪人がいたことで人々は恐怖し、事件が発生しなかったのだろうか。それが消える見込みが出たことで、それまで封じ込められていた悪意が行き場を失って表面化した。けれどこれは、あくまで俺の仮説だった。根拠なんてない。だから黙っていた。 だから、こうなったのも不可抗力だ。 俺は目の前にいるアイツを睨みつける。アイツはにこにこと楽しそうに笑っている。いつの間にか墓場近くまで来てしまったらしく、霊のテリトリーに囚われてしまったのだ。しかもここには俺しかいない。おまけに俺は人間の姿だ。コイツの前で人間の姿は晒していない。これもマーキングの効果だろうか。「ね、飲まないの?」「いらない」 目の前の机の上のお茶は不気味な紫色をしていたが、ほわほわと湯気を上げ、おまけに良い香りがする。喉だって渇いているし、お腹も空いている。けれど、この場所の食べ物を食べたらこの共同体に属することになる。「んもう、強情だなぁ」「強情で結構」 俺は妖怪の『王』だ。俺の持つ権力や力は他からすれば魅力的なものだろう。だからこそ、俺は守られる存在でもあるのだが。「僕には狙いがあるんだ」「狙い?」 アイツはその不思議なお茶を飲んだ後、ティーカップをソーサーの上に置いた。「僕の親友は人間に殺されそうになった。人間はどうしてそんなことをしたと思う?」「どうしてって……」「親友の力を恐れたから。親友は悪いことを一つもしていないのにね」 ゆったりと笑う様子は、どこか狂っているようだった。「それで僕は考えたの。人間が他人に恐怖を抱くと同じことがおきる。僕の親友みたいに殺されそうになる。だったら恐怖とか悪意とかぜんぶ吸っちゃおうって」 ——そうしたら他の人を害そうって気にはならないよね。それに、戦争もなくなる。 無邪気に目の前のチェス盤で遊び出す。チェスの駒のことは何も分からないが、めちゃくちゃな動きをしていることは分かった。「ねぇ、恐れられている妖怪の『王』よ」 まっすぐ俺を見てくるアイツはやはり死んでいる。その姿は少し透けており、この前鬼が曲げた腕は元通りになっていた。「僕の言ってることは間違っている?」 俺はため息をつく。アイツの言うことの大半は間違ってはいないだろう。恐怖や悪意を持って人間は異物を排除する。『異物』にだって感情があるのに。「僕は人間の恐怖や悪意を吸って怪人を作った。でも、僕の目的は違うところにあるんだ」「さっきから狙いとか目的とか。ハッキリ言えば?」「ふふ。そう急がないでよ。僕は殺されかけた親友を探しているんだ」 ドクリ、と心臓が大きく脈打った。「僕は未練ばかりで霊になったけれど親友の魂だけは転生するようにお願いしたんだ。神様は親友の魂を輪廻転生の輪から出さないって約束してくれた。だから僕は探しているの。人間の一生は儚く短いからね」 まさか……。「親友がはやくに死なないように医療も整った。平和な世になるように事件や事故をほとんどなくした。あとは見付けるだけなんだよ」 知ってる。アイツの探している親友は、俺だ。でも、アイツは一度も親友の名前を言わない。記憶がないからだろう。だから、俺=親友には気付いていない。ようやく会えたね、と言うこともない。ならば。「俺に、どうしろと?」「僕は霊で親友は人間。触れ合えないことがとても寂しいんだ。だからね」 ——きみの身体をちょうだい。「……は?」 身体。身体? 俺はぎゅっと自身を抱きしめた。俺の身体はたしかに特殊だ。けれど、それ以上でもそれ以下でもない。「なんで」「だってねぇ。二千年生きる長寿な妖怪って噂だよ?おまけに身体は若いまま」 アイツは俺の身体をじろりと見る。今は人間の姿をしているが、この前会った時は別の姿だった。あっちの姿でもたしかに若い肉体である。「僕はなるべく長く生きたいの」 ——親友がどこにいるか分からないからね。 その目がほの暗く光る。黒の綺麗な目は、もう昔のようにキラキラと輝くことはない。「だからって俺じゃなくても」 そうだ。妖怪には鬼や狐のように長寿な種もいる。俺にこだわる理由はないはずだ。「それがねぇ。昔試したんだけど耐えられなかったんだ」 壊れちゃった、と不思議そうな顔をしてアイツは言う。持っていた馬のような駒がポキリとアイツの手の中で折れた。 そう言えば、百年程前に鬼族の一人が消えたことがあった。探してもその行方は分からず、最終的に骨だけが見付かった。その鬼の母親は泣いていたが、見付けてくれたことに感謝していた。もしかして、あの行方不明に関わっていたのか?「きみは彼らよりも丈夫だし、何より耐えられそうだ」 半透明な手が伸びてくる。俺は怖くなって思わず近くにあったお茶をぶっかけた。紫色のよく分からない液体を浴びてアイツは予想外だったのか少しの間固まる。その隙に俺は素早く狐面を右のこめかみに当てて本来の姿に戻る。白い髪と赤黒い俺の目にアイツが小さく息を飲んだのが分かった。「こわ、れろ!」 思いっきり叫んで妖力を放てば空間が歪んだ。俺はそれが消える前にそこに飛び込んで霊たちの世界から脱出した。 見慣れた景色に戻ったことに安堵し、狐面を外す。持っていたスマートフォンで鬼に連絡をすると安心したような返事が返ってきた。ただ、きっと怒ってはいるだろう。小さくため息をついた後、駆け足で家へと帰った。 家に帰ると鬼と小町に尋問された。そこでアイツに会ったことと彼の狙いを話した。「急にいなくなって驚いたのよ」「ごめん」「でも、これで目的が分かったね」「ええ。でも、親友って……」「死んでいるかもしれないよね」 小町と鬼が顔を見合わせて話している。しかし、その内容がほとんど入ってこなかった。 ビリビリと痺れる足を揉みながら俺は欠伸を噛み殺した。もう眠い。現在時刻はまだ夜に差し掛かるか差し掛からないかといった時間である。普段ならば全く眠くない時間なのに。 こしこしと目を擦る。今すぐ寝て良いと言われたら眠れそうだ。「ヨミ様、少し休まれては?」 あまりにもそれを繰り返していたせいか、鬼にそう言われてしまった。俺は起きようと頬をつねったが、眠気は引かない。まぶたが今にもくっついてしまいそうだ。これなら寝た方が良さそうだ。「……うん」 もぞもぞとベッドに入って目を閉じる。思っていたよりもずっと疲れていたらしい。鬼と小町がなにかを話している声を聞きながら意識が落ちていった。「ねぇ、夜見」「なに」「これ、あげる!」 日見がにこにこと笑って黒い面を差し出す。窓から射し込む月光がその表面を照らした。白と赤と金の色のついたそれは、ちょっぴり目元がつり上がっていた。「これ……」 見覚えのある動物だった。「これはね、狐のお面だよ」「……知ってる」 化けることの上手な狐。俺の、夜の友だち。「夜見は顔を隠しておいた方が良いよ」「どういうこと?」 日見がそっと俺の頬を撫でる。月明かりは静かで清らかだ。日見が照らされるとどこか儚げな印象があった。ゆったりと日見は狐面の組紐を俺の後頭部で結んだ。そうすると周囲があまり見えなくなった。自分の吐いた息がこもっているのが分かった。「顔に傷がつかないようにしないと」「俺は日見みたいに傷がほしい」「絶対だめ!」 日見の右頬には古い傷痕がある。一見すれば見分けのつかないそれはほとんどの人が気付いていない。でも、俺は知っている。それは人々を守るために負ったものであることを。「なんで」「夜見は綺麗だから」 月光に照らされた俺の髪は、真っ白だった。生まれつき白いこの髪は、他と違うことを強烈に印象付ける。日見のような黒髪が羨ましかった。「その紅い目も、白い肌も、綺麗だよ」 日焼けを知らない真っ白な肌も固まった血のような赤黒い目も、俺の嫌いなところだった。「そんなこと言うの、日見だけ」「他の人が言ってたら教えてね!」 ぎゅっと俺を抱きしめる日見の腕の中、俺は狭い視界を楽しんでいた。「良い?外さないでね」「……分かった」 その日から俺はずっと狐面をつけた。けれどあの『夜見』が死んだ日、俺は面をつけなかった。それは『日見』のフリをするため。日見は鳥の糞を、俺には燃えカスを髪に擦り付けて色を変えていた。そうやってお互いに化けたのだ。 その面は数日後に狐に取りに行ってもらった時には俺のいた小屋からなくなっていた。俺は手先の器用な妖怪に頼んでそっくりな狐面を作ってもらい、こうして今まで使ってきた。 日見が初めて俺にくれた、大切なものだから。 目を開けると小町が抱きついていた。俺は小町に布団をかけてベッドからおりた。いつの間にか鬼は帰ったらしい。部屋は静かだった。時計は既に八時を指していた。ぐっと伸びをした。「さて」 怪人の親玉も分かった。その狙いも分かった。幽霊である日見を倒す方法は彼の未練をなくすこと。彼の未練は庇った親友の行方。庇った親友は俺。でも、日見は生前の記憶がほとんどない。ならば。「思い出させるだけ」 道は見えている。あとはどうやって思い出させるか。「霊に詳しいのいたっけ」 ほとんどの妖怪に会ったことがあるが、その能力を全て知っているかと問われれば違う。霊と関わりのある妖怪は幾人かいるが。「みんな関東じゃない」 さて、どうしたものか。とりあえず連絡だけ入れるか、とスマートフォンで複数人に連絡を入れた。そのうち返事が来るだろう。 その時、小町にかけた布団がもぞもぞと動いた。じっと見ていると小町が身体を起こした。「ヨミ?」「小町」「もう起きてたの?」「目が覚めた」 ベッドからおりた小町はちゃぶ台の上に乗った。「鬼は?」「帰ったよ。怪人の親玉については共有したよ」「そう」「霊をどう倒すかってところで話が止まっちゃって」「俺に策がある」「策?」 俺は冷蔵庫から卵とベーコンを出しながら言った。「朝食後で良いか」「……お腹すいたよ」 俺は小さく笑ってベーコンエッグサンドを作った。小町の前に出すと彼は嬉しそうに笑って食べ始めた。「しょれえ?はくっふぇ?」「未練をなくす」「んぐっ。未練を?」 小町はごくんとベーコンエッグサンドを飲み込むと首を傾げた。俺は小町用のマグカップを近付ける。「アイツの未練は親友だ」「その親友を捜すの?」「それ、俺なんだ」「……え?」 アイツは二千年以上前に死んでいる。それは昨日話した。だから小町は驚いたのかもしれない。 たしかに俺は見た目は若いが二千年以上生きている。顔立ちについてもあまり良い印象はない。「ヨミ、いくつ?」「……二千年以上は生きてる」「二千年っ?」 小町の声が裏返った。そんなに見えないだろうか。見た目だけで言えば狐の方が詐欺に近い。あの少女のような見た目で俺とほぼ同い年である。まあ、狐は化けることが得意で、少女の姿も化けているものだから何とも言えないが。「というか、もしかして夢にいたのって」「そう。俺の悪夢にいたの、アイツ」 顔立ちとかはほとんど変わっていない。それは、俺も。「え?じゃあ、怪人の親玉の捜し人はヨミで、目の前にいたのに気付かなかったってこと?」「そう、なる」 小町が驚いていた。その顔には少しの悲しみがうつっていた。俺も言ってて悲しい。俺だって顔立ちは変わらないし成長も止まっている。日見にとって見覚えのあるもののはずなのに。「すっっごいマヌケだね」 小町の言葉が胸に突き刺さる。「じゃあ、あとは思い出してもらうだけなんだ」「そう」 綺麗に食べられたベーコンエッグサンドを見て少しだけ胸がスッキリした。「どうやって思い出してもらうの?」「それは」 ピロン、と音がした。俺はスマートフォンの画面を見る。そこには連絡をした妖怪から返信がきていた。霊の知り合いはいるが、記憶喪失になった者はいないと言う。だから残念ながら力になれないとのことだった。 俺はお礼だけ返してスマートフォンをベッドに投げた。ぽすっと音を立ててかけ布団の中に沈んだ。「どうだったの?」「駄目だった……」 小町はもぞもぞとベッドに戻るとスマートフォンを持って戻ってきた。画面を見ても傷はない。「霊の知り合いは?」「……いない」 ため息を吐き出す。俺だって今、自分の社交性のなさに落胆している。「竜神とかはどう?」「竜神……?」 小町を見ればにこっと笑った。「記憶喪失なら医者でしょ?」「あ……たしかに」 俺は身体を起こすとお皿を持ってキッチンに向かった。簡単に洗い流すとコートを羽織った。小町はいつものリュックから顔を出していた。「行くんでしょ?」 少しだけカーテンを開けて今日の天気を確認する。曇り。これならば大丈夫だろう。「さてどこにいるか」 いくつか病院はあるがそこに竜神はいないだろう。そもそも病院にいるなら苦労はしないのだ。「もう、連絡すれば良いじゃない」「それもそうか」 スマートフォンという便利な機械があった。俺はスマートフォンの中身を見て竜神に連絡を取ろうとしたが、残念なことに連絡先を知らなかった。「……捜す」「なかったんだ?」 小町は残念そうな顔をした。俺は小さく頷くと目を閉じて神経を集中させる。捜す範囲はとりあえず関東で良いだろう。 ぶわりと妖力が関東をおおったのを感じた。その中の妖怪や人間の居場所が分かる。天狗は高尾山の麓、狐は箱根の温泉地、精は華厳の滝の近く。情報量が多いけれどそれを処理していくと野猪の近くに竜神がいた。そして野猪は家にいるみたいだ。「いた」「やった!行こ行こ!」 俺はリュックのチャックをしめると鍵を持って家を出た。玄関の扉に鍵をかけて歩き出した、もちろん墓場を避けて。 野猪の家に到着すると竜神はまだいた。にこにこと楽しそうな顔で笑っていた。「やや、ヨミ様!ついさっきの、負担大きかったんじゃない?」「平気。それより聞きたいことがある」「良いよ!」「記憶喪失ってどうやりゃ治る?」 竜神の笑顔がぴしっと凍った。「それは、誰か記憶喪失ってこと?」「ん」「ヨミ様……、じゃないね!小町さんでもなさそう。護衛隊も元気だったから、そうなると——」「誰でも良いだろ、竜神」 野猪がビリビリと震える声を出した。どうやら深入りしすぎた竜神をたしなめているようだ。「あはは、そうだね!たしかに誰でもいいや!関係ないし?」 竜神はそう言うと着ている白衣の裾を翻した。「簡単に言うと治し方はまだ確立してないかな!様々な方法があるんだよ!」「じゃあ、無理ってこと?」「うーん、色んなきっかけで戻るからねぇ。人によりけりーって感じ!」 竜神はぐっと伸びをするとゆっくりと欠伸をした。どうやら昨夜からここにいたらしい。眠そうな顔をしていた。「まあ、何かあったら連絡してね!」「連絡先知らない」「あちゃー、そうだった!」 竜神は白衣のポケットからサッとメモを取り出した。それを開くと番号が書かれていた。「これでいつでも連絡できるね!」「ん」 スマートフォンに番号を登録するととりあえずかけてみた。すると竜神の白衣のポケットから音がした。竜神がそれを取り出すとポチッと押した。「はーい、竜神です!」「……繋がった」 俺は通話を終えるとその番号を竜神の名前で登録した。「これで大丈夫だね!それじゃ行くねー!また!」 竜神は楽しそうに跳ねながらそう言って去っていった。それを見送った俺は野猪に家に入って良いか聞いた。野猪はどうぞ、と中に入るよう促した。「何か見付かったか?」「……いや」 部屋の畳にぐでっと横になる。いつの間にかリュックから出てきた小町がその隣に寝転んだ。面白みもない天井だが俺にとっては見慣れたものだ。「きっかけかぁ……」「何か思い出の品とかないの?」 俺は小さくため息をついた。たしかにあるけどオリジナルではないし、それを見た日見の反応が変わらないから効果がないだろう。「……じゃあ打つ手なしかぁ」 小町の声が聞こえる。俺もそう思う。どうしたら良いのか分からない。「何も策なくても行くしかないんじゃないか?」 近くに野猪が座る。俺はゆっくりと息を吐いた。「たしかに」「それに言ってみれば良いだろ?」「え?」「ぐちゃぐちゃ考えずにやってみりゃ良いだろ。それでどうなろうと手伝うぜ!」 野猪はニッと笑った。その顔に悩んでいたことが馬鹿らしく感じられた。やってみて駄目だったらまた考える方が俺らしい。元々策を考えることはあまり向かないし。「ありがと、野猪」「おうよ」 野猪が俺の身体を起こす。隣で寝転んでいた小町を抱き上げ、俺は小さく笑った。「行ってくる」「じゃあ呼んで……」「ううん。これは僕たちの問題だから」「巻き込めない」 そっと野猪の頬を撫で、俺は目を合わせる。野猪は俺が何をするつもりか分かったらしい。ゆらりと白い髪が揺れた。野猪が目をそらそうとした時には既に遅く、妖術が発動した。野猪は泣きながらその場に倒れた。もう俺の声は聞こえていないだろう。「ヨミ」「……ああ」 スマートフォンを野猪の胸ポケットにしまい、俺はゆっくりとそこを立ち去った。目指すは墓地。どちらに転ぼうとハッピーエンドを目指すだけだ。 日暮里駅近くの墓地には歴史上の有名人が眠っている。広いこの場所は、他を巻き込まないという点でとても都合が良かった。「ヨミ」 隣には折れたステッキを持つ小町。その姿は人間のものだった。「大丈夫」 黒い狐面を右のこめかみあたりにつけ、後頭部で結んだ組紐が風に揺れる。冷たい風だ。既に夜の足音が近付いてきている。白い髪と血のような赤黒い目。どちらもこの夜という時間では目立つものだった。「やあ」 するりと一つの墓から日見が現れた。昔着ていた服を着ており、それはとても懐かしかった。「びっくりしたよ。まさか自分から来るなんて」「そうかな?準備万端って感じだけど」 小町の言葉を聞いても日見は表情を変えない。あちこちで息をひそめている怪人がいることに気付いていないとでも思っているのだろうか。「まあまあ。落ち着きなよ。僕だって闘いたくないからね」 話が決裂したら闘わざるをえない。そのための戦力か。「きみ」「あ?」「どうしてだろうね?とても懐かしいんだ」「そりゃそうだろ」「うん?」 日見が首を傾げた。「お前の探している親友は俺なんだから」 ——なぁ、日見。 その言葉を投げた瞬間、俺は地面に押し倒されて首を絞められていた。わずかな気道だけが確保されている現状では死なない。「ヨミッ!」「きみが親友?馬鹿なことを言わないで!親友は、人間だよ?」「そうだな。俺は人間だった」 日見が死んだ後はひどかった。村から逃げた俺は日見がいないことに絶望して死のうとした。けれどそれを引き止めたのが恩人の女性だった。 彼女は修復不可能なまでに壊した俺の肉体とそれを止めることができなかった仲の良かった妖怪たちを合体させて今の肉体を作った。鬼や狸、精など様々な妖怪たちが俺の肉体のもとになっている。だから俺の肉体は人間ではなく妖怪へと変化し、それに合わせて俺自身も妖怪になった。「日見。お前は本当に庇って良かった?」「当たり前だよ!だって僕が生きるよりも親友が生きた方が」「幸せになれる人が多いから?」 俺が絶望した理由はそこにあった。俺と日見の認識の齟齬。それは。「俺はあの一件で人間嫌いになった」 日見は息を飲んだ。それまでの俺は人間を守ろうと妖怪たちを説得したりしていた。おかげで村の人間は守れていた。けれどそんな俺の頑張りを知らないからか、彼らは俺を殺そうとした。その作戦は日見の機転で回避できたが。「親友を殺した人間を、守れるか?」 怖かった。俺の死を願う彼らを俺は守れない。俺が死ねば良かったと何度も思った。それが彼らの望みだったから。「でも、親友は人間が好きで」「好き?違う。親友が好きだったから」 好きになろうとした。好きであろうとした。けれど、元から俺を毛嫌いしている人間は俺に冷たかった。自分を冷遇する人間をどうやって好きになれば良いのだろう。「その親友はもういない!だったら守る意味なんてないだろう……?」 日見は泣きそうな顔をした。俺は日見の鳩尾に蹴りを入れると起き上がった。「本当に、親友なの?」「そう言ってるだろ」 日見はじっと俺を見ていた。あともう一押しだろう。「覚えてる?日見がくれただろ」 組紐をほどいて狐面を見せる。日見がくれたものとは少し違う。けれどできる限り再現して今日まで持っていた。何度も色を塗り直した、俺の宝物。「でもっ」 黒い狐面は今ではどこでも入手できるポピュラーなものだから信じてはくれない。仕方なく狐面を外して顔をさらす。日見が目を丸くした。「これで、どうだ?」 狐面で顔を隠さないで見せれば、日見はペタペタと近付いてきてじっと俺の顔を見た。「親友の色だ」 ほう、と溶けるように口にした。 この世界を探しても俺の白い髪と紅い目はなかなかない。どうやらこっちは信じてくれたようだ。「じゃあ、きみが僕の親友なの?」「そうだって言ってるだろ」 日見は一度視線を落とした後、再び俺を見て笑った。憑き物が取れたような顔をしていた。「うん、そうだね、夜見」 俺はゆっくりと息を吐き出す。ようやく、俺の名前を呼んでくれた。妖怪の『王』ではなく、ただ人間だった時のように。ようやく認識してくれたようだった。黒いその目には光が戻っていた。俺の好きな、明るくて優しい光だった。「ごめん……、ごめんねぇっ。僕は夜見に、生きていてほしかったの。僕の力では、人間を守れないから。夜見がみんなを守っているって知っていたから」 ポロポロと日見が泣きながら言う。あの頃、日見は昼間、俺は夜間、人間を守っていた。人間は昼間に活動して夜には寝てしまうため、夜の仕事を知る者はほとんどいなかった。けれど日見は知ろうとしてくれた。それだけで俺がどれ程嬉しかったか。「僕は妖怪たちを従えることはできない。夜見はそれができるのに、村の人はそんな夜見を気味が悪いと言って殺そうとした」 だから夜見を生かすために考えたの、と日見は続ける。当時お互いに十年ほどしか生きていなかった。大人の考えの裏をかくなんて難しかった。なのに考えて実行してくれた。 俺はそっと日見を抱きしめた。いや、彼を抱きしめるように腕を回した。そこにいるのは見えるのに、もう触れることすら叶わない。お互いに『人間』でなくなったのに。「ありがと、日見。俺もごめん、背負わせて」 ペロリと唇を舐めるとしょっぱかった。俺も泣いているんだ。そう認識すると呼吸が苦しくなった。「俺のせいだ。ぜんぶ俺が悪い」「違うよ」 ペシッと頭を叩かれる。日見は少し笑った。「夜見は悪くない。夜見に会えて僕は良かった。そう思ってるよ」 ——死んだとしても、ね。 ぽうっと日見が消えていく。日見の未練がなくなったから消えるのだろう。「夜見。最後に会えて良かった。……怪人のこと、任せるよ」 清々しい笑顔で日見は消えた。その場には何も残らなかった。俺はその場にしゃがみ込んだ。せめて何か、日見を思い出せるようなものがあれば。「ヨミ」 小町が俺の肩に手を置く。そろそろと顔を上げれば怪人たちが俺たちを囲んでいた。そこには上位怪人や中位怪人など様々な怪人がいた。怪人たちからすれば、自分たちの王が消えてしまったことになる。怒りもするか。「これをどうにかしないとね」 小町がステッキを構える。なんとも頼もしい顔だ。俺だけメソメソしているわけにはいかない。俺は涙を拭うと立ち上がった。「ああ」 狐面の組紐を後頭部で結んで唇だけをつり上げた。彼女たちを解放して、全てを終わらせよう。 数年後。僕は水色のラインの引かれた電車に乗ってとある駅まで向かっていた。電車の窓から見る景色はちょっとだけ懐かしい。 発車ベルに被さるように大きな音がしてビルが燃えた。けれど周囲の乗客は驚く様子を見せなかった。これが当たり前になったのだと思うと少し寂しくなった。 六年前の今日、怪人が姿を消した。日本という小さな島国に突如として出現し、人々を襲っていた恐怖の象徴が消えたことを、国中の人が喜んだ。けれど、僕は喜べなかった。僕は人々よりもそれに詳しかったから。 あの日、ステッキが力を失い、僕が魔法を使えなくなった時、怪人たちは確実に僕を殺そうとしていた。振り上げられた鋭い黒い爪が自身に刺さることを悟り、訪れるであろう死の恐怖にぎゅっと目をつぶった。『そのままつぶっていて』 優しい声がして頭をひと撫でされた。ヨミの手だった。次の瞬間、目を閉じていても分かるほどの強い光が放たれた。十分、いや、たった一分の出来事かもしれない。けれど僕には長い出来事のように感じられた。 目を開けた時、そこにたくさんの少女たちが倒れていた。魔法少女をしていた少女たちだった。僕はゆっくりと周囲を見た。どこかにヨミがいると思った。しかしヨミはいなかった。 探しに行こうとして立ち上がった瞬間、僕は違和感を覚えた。目線がさっきよりもちょっとだけ高かったのだ。手を見ればちゃんと人間の手になっており、服も魔法少女のものではなく、普段着に戻っていた。試しに声を出せば、聞き慣れた低い声だった。 戻れたんだ。その瞬間は嬉しかった。ずっと人間に戻ることが目的だったから。けれど、すぐに冷静さを取り戻した。 だってヨミがいないのだ。ずっと僕を支えてくれたヨミが。 慌てて周囲を探した。けれどヨミはどこにもいなかった。僕はすぐにヨミの家に向かった。しかし、家があったはずの場所は廃墟になっていた。周辺の人に聞けば、十年以上前から誰も住んでいない廃墟があったらしい。最近、誰かが入り浸っていることもなく、はやく取り壊しをしてほしいと市に嘆願書を出したようだった。 見覚えのある景色が次第にゆっくり流れていく。いよいよ降りる駅だ。 ヨミに抱えられて何度も降りた駅でおり、何度も通った道を通れば、ヨミの家があった廃墟に辿り着いた。黄色と黒の規制線の先、ただの瓦礫の山のようになったそこは紛れもなく、ヨミと僕が半年を共にした場所だった。「なくなっちゃった」 寂しい。この廃墟だけがヨミと僕を繋ぐもののようだったのに。ここがなくなったら、僕は何をよすがに生きていけば良いんだろう。 いつまでもそこに立っているわけにもいかず、強引に足を動かして駅へと向かう。その途中で下校中の中学生とすれ違った。彼らは二週間前に突然現れた家について話していた。あまり人通りのない道の奥まったところは二週間前までは廃墟だったらしい。けれど、急に家ができた。工事も何もなしで建ったので不思議だと。 僕は思わずその場所を彼らに聞いた。今いる場所から二つ先の曲がり角を右折、その三つ先の曲がり角を斜め左へ行ってその奥。大通りから離れたところだと言う。その家の右手側には梅の木があると教えてくれた。 教わった通りに進めば梅の木が見えてきた。その左手側を見るとたしかに家があった。普通の一軒家だった。表札はなく、呼び鈴もない。門に手をかけて中に入り、そっと玄関の扉を引いた。 小さな音がしてゆっくりと扉が開いた。中を覗くと普通の廊下が待っていた。「おじゃま、します」 そろそろと進むと奥に扉があった。そっと押して開くとそこは広い部屋だった。ちゃぶ台とベッドとベッドサイドに置かれた見覚えのある時計。「ヨミ?」 ベッドは少し膨らんでいて、かけ布団の間から黒い髪が見えた。顔は見えなくても分かる。静かな部屋にかすかに届く呼吸音。寝る時のヨミはいつも、死んでいるようだったことを思い出した。 おそるおそるベッドに近付くとそっとかけ布団に手をかけた。手が緊張で震える。そっとめくると柔らかな黒い髪が見えた。その下に病弱なように見える程白い肌と長いまつ毛。どのパーツも整っている。意外と大きな口も、わずかに色付いた頬も、記憶の中のヨミと同じだった。 僕はその頬へと手を伸ばす。少し、痩せただろうか。肉付きが少し悪い。僕の手が冷たかったのかまぶたが小さく震え、ゆっくりと開いた。その色は僕たちと同じ黒だった。けれどそこに紅い色が見えた。 何度か瞬きを繰り返し、その目に光が戻る。ゆっくりと彼はその目に僕をうつした。「こま、ち?」 掠れた小さな声だった。まるでずっと眠っていたかのようだ。彼はゆっくりとシーツの感触を確かめるように手を滑らせ、静かに身体を起こした。「ヨミ……」 その背に腕を入れて支えれば、その口から小さく感謝がもれた。あの頃は大きく強く見えたヨミは、今はひょろひょろで触れたら壊れてしまいそうなほど儚く見えた。「……あは」 ヨミは乾いた笑みを浮かべた。かけ布団に隠れていたヨミの服は、柔らかな水色の着物だった。その上に薄灰色の羽織りをかけており、見るからに病人だった。「びっくりした?」 小さく頷けばヨミはまた笑った。「どうして……。今までどこにいたの?」「二年、寝てた」 その言葉に思わず息を飲んだ。みたいじゃなくて病人じゃないか。「それで狐たちと賭けをした」「……え?なんで?」「娯楽」 ヨミたちは人間の僕では想像もできないほど長生きだ。長く生きていたら娯楽がなくなるのかもしれない。「ちなみに何で勝負しているの?」「小町が五年以内に俺を見付けるか」「……は?」 信じられないものを見るような目でヨミを見てしまった。ヨミは小さく何度も頷いた。言いたいことは分かるって言いたいのだろうか。「条件はいくつかあったけど小町はクリアだ」 大きなため息をついてヨミは一度目を閉じる。次に目を開けた時に僕があわあわとしていると小さく手を叩いた。すると天狗が現れた。「御用ですか」「説明」「はい。小町さん、お久しぶりです」「あっ、久しぶり!」 天狗に言われてヨミの背から腕をはなした。ヨミはゆっくりと布団に戻っていく。ふわりとかけ布団がかけられ、ヨミは目を閉じた。「お昼寝ですね」「ん」「一時間したら起こします」「ん」 天狗はかけ布団をぽふぽふと叩いた後、静かな呼吸音が聞こえてくると立ち上がった。「こちらへ」 天狗に案内された部屋に入ると丸い机と椅子が置かれていた。椅子に座ると天狗はにっこりと優しく笑った。「本当に、大きくなられましたね」「あ、はい。無事戻れたし」「ええ。知ってます。それで、ええと、どこから聞きたいですか?」「……ぜんぶ」 天狗は指先で机を小さく叩いた。あっという間にお茶とお菓子が現れた。丸いクッキーだった。「ぜんぶ。まあ、小町さんは知る権利がありますしね。えっと、六年前のあの日、ヨミ様は小町さんを守るために妖術を使いました。そのせいで妖力をほとんど使い果たしたんです。我ら護衛隊はすぐにその場に駆け付け、ぐったりしたヨミ様を保護しました」 天狗はお茶を飲んだ。カップがソーサーに戻るのを僕はじっと待っていた。「ヨミ様は野猪と竜神によって二年後の夏に目覚めました。それからはリハビリでした。なんとか歩ける程になった頃には半年が経っていました」 僕はお茶を飲んだ。少し苦いがクッキーに合わせたのだろう。「リハビリ後は?」「全国を回っていました。怪人を倒すのに様々な妖怪が力を貸してくれたのでお礼参りですね」 あちこちを動き回るヨミを想像して少し笑ってしまった。天狗もくすりと笑っていた。「一年前にヨミ様は関東に戻ってきました。けれどお疲れのようでしたので半年程ひきこもっておられました」「いつ賭けを始めたの?」「おや、賭けのことまで話されたのですね。ええ、賭けは半年前に始めました。ルールはいくつかありますが、その一つに最低一ヶ月は一ヶ所に留まるというのがあります」「じゃあ、ここで六ヶ所目ってこと?」「ええ」 天狗は楽しそうにクッキーを食べた。賭けに勝ったこともあるだろう。「勝ったら何かもらえるの?」「はい。ヨミ様がお願いを叶えてくれるのです」「なんでも?」「条件はいくつかありますが」「天狗は何をお願いするの?」 クッキーへと手を伸ばしてそれを口に入れる。サクッとした食感とバターの香りが口いっぱいに広がった。「小町さんをそばに置くこと」「え」 天狗はにっこりと笑ったままだった。どうやら本気のようだ。「ヨミ様はずっと寂しそうだったのです。けれど、小町さんと出会ってからは楽しそうでした。なのでそばにいてもらいたいのです」「でも、僕は人間で」「いいえ。貴方は人間ではないですよ」 はく、と息が止まった。天狗はお茶を優雅に飲んだ。「どういうこと?」「魔法少女について調べました。多くの魔法少女はサポート役の力で魔法を使っていました。しかし、小町さんは違います」 天狗は折れたステッキを出した。あの頃、僕が使っていたものだった。「小町さん自身に魔力があり魔法が使えます。貴方は正真正銘の魔法使いなのです」 僕は自分の両手を見た。いたって普通の手だ。天狗はそうっとその手を自身の手でおおった。「小町さん。脅すわけではないですが、この国にも人身売買はあります。もし小町さんがそういう奴らに目を付けられたら無事でいることは難しいでしょう」 僕の手が小さく震える。天狗はきゅっと優しく握ってくれた。「家族を巻き込みたくないですよね」「でも、そういう奴らに見付かるとは」「見付からない可能性は低いよ」 パッと振り返るとそこに鬼がいた。相変わらず綺麗な服を着ていた。「魔法少女については調べれば分かることだし、小町さんに辿り着くのも時間の問題でしょうね」「そんな」 スウッと血の気が引く。「ヨミ様のそばにいれば解決しますよ。ヨミ様は基本的に外出しないですし、一人で複数人を相手にすることもできますし」「あら天狗。天狗の願いは小町さんなのね」「ええ。鬼は?」「私?私はヨミ様の健康よ」 くすくすと鬼は笑う。いつの間にか彼女も椅子に座っていた。「ヨミ様ったら放っておいたら何もしないもの!だからそばで監視する人が必要でしょう?」「あぁ、小町さんか」「ええ」「精とかはどうなんでしょうね?」「小町さんをそばに置くようにって」「……なんですか、みんな考えることは一緒ですね」「ええ。だってあの日々は楽しかったもの」 鬼がクッキーに手を伸ばす。「ねぇ、小町さん。ヨミ様のためにそばにいてくれる?」「……ヨミが、望むなら」 しぼり出すようにそう言った。鬼はパアッと顔を輝かせ天狗も嬉しそうな顔をした。「ぜったいに大丈夫よ!」「ええ」 僕はお茶を飲んで曖昧に笑うしかできなかった。ちょうどその時、時計が鳴って一時間が経過した。天狗が立ち上がった。 部屋に戻るとヨミはもう起きていた。眠そうな目はしていたが、こちらをしっかりと見た。「おはようございます、ヨミ様」「うん」「幻術をといて行きましょう」「そ」 ベッドから立ち上がったヨミはすたすたと歩いて廊下をぬける。玄関の扉を開けると外に出た。天狗の後ろを歩いていた僕が外に出るとヨミが門に手をかけた。するとあっという間にそこがただの廃墟に戻った。夕陽を浴びてどこか淋しげだった。「小町」 ぼんやりとそれを見ていた僕をヨミが呼ぶ。ヨミを見れば、いつの間にか髪は白く、目は紅くなっていた。相変わらずヨミは綺麗だ。あの黒の狐面で顔を隠していたのも納得だ。ふわりと綺麗に、ヨミは笑った。「俺を救ってくれてありがとう」 それは僕の言葉だよ。 とっさにその言葉を飲み込んだ。どんな言葉を投げてもきっと僕の感謝を伝えるには足りない気がした。代わりにぎゅっとヨミの手を握った。 ヨミは少しだけ戸惑ったような顔をした。僕がどうしてヨミの手を握ったのか分からないようだ。けれどそれで良い。そういうちょっと鈍感なところがヨミらしいから。「ほら、行きますよ」 鬼がにっこりと笑う。その隣にいた天狗もにこやかな顔をしていた。「うん」

文字数おばけよりご挨拶

こんにちは、「文字数おばけ」こと月夜です。久しぶりにこうして筆をとりました。たぶん、私がこのブログを更新するのはこれで最後だと思います。たくさんの作品を載せたため、少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。今回は特にお知らせということもなく、ただただおしゃべりをしようと思って記事を書きました。とても長いのですがお時間と興味があれば、ぜひ最後までお付き合いください。さて、少し前に空色がブログを更新しているのを見て少し羨ましくなってしまいました。空色とは大学一年生の時に出会いまして、かれこれ四年ほどの付き合いになります。作品などでは名前をご存じの方もいらっしゃると思います。空色と私は友だちでありながら全てが正反対なのです。好みの作風や自分の作風、男女のどちらが書きやすいか、好みの人物……。ええ、作品を読んでもそれはあまり分からないところです。ですが男女どちらも書く私と男ばかり書く空色、恋愛色の強い空色と恋愛色をあまり打ち出さない私。主人公もあまり似ていません。でも、私と空色は友だちなのです。お互いにお互いの作風やクセを理解してはいますが、自分とは正反対と分かっています。けれど、お互いの作風が好きなのです。私は私に書けない作品を書き上げる空色が好きですし、空色はーー、私の作風が好きかは分かりませんが、男女の恋愛を書くと甘いと言われてしまいます。バレンタインやホワイトデーの時期は男女を書きたくなる私ですが、この時期に書く男女の話を読ませると砂糖を吐いていると言われてしまいます。褒められていると私は思っていますが、褒め言葉ですよね?ええ、そういうことにしましょう。ちなみにこのブログではあまり甘い話はあげていません。それは二次創作なので、あげられないんです。興味があればぜひ探してみてください。でも、見付けても何も言わないでくださいね。ここでブログを終わりにしてはせっかく読んでくれる方をがっかりさせちゃいますね。しかし、特に面白いことは書けないので、文化祭である方に話したことを少しここで詳しく書きましょう。皆さんは作品を書くのにどんなやり方があると思いますか?ここで言うやり方は作者の数ほどある細かなものではありません。そこまでいったら全てをあげる必要があるでしょう。登場人物から考える人、書きたい場面から考える人、風景から考える人、道筋から考える人、曲から考える人……。様々なやり方があります。けれど、私は大きく分ければ「全てを考えてから始める人」と「一部だけ考えてあとは全て登場人物に任せる人」の二種類だと考えています。前者と後者の違いは「プロットを考える」作業の有無が関わっています。プロットとは、物語の展開と大まかに捉えていただけると分かりやすいでしょう。プロットを考えることは、どんな物語にするかを考える作業であり、道筋を考える作業でもあります。また、プロットを考えるにあたって登場人物や舞台も考えます。なのでプロットを考えるということは物語の展開を考えるだけでなく、物語を設計する作業と似ています。さて、話を戻しましょう。前者はこのプロットがきちっとしています。登場人物、舞台、物語の展開など全てを考えて、はじめから終わりまで設計する人のことです。そしてその通りに進んでいきます。イレギュラーは一切おこりません。その道から外れることはないと言っても過言ではないでしょう。逆に後者はプロットがしっかりしていません。もちろん、登場人物や大まかな舞台の設定はありますし、展開も考えています。しかし、後者は前者と比べて最後まで展開を決めないことがあります。いえ、決めていてもその通りにいかないのです。では私はどちらに該当するか、ですね。私は後者に該当します。私が物語を書くときに考えるのは登場人物と舞台(どこなのか)、そして登場人物がどういう場面に出くわすかです。場面は一つの時もあれば複数の時もあります。たとえば、今書いている話は一番はじめの場面だけ決まっていました。青年が意思疎通可能なぬいぐるみを拾います。その後どうなるかは話せませんが、この出会いがキーになっています。しかし、拾った後の大まかな流れは決まっていますが、そこで登場人物たちが何を思い、どう動くのかは分かりません。現に二話目で刀を武器に闘うのですが刀に身体を操作させるなんて書き始めた時には想像すらしていませんでした。この書き方を、私は劇場型と呼んでいます。私自身の書き方を簡単に説明するには、これが一番です。皆さんは観劇をしたことはありますか?どんな劇でも劇にはシナリオがあり、多くの役者がいて、演出家やスタッフがいます。彼らはエンドロールがあれば名前が載るでしょう。ですが、名前が載ることはない人に、劇場の支配人がいます。私の書き方はその支配人と似ているのです。どういうことかサッパリそうですね。では、こう考えてはどうでしょうか。私は上映する劇(どんな物語を紡ぐか)を決めます、演じる役者(登場人物)たちを決めます。そして台本(通る場面)を渡します。役者たちは戸惑います。当たり前です、自分たちに与えられたものは演じる役の設定と衣装、舞台、そして入れてほしい場面だけなのだから。しかし、私は戸惑う役者たちを前にこう言うのです。さあ、幕を上げよう!と。いつの間にかお客さんは席に座り、幕が上がるのを待っています。私はスタッフ席にいて役者に最初の場面だけを指示します。開演のブザーが鳴って幕が上がり、役者はその通りに演じながら自分の役を掴んでいきます。そして、物語は滞りなく進んでいくのです。私はスタッフ席にいながら(ライトや音楽を調整するため)、彼らの紡ぐ物語をシナリオに書き写していくのです。彼らは時に私の想像していなかった設定を考え出し、選ぶと思っていた選択肢を選ばずに進んでいくことがあります。私はそれが面白いのです。そうなると当初通ってほしいといった場面を変更することになることもあります。けれど、それさえ面白いのです。どんな場面ならば無理なく通れるか、どうしたら面白くなるか。考えて、妄想して、それを伝えても通ってくれない時だってあります。私の思うベストは彼らにとってのベターなことが多くあります。彼らのベストは、私の目の前で紡がれる物語なのです。私は私の思う通りに行かなかった役者を責めることはしません。私はしょせん、劇場の支配人であり、シナリオライターであり、彼らを輝かせるスタッフなのです。私は物語の生みの親でありながら、成長過程を見ることはできません。いえ、見てはいても関わることはないのです。そして終わりが近付くと、彼らはこれで良かったのかと不安そうな顔をします。ここからが私の最後の出番です。ナレーションで、音楽で、スポットライトで彼らの最後を飾ってあげるのです。そうして終幕します。物語の終わった役者たちは舞台を降りて私のところに来ます。どうだったかと聞くのです。私はそこでようやく意見を言います。これが校閲作業にあたります。けれど、基本的に手を加えることはありません。あの場面が好き、この場面での感情を教えて、そこの描写を細かくしても良いか、いい表情するようになったねーー。感想戦のようなものです。いいえ、打ち上げのような場です。彼らはだいたい、私の意見を聞いて、それでもここはこうなんだ、それもあったけどこうしたかったんだ、その言葉を消さないで、と言います。結局、私は誤字脱字のチェックと描写の見直しをして終わります。ね?私は劇場型だと思いませんか。舞台を用意して踊らせる。どんな舞台でも、基本的に全て観てから手を加えます。さらに、私はハッピーエンドが好きですが、その道中で登場人物を一度、奈落の底に突き落とします。いいえ、あの表現に合わせて言うならば役者たちが進んで奈落の底に落ちていくのです。そこまでしなくても、と思う間に彼らは落ちていき、そして這い上がってくるのです。幸せになった顔をこちらに向けて、どう?と得意げに笑うのです。心を病みそうな奈落の底に進んで落ちるなんて!と言うとあの時は夢中だったと言うのです。這い上がれるかどうかも分からないで落ちていくのでこちらはハラハラしています。だから私は、きっと彼らの舞台を観に来た観客でもあるのでしょう。劇場の支配人で、シナリオライターで、彼らを輝かせるスタッフで、舞台を観に来た観客。一人で多くの役割を担いながら彼らと世界を紡ぐーー。なんて綺麗に書きましたが、実際はひとりで紡いでいるだけです。そばには誰もいません。私が書いているところを見たことがある人は、それをよく知っているでしょう。けれど、実際は私の目の前で舞台が動いているのです。彼らが泣けば私も泣き、彼らが笑えば私も笑う。なので声をかけられると舞台が消えてしまうのです。素晴らしい舞台が途切れてしまうのです。それが、とても残念でならないのです。だからこそ、私もひとりの時に書くようにしています。せっかくの舞台が消えては、彼らに申し訳ないですしね。……実は、昨年の文化祭で私はこれと似たような話を来場者の方にしました。どう書くのか聞かれたのです。私は登場人物に任せていると話し、隣にいたサークルメンバーはプロットを作ると言っていました。私の認識で言うならばサークルメンバーは前者の書き方です。お互いにお互いの書き方に口を出したことはありません。きっと、彼女は私と同じように書くことはできないですし、私も彼女と同じ書き方はできません。プロットを作る方が優れているとは言いませんし、プロットを作らない方が優れているとも言いません。人それぞれに書き方があり、優劣はありません。もし、それでどちらが優れていると言う人がいれば、それはその人の意見です。その人がどちらかを下に見ていても、読者も同じように考えないといけないことはありません。さらに言えば、私の書いた文を読んでも賛同しろとは言いません。否定をしたって良いのです。お前の考えは間違っている!なんて言ったって良いのです。さて、あえてこの話を出したのは、ブログにコメントをいただいたのに返信をできずにいたためです。機会をうかがっていたものの、ここまで遅くなってしまいました。昨年の文化祭で文芸研究同好会の部屋に訪れ、小説の書き方の話を聞き、このブログにコメントを残してくださったご来場の方へ。私の書き方という、ただの一個人の小説の書き方に興味を持ち、丁寧にお話を聞いていただき、ありがとうございます。私の話がご来場者の心を軽くできたなら嬉しいことこの上ありません。私の方こそ、もっとうまく対応できたんじゃないかと心配していました。もっと上手に説明できたんじゃないか、そう、考えていました。なので、このブログの更新で詳細を書いてみました。ぜひ、今後ともこのブログに載せられる作品たちを楽しみにしていただけると嬉しいです。こうしてまとめてみると、やはり私は書くことが好きだとしか言えません。十年以上の付き合いですからね。書くことは私のルーティンのようなものなのでしょう。私は卒業という形で、このブログに登場することは、きっともう、ないでしょう。けれど作品たちはサークルに、このブログに、残していきます。こうして記事を書くことも数回あったので、そこでもお会いできます。このブログが閉ざされることなく、長く続くことを、私も願っております。では、そろそろこの記事も終わりにしましょう。思いのほか長く語りました。とても楽しかったです。こんな長い記事に付き合っていただき、ありがとうございました。またどこかで、お会いしましょう。以上、本記事の担当は「文字数おばけ」こと月夜でした。

前年度部長から

2024年度、文芸研究同好会の部長を務めました、空色です。  今期はとにかく部誌を作成することに命をかけていたので、あまりブログやTwitterを動かせませんでしたが、最後にブログの整理をしてみました。  カテゴリー検索や、フリーチャットを使えるようにしてみたので是非活用してくださいませ!  さて、現在は部長最後の仕事として後輩たちに引き継ぐマニュアルを作成しているのですが、これはこれで何を書いたらいいのか。小説とは違った難しさがありますね。  特に、私たちの代では予算の関係で印刷会社が変わったり、企画の毛色を大きく変えたりしたので、マニュアル通りというわけにはいきませんでした。  これから当サークルに入部してくれる皆さんにも、マニュアル通りではなく、色々な企画をしてみて、色々な印刷会社を探して、好きに楽しく活動していってほしいです。あくまでその指針というか、地盤として活用してくれるようなマニュアルになればいいなと思い、作成しております。  沢山入部してほしいなぁ〜!このブログが皆さんの作品で溢れ返るのが、今から楽しみです。  ブログを書くのも恐らく最後になると思うので、活動記録を兼ねて振り返ろうと思います。  皆さんは文芸研究同好会と聞くと、どういうサークルをイメージしますか? 私は、どこか堅苦しく、真面目にガリガリ小説を書かなきゃいけないという印象がありました。  特に一、二年生の頃は誤字脱字や言葉の間違った使い方をよく指摘されていました。特に、ら抜き言葉は一生言われていましたね。大学のチャイムより聞いたかもしれません。  確かに、中には正しいご指摘もあり、勉強になった部分も大いにあるのですが、当時私が書いていたのはスラム街出身の男の子です。満足に義務教育を受けていません。なので、あえて間違った言葉遣いをさせていたのですが、製本するにあたって、そういった細やかなこだわりもいくつか諦めた部分がありました。  しかし、三年生の時に部長が変わると共に、活動のスタイルも大きく変わりました。とにかく自由になったのです。製本するための最低限のルール(書式設定や三点リーダーの数など)はもちろんありましたが、文字数制限や活動場所、キャラクターとしての間違えた言葉遣い。あらゆる壁が取り払われ、文字数制限に囚われていた文字数おばけは伸び伸びと五万字の小説を書き、スラム街出身メンズ好きの私は大いにスラムスラムした男の子を書きました。  その時気づいたのです。あぁ、文芸研究同好会ってこんなものでいいのだな、と。だってあくまで私たちは、同好会なのであって。出版社でも、小説家でもないのです。好きなものを好きなだけ好きになり、好きなだけ書けばいい。活動の内容なんて、たったそれだけでした。  私の恩師とも呼べる、教授のある言葉が今でも耳に残っています。 「創作する人がいる、読む人がいる。それでいいのよ。文学なんていつの時代も、大体そんなもんだから。」  私はこの言葉がすごく好きです。本当は創作にルールなんていらなくて、小説の正しい書き方なんていうものもなくて。私たちが書きたいものを、書けたものを共有して、私たちが読む。私たちが楽しかったなら、それで良かった。  そう気づけたのは、前部長のおかげでした。  今期は私情によりバタバタしていて、思った通りの活動をさせてあげられなかったかもしれません。ですが、部員のみんなが少しでも自由で楽しく文芸研究に励めていたのなら嬉しいです。  これから文芸研究同好会の入部、見学を希望してくださる方へ。 どうか、何にも囚われず、「文芸研究」という大層な名前に飲み込まれることなく、好きなものを好きなように創作していってくださいね。誰かに強制されて、矯正される創作ほどつまらなく、価値のないものはありませんから。  それでは、皆さんのこれからの活動を楽しみにしております。 2024年度、文芸研究同好会部長 空色さくらもち。

2024年聖徳祭についてのお知らせ

みなさん、こんにちは!文芸研究同好会、文字数お化けこと月夜です。久しぶりのブログの更新ということでどこかテンションがおかしいですがご容赦ください。さて、今回更新した理由は、明日の聖徳祭に関する重要なお知らせをするためです。お知らせがギリギリになってしまったことを先にお詫びします。どうか最後までお付き合いいただけると幸いです。まずは今年の聖徳祭は11月9、10日と平年よりも早い開催となっています。例年であれば11月の中旬から下旬に開催していますが、今年は少し早いようです。おかげさまで準備に忙しく、文化部の集大成を〜、と言われています。まあ、あまりそのような意識はサークル内にはありませんが。まあ、それはさておき、今年のサークルの出し物ですが、去年と変更点があるのでお知らせします。いくつかあるため、しっかりと覚えてほしいです。まず、今年は昨年の部誌は配布しません。いえ、正確に言うならば、冊子にしてお配りすることはしません。理由は色々とあるんですけれど、学友会や学生支援課の方々、また、部長と相談した上で決定しました。もちろん、サークル内では紙の冊子にしたいという思いはありました。けれど、多くの人に届けたいという思いの前に、紙媒体という条件は無力でした。紙よりもデータの方が多くの人に見ていただけるのでは、という結論に達しまして、冊子状での配布はしません。では、どうするか、ですよね。もちろん、それはちゃんと考えてあります。そこに今回の更新が関係しています。では、発表させていただきます。今年の文芸研究同好会は、本ブログにて過去の部誌に載っている作品を公開します!いや、何を言っているんだって話ですよね。はい、そう思います。なのでまずはしっかりと説明させてください。本ブログは昨年、多くの作品を載せてきました。その一部を部誌にまとめるという形で昨年は部誌を作りました。そのため、ほとんど全ての作品が全文このブログに公開されているんです。しかし、どの作品がそうか分からないと思います。そこで今回の更新です。今回の目的は、部誌に載った作品についてご紹介するために更新しています。もちろん、当日、サークルの部屋に足を運んでいただいた方には今年の部誌を希望者にはお渡しします。そこに折り込みを入れます。その折り込みは昨年配布した部誌を読めるようにQRコードを添付しているため、そちらで読むことも可能です。しかし、当日足を運べない人や部誌を入手できなかった人のために、以下にどのお題で書かれたかをまとめておきます。気になった方はぜひご参照くださいね。また、どこにもない場合は部誌用書き下ろし、部内リレー小説としてあります。この記事の前の4つの投稿でそれはまとめてあります。刻第15号今夜、それを捨てる  7月「身分に差のある二人」バレンタイントラブル事例集―ケース97  2月のお題「バレンタイン」虹のない日を君と  4月「好きな歌から」その花の名に代わる呪い  8月のお題「呪い」後部座席  部誌用書き下ろし刻第16号リンクの先に  3月のお題「書き下ろし」タイタニックパロ  5月のお題「鉄道旅行」最強について  5月のお題「鉄道旅行」夜の箱の中で  8月のお題「呪い」誓いのキスなんて  部誌用書き下ろしFINE  部内リレー小説どれも去年の部員の力作揃いです。特にリレー小説に関しましては、設定から大まかな内容、執筆にいたるまで参加者全員で協力しながら書きました。互いに苦手なところ補い合う形で繋いできた小説です。また、表紙に関しましても、素敵な表紙を描いていただいたため、紙媒体でお渡しすることができずに残念でなりません。もしよろしければ、ぜひとも足を運んでいただいて、部誌を受け取っていただき、折り込みを入手していただけると幸いです。個人的な話をすると私は文字数が多く、どこかズシリとした重い話が多いですね。本人はハッピーエンドだと言い張るんですけど、バッドエンドじゃないかと言われることも多々あります。「虹のない日を君と」なんて幼馴染みの2人は結婚して子どももいるんですけど、青年(夫)が死ぬんですよね。それでも妻側は周囲に助けられて幸せに暮らしているので、ハッピーエンドだと思うんですけどね。バッドエンドだって言われちゃいました。「リンクの先に」も大学生の日常なんですけど、ちょっと病弱な子とその周囲を描いたもので、別にそこまで重くないんですけどね。まあ、重い重くないより先に長いって言われちゃいますね。筆が乗るのが遅いことが問題です。さて、去年のものばかり宣伝していてはあまり意味がないので、ここからは今年の部誌について話しましょう。今年の部誌は第17号と第18号の2種類です。第17号は春に、第18号は秋にそれぞれ部員が書き下ろした作品です。去年の部誌に比べて多くの人が作品を載せています。部員が増えたことが何より喜ばしいことです。また、今年から文字数の制限を昨年度よりも少なくしたため、長い話はそれほどありません。人によっては2作品載せるといったことも可能になりました。作品につきましても、書き手の数だけ個性があると言われる通り、同じ作品は1つとしてありません。女性の描写1つとっても、どこから描写するか、どのように描くかで変わってきます。もちろん、受ける印象も。個人的に女性を描くときに意識していることとしては、頭の先から描くようにしています。髪、目、頬、唇、それから上半身、下半身と。足元の描写はあまりしないため、第18号では意識しました。おっと、私の描写論だなんて面白くもないですよね。失礼しました。ですが、そのような個性を楽しんでいただければ嬉しいです。ぜひ11月9日、10日は聖徳祭に来て、その中でも気が向いたときで良いので、文芸研究同好会の部屋にも様子を覗きに来ていただきたいものです。以上、2024年の文芸研究同好会の聖徳祭のお知らせを担当したのは、文字数お化けこと、月夜でした。当日、会場でお待ちしております。

【リレー小説】FINE お化け屋敷

こんにちは。文芸研究同好会です。部員が決まった文字数で回して書くリレー小説です。以下に第3話を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。「頼むっ、衣装を取り戻してくれっ!」 恐ろしい勢いですべてを語った平井にオレはため息をこぼした。チラリと椿を見れば眠そうにあくびをこぼしていた。おい、なんでもいいから下絵を描け、暇だろう。 今は夏休み。あちこちのクラスで文化祭の準備が進められていた。オレたちのクラスはスタンプラリーをする。台の設置とか紙の調達とか景品の用意ぐらいでオレたちは部活を理由に免除されていた。 というかさっさとポスターを描けと生徒会にせっつかれている。締め切りは八月に入るまで。つまり七月三十一日だ。そして今日は七月二十五日。 はっきり言おう。案がない。正直、今年の文化祭のテーマを聞いたがいまいちピンとこない。というかオレ的にはどうでも良い。繋ぐとか想いとかずいぶん勝手だと思う。想いの継承がいつだって良いとは限らないし、繋ぐなんて下にとっては荷が重すぎる。まあ、生徒会はそこまで考えていないだろうし、考えていてもオレには理解できない高尚な精神なんだろう。 おっと、話がそれすぎた。戻そう。 「えーっと、つまりこういうことで良いか?」遡ること数日前。 平井のクラスの五組は文化祭の準備に勤しんでいた。その日、お昼休憩を終えて準備作業に戻ると、お化け屋敷で使うお化けの衣装二着が消えていた。そのときは修復でもしているのだろうと気にも止めていなかった。 しかし数日後、事態は変わった。 そのお化けの衣装を着た何者かが学内を歩き回っているらしい。歩き回っているだけでなく、見かけた生徒を追いかけ回すというオプション付き。それはなかなかの恐怖だ。おまけに足も速い。追いつかれておどかされる生徒数が片手でおさまらなくなってきた頃、平井は三谷に聞いたらしい、オレたち美術部の裏の顔を。 「衣装を取り戻すって言ってもなぁ……」あまり乗り気じゃないのか、椿は珍しく渋っている。かくいうオレもちょっと渋っている。だってこれは明らかに人為的なものだし、オレたちを巻き込もうって魂胆が見え見えだったから。 それでも、今まで何でもござれでやって来たオレたち『相談屋』はこれを引き受けることにした。何でも引き受ける。それが前部長から教わった美術部の『相談屋』の極意だ。それは前部長から繋いでほしいと言われた想いだった。 それを伝えれば平井は嬉しそうな顔をした。 「それじゃあ、行くぞ!」 すっかり元気になった平井はそう言ってオレたちの手を引く。ズルズルと引っ張られ、美術室を出る。なんでオレは腕を掴まれているのに椿は掴まれてねーの?え、なんで? オレが椿を見れば彼はため息をついていた。その顔はさっさと暴こうって顔だな。おいおい、手加減もなしかよ。 「当たり前だろ」 だから怖いって。エスパーかよ。 ざわめきが広がる。そりゃそうだ。あんな和風のお化けを見れば怖くもなるだろう。けれど、ところどころにサクラがいるのが確認できた。 え?どうやって見分けているか?簡単だ、そんなこと。サクラはわざとらしいんだ。セリフが被らないようにするとか、ちょっと小賢しいけどそれが逆に証拠になっている。 「あれだ!捕まえてくれ!」 「んじゃあ、さくっと捕まえますか」 綾が、と椿は言う。オレはそうだろうなあ、と笑った。こういう荒事は完全にオレ向き。椿はいつも高みの見物だ。知ってるし分かっていた。でもさあ。 「たまには協力プレイでもいーじゃんかよ」 「ほらほら早く。さっさとやっちゃって」 椿に背中を蹴飛ばされる。おかげで集まっていた生徒の垣根から追い出された。くっそ、地味にいてえ。加減のかの字もないのかよ。 オレは顔を上げる。和風のお化けはお面だけが怖いけれど、他は動きにくそうという感想しか抱けなかった。うん、真っ昼間に見るせいか効果は激減している。 「そういうわけで大人しくお縄につけ」 するとそのお化けは身軽にベンチを使って逃げ出した。生徒の垣根を飛び越えたのだ。うわ、身軽すぎ。スタントマンみたい。 だけど。 「よっと……」 オレは同じようにベンチを使って生徒の垣根を飛び越えた。周囲から歓声が聞こえる。まあ、そうだよな。普通は驚くさ。でも驚いてない人もいるな。知ってたのかよ、オレが運動神経良いって。 「カツサンドで!」 お化けが駆けていった方へ走りながらオレは声を張り上げる。これだけで椿には分かるだろう。あとはオレがそこに行くだけだ。 目標物、和風お化け。対象との距離、五メートル程度。体力ゲージ満タン。目的地カツサンド。追跡を開始する。 なんてどこぞのゲームみたいに考える。オレ自身はただただ足を動かして追いつめているだけだが、こういう風に考えればこれもゲームみたいで面白いだろ。 そうじゃなきゃ椿のムチャぶりになんて耐えられなかったからな。 階段をかけ上がり、廊下を駆け抜け、手すりを滑っておりる。その背中がだんだん近づいてきてしまう。 意外と体力ないんだな。足は速いから瞬発力のあるタイプか。 「――っていうか、案外遅いじゃねーか」 目的地のカツサンドに着く前に追いついてしまった。首根っこを引っ掴んでズルズルと引きずる。まだ逃げようとするからだ。 「ぜんぶ分かってっから。なぁ、河内?」 ぴたりと動きが止まった。オレは笑う。分からないとでも思っていたのだろうか。だとしたらずいぶん舐められたものだ。 「走り方がさ、特徴的なんだよ、お前。クセになってっから誤魔化したいなら改善すれば?」 「……なんだよ、バレていたのか」 河内がお化けの面を外す。見ればさすがバドミントン部、色白な顔がのぞいた。サッカー部とかは日焼けしているけどバドミントンとかバスケとかは焼けないよな。 「どこで分かったんだよ」 「最初から」 「まじかよ」 「あぁ、言っとくが最初からというのは平井が来てからだぞ」 「はあっ⁉」 河内が驚いていた。それを見てオレは逆に不思議に思う。 「だっておかしいだろ。五組はお化け屋敷をやるのに、肝心のお化けの衣装がなくなって、修復でもしているんだろう、は」 そう。お化け屋敷をするならば、衣装はなによりも大事なはずだ。なのにそれを修復中かな、で済ませられるものか。オレだったら無理だな。 「次に数日前になくなったってことだな」 その数日で何をしていたのか。そんなことは簡単だ。目撃情報を作り、困っているという状況を作り出した。 「目的は客を呼ぶためだろ」 「……ぜんぶ分かってら」 河内は苦笑いを浮かべた。 「オレたちがお化けにビビってくれれば御の字。もしビビらなくてもある程度の噂が広まればお化け屋敷にリアリティが生まれる」 「そう」 オレは足を止める。中庭には椿と平井がいた。どうやらちゃんと言葉の意味が通じたらしい。 カツサンド、というのは数日前の購買で買ったお昼で、それを食べた場所――、つまり中庭に来い、ということになる。 「捕まえたんだな」 「まあな」 「ごめんね、平井。ぜんぶバレてら」 「わかってる。まあ、騙せるとは思っていなかったしなあ」 「騙そうって気概は感じなかったけれど?」 ずいぶんお粗末だったし、と椿は言う。それに平井がショックを受けた顔をしていた。 どうやら平井が考えたようだ。まあ、素人にしては考えられていた方じゃないか? 「それで?どう落とし前つける気だ?」 平井と河内が顔を見合わせた。それから小さくうなずきあった。 「もうしない。元々、そろそろやめるつもりだったんだ」 「自作自演だとバレてるしな」 「ちゃんと迷惑かけたところには謝る」 椿は小さく笑った。これならオレたちが介入しなくたって平気だ。『男子トイレの花子さん』も『ボール消失事件』も、介入しないといけないレベルのものだった。まあ、さすがにこの時期にそんな物騒なものを持ち出されたくなかった。 「オレたちへの報酬はなくていーよ」 「へっ?」 だから椿の言葉にオレは驚いた。椿を見れば任せてよ、と言うように笑っていた。 「そのかわり、絶対に人に迷惑をかけないと誓ってくれ」――そうだな、この学校の銅像にでも。 ニッといたずらっ子みたいに椿が笑う。オレは吹き出した。 椿の言う銅像は頭がツルピカの何年も前の学校長のそれだ。太陽の光を受けていつでもキラピカなので『ツルピカ長』と呼ばれている。顔も豚のように主張する大きな鼻と細い糸目、でっぷりとした肉厚の唇と少しは美化してやれよ、と思うレベルだ。 「ふはっ、まあいいよ」 「あれに誓うのか⁉」 「河内⁉あんなツルピカ長になんて」 「なんだっていーだろ。あれ見るたんびに思い出しそうでいーじゃん」 河内はしばらく笑った後、銅像のある方に向かって胸をトンッと叩いた。 「迷惑はかけない。あのツルピカ長に誓おう」 うーん、言っていることは格好いいんだけどな。ツルピカ長ってところで全て台無しになっている気がする。 「ん。じゃあいってよし」 「おう!それじゃあ」 「頑張れよ。お化け屋敷、暇だったら行くし」 「ふふっ!とびっきり怖くしてやるよ!」 パタパタと二人は駆けていく。その姿が見えなくなるまで見送って椿はオレを見た。 「さ、戻ろうか」 椿はオレの返事も聞かずに歩き出す。追いかけて隣に並ぶ。 「なんで報酬を貰わなかったんだ?」 「だって言っていなかっただろ?それに、こういう小さいことに関わったなんて思われたくない」 「まあ、そうだな」 校舎に入れば外よりかは涼しくなった。あちこちの教室の扉は冷気を逃さないためにピッチリと閉められている。それでも涼しく感じるのは日陰だからか、それとも――。 「さっさとやろうか。下描きは済ませておいたよ」 「へ?」 いつの間に。 「そりゃ、昨日、家で」 だからエスパーかって。っていうか! 「家でやったのかよ⁉」 「ああ。案はいくつか提示する。でも、描くのは綾だからな」ガラッと美術室の扉を開ける。中は涼しいままだった。 「さ、あと少し頑張るか」 「ああ。僕はちょっと野暮用があってね。案は出しておくから好きに見て」 「おー。お疲れ」 「また明日」 椿はカバンから数枚の紙を出すと美術室を出ていった。オレは扉が閉まるのを確認してから絵を見た。どれも綺麗な絵だった。けれど、どことなくドロドロしているようにも見えた。 絵は描き手の感情を覗かせる。音楽とかもそう。だからたぶん、このドロドロしたものも、椿の感情なのだ。 「……もっとよくできるんじゃねーの」 オレは紙を取り出した。そしてそこに鉛筆を走らせる。椿の絵をもとに楽しさを足していく。 文化祭って楽しいもんだろ。笑顔で始まって笑顔で終われば良い。過程が苦しかろうが終わり良ければ全て良し、だ。 「よぉーし」 これを完成させて椿を驚かせよう。てことは明日までに下描きの完成か……。 チラリと時計を見る。外は太陽がジリジリ照らしているから忘れてしまいそうだが、もう三時だ。帰って諸々のことをやったらあっという間に七時になりそうだ。そこからやって下描きが終わるか。 「……無理かなあ」 クーラーの効いた部屋にオレの声がポツリと消えた。 オレは知らなかった。この日の夜、河内が襲われることを。そして忘れていたんだ。なくなった衣装は一着ではなく、二着だったことを。 下描きが中途半端なまま、オレは机で寝ていた。外はまだ真っ暗だ。机上のデジタル時計を確認すると、液晶パネルには一が三個並んでいた。画用紙を鞄にしまって、オレは洗面所に赴いた。小指の側面は黒鉛が付着して黒ずんでいる。固形石鹸を泡立て手を洗った。 「おねがい、おねがい、……カメさん、カメさん」 夜中に一人でなにを唱えているのだろう。オレは鏡を見て、自分の姿を確認した。お前もおかしいと思ったよな、と、もう一人の自分に語りかける。おかしいというのはアレですか。今日の、椿さんの態度ですか。 「やっぱりおかしかったよな」 平井の依頼に関して乗り気じゃなかったことは、まあわかる。早々に自作自演を見抜き、追尾をオレ任せにしたことも、わかるといえばわかる。が。 「絵がおかしかったんだ」 芸術には、作り手の感情が出たり入ったりする。それは特におかしなことだともいえない。しかし椿は、どちらかといえば対象の本質に忠実な絵を描くタイプだろう。基本的に絵と椿は切り離されていて、筆の先から向こうは別の世界だ。椿は制御に長けている。そんな椿が、案とはいえ、あんなドロドロ丸出しの絵を描くものか。 「オレの思い違いかなあ」 流水に手をかざすと泡が零れ落ちていく。それが排水口に吸い込まれていくさまをじっと見つめながら、オレはフェイスタオルを掴んだ。 翌朝、オレはやや寝不足のまま登校した。なんの気なしに自分の教室に向かおうとする。一方で、廊下は騒がしさに満たされていた。歩いてさえいれば誰でも気がつけるほどの騒がしさだ。 騒音の発生源は五組。普段ならスルーしてしまうところだが、昨日のことがあったからか、オレの足は自然と五組の方に向いた。五組のドアの前に村瀬を見つけたので、呼び止める。 「村瀬、おはよ。なにこれ?」 「あ、綾くん。おはよう。わたしもよくわかってないんだけど、今日、河内くんはお休みなんだって」 「へえ。もう花子さんは勘弁なんだけど」 「なんか怪我で入院してるらしいよ」 「入院って。……昨日の今日で? いや、それにしてもこんな騒ぎになるようなことか?」 今は準備のために登校してきてるだけなんだから、怪我で入院しているとしても授業が受けられなくなるわけではない。というか河内は皆勤賞を狙えるくらいの健康優良児なのだから、怪我で入院したという話そのものが怪しさにまみれている。事故だろうか。 「それがね、綾くん。……河内くんに怪我させたのが平井くんなんじゃないか、って話になってて」 「え、平井なわけないって。二人とも仲良いし」 「わたしもそう思うんだけど、……」 村瀬と話していると、後方から肩を叩かれる。振り向けば見知った顔があった。椿だ。椿は声を張り上げたりしないから(省エネルギーのため)、この騒がしさの中ではスキンシップが必要不可欠だったらしい。 「なにしてるの、綾」 「おはよ、椿。見ての通り、野次馬」 「そう。ただの野次馬ならいいけど。……頼まれてもいないのに首を突っ込むのは、控えてほしいかな」 「え、……」 「──だから違えって言ってんだろ!」 オレが椿と話していると、教室の中心から声が上がった。声の主は激昂し、正気を保っていないようだ。品の良くない音を立てて椅子から立ち上がり、机に掛けられた鞄を引っ手繰って怒りを露わにしている。 「おい待て!」 「お前らと話したって埒明かねえよ。……帰るわ」 「平井!」 平井は廊下の人混みを掻き分け、早歩きで去っていこうとする。オレは椿の顔色を窺った。明らかに行くなという表情だ。それなら相談屋の看板は椿の隣に置いていく。ただの綾は、急いで平井を追いかけた。 「平井、……ちょっと待って」違反にならない程度に廊下を走り、オレは平井の左腕を掴んだ。平井はそれを振り解こうと試みたが、相手がオレであることに気がつくと抵抗をやめた。 「なんだ綾か。恥ずかしいとこ見せちゃったな」 「大丈夫。それより、少し話を聞かせてくれ」 「まあ、綾ならいいけど、……疑いは晴れないんだろうな」 平井は半ば諦めた様子で速度を落として歩いた。人通りの少ない廊下を選び、不貞腐れて呟く。 「どこまで聞いた?」 「河内に怪我させたのが平井だっていう、根拠のない噂話までだな」 「そうか、……そうだよ、根拠なんかねえ。でも、致命的な動機がある。……俺、あのあと河内と喧嘩したんだ」 「あのあとって、ツルピカ長に誓ったあと?」 「そ。もう一着の衣装が、本当にどっか行っててさ」 平井の『もう一着』という言葉を聞き、オレの海馬が叩き起こされる。昨日の依頼では、失くなった衣装を取り戻してくれと頼まれた。よく思い出してみると、平井の話では、消えた衣装が二着だったような気もしてくる。 「俺は二着とも、PRで着るために河内が自分で保管してくれてるのかと思ってた」 「でも河内は、学内を歩き回るために自分が持ち出したのは一着だけだって言った、……あってるか?」 「あってる。俺があの宣伝方法を提案したとき、河内はすぐ乗ってくれた。五組の衣装を管理してたのは俺だったから、保管場所を伝えて、……わかったから一人で取りに行けるって河内は言ったんだ」 「逆に、どうしてそこで別行動になったんだ」 「部活が始まるから、お互いに急いでたんだよ。俺が翌朝衣装を確認したら二着なくなってたから、河内が二着持っていったんだなと思った。てかずっとそう思ってたよ。今になってそうじゃないらしいことがわかって、じゃあもう一着は、……って昨日、河内と改めて話した。そこからはもう、俺じゃねえよの応酬で」 「喧嘩になったってわけだ」 「ああ。もちろん、殴ってはいないけどな。頭冷やして明日また二人で探してみようぜって解散したら、今朝のこれだよ。なんだよ、怪我して入院って」あんな作戦を考える平井にここまで大胆な嘘がつけるとも思えない。平井は、河内を襲ったりなんかしていないだろうとオレの勘は告げる。とはいえ、これじゃあ他に心当たりのないクラスメイトが平井を疑うのも当たり前だ。だって本人は河内と喧嘩したことを隠そうともしてないんだから。 オレは平井を校門まで送り届けた。平井はとりあえず一回頭冷やすわ、と告げ、駅の方向に一人で帰っていった。昨日と全く同じ台詞なのだろう。教室に引き返して椿と話そう、……と思ったとき、ふと体育館が目に入った。ドアが開けっ放しで、部活の練習風景がよく見渡せる。オレは、そういや河内はバドミントン部だったなと思い出して体育館に顔を出した。主将らしくクロスファイアを打つ生徒に近づき、声を掛ける。 「ちょっとごめん。あの、河内が入院したって聞いたんだけど。……怪我したのって、昨日の部活中?」 「ん、……君は」 「通りすがりの美術部なんだけど。昨日河内と話したばっかりだったから、ちょっと心配で」 「そうか。河内が怪我をしたことは当然俺も耳にしたけど、それは部活中の出来事じゃないよ。そもそもバドミントン部は昨日、活動していなかったんだ」 「それは、なにか理由が?」 「週に一回の休養日ってだけ」 「そうだったんだ。ありがとう」 なんの成果も得られなかったかもしれない。というよりは、平井の疑わしさが増した。バドミントン部の活動が無かったなら、河内が怪我をする前に接触してるのは椿とオレと衣装の所在で揉めた平井くらいだ。 「河内がどこの病院に居るか知ってるか?」 「さあ。俺もそこまではわからないな。あ、先生。河内がどこの病院で治療受けているのかご存知ですか」 主将らしきその生徒は顧問の教師を呼び止めた。 「おう、岸尾、……さすがに先生は知ってるけどな、個人情報だぞ。河内の許可が取れればいいけど」 「もしもし、河内? 俺、岸尾。先生からお前がどこの病院に居るか聞いてもいいかな? あ、教えてくれるのか。わかった。了解、ありがとう」「おい岸尾、体育館にスマートフォンを持ち込むな」 「先生、突っこみどころはそこじゃないですよ。河内が電話に出られるなら大怪我ではないし、今は多床室にも居ないってことです。というわけで美術部の君、病院の住所を送るから、連絡先を聞いてもいいかな」 魂を半分売るつもりで、オレは自分のスマートフォンを差し出した。読み込んだ岸尾のプロフィールは『男バド主将』という文言に加えラケットの絵文字が添えてある。背景もコートの写真だ。オレは試験的に、わざわざ顧問を呼び止める必要があったのか、という内容のメッセージを岸尾に送った。 オレは河内と面会するため、バスに揺られて病院までやってきた。受付で手続を済ませ、大きなエレベーターに乗る。隣には椿がいた。なぜって、オレが半ば無理やり連れてきたからだ。文化祭の準備は、……またあとで。こういう調査じみたことを単独でやるのは正直不安だし、椿が居てくれた方がいい。ただそれだけ。 「正式に相談を受けたわけじゃないのに、どうして僕はここに居るんだろうね」 「そこがオレも謎なんだよ。河内が怪我して入院なんてことになって、あろうことか平井が疑われてる。そんなときこそ美術部の出番、だろ? 平井は自分が犯人扱いされてるのに、オレたちに真犯人を探してほしいと依頼してこなかった。……それは何故か!」 「馬鹿だから思いつかなかったんじゃない」 「たぶんそう」 押ボタンの光が消え、エレベーターのドアが素早く開いた。このフロアに河内の居る病室があるのか──と思ったら目の前の談話スペースに河内本人が居た。 「よう、昨日は世話になったな」 「河内お前、寝てなくていいのか」 「別に、ちょっと脚怪我しただけだって。しばらく片方松葉杖だけど、骨とかは折れてないから」 椿とオレは手前のソファに座った。お見舞いに缶コーラとか買ってきたけど、必要なさそうだな。 「で、岸尾から連絡はもらったけどなんの用だ、……っていうのは冗談で。あの、……平井のことだよな?」 「まあ、そういう感じ。二人、喧嘩してたらしいじゃん。平井がお前に怪我させたんじゃないかって、朝から五組が騒がしくしてた」「そっか。……昨日、人に迷惑かけない、って誓ったばっかなのにね。もう平井に迷惑かけちゃった」 「河内は綾の発言を否定しないんだ?」 椿が指摘する。河内の身体は強張った。もうちょっと手加減してやれよと思う反面、やっぱり椿を連れてきてよかったな、とも思う。 「わからない。平井ではないと思うけど、平井じゃないとも言い切れないっていうか。暗かったし、たぶん帽子被ってたし。誰だったんだか。……殴られたのが脚だったから、追えなかったけど」 「僕はよく知らないから聞くんだけど、平井って、揉め事を暴力で解決しようとする人なの?」 「え、……どうだろう」 「えっ、河内、それも否定しないのか?」 「ちょっと喧嘩っ早いところがあるからなあ。矛先が自分だったことはないけど、なんとも言えない」 「河内に怪我をさせたのは平井、でいいかな、綾」 「いやそれはダメだって。平井はやってないって言ってるんだから。だいたい本当に殴ってたとしたら、喧嘩してたこともいっしょに隠すはずでしょ」 「じゃあ綾、平井じゃなかったら誰なの?」 「それは、……えっと、衣装を持ち出した奴?」 「もしそうなら、ふりだしに戻るよね」 「椿の言う通りだな。……手掛かりがひとつもない」 「二人とも、わかってると思うけど、PRに使ったのはあの一着だけだからな」 いつになく椿の口調が強かった。あのドロドロの絵からして椿が神経質になっていることはわかる。が、この件も同じく、原因不明だ。 缶コーラとポテトチップスは置いてきたものの、あと二日もすれば退院できると聞いて、安心するとともにお見舞いの必要性が崖から転落した。オレは駅に向かう帰りのバスの中で、椿の寝顔を眺めながら、河内の曖昧な発言を思い出す。平井を庇いたいのか、平井を犯人にしたいのか、どっちつかずの発言が多かったような気がする。もしくは、ただ馬鹿正直なだけか。 「馬鹿正直なだけではないと思う」 「ねえいつ起きた?またエスパー?」「河内が平井のことを嫌いじゃないわりにやたら平井の名前を連呼したのは、平井以外の犯人像を暈したままにしておきたいからじゃないのかな。河内は犯人が平井じゃないのを知ってる。だから河内が積極的に平井の名前を出して、その結果平井に疑いの目が向けられたとしても、平井が傷害罪で誤認逮捕されることはないって信じてるんだろう」 「いくら聖人君子の綾君といえど、平井に完璧なアリバイがなければその推測を正面から信頼することはできない。平井を犯人にしたいわけじゃないけど、情報が少ない段階で断定するなんて椿らしくないな」 「そもそも相談されてないんだから、考える気もそんなにないんだよ」 椿のことはよく知っているつもりだ。頼まれてもいないことに首を突っ込むのはデリカシーがない。却って相手に失礼。今回も、そう考えているのだろう。 「でもさ、椿。同級生が怪我してるんだし、そういう言い方はヤメた方がいいんじゃねえの」「僕たちは警察じゃない。衣装探しならまだしも、傷害事件の捜査なんて素人がやったら危ないから」 「それは正論だけどさあ、……オレは河内が怪我をしたことと、盗まれた衣装の件がまったく無関係だとは思えないから、両側から調べた方が近道だと──」「綾は、自分が危険な目に遭ってもいいの?」 「え?」 「僕は嫌だ。わかってる? 軽症とはいえ、河内は入院した。……れっきとした傷害事件なんだ。もし犯人が悪党だったらどうする。河内程度の怪我じゃ済まないかもしれない。僕は綾に怪我をしてほしくない」 捲し立てられているうちに、バスが駅前の停留所に到着した。なんとなく黙ってしまって、椿とは目を合わせることもなかった。パスケースを読み取り機に置くと、心臓に響く高音が鳴る。そしていつも通り、オレたちは解散した。 椿は最初に平井が相談を持ちかけてきたときから乗り気じゃなかった。そのときは、こういう小さなことに関わったと思われたくないという言葉に納得した。でも河内が誰かに襲われる前から、椿はおかしかったのだ。というか、椿の絵が、おかしかった。 「待って、……そんな正面から来る?」 スポーツブランドの黒いキャップを目深に被った人がこちらに駆けてくる。夏なのに着込んで、暑くないのか。オレは慣性の法則を信じ、自分の右足を後ろに引くことでその人の突撃を躱した。人は一瞬立ち止まり、予備動作のあと、握りしめた右手を素早く突き出してくる。これは格闘技経験者の動きじゃない。勢いだけのでたらめなネコパンチだ。が、多少は痛かった。何度か殴られる。すべて右手での攻撃だった。 「痛って、なにすんだよ」 相手は武器を持っているわけじゃない。急がなくてもいい。身長は高い方。力は強くない。でも、動きは速くておまけに軽い。河内と言われれば納得するかもしれないけど、少なくともこれは、平井じゃないな。 「河内に怪我させたのもお前か」 腕を掴んで捕まえようとしたものの、上着の生地がサテンっぽく、つるつると滑って捉えきれなかった。人は、来た方向に去っていく。体格は見た感じ男性っぽいけど、どうだか。鍛えてる女性も、今は少なくないしな。オレはその影を追いかけようとしたが、椿の言葉を反芻し、思いとどまった。 「なにがしたかったんだ、あの人。忠告かな」 ただひとつ思うのは、もし河内を襲った人物が今の人と同じなら、そこそこ運動神経のいい河内の脚に、入院するほどの怪我を負わせるのは困難だろうということだ。走り方は河内に似ていなくもないが、河内と比較すれば動きは重たいし、遅いし、鈍い感じがした。 翌朝、オレは冷房の効いた美術室でやっと下描きを完成させた。椿が来たら驚くだろうなと企み、人知れずワクワクしていた。そしていよいよ椿が美術室に入ってきたとき、オレの予想通り、椿は大きな目を真ん丸にして驚いてくれた。 「どうだ、椿。オレもやればできるよな?」 「違う、……綾の絵の話じゃない」 「そうか。なら、この怪我のことか」 「それもそうだけど、その──」 「うん。衣装?」 立ち尽くす椿の視線の先には、おそらく五組から盗み出されたのであろうお化け屋敷の衣装があった。椿が描きかけていた油彩画のキャンバスは丁寧に床に降ろされ、一メートルを超えるサイズに対応した木製イーゼルには、キャンバスの代わりにハンガーが掛かっている。 「朝来たら、美術室にあった。盗人はオレたちに罪を擦り付けようとしてるみたいだけど、どうする、椿」「まず平井を呼んで、この衣装が失くなったものと一致するか確かめてもらった方がいい」 「そうだよね。そう思って連絡しておいた。もうすぐ来てくれると思う。けど、椿」 「なに?」 「その前に、オレの考えを聞いてくれるか?」 椿は頷き、美術机に荷物を置いた。半袖のシャツからのぞく腕は細く、白い。やっぱり実働はオレだな。 「昨日、椿と別れたあと、誰かに殴られた」 「そうみたいだね。……その顔を見ればわかる」 「オレが衣装探しもとい犯人捜しをしてたから、河内を襲った奴が、これ以上は調べるなって警告を出すためにやったのかと思った。でも椿は殴られてない」 「うん。そもそも僕は犯罪と関わりたくない」 「それもあるけど。オレを止めるなら、椿を殴った方が成功率は高くならないか? だってオレよりも椿の方が華奢だし。椿が殴られたら、さすがにオレも手を出せなくなるし。それに椿は、……話の分かる相手だし」「そうだね」「話の分かる椿は、殴られていない。椿は犯人にとって、武力行使しなくても交渉ができる相手だから」 「綾。そこまでわかってるなら、もうこの件には関わらないようにしてほしい」 「犯人に言われたんだろ? 平井が美術部に相談を持ってきても手を貸すなって。さもなくばお前の相棒を手に掛けるぞって脅し文句付きでさ」 だから椿は乗り気じゃなかったんだろ、と首を傾げてみせた。あのドロドロの絵も、それを暗に伝えようとして描いたんだよな。椿は黙ってしまったが、頭の回転が止まっているわけではなさそうだ。 「美術室の鍵を誰が使ってるのか、先生に聞いたよ」 「それで?」 「オレと椿しか使ってないってさ。さっき衣装を見て驚いてたのは、場所が変わってたからだよな。昨晩はイーゼルに掛かってなったのに、って。本当はオレより先に登校して、適当な場所で衣装を見つけたフリするつもりだったんだろ。……なあ、椿。いったい誰に鍵を貸したんだ?」答えを聞く前に、美術室の扉が開いた。平井だ。肩で息をしながらこちらに歩いてくる。廊下は走っちゃいけないんだけどな。 「綾、……間違いない、……これ。失くなった衣装だ」 「そうか。見つかってよかったな、平井」 「あれ、でも、天冠がない。どこにいったんだ?」 椿が証言しなくても、見当はついている。スポーツブランドのキャップには、ラケットと同じロゴ。右手だけのネコパンチ。走り去る歩幅。体型。河内が殴打を避けられなかった、いや、避けなかった理由。犯人像を暈すためか、やたら平井の名を出していたこと。体育館で見た左利き特有のクロスファイア。 「オレは、河内と仲が良くて、いつも一緒にいる人が隠し持ってたんじゃないかって思ってる」 「それはとりあえず、俺じゃない。だとすると、ダブルスでペア組んでる岸尾くらいしか、……」 「椿、あってるか?」 椿は、簡単には頷かなかった。が、おそらく衣装を盗み出したのも、河内の脚に怪我を負わせたのも、岸尾で間違いないだろう。河内もお人好しだな。岸尾について全く触れなかったのは、自分が証言したら、岸尾が、──男バド部が、大会に出られなくなる可能性があったからだ。不祥事による出場停止処分とかで。だから、無実を証明できる平井を信頼して疑念の矛先を岸尾から逸らした(平井にとってはいい迷惑だ)。 「平井、探しに行こう、……天冠」 「探しに行くって、場所は?」 「男子バドミントン部の部室だよ」 衣装が再び消えてしまうことのないように、死装束を紙袋に入れ、手に持った。軽くて重たい。 椿とオレ、そして平井は、男子バドミントン部の部室に忍び込んだ。平井は『岸尾』というネームプレートがついたロッカーの扉をおそるおそる引っ張る。一見なんの変哲もない、部員のロッカーだ。しかしタオルや着替えで膨れた鞄を外に出し、シューズを持ち上げると、その下には。 「あった。……天冠だ」 オレたちの疑念はみるみる確信に変わる。男バド部主将の岸尾は、あの日の部活中に、ペアの河内からお化け屋敷PR作戦のことを聞いたのだ。そして部活終了後、適当な理由をつけて、岸尾は河内と一緒に衣装を取りに行った。もちろんそのときに衣装を盗んだわけではない。衣装の保管場所を確認するために同行しただけだ。河内が帰宅したあと、岸尾は一人でもう一着の衣装を持ち出した。紛失がすぐに発覚したとしてもまず疑われるのは河内だろう。河内が疑うのはずっと衣装の保管を担当していた平井だ。この件で二人の間に少しでも溝ができれば、河内になにかあったときに犯行の動機がある人物は平井になる。 「なにしてるの? 君たち」 振り向くと、そこには岸尾が立っている。岸尾は後ろ手に部室のドアを閉め、こちらを睨んでいた。 ひやりと冷たい声。まるでそこに感情なんてないようだ。この前話した時とは大違い。どっちが本性なんだか。 「やだなぁ。オレたちは別に無くなったものを取り返しにしただけだよ」 凍る空気とは裏腹にヘラヘラと返すと、岸尾の眉がひくんと反応した。キッと視線が天冠からオレの方に向けられて、左隣にいた椿が一歩前に出る。 「へぇ……無くしたものを取り返しに、人のロッカーまで漁るのか。さすが、『報酬次第でなんでもやる相談屋』だな」 「椿、」「僕らは構わないが、平井はこれから部活動があるんだ。文化祭も近い、行かせてやってくれないか」 椿はまっすぐ岸尾を見据えて、奥にいた平井を押し出してやる。果たして平井にそんな予定はあったかね。またしても部長であるオレは何も聞いていないわけだけど。でもまぁ何となくの想像はつく。 「……まぁ、いいよ。俺が用があるのは君たちだからね」 平井が複雑な表情を浮かべたまま、部室から出る。それを確認してから岸尾はまたこちらへ直った。 「それで、探し物は見つかった?」 「あぁ。オレたちの推測通り、岸尾、君のロッカーからね」 「へえ、それはどうしてだろうね」 あくまでも知らん顔ってことか。なら少し想定より早いが、答え合わせにするか。 「確か岸尾のクラスもお化け屋敷やるんだったな」 僅かに目を見開く。なぜ知っている、と言いたげな顔だ。 なぜも何も職員室前のトロフィーを見れば名前と学年くらい余裕でわかる。まぁ一番は周りに奴のクラスを聞けば早いんだろうけど、変に怪しまれそうだからな。そしてあとは花子さんの時と同様、その学年の名簿を端から端まで探すだけ。文化祭の演目はそれぞれ既に開示されているから、それと照らし合わせる。するとまぁびっくり、という程でもなくある程度想定はしていたけど岸尾のクラスもお化け屋敷だった。 「馬鹿なことをしたな、岸尾。こんなことバレたらそれこそ大会出場も危ういんじゃないのか」河内に自分は売れないと、分かっていての手口。河内が自分を庇い、平井のせいにでもなって、五組が破綻でもしてくれれば。だけどそこへ丁度オレたちが現れた。裏の顔は相談屋。平井に相談でもされちゃ、いずれ自分の名があがり詮索される。そうすれば確証が出なくても悪い噂は確実に立ち、大会出場に影響が出るかもしれないと。 「馬鹿は君だよ、椿くん。あれだけ『河内のことは詮索するな』と忠告してやったのに」 「僕もそうしないで済むなら詮索なんてしなかったさ。うちの部長が聞かないんだ」 「自分の大切なものたちがどうなってもいいと?」 忌々しげな目が椿に向けられる。岸尾の体が一歩こちらへ近づいて、オレは庇うように椿の前に出て左腕を翳す。椿は驚いたような、焦ったような声色で後ろから「おい、綾」と呼んだ。 岸尾の言う通り馬鹿だなぁ、椿。体を張るのはいつだってオレの役目だったろ。「いいのか?学校内で手を出したら、本当に謹慎処分食らっちゃうんじゃない?主将様」 「……ふ、ふふ……」 オレの言葉に岸尾は足を止め、ゆったりと奇妙な笑みを浮かべる。正直賭けだった。ここで売られた喧嘩に上手く乗ってくれれば。 「……証拠は?この大事な時期にバドミントン部の主将を貶めようとしておいて、まさか証拠のひとつも無いだなんて言わないだろうな」 オレが、恐らくオレたちが一番欲しかった言葉。 きた!と、オレが心の中でガッツポーズをしていると、椿のスマホからも「待ってました」と言わんばかりに食い気味に動画の音声が流れる。 『で、平井のことだけど』 『岸尾。その前に、とってもいいか?』 『……あぁ。早くしろ』 『……よし、いいぞ』 『もう分かってるだろうけど、一応念には念を押しに来た。いいか、今後平井が美術部に相談を持ってきても一切の協力をするなよ』それは決定的な証拠となるセリフ。やっぱりな、椿なら撮ってると思ってたんだ。 「なっ!」 『それはいいけど……どうしてバド部の主将ともあろう岸尾がそんなことを?』 『お前が知る必要は無い。詳細は言わない。これ以上の詮索も許さない。破った暁にはお前の大切にしてるものを奪ってやる』 「もういい、止めろ……」 「なんでだ?欲しかったんだろ、証拠」 『大切に……岸尾、何をするつもりだ。こんな弱小部、お前が潰さなくとも時間の流れと共に消えるだろ』 『潰す?そんなことしないさ。ただ、大事な大事な部長さまが痛い目に遭うかもしれないけどな』 「止めろと言っているだろう!」 とうとう大きい声を出したところで、椿は画面をタップして再生を止めた。 「悪い。ちょっと撮らせてもらった」 「は。いい気になるなよ、これは立派な盗撮だ!生徒会に訴えたら大会常連のバド部と今にも潰れかかってる弱小部、どっちを取るかなんて目に見えてる」 「?確認はしてただろ。動画『撮ってもいいか』って」 「はぁ?あれは、描き途中のデッサンを『撮っていいか』ってことだったろうが」 「さぁ。録音にはそんな文言ひとつも入ってないが」 そう。その動画はカメラをキャンバスか何かで塞いでいてほとんど音声のみのものになっていた。その分、椿が岸尾の名前も部活も露わにしている、これはもう言い逃れは出来ないな。 「んー。こりゃどう聴いても、動画撮っていいか、に聞こえるな」 「ということだ」 「……っく、」 「うちの椿がただで脅されるわけないでしょ」 意外と神経図太ぇんだ。オレなんかよりもね。 すると、主将様は椿のスマホを奪い怒りに任せて叩きつけようと振りかぶった。慌てて止める。さすがに椿に悪い。 「ちなみに!今そのスマホを割っても意味ないよ。だって今のやり取り、一部始終ぜぇーんぶ撮られてるからね」自白シーン全部を、だ。オレたちがした罪といえば盗撮くらいだ。岸尾のやった罪歴と比べると可愛らしいもんだ。 「……ハ、そんなはったり……」 「いやまじだって。しかも、今度はカメラのプロ」 だからきっとよく撮れてるよ。よかったね、主将様。 「プロ、ってもしかして……」 「部室の外には写真部総勢九人が僕たちを撮ってる。逃げられないんだよ、岸尾」 「そ、んな……写真部がなんでバドの部室に」 「さっき言っただろ?平井は『部活動』があるんだ、って」 椿が僅かに口角を上げると、全てを理解した岸尾は絶望にその場へ崩れ落ちた。だろうと思ったよ、確信犯。初めから部室で岸尾とエンカウントする可能性を考えて平井と作戦でも立てていたんだろう。いや、背中を押された時平井が少し身じろいでいたから、メモ的なものを渡されたのかもしれない。どちらにせよ、どこまでも頭が回って怖ぇ奴。敵に回さないようにしよう。結局、岸尾からは今回の件について内密にしておく代わりにバドミントン部の夏練の差し入れに入れると喜ばれるランキング二位のチューパットを箱で貰った。一位は二リットルのアクエリ。体育館中のドアというドア、そして窓という窓を締め切られひたすら滝のような汗を流す彼らにとって、何よりも嬉しいのは塩分と水分なんだ。そう苦笑しながら言う主将様に、オレたち文化部一同ひぃえと悲鳴が漏れた。夏はエアコンしか勝たない。万国共通だと思っていた。 「二人のおかげでお化け屋敷、なんとかできそうだよ」 「俺たち五組の仲もすっかり戻ったしな」 河内がはにかんで平井の肩を小突く。微笑ましい。正直お化け屋敷の成功云々はどうでもいいが、二人の仲が戻ったならそれで充分だと思った。 「それにな、岸尾さんのとこのクラスと組まないかって話も出ててさ」 「へぇ、それは意外だな」 河内ならともかく、傷害事件を起こした岸尾が承諾するだなんて。 「元々、お化け屋敷に使える暗幕が足りなくて今回みたいな紛争が起きたんだ。五組も引きたくない、俺たちも引きたくない。だからいっその事、合体しちゃった方がいいかと思ってさ」 「まぁ何にせよ上手くいってるなら良かったよ」そんな岸尾も、すっかり好青年みたいな話し方に戻っている。そっちが表でやっていくことにしたんだな。 「絶対面白いものにするからさ、綾と椿も来てくれよな!」 「おー、行けたらな」 さすがにここ最近で来客が多かったのと、絵の締切が立て込んでいたのとで差し入れのゴミやら絵具が散らかってしまっている。依頼も解決したことだし明日から文化祭に向けて切り替えるために、片すことになった。 椿は何やら黙りこくってるし。それはいつも通りか?でも奴らが居なくなって、騒がしさが無くなった美術室は確かになんだか見慣れたはずなのにやけに静かに感じる。 『主将として信頼にかけることをしてしまって悪かった』 『いいんです。岸尾さんならいつかは自ら認めてくれるって信じてましたから』 数分前の熱いやり取りを思い返す。主将、か。後輩、先輩の関係というのもいいもんだな。前回椿に言われた時はパッとしなかったけど。 「美術部に先輩、後輩とかそんな関係あるか」あー、また勝手に人の脳内を読んだな。こいつは。 「いーの!望むだけタダだろ?」 「この前はいらないって言ってなかった?」 「気が変わったんです〜。今回みたいなことがあった時、オレたちって二人しかいないんだなって」 バドミントン部のやつらみたいに形は違えど互いを信頼して庇ったり、写真部みたいに大会常連部の主将という大物を目の前にして震えながらも支え合ったり、バスケ部みたいに足りない何かを補いながら成長していったり。 オレたちは二人だ。二人だから出来ることもあったけど、二人しかいないから得るリスクも沢山ある。 ここいらで先輩でも後輩でも同い年でもいいから、バランス系の女子の入部でもあったらいいんだけど。何もやましい意図があるわけじゃない。頭脳系の椿と、勘とフィジカル系のオレ。そこに丁度バランスを取れるような、そして花子さんみたいな女子に聞き込みをしないといけなくなったときのためにも女子の入部が望ましいんだが。実際はバランス系も女子からも入部願いは来ず。 「あ〜ぁ、なんで入部者が増えないんだー」なんて空に向かってぼやいてみたりする。 「美術部は目立たないからな」 「うむ、ごもっとも」 にしても、椿のやつ、あれから特に変わったことはないまま冷静沈着だけど。でも今回のことで分かってしまった。あいつはあいつなりにこの場所を、オレのことを大事に思ってくれていたんだ。へへ、なんだ可愛いところもあるじゃないの。 「これ以上部員が居なくなったら美術室にいられなくなるからね」 オレ今声に出してましたっけ、と突っ込むのももう面倒になってきた。 「顔に出てる」 「へーへー」 「ここ、何かといいんだ。静かで、絵の道具だって揃っていて、なにより」 「居眠りが妨害されない、だろ?」 「そう。だから今綾にいなくなられたら困るんだ、主に僕が」 「ハイハイ、今日はそういうことでいーよ」今のオレは椿じゃないけどエスパーが使えるからね。分かっちゃうんだ。 『綾は、自分が危険な目に遭ってもいいの?』 『僕は綾に怪我をしてほしくない』 あの日、バスの中で言い合ったあの瞬間くらいは、椿が本心でオレのこと心配してくれてたんだって。あんな必死な目、初めて見たよ?綾くんは。 「まぁ?確かに?今オレがダメになるわけにはいかないよなぁ」 「何だ急に」 「ポスターだって仕上げなきゃいけないし、勧誘のこともあるし、文化祭のことも考えなきゃいけないし、椿くんが隠し持ってるソレにも目を通さないといけないしな」 「……え、」 椿がピシッと固まる。本当にバレてないと思ってたんだろうか。その白い紙。 「ったく。水臭いぞ。良い配色案が出来たなら見せろよな〜」 「……は?」 「あれ?違った?」椿の渾身の「は?」に慌てる。あれ、ポスターの下書きの配色案でも出し惜しんでるのかと思ったんだけど。 「ふ……いや、バレたか」 「あったりまえよ」 なんだ、やっぱりそうなんじゃん。椿がたまにオレに見せようとしていたその白い紙。下書きはこの前なんとか終わったけど、配色がオレ一人だといまいち決まんなかったのだ。だからめっちゃ助かる。 「明日持ってくるよ。配色案」 「おう!オレも一応考えとく」一応ね、一応。ん。と、短く返事して、残りのチューパットをクーラボックスに仕舞っている。その表情はよく見えなかった。オレもテキパキと手際よく箱を潰して、まとめて縛り上げる。その中にメガネ君が羊羹を差し入れてくれたときの箱があって、口の中がすっかり羊羹になる。あの羊羹美味しかったな。さすが茶道部のイチオシ。 「やっぱりさ、」 「うん?」 「綾はエスパーには向いてないよ」 「なんだそれ〜?人類みな椿みたいだったら怖ぇだろ」 てか何の話だ?と思いつつ、やっぱり見えない椿の表情に、まぁ今聞かなくてもいいような気がして聞くのをやめた。だけど後にオレは、その時に聞いておくべきだったんだと後悔をする。そんなこととは知らず、呑気に明日の配色案なんて考えていた。 

【リレー小説】FINE 消えたボール

こんにちは。文芸研究同好会です。部員が決まった文字数で回して書くリレー小説です。以下に第2話を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。少し前に男子トイレの花子さんを解決した。オレと椿はメガネ君から対価をもらった。贖罪からかメガネ君もオレたちの協力者になったし、茶道部とも縁ができた。オレたちの欲しい情報を優先して渡してくれるらしい。部長の山田がメガネ君が困らせた罰として、なんて言ってくれた。 うん、ぶっちゃけ万々歳だ。 そのまま平和な時間が流れれば良かったんだけど、この学校はそうもいかないみたいだ。いや、オレが事件を求めているみたいに言わないでほしい。オレだって平和が良いさ。でも、ここは美術部。表の顔は何の変哲もない、普通の部活。しかし、裏の顔はなにかしらの相談がある人が訪れる、知る人ぞ知る相談屋。 美術室の扉を開けた人物はキョロキョロと周囲を物珍しそうに見てから木でできた古い四角い椅子に腰かけた。この椅子も取り替えたいがなかなか難しい。予算がないのだ。同好会落ち待ったなし。 「初めまして、川野と言います」 川野と名乗った黒髪のおとなしそうな青年はジャージの膝の部分を掴んだ。不安なのか、視線はチョロチョロと動いていて定まらない。 ちょっと大きめサイズのジャージはだぼっとしていてちょっと情けない。大きめのものを買ったはいいが、まだ成長中ということか。まあ一年生ならばこれから大きくなるだろう。 それにしても黒髪はちょっと重そうだな。もっと明るい色の髪の方が似合いそうだ。だとしたら染めたのか?面倒だな。 「オレは綾」 「僕は椿。さあ、話して。なんでも解決するからさ」 オレが今までの対価などを見せようとするより先に椿がそう言った。チラッと見れば、椿は川野を急かしていた。 ちぇっ、見せびらかしたって良いだろ。大事なコレクションだぞ。しかも前部長から継承したものもあるんだぞ。値打ち物だぞ。「は、はいっ……!実は、今、この学校の球技系の部活のボールが消えているんです」 「ボールが消える?」 「それはどういうことだ?」 「実は一週間前から様々な部活でボールの行方不明が続いているんです」川野はそう言って切り出した。 曰く、彼自身はバスケ部のマネージャーをしているらしい。バスケ部といえば、有名なバスケ選手を育てた人が監督をしていると聞いている。練習はとにかく厳しいが、結果を出しているから学校側もなにも言えないのだろう。体罰がまん延しているとの噂があるが本当かどうかは分からない。 一番最初にボールが行方不明になったのは川野のいるバスケ部で、それ以来、バスケ部では基礎練習がメインの練習メニューになっていた。 「うちのバスケ部、大きな大会に出るほど強いんです。でも、基礎練習って体力育成がメインで、選手はボールに触れていないんです」 「うちはサッカー部も強いよな」 「野球部もだな」 「けっこう有名だ」 「推薦もありますし」 「へぇ、推薦なんてあるんだ」 様々な部活でも言われているようだが、ボールに一日触れていないと勘を取り戻すのに三日はかかるらしい。オレも椿も運動部とは縁遠い生活をしていたからそれは知らなかった。 「それは置いといて……。そろそろボールが戻らないと大変なんです」 「それはどう大変なんだ?」 「勘が戻らなくなっちゃいます。あと……」 「あと?」 「買ってこなくちゃいけなくなるんです、ぼくが自転車で」 川野はそう言って自身の膝へ不安そうな目を向けた。そっと擦る手は震えているようにも見えた。さっきから膝を気にしているように見える。なにかあるのだろうか。かわいそうにバスケ部のマネージャーは川野ひとりらしく、明日までにボールが見つからなければ、川野がひとりで五十ものボールを買わねばならないらしい。 監督は車を出してくれないらしい。忙しいの一言で一蹴されたそうだ。顧問は川野を手伝おうとしたが監督に手出しは不要だと言われてしまった。 なんだったらボールの管理もマネージャーの仕事だろう、なんて言ったらしい。それに伴って他のボールがなくなった球技系の部活でもマネージャーに買いに行かせようとする動きが高まっているらしい。マネージャーにとってはいい迷惑だ。 「ちなみにどれくらいかかるんだ?」 「売り場まで自転車で二十分。一回で運べるボール数は八個ですかね……」 「ふむ、つまり七回は往復が必要と」 「げぇっ。最近暑いのにやんの?」 つい先日、梅雨があけてから一気に暑くなってきた。外でやっている部活のランニングの声もどこか覇気がない。ふぁいとぉ〜、なんてどこか間抜けだ。まあ、それをBGMにして涼しい場所で駄弁っているオレたちもなんとも言えない感じがするが。 「それを防ぎたくて」 「まあ、なくなったら見つければ良いだけだもんな」 「お願いします、ボールを見つけてください!」 ぺこっと頭を下げた川野に対して早速調査を開始することを告げた。パアッと顔を輝かせた川野は、一年生らしくて素直だ。 今回の対価は色鉛筆になった。そう言えばもうそろそろ色鉛筆画展の募集締切日だった。作品を出せと生徒会がうるさいから出すことにしたのだった。 未だ不安そうな川野の背を見送った後、オレは椿を見た。きっと彼だってもう気づいている。 「さっさと解決するぞ」 「ほーい」 それでさっさと色鉛筆を回収して色鉛筆画をやらなくちゃな。 オレたちはその日のうちにボールが置いてあった場所に案内してもらった。その途中ですれ違った春野に『差し入れ』を頼んでおいた。メガネ君が後で美術室に行くと言っていたから調査が終わったらオレたちは美術室に戻らないといけない。 暑いから涼みに戻れるのはありがたい。 「ここか……」 薄暗い倉庫の中。様々な部活の道具がないからか今はガランとしている。けれどボールカゴが置かれていた痕跡はあった。たしかにここに普段は置かれているらしい。ボールカゴごとなくなっているらしい。まあ、ボールを五十個ほど持ち去るならばカゴごとの方が楽だろう。 さて、次はどれくらいの被害があるかだ。ここは聞き込みの得意なオレに任せて椿は倉庫付近に怪しい痕跡がないか確認することになった。 絶対、サボりたいだけだろ。そう思ったけど言わないでおいた。 オレは一度椿とわかれてマネージャーをさがしに行った。マネージャーは仕事中だから手短に終えないといけない。 「ちょっと良い?」 メニューを記録していた女子に声をかけるとその女子はうなずいた。聞き込みの基本は愛想よく、気軽な雰囲気で。 「ボールがなくなるって聞いているんだけど、ホント?」 「ホントだよ。だって野球部も走り込みしているんだもん」 「野球部もないのか?」 「そうだよ〜。あとは水球とテニスと卓球、バレー、サッカー……」 「球技系の部活はそうなんだ」 「そうそう。おかしいよね〜」被害の範囲は川野が言っていた通りだった。たしかに球技系の部活ばかりだった。まあ、ボールを使う部活でないとなくなったところで大した被害もないからだろう。 「あれ、陸上部は?」 「え?」 「ほら、鉄球投げるだろ?えっとハンマー投げだっけ?」 「そこまでは知らないよ〜」 「そっか。あの倉庫にあったりする?」 「え、うん、たぶん」 「ありがとう。じゃ、頑張れ」 「うん」 手を振って次の子に話しかけた。 「今、平気?」 「少しなら」 「ありがと。ボールがなくなっていることを聞いたんだけど」 「うん、なくなっているんだ」 「そっか」 「まあ、俺のとこは関係ないから良いんだけど」 「何部?」 「バドミントン」 「たしかに。ボールじゃないもんな」 「ん?綾じゃん」 「おー、三谷じゃん」 顔を上げるとそこには三谷が立っていた。サッカー部のユニホームを着ていた。肩にはフェイスタオルをかけて、頭から水をかぶったのか髪の先から水が滴っていた。うん、水も滴るいい男だ。 どうやらあれからちゃんと復帰できているらしい。スランプは乗り越えたようだ。 「サッカー部でボールなくなったの、ホント?」 「そ、ホント。いやー、ずっと走り込みでさ。けっこうきちーわ」 「そうか。選手も大変だがマネージャーも大変だな」 「そうか?マネージャーはそうでもなさそうだぞ?」 「そうなのか?」 「ああ。色々と準備しなくてよくなったし、ボール磨きもないしな。今の方が楽だってマネは言ってた」 「ふうん、そうなんだ」 「おい、三谷!早く来いよ!」 「おう!んじゃ、また縁があれば」 「俺も仕事戻らなくちゃ。頑張って」 「あぁ。ありがとう」 手を振って倉庫に向かう。 倉庫は主に二つあって一つはさっき見たボールなどがしまってある倉庫。もう一つは陸上やサッカーなどの外の部活の大きなもの――たとえばゴールとかネットとか――をしまっている。鍵はかかっていない。だからオレでも入ることができた。中にはハードルなどがしまってあったのか、土の跡が残っていた。 しかし、ハンマー投げの道具は残っていた。これはもしやボールと認識されなかったということか?まあ重いしな。 「そこで何やっているんだ?」 「あっ、すみません」 振り返れば陸上部のユニホームを来た人が立っていた。目つきが鋭いがそれほど怖くない。たぶん先輩だろうとオレは思う。なにせ身長が高い。 「ボールがなくなるって聞いたので陸上部のハンマー投げの道具はどうなのかなって思って」 「ハンマー投げの道具?あぁ、それは重いから消えていないだろ」 「ですよねぇ」 ふっと笑う。それにあれはハンマーであってボールじゃない。条件からはちょっと外れるのだ。 「怪しまれっから気をつけろよ」 その人はそれだけ言ってさっさといなくなってしまった。オレは他の部活の人からも色々と話を聞いた後、汗を流したまま美術室に戻った。 「あっ、お疲れ様です!」 「今回は水ようかんだそうだ」 メガネ君が椅子に座っていた。美術室にしては珍しいお茶の香りがする。ふっと目をやれば椿がいた。どうやらとっくに戻っていたようだ。室内は冷房が効いていていて涼しい。 椿はメガネ君と一緒に冷たい緑茶を飲みながら水ようかんを食べている。ぷるんとしたそれは今の時期ならばありがたいものだ。 「『差し入れ』にきました」 にっこりと笑ったメガネ君はオレに座るよう促した。オレは座ってから水ようかんを口に運んだ。さっぱりしていて美味しい。なんとなく落ち着いたような気がする。 「はじめにボールがなくなったのはバスケ部です。その後、サッカー、バレー、テニス、野球、水球、卓球」 「いつ消えたとかは分からないのか?」 「放課後の部活までに消えたそうですよ。バスケ、バレー、サッカー、野球部は朝練から放課後練習の間までのようですけど」 メガネ君はそう言ってオレにお茶をすすめた。飲むと舌の上にじんわりと苦味が広がる。うげ、ちょっと苦い。 椿はなんてことない顔でお茶を飲んでいた。ああいうのを大人の余裕って言うのかもしれない。単純にオレが子ども舌だからか。 「それから」 「まだあるのか?」 「はい。どうやらマネージャー同盟っていうものがあるらしいです」 「マネージャー同盟?」 メガネ君はうなずいた。曰く、様々な運動部のマネージャーがそれに入っているらしい。マネージャー同士での情報交換だったり、後輩指導などでも使われている。 「マネージャーにとっては貴重な情報源と同類探しの場のようです」 「なるほどな」 部員には言えないことでもマネージャー同盟ならば言える、ということもあるのだろう。他の部活ではマネージャーの仕事じゃないのに、自分のところではマネージャーの仕事になっている、なんてこともあるだろうからな。 「それじゃあ僕はこれで。また何かあれば『差し入れ』しますね」 「おー、お疲れさん。また頼むわ」 メガネ君は立ち上がるとそのまま美術室を出ていった。外はとにかく暑いから今頃うげって顔をしているかもな。オレは椿を見た。 「椿の方はなんかあった?」 「まあ、だいたい予想通りだった」 「まじ?」 「綾もだろ」 「ん」 今回はどう考えてもその結論に辿り着く。一方でボールを追うことは難しいかもしれない。結論のさらに先にあるのだ、ボールの隠し場所に関することは。 「やっぱさぁ。強いチームだと練習も大変なんだな」 「練習を覗いたのか」 「ん。オレは絶対ムリ」 「当たり前だろ。僕たちは運動部と縁がないから」 椿はそう言ってスケッチブックを開いた。色鉛筆画をやるようだ。かくいうオレも色鉛筆画をやらないといけない。 オレに関しては下絵がまだできていないから急がないといけない。椿は着々とやっていたのか、下絵は終わっているらしい。ひどい裏切りだ。 「明日には解決するぞ」 「最短だな」 「あー、そうかも」 そんなことを考えながらスケッチブックを見た。案がないから何も描いていない。スケッチブックの真っ白さが憎い。いっそのこと真っ黒に塗り潰してしまおうか。いや、それだと色鉛筆画って言えなくないか?かといって繊細な色使いは得意じゃないし……。やっぱ色鉛筆画って難しいな。さっさとテーマを決めて取りかからないと。 「なぁ、椿」 「うん?」 椿は顔を上げなかった。それだけ集中しているんだろう。 「オレたち、後輩を作らなくちゃな」 「……いなくても良いんじゃないか?」 「分かるけど。でもさ、このままだと同好会落ち確定じゃん」 「相談屋なんてやりたくないでしょ」ピシャリと椿は言った。オレはぐうの音も出なかった。仕方ない。オレや椿は美術部こそ隠れ蓑だと思っているが、普通は美術部らしく絵を描きたい人が入部するのだろう。 この形になってしまったのは前部長からだと聞いている。元々部員数が少なくて暇を埋めるためにやり始めたと聞いている。 「このまま相談屋は消える」 「そうかもしれないけど」 「大丈夫。美術部は残るよ」 「……同好会落ち確定なのに?」 「そうだな」 椿は色鉛筆を置いた。そっと覗けばかわいらしい春の野原が広がっていた。ポツンポツンと黄色があちこちに咲いている。ダンディライオンだ。白くなって飛ぶ様ばかりがよく描かれるが、椿はあえて黄色く咲いているところを描いたらしい。繊細な色鉛筆の動きはオレには真似できない。 「まあ、明日で終わらせよう」 「はいはい」 終わらせたいよ、オレも。 翌日の早朝。オレたちは川野に会っていた。川野が朝練に参加していることをメガネ君から教えてもらっていたからだった。あまり聞かれたくない話だったので、早朝の朝練は都合が良かった。 彼は素直に認めた、自分がバスケ部のボールを隠したことを。 動機はマネージャーの負担の大きさ。普通は三人から五人ほどで構成されているマネージャーの集団だが、バスケ部のマネージャーに関しては川野しかいないのだ。 つまり、ボール出し、ボール磨き、床のモップがけ、タイマーや濡れ雑巾やスポーツドリンクの準備、体育館などの窓開け、メニュー記録などなど……。部員たちのありとあらゆるサポートを川野一人で引き受けているらしい。 監督は他にもマネージャーがいると言っていたが、いっこうに他のマネージャーは現れず、負担は大きい上に仕事が終わっていないと怒鳴られる。ノロマ、グズなんて悪口はかわいいもので、延々と怒っていたかと思えばお前のせいで時間が潰れたと言われる。練習を中断させやがって、なんてもはや言いがかりでしかないし、理不尽でしかない。部員たちは監督の見えないところで川野の仕事をやったりして負担を減らしてくれているが、それでも川野一人ではできっこない量だった。 精神的にも体力的にもひどく疲れた川野は練習がなくなれば良いと思った。バスケ部の練習が川野を苦しめていたのだから。 色々と考えた結果、ボールを隠すという暴挙に出たのだ。だってそうすればボール出しをしなくて良い。磨く必要もない。ボールを隠せば少しだけ負担が減った。 それをマネージャー同盟でマネージャーたちに教えたのだ。そうしたら他の球技系の部活でも使っているボールが消えた。みんな、マネージャー業が嫌だったのだ。負担は大きいし部員はやってあって当たり前という顔をしていたから。全然、楽しくなかったから。 しかしつい先日、川野はボールを買うことになった。監督がそう決めたのだ。川野はそれが嫌でボールを隠し場所から戻そうとした。でも――。 「そこにボールはなかったんです」 焦った川野は裏で相談屋をやっているオレたちを頼ったということらしい。 「どこにボールを隠していたんだ?」 「倉庫には地下があるんです。そこに」 「そこへ行けるか?」 「はい」 川野と共に倉庫の地下に行くとサッカーボールや野球のボール、テニスボールなどなくなったはずの球技系の部活のボールが置かれていた。 「ここか」 一番奥のぽっかり空いた空間を見て椿は呟く。たしかにここに置いてあったらしい。けれど、一つ言えることがある。 「ここからどうやって持ち出したんだ?」 そう。一番奥の空間に置いてあったとして、どうやってそこから移したのか。バスケットボールが最初なのだから取り出すことは難しい。他のボールカゴが邪魔をするのだ。 「カゴは分解できるのか?」 「いいえ」 「最後に見たのは?」 「四日前です。最後の卓球部のボールを隠すのを見ていました」 「だめだ。こっちは動かない」 「出口は一つってことか」 分析をしながらオレは椿と共に奥に行く。 「地下の存在を知っているのは?」 「マネージャーはみんな知っています」 「それは球技系の部活じゃなくても?」 「ええ。あとは体育委員です」 川野は思い出すような素振りを見せた。あまり確かな記憶ではないようだ。にしても結構知っている人は多いんだな。オレたちは知らなかったのに。それは文化部だからか。 「今日中に見つければ良いんだろ?」 「はい」 「ん、じゃあ後は任して」 仕事、戻らないと怒られたりしないか?なんて椿は優しく言う。川野は大丈夫です、と返した。実際、今の時間はやることがあまりないらしい。 そりゃそうか。朝練とはいえやっていることは走り込みばかりだからメニューの記録なんていらない。 そもそも今の朝練ではマネージャーが来る必要がないらしい。 それでも監督に来いと言われて早起きしてメニュー記録をしているらしい。その間、水は一滴も飲んではいけない。これはもはや体罰なのでは、とオレは思った。それもこちらが訴えれば勝てるぐらいの、だ。 「さあ、探しに行こうか」 「いいけどさー。もうすぐホームルームじゃないか?」 「やべ。……川野、先に行け。椿も。オレは今日、午前中は腹壊して午後から行く予定」 「オーケイ。そういうことで昼まで自由か」 「ん、そゆこと」 椿はオレを置いて川野とさっさと出ていった。うん、椿はそういうやつだ。別にショックじゃない。知ってた、うん。 「さぁーて。見つからないように動きますか」 今日の体育の予定は頭に入れてある。そこをかわせればバレることはない。なんのための時間割りだ、とオレはくすりと笑った。倉庫は除外。かと言って敷地外に出すのは手間。ならばどこに隠すか。オレだったら誰も来ない場所に隠す。この学校で誰も来ないと言えば、校舎から離れた森。 森。それは通称だ。生徒たちが自然と触れてリフレッシュできるように、をコンセプトにしているそこは木々が多く、地面も土だし、もう少し季節が進めば葉が地面をおおって隠してくれる。なによりも、この森は生徒や先生にも不評で、めったに人は来ない。 隠し場所ならばここがうってつけだ。もちろん、ボールカゴがここにあるとは思っていない。カゴ自体はもう見つけてあるのだ。 体育館にある小さな倉庫。そこは部活の道具は置かないのだが、入ってすぐのところにフタつきの大きなボールカゴがあった。バレーボール用のネットを置く場所になっているようだが、たぶんアレがボールカゴだと思う。 ならばボールだけになっているはずだ。ボールだけならば隠すことは容易だ。ボールカゴを動かしたときの跡が地面に残ることもない。目印だってない森の中。隠した人しか場所が分からないだろう。 「まっ、普通は無理ゲーって言うけどね」 美術部の裏の顔、相談屋には失せ物探しの依頼もやってくる。そういうときに椿がだいたいの見当をつけてくれる。オレはそれを聞きながら密かに修行を積んできた。今こそ、それを見せるとき! ……なんてそれは甘い考えだった。 森の中をくまなく歩いたが、いわゆる掘り返したあとはなかった。つまりはここに埋めたわけではないということらしい。 うーん、ここだと思ったんだけどな。 オレは休憩をしようと池の近くに腰かけた。だってそこにベンチがあったから。ぴちゃんぴちゃんと水の音がする。昨日の夜遅くに雨が降り、小さな滝ができていた。そこから水が落ちているのだ。 ザアザアと風が歌う。葉が擦れて笑う。あぁ、木漏れ日が眩しい。日陰だから涼しいが陽が高くなれば暑くなってくるだろう。 「今、何限かな」 腕時計を見ればニ限目が終わる時間だった。オレのクラスは次、体育か。椿も来るかな。 もしこのまま見つけられなかったら――。 「あるわけないじゃん」オレたちは相談屋。迷子捜しから事件まで、なんだって取り扱う。そこにはオレたちなりのやり方と頭脳がある。なんだったら前部長から継承した技術だって。 ペチンと頬を叩く。 「あと探していないのは――」 オレはふっと池を見た。身を乗り出して池を覗く。しかし底までは見えない。 「ちょっと汚いけど……、仕方ないか」 オレはゆっくり池に顔を近付ける。顔がつくくらいの距離で止まってじっと底を見た。それでも見えない。目は悪くないはずなんだがな……。 その瞬間、背を押された。ヤバい、と思った瞬間、池に顔を突っ込んだ。ぶほっと池の水を衝撃で飲んでしまう。 ばっと顔を上げて咳き込む。吐きそうなくらいだ。でもそれをぐっと耐えて何度も咳き込んでようやく落ち着いた。 オレの背を押した人の姿は見えなかった。けれど、あえてそうやったということはここではないということか。だってここに隠しているならばそんなことはしない。わざわざ見付けさせたいわけじゃないだろう。 これ以上ここにいても仕方ないし、別のところを探しに行こう。 オレはひとまず人目につかない道を通って美術室に向かった。そこにタオルなどを持ち込んでいた。顔ぐらいは拭きたかった。 美術室の鍵は持っていたのでそっと入る。普通は授業中に美術室に入ったら駄目なんだが、部長なのでそのへんは少しばかり緩い。まあ、見られていないから平気だ。こっちまで来る生徒はほとんどいない。美術の授業だって今日はないし。 「よっと……」 タオルに顔を埋めた後、髪を拭く。臭いがしないといいな。さすがにこのままの状態で午後の授業に出るのは勘弁願いたい。周りの人に迷惑だろう。 「――でも、違ったか」 ボールを隠すなら森だと思ったんだがなぁ。あそこなら隠しているところも見られないし、隠し場所もいっぱいあるから条件に合うのに。 それとももう校内にはないのか?いや、わざわざ外に出すなんて手間なだけだろう。もしそうならば、そうしないといけない理由があったはずだ。物事には必ず理由があるって言ってた人がいるしな。 外に出した理由。学内にあると不都合があるのか。 そのとき、ブブッと携帯電話が鳴った。見れば山田から連絡が来ていた。おいおい、今は授業中だろ?そしてオレがサボっているってなんで分かるんだよ。こわ、敵にしたくないわ。 『新しく入手した情報だ。倉庫の地下は教師であれば誰でも知っている。なお、球技系の部活の顧問は地下の存在を知っているとみて良い。追伸――――――――』 「……ハッ、そういうことかよ……」 オレははじめから視野が狭すぎたようだ。容疑者を生徒に絞ったところが敗因か。いや、だってそう思うじゃん? でも違った。そして、オレたちは色々と知らなすぎたんだ。 目的地は駐車場と図書室。でも今の時間に図書室に行くと大目玉を食らうからそれは昼休みの後半に。今すぐ行くなら駐車場か。それから椿と作戦を練らないと。 オレは立ち上がる。 「んじゃ、行ってみますか」 大丈夫、今日で全て解決するよ、川野。放課後、オレは川野を美術室に呼んでいた。ついでに顧問や部員たちも呼んでおいた。ボールのある場所が分かったから来てほしい。たったそれだけ。 けれど部員も川野も喜んでいた。顧問もどこか安心したような顔をしていた。今日に関しては監督は来ていないらしい。まあ、きっともう来ないと思うんだがな。そっちも手は打ってある。 「しかし一体どこにあったんだね?」 「まあまあ。そんなにすぐネタバラシをしたら面白くないでしょう?」 椿がそう言ってくすくす笑う。オレは時計を見た。まだ掃除の時間中だ。たまたまオレも椿も当番でないだけで、普通はまだ掃除をしている。 「最後の役者がそろうまでお待ち下さいね」 「役者……、ねぇ」 「えぇ。……あぁ、暇ならばどうです、オレとゲームをしませんか?」 「ゲーム?」 オレは椿の方を見た。椿はうなずいた。こういうときのゲームは決まっているのだ。 「簡単なゲームですよ。絵しりとりって知っていますか?そこの黒板を使うんです。二つのチームに分かれて絵だけでしりとりをするんです。最後に多く繋がっていた方の勝ち」 ――ね、簡単でしょう? 椿が白いチョークをオレと顧問に渡した。顧問は黒板を見た。綺麗な黒板だ。だってそこはめったに使わないから。だから躊躇っているようだ。うん、オレも躊躇するよ、それが綺麗すぎるものだったら。 「おっと、」 「すみませんっ……、ふらついてしまって……」 「おいおい、椿。無理するなよ。怪我をしたんだろ?」 「そうなのか?」 「っ、えぇ……」 椿はうつむいた。どこか恥じらっているようにも見えた。体育の時間に軽く捻ったらしい。昼休みに会ったとき、椿は少しだけ動きにくそうにしていた。 「それならば帰った方が良い」 「いえ、綾に荷物を持ってもらって帰りますし、今日中にやらないといけないことがあるんです」 「それは家でもできるだろう?」 「いえ、ここの方が良いんです、集中できますし」 「あれだろ、色鉛筆画」 「もうすぐ提出だしね」 頑固な椿に顧問はため息をついた。それに椿は上目遣いで顧問を見た。 「すみません、車なら帰っても良いんですけど、両親は忙しくて……」 「オレの親も駄目だし」 「だったら送ってあげれば良いじゃないですか」 むうっとした顔で言ったのは木崎だった。たしかバスケ部の部長だ。身長が高くて顔もそれほどブサイクではない。うん、好青年って感じだ。 「馬鹿言うな、大変なんだぞ」 「俺たちが怪我したときは良かったのに?」 「それは部員だからな」 椿は顔を曇らせた。まあ、言い合いが始まっちまったからな。しかも自分の怪我がきっかけだ。罪悪感もわくだろう。 「なぁ、椿。迷ってっかもしれないから探してくるよ」 「分かった。僕が絵しりとりを仕切れば良いんだね?」 「おう」 オレは椿にチョークを渡した。それから美術室を出た。そこで待っていたとある人物にあるものを渡してオレは本館に向かった。 椿に言ったことは嘘ではない。美術室は意外と目立たない場所にあるのだ。美術なんて芸術の選択科目にあっても選ぶ人はほとんどいないし、使う人が少ないから掃除場所に含まれてもいない。そのせいか場所を知らない生徒は多い。 だからこそ迎えが必要なのだ。 「美術室、どこですか?」ほらな。 声をかけたりかけられたり。オレはたくさんの生徒を引き連れて美術室に向かった。 気分はさながらハーメルンの笛吹き男。報酬が払われない怒りから笛を吹いて子どもを連れてどこかへ去った男の話だ。面白くて何度も読んだが、あれは結局報酬を払わなかったことが悪いと思う。オレだったら報酬はしっかり払う。それが相手と自分のためだからな。その途中でついさっき会った人物からメッセージが届いた。準備室に運んでおいた、とそれだけ。相変わらず素っ気ないな。愛想ないのはいつものことか。 充分だ、とオレはニヤリと笑った。案内していた生徒にはバレなかった。美術室が近付くと、 「あはっ、これ、キツネじゃん」 「いや、猫なんだが……」 「えぇっ?もう繋がってないじゃない!」 なんて楽しそうな声が聞こえてくる。普段の美術室では考えられないほどだった。二人でコレクションや画集を見たり、それっぽくデッサンをしたりしているだけで、基本的に駄弁っているだけなのだ。まあ、声が大きくないからここまで漏れ出ていないだけなのだが。 「おーう、連れてきたぞ。これで全員か?」 「あ、はいっ!」 木崎の言葉にオレはうなずいた。椿も小さくうなずき返した。作戦通りに。 さあ、全ては整った。始めようか。 「まず、ボールをお返しします」そう言って準備室からボールを出した。部員たちが数えて全部あることを確認した。 「美術準備室にあったんですか?」 「いいえ。運んでもらったんです、返すために」 「じゃあどこに?」 「その前に聞きたいことがあります」 椿は立ち上がる。怪我をしたなんて感じさせない動きだった。当たり前だ。だって椿は怪我なんてしていないのだから。 「どうして三日前の練習で怪我をした十条を運ばなかったんです?」 いっせいに十条に視線が集中する。十条は足首にテーピングをしていた。軽い捻挫だったが悪化を防ぐため、現在はマネージャーのサポートをしている。 「ついさっきの話では、部員が怪我をしたら車で送るそうですね。なのに十条のときはしなかった。それはどうしてですか?」 「それは……」 「答えは簡単。車に乗せられなかったからです」 空気が変わった。しかしそれも一瞬のことだった。 「どうしてそう思うんだ?」 「思う、じゃないので」 オレは写真を見せた。そこには顧問の車が写っていた。実はついさっき、オレが頼んだのは写真部の坂口という奴だった。坂口には証拠写真と共にボールを取り返してもらっていたのだ。 その写真にはボールが車に積まれているのが見てとれた。もちろん、パッと見では分からないようにされているが、覗き込むようにすればボールの存在に気付けるようになっていた。 「なんで――」 川野が悲しそうな顔をした。そりゃそうだ。川野にとっては色々とお世話になっている相手だから尚のことだろう。 「そんなの」 「戻ってきてほしかったからだよ」 椿が川野を見た。川野は言葉に詰まる。 オレは机に雑誌を置いた。そこには川野が特集されていた。ざわっと周囲がざわつく。 それはバスケをする人にとってはバイブルのような雑誌だった。そこに特集されるということが、どれほどすごいか彼らは知っている。そう、川野は中学バスケ界では少し有名な選手だった。小さい身体を活かしたプレースタイルは身長だけが全てじゃないとめいっぱい示していた。憧れだった。 けれど、彼は高校でバスケをしなくなった。 「バスケをやってほしかったから。マネージャーじゃなくて選手になってほしいんだよ」 川野はうつむいた。中学校では明るい栗色の髪だったのに、今は重たい黒髪だ。おとなしそうな雰囲気には中学時代の名残なんてない。 「ぼくだって、バスケ、やりたかったんです」泣きそうな顔で川野は言った。 「でも、できない……」 ――バスケをやめざるを得ない怪我ですよ?そんなの、ぼく以外が許してもぼくがぼくを許せない! 「怪我って――」 「膝。歩く、少し走るならできるんです……。でも」 「バスケはできない、か」 顧問の言葉に川野はうなずいた。「川野はマネージャーの仕事の多さと膝への負担を考えてボールを隠した。そうしないと自分を守れなかったからです。そしてアンタはボールを見付けて、川野をバスケの選手に戻したくて自分の車に隠した」 「僕たちからすればどっちもどっちです」 「振り回された他の部員たちがかわいそうだ」 ふう、とため息をつけば顧問も川野もうつむいた。 「妥協点を探せば良いんだって」 「パス練習はやるとか、座ってできることならやるとか。初心者の指導とか、ルール講座とか」 「バスケ、好きなんだろ」 川野はうなずいた。バスケが好きじゃなきゃマネージャーなんてやらない。それに、選手を経験していないとできないサポートだってある。川野はそういう面で支え続ければ良い。 「その話し合いはココじゃないところでやってくれ」 「僕たちは美術部で締切が近いものがあるからね」 「そういうこったあ。おら、一人二つぐらいボールを持ってけ」 「はい、ありがとうございました!」木崎はそう言って部員に指示を出す。部員たちがボールと荷物を持って動き出した。 「なんとかなりそうだな」 「……はい」 「まあ、よく話し合ったほうが良い」 「あっ、色鉛筆っ」 「それならここに」 椿の手に色鉛筆があった。どうやらそれが報酬らしい。五十色入りのそれはかなり値がはるものだ。めちゃくちゃ嬉しい。 川野はふわっと笑う。 「ありがとうございました」 「頑張れ」 「はい」 うなずいて川野は美術室を出ていった。 再び美術室は静かになった。二人きりだ。これでようやくいつもの美術部だ。 「お疲れ」 「おー」 オレはそっと椅子に座った。椿がオレの目の前に色鉛筆を置いた。 「ほら、さっさとやれよ」 「え?」 「色鉛筆画。明日締切だろ」 「んえ?来週じゃなかった?」 「ほら、よく見ろよ」 椿が見せてくれた募集のポスターにはたしかに明日の日付が書いてあった。オレは真っ青になる。 「ヤバッ!」 「早く出せ。手伝ってやるから」 「う〜〜、ありがとう!すぐ出す!」 オレは荷物の中から下描きをしたものを出した。昨日の夜のうちに下描きを終わらせようとやった甲斐があった。おかげで少し寝不足だ。 「なぁ、綾」 「んー?」 振り返れば椿はなんとも言えない顔をしていた。そんな顔は似合わないな。 「どうした?」 「いや……。なんでもない」変な椿。 オレは椅子に座ると早速作業に取りかかった。ぐしゃりと椿が握り潰した白い紙にオレは気付かなかった。 それから二日後、美術室に川野がやって来た。髪色が栗色に戻っていた。どうやらそっちが地毛のようだ。今までは黒く染めていたらしい。イメチェンってやつらしい。黒より似合っているよ、カッコいいじゃん。 そして、体罰に近いことをしていた監督がいなくなり、膝への負担を考えてパス練習の相手をすること、初心者のドリブルやシュート練習の補助をすることで落ち着いたと報告してくれた。 マネージャーの仕事も少し減ったらしい。ボール磨きは部員もやることになったし、モップがけは部員がやることになった。結果としてバスケ部は良い方向に進んだらしい。 それはなによりだ。川野の表情が物語っている。ずいぶん明るくなったな。そっちのが良いよ。 「本当にありがとうございました」 「良かったよ、落ち着いて。楽しいんだな」 「はい! ……ところで、椿先輩は今日、いないんですか?」 「あー、生徒会に呼ばれたって」 昼休みに椿は生徒会の人に呼ばれていた。放課後に生徒会室に来るように言われたらしく、今日は美術室にはオレしかいなかった。 「そうだ、今度、部活を見に来てください」 「ん?」 「デッサンとかの練習になるかもしれないですし」 「あぁ、たしかにな……。機会があれば」 「せひ!」 川野はそう言うとふわふわと笑って一礼して出ていった。犬みたいな奴だな。ふわふわしててちょっとかわいい感じ。うん、これはモテるな。 オレはそんなことを考えながらスケッチブックを開いた。何を描くわけでもないが、パラパラとめくって見る。過去の自分の絵は椿以外には見せられない。 どう見ても下手くそなのだ。ピカソのあのカクカクした子どもみたいな絵の方がマシなレベルだ。いや、あれはちゃんと評価されているから比較対象にすらならないが……。 「そう言えば、椿はなんで生徒会に呼ばれたんだろうな?」 部長はオレだし、そういうことはオレの方に振るはずだよな。じゃあ、どうして? 「……まあ、いっか」 何かあれば報告してくれるだろう。何も言わないということはオレが知らなくても良いということだ。報連相だけはしっかりしているからな。 鉛筆を持ち、スケッチブックの表面を滑らせた。薄く広がった線のまま少しずつ描き込みを増やしていく。細かいのは面倒だから無視する。 うん、ちょっと不格好だけど犬に見える。モノクロのそれは舌を出して今にも動き出しそうだ。丸々としたポメラニアンは毛玉みたいでかわいい。川野のことを犬みたいだと思いながら描いていたからこうなったんだろう。 「へぇ、綺麗じゃん。ポメでしょ?」 「うおっ?」 驚いて振り返れば椿が立っていた。どうやら呼び出された用事は終わったらしい。椿はオレの手元とスケッチブックを見た後、ふっと笑った。 ちょっと不格好なポメラニアンを優しく見ている。くそ、椿の方が上手いのは知っているんだからな。 「この前の色鉛筆画も良かったじゃん」 「そうか?」 この前の色鉛筆画は椿の方が良かったじゃん。オレよりもずっと繊細で時間をかけていた。オレのはその足元にも及ばないよ。あんな、サッと描いたやつ。 「ところで生徒会の用事ってなんだったんだ?」 「……あぁ、文化祭のこと。ほら、今の生徒会長は僕の知り合いでしょ。ポスターの案を出してくれないかって言われちゃってさ」 「へぇ。絵の具?」 「何でもいいってさ」 「ふうん。テーマは?」 「繋ぐ」 「……案はあるんだろ?」 「まあね」 だと思った。椿はそういうやつだからさ。聞いただけで案があるなんてすごいよな。オレはギリギリになってもやらないところがあるし。 「でも、今回は僕じゃなくて綾がやった方が良い」 「オレが?」 椿はうなずいた。オレはたじろぐ。生徒会長は椿に頼んでいるんだろう?なのになんでオレが? 「僕も手伝うよ。一緒にやろう」 「でも……」 「美術部としての活動にしちゃおうよ」 「おう……」 たぶん、このとき椿は分かっていたんだと思う。オレたちに待ち受ける困難を。そしてオレは分かっていなかったんだ。

【リレー小説】FINE トイレの花子さん

こんにちは。文芸研究同好会です。部員が決まった文字数で回して書くリレー小説です。以下に第1話を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。この学校には生徒会も非公認の組織活動がいくつか存在する。 例えば、茶道部によるお茶会、試験期間にのみ密かに活動する虎の巻屋に、書道部によるサインの代行……と、どれも変わり種ばかり。まぁ実の所、その大体は署名が集められなかった部員二名以下の部活が、勝手にそう名乗っているだけなんだけど。 そしてその中でも知る人ぞ知る、救世主的部活が存在する。 「……そう。それこそがオレたち美術部なのだよ!メガネ君」 「はぁ」 重厚な木製扉の横に立つ彼からは「知ってますけど」と白い目を向けられているけれど、それには気付かないふりをして続ける。 表の顔はただの美術部員、裏の顔は相談屋さん。と、言ってもオレたちは年に二回、作品を提出するだけだから実質メインの活動は裏の方ってことになる。 落し物の捜索から、喧嘩の仲裁まで。時には別れさせ屋なんてのもお手のもの。 対価によっちゃなんでも解決してみせるのがうちの主な活動。 「それで?僕らになにか解決して欲しいことが?」 オレが揚々と語りながらこれまでに貰った『対価』のコレクションを披露し始めようとすると、副部長の椿が遮ってメガネ君に話の詳細を促す。オレらのお決まりの流れ。 メガネ君が改まってコホン、と咳払いをひとつすると、椿はキャンバスから顔を上げて傾聴の態勢になる。俺も椿に倣って椅子に深く座り直す。 「はい。お二人はご存知ですか?この学校に存在する七不思議のこと」 「七不思議?一般的によく聞く、ひとりでに鳴りだす音楽室のピアノとか、トイレの花子さんなら知っているけど」 「そう、その花子さんです。今この学校でかなりの騒ぎになっているんですよ」 「騒ぎ〜?高校生にもなって七不思議が?」 「たしかに変だな。本当に『出た』って言うならまだしも……」メガネ君があまりに真剣な顔つきで、如何にもオカルトチックな事を言い出すから、俺も椿も堪らず口を挟む。 「……」 「っえ、メガネ君まさか、」 すると、メガネ君はきょろきょろと辺りを見回し、声を潜めて「内緒ですよ」と前置きをする。 「もしも、花子さんを見たって言ったら、信じてくれますか?」 「……いやいやいや」 それまで真剣に聞いていた椿も困ったような笑みを浮かべている。 「メガネ君、折角来てくれたのにアレだけど、オレたちもさすがにその手の悪戯には引っかからないよ」 「なっ、違いますって!」 メガネ君は手をブンブンと振って、「そんな時間を無駄にするようなこと、するわけないじゃないですか」と顔を赤くする。 「もしそれが事実だとしたら、その花子さんとやらが男子トイレに入ったのか、メガネ君が女子トイレに入ったもしくは覗いたのかの二択になってくるんだが」そこまで言うとメガネ君は「うぐぅ、」と言葉を詰まらせる。 確かに、花子さんといえば『女子トイレの三番目』が有名だ。たまたま見えたにしては、結構奥の方まで覗く必要がある。 「一理あるな。メガネ君、どこで花子さん見たの?」 「男子トイレ……ですけど、彼女は幽霊なんだから法も何もないじゃないですか」 「う〜ん、花子さんが覗きパターンかぁ」 「聞いてます?」 トイレという設定は守られているのに対して、女子トイレの三番目というところが守られていないなんて、結構再現性に荒いところがある。 椿も同じように考えたのか、首を傾げてなにやら考え込んでいる。 すると、怪しまれていると悟ったらしいメガネ君が、「あっ、嘘だと思ってますね?」と少し頬を膨らまして弁明を始める。 「ぼ、僕も最初は誰かが悪戯で流したデマだって思ってたんですよ。でもそれにしては目撃情報が多くて」 「目撃か。それは男子だけ?」 「はい。僕が知っている限りでは、ですが」 てっきりメガネ君の悪戯の線もあると思っていたけど、目撃情報があるなら一気に話に信憑性が増してくる。 「僕にも詳しいことは……ただ、おかしいんです」 「うん?」 「目撃者になぜか会えないんです。詳しく話を聞こうと思ったんですけど、皆しばらく欠席しているらしくて。一人 、二人なら偶然だと思ったんですが、さすがに十何人も欠席が被るものでしょうか」 十何人もの欠席者、しかももれなく彼らは花子さんを見ているときた。 なるほど……そういえばうちのクラスにも二、三人欠席している男子がいたっけなぁ。普段風邪ひいたって休んだりしないようなやつらだったから、今思えば十分様子がおかしい。 「それはたしかにおかしな話だな……」 「ちなみにその目撃者たちのことは誰から聞いたんだ?それ自体がデマだったりは」 「いえ。今お話した内容はうちで独自に得た情報を元にしているので、彼らが花子さんを見たと話していたのは確かなんですが」 「そうか……ん?『うち』?」 その妙な言い回しに違和感を覚える。 「あっ、挨拶遅れました。茶道部所属、一年の滝元といいます。うち、というのはそこで定期的に開かれるお茶会のことなんです」 「茶道部のお茶会、ね。聞いたことあるな」 茶道部の部室はオレたち美術部と同じ特別棟でも一階の、日当たりが良い教室。なんでも一部畳になっていて、和洋折衷の本格的なお茶や、用意されるお菓子、正装の可愛さが人気なんだとか。洋に関しては茶道関係あるかどうか微妙なところ。 「あぁ、あそこも生徒会非公認で何かしているらしいな」 「ええ。誰でも参加できるお茶会では、普段聞けないような色々な耳寄り情報が手に入るので、裏では情報屋として組織しているんです。お話したことは全て、僕がお茶会で聞いたものになります」 「ほぉ。つまり、メガネ君は覗き魔と盗み聞きの容疑がかかってる訳だ」 「だぁから、違いますってば」 メガネ君の頬がまた膨らんで不満を訴える。「とにかく、このままだとお二人に話した僕まで消されるかもしれません。彼らがお茶会に来てから欠席するまでの期間はおよそ一週間、それまでに解決したいんです」 「次回のお茶会はいつだ?」 「毎週水曜に行われているので、五日後です」 「そうか……」 そうなると一週間前のお茶会が……、とブツブツ呟きながら考える素振りを見せる椿に、メガネ君は期待に満ちた眼差しを向けている。 「椿先輩なら一緒に調査、してくれますよね」 「えっ、オレはぁ?」 「先輩は何となく信用に足らないというか、笑いながら『失敗しちゃった〜』とか言いそうなので」 「一応部長なんだけど!」 「よし、わかった。このままだと男子共がうかうかトイレにも行けないし、僕たちの方でも調査してみるよ」 「本当ですか!」 あぁ、と頷くと椿を見るメガネ君の眼が一層キラキラと輝く。 まぁ別にいいんだけどね。別に。ちょっと面白くないけど。 ちぇ〜、と唇を尖らせていると、「日頃の行いのせいだな」と椿にトドメを刺される。 「対価は茶道部特製の羊羹でどうですか?結構評判いいんですよ」 「いいな。じゃあそれを合言葉にしよう」 「合言葉、ですか?」 「あぁ。急に茶道部と距離近くなったら怪しまれるだろうから、しばらくの間は何か情報が入ったら『お茶菓子の差し入れ』を口実にするんだ」 「なるほど……僕たちの間の隠語ってことですね。わかりました。差し入れなら今までも他の部活にもしていたし、違和感もないと思います」 「オレたちのクラスは二階の一番手前、二の一だからいつでも来ていいし、平日の放課後なら大抵ここにいるから」 わかりました、と律儀にノートを取り出してメモを取る。別に教室くらい何回でも教えてあげるのに。 「真面目くんなんだから」「とりあえず五日後のお茶会には二人で参加するとして、それまでにある程度の情報を集めておきたいな」 「よっし、そうと決まればさくっと聞き込み行くとしますかぁ〜」 てきとうに指で回していた筆をキャンバスの縁に置いて、重たい腰を上げると長時間同じ体勢で座っていたからか自然と大きなあくびが漏れた。 それにしてもお茶会、なぁ。欠席している奴らも、何人かはお茶会に参加していたってことだ。今思えば野郎が参加してるお茶会って結構、視界がむさ苦しいよな。 と、どうでもいい事を考えながら彫刻に引っ掛けていたパーカーを手に取って羽織る。 部室は片付けないんですか、画材とか……と訊ねてくるメガネ君に「そんなもん後でいーの!」と返しつつ、裾を直し鞄を取って廊下に向かう。 「絶対後じゃよくないと思いますけど」 「まだ残ってるかなぁ人」 「どうだろうな。本館ならまだ明るいし人はいそうだけど」 なんてジャケットの前をきっちり留めて、キリッと澄ましている椿もなんだかんだ画材は机の上に放りっぱなしだ。これが美術部。表の顔としては生徒会公認にも関わらず、部員の減少でもうすぐで表の顔ですら非公認になりそうな部活。多分、原因はこういうところにある。 「宛てでもあるんですか?」 「花子さんを見た奴らの中に、誰にも話してない奴が一人はいると思うんだ」 「校内じゃどこで誰が聞いてるか分からない。一応考慮して学校外に呼び出した方がいいな」 「だな〜。だったら怪しまれず連れ出しやすい同学年から当たるか」 「あぁ。これは長期戦になるな」 クラスのグループラインの他にも、校外学習で別のクラスのやつとも繋がっているし、いきなり他学年に聞き回るより手っ取り早いに違いない。 「んじゃ、メガネ君は茶道部の子と、一昨日のお茶会参加者にこっそり聞き込みしといて」 「はい。何か仕入れたら『差し入れ』に行きますね」 こうして、美術部と茶道部による、『花子さん』の調査が始まった。 椿といっしょに廊下を歩いていると、なるほどトイレに向かう男子生徒は確かに孤独ではなかった。野郎が連れションなんて、世も末だな。オレは下駄箱を開け、引っ張り出したウォーキングシューズをタイル床に揃えた。自由になった足を片方ずつ突っ込んで、爪先を鳴らす。 「花子さんを見たとしても、さ。お茶会でその話を出さなきゃいいだけなんじゃないの?」 「綾。人は情報共有で社会を築く生き物だよ、生存戦略として。なにか特別なことを見聞きしたとき、誰かに話せないままでいると、……死ぬ」 「いやいや。本能に責任押し付けてどうすんの。欠席が嵩んだら卒業できないんだから、フツーに考えてそっちのほうが問題だって」 椿はなにか考えながら、滑らかな動作で靴紐を結っていた。焦れったいので鞄を持ってやる。「まあ、綾の見立ては間違ってない。そもそもお茶会で花子さんの話題を出すことが長期欠席の契機なら、最初から開催しなきゃいいんだ。僕が滝元なら部長に打診して中止にするよ、そんな死のお茶会は」 「だよねえ。メガネ君は悪戯じゃないって主張してたけど、正直ちょっと疑わしい。目撃情報が多いっていうのも、現時点ではメガネ君から聞いただけで、オレたちにとっちゃなんの確証もない話だし」 「となると客観的事実は欠席者の増加だけか。滝元の証言を確固たるものにしたいなら、どちらにしろ、僕らはお茶会に参加したほうがいいってわけだ」 「気が乗らない?」 「別に」 そう言うと椿は音もなく立ち上がり、ジャケットの襟を整えた。「誰かから連絡あった?」などとオレに投げ掛け、歩き出してしまう。まずは鞄を受け取れよ、と思いつつ、オレは自分のスマートフォンを確認した。「一件だけ連絡が来てる。四組の三谷(みつや)。ええと、さっき本館で事も無げに連れションしてたヤツだね」 「内容は?」 「話せることがあるかもしれない。明日の午後なら会える。だってさ」 オレは三つの条件で絞り込んだ男子生徒に似たような連絡を入れていた。条件その一、複数人でトイレに向かっていたヤツ。その二、オレが既に連絡先を所持しているヤツ。その三、お茶会なんかまるで興味がないといったツラをしているヤツ(主観)。「学校の七不思議をモチーフに絵画製作をすることになったのでリアルな話があったらぜひ聞かせてほしい」という旨の連絡で、早速返事をくれたのが、四組の三谷だったというわけだ。オレは椿に三谷とのやりとりを見せた。 「お茶会まで時間があるとはいえないし、まずは明日、三谷に会おう。鴨葱で花子さんの話が聞けるとは限らないけど。場所はどうする」 「綾。密談は料亭でするものと相場が決まってる」 「大人はね。ガキはコーヒーチェーンでいいかな」 土曜日の午後を犠牲に三谷と約束を取り付け、オレたち二人は学校をあとにした。 翌日、土曜日。オレは椿と昼飯を食ったあと、駅の近所に建つ書店で三谷を待っていた。椿が急にルノワールの画集を買ったので、美術部を満喫しているな、と関心する。同時に、ミーハーかよ、とも思う。 オレたちがペトロールの不足について議論していると後方から「待たせたな」と声がかかった。三谷だ。 「待たせたなって。ヒーローじゃないんだから」 「ごめん。言ってみたかっただけ。行くか」 挨拶もそこそこに、オレたちはカフェへ向かった。悠長に三分くらい歩き、やがて辿り着く。オレは昨日自分が提案したコーヒーチェーンの看板を見て、椿のささやかな冗談に気がついた。が、いちいちツッコミを入れるとキリがなくなるので、黙っていた。 入店後、四人用の席に通され、三人で赤いソファに腰を下ろした。椿はオレの隣、正面に三谷。ガラナとビターブレンド二杯、アップルパイを注文し、聞き込みの態勢は愈々整えられた。三谷は「七不思議のことなんだけど」と、自ら話を切り出した。 「ここで話したことは、秘密にしてくれよ。……もしも花子さんを見たって言ったら、信じてくれるか?」 オレはデジャヴを感じながら椿と目を見合わせた。人が情報共有で社会を築き、見聞きしてしまった特別なことを誰かに話さなければ死ぬ、という椿の大袈裟な言葉も、多少信じる気になる。オレは三谷に対して深く頷き、より詳細な情報を得ようとした。 「もちろん信じるよ。だって今回は、それをテーマに絵を描こうとしてるんだし」 「そうか。まあ、そんな大仰な話じゃないんだけど」 「リアルな話っていうのは往々にしてオチがつきにくいものだよ、気にすることはない」「あのさ二人とも。俺が言うのもなんだけど、まずは男子生徒が花子さんを見たってことに驚くべきじゃないか」「おっと、たしかにそうだ。三谷!君は、神聖なる教育機関で覗きをやったね?」 「取って付けたような疑いをかけるな。誓って、覗きなんかやってない。男子トイレで見たんだよ」 三谷は概ね正直なヤツなので、オレ自身が彼を疑う気持ちはなかった。そもそも花子さんが男子トイレに居たとしてもそれは最も重要な問題ではないのだ。 「まあ、そうだよね。三谷がそんなことをするようなヤツじゃないのはわかってる。んでもって花子さんが何トイレを選ぶかは、本人の性自認による」 「しかし、三谷が花子さんを見たと思うなら、三谷が見た花子さんはいかにも花子さん然とした花子さんだったわけだ」 「どういうこと?」 「椿が言いたいのは、その少女だか少年だかが花子さんとしてみとめられるんだったら、姿はおかっぱ頭に白いブラウスにサスペンダーつきの赤いプリーツスカートで間違いなかったのか、っていうことかと」 「ああ、そういうことか。そうだな……驚いちゃってはっきり憶えてないけど、そんな感じだったと思う」代わる代わる挙手しながら、ガラナはオレに、コーヒーは二人に運ばれた。アップルパイは椿に。店員さんが会釈して、テーブルを去っていく。 椿は指先でフォークを立て、アップルパイに刺した。 「花子さんって、姿というよりは、話しかけたら声でリアクションがあるイメージだけど」 「どうだ、三谷。花子になんか言われたか?」 「敬称を略すと呪われそうだな。いろいろと言われたよ。でも、なんというか、自分の身になにが起きるかわからない以上、あんまり詳しく伝えたくない」 「なんか生き生きしてきたな、花子さん」 「生きてるわけじゃなさそう?」 「ううん、生きていると言っても過言ではないかな」 三谷は少し飲んだコーヒーに顔を顰めて手元のカップにミルクを注いだ。少し同情したオレは、シュガーポットの蓋を取り外して三谷に渡した。三谷はありがとうと言い、「こんな話で絵が描けるのか?」と眉を下げて笑っていた。 「いや、まだ。他にわかることがあったら教えて」 「花子さん本人のことじゃなくてもよければ」 「じゃあ、花子さんを見たときの状況とか」 「わかった。えっと、俺が花子さんを見たのは放課後だよ。一昨々日、部活が始まってからひとりでトイレに寄ったんだ、俺たち二年生の教室がある二階のトイレ。教室にペンケースを忘れてたから、それを取りに行くついでにな。あそこの男子トイレって、奥側に三個、個室があるだろ。そのとき個室のドアは全部開いてたのに、なぜか足音がしたんだ。最初は誰か居るのかと思って気に留めてなかったけど、足音は止まないし、ドアも一向に閉まらない。心配になって、奥まで歩いて、中を覗いたら」 「そこに花子さんが居たと」 「うん。花子さんが居た。けど、その瞬間に『花子さんだ!』とは思わなかったよ。どうしてこんなところに小学生が居るんだ、誰かの妹か、娘か、ってちょっと思い巡らしてから、容姿がトイレの花子さんと酷似してることに気づいたって感じで」 「自ら花子ですと名乗ったわけじゃないのか?」 「俺が思わず言っちゃったんだ、花子さん、って。そうしたら、その子は頷いた」 「で、いろいろ言われて、逃げてきたんだな」 「いろいろ言われて逃げて、部活に戻った」オレが三谷と会話している間、椿は終始、目の前のアップルパイを減らすことに努めていた。皿が空になりフォークが置かれると、椿の指はそっとハンドルに触れる。そして、コーヒーを口に含む前に呟いた。 「三谷はサッカー部だよね」 「そうだよ」 「サッカー部なら、今日も練習があるはずだけど」椿の言及に三谷は微笑み、しおらしく言った。 「どうも具合が悪くて。来週から、学校も休むつもりなんだ」 三谷と解散し、オレは椿と適当に街を歩いた。散歩するには些か寒いが、帰るにはまだ早い。それでも、天ぷら屋の前を通ると、腹が鳴りそうになる。 「椿。花子さん、生きてるっぽくない?」 「ああ。僕もそう思っていたところ」 「メガネ君からの差し入れがまだ無いから、確定的なことは言えないけど。まず花子さんに遭遇して、それを他者に話すことで学校を欠席するようになるのはほとんど間違いないかな」「その欠席が花子さんからの強要なのか呪いなのかはわからないけどね。三谷は花子さんと会話したって言ってるから、前者であってくれればかなり楽だ。呪いじゃ、僕らの手に負えない」高架下の横断歩道で赤信号に足止めされた。日が暮れてきて、建物は橙色に光っている。ガラス張りのビルなんかはあまりにギラギラしていて直視できない。街は、人の声と、車の煙と、誰もが背中を押されてしまうような社会の波のなかにあった。 「綾。もしもこの調査が途中で行き詰まったら、花子さんに会ってきてもらえないかな。……根気強く」 「ええっ、なんでオレが」 「花子さんの存在を口にすることで学校を欠席するようになるかどうかだけなら、綾が花子さんに会うことで簡単に解明できると思うんだ」 「マジで?」 「うん。僕が綾に『花子さん見た?』って聞いて、綾が花子さんに遭遇していた場合は、うんともすんとも言わなければいいんだよ。逆に、遭遇していないなら普通に否定すればいい。予め決めておけば、僕は綾の沈黙を肯定だと捉えることができる」 納得する反面、理不尽さも感じた。だが、椿の言いたいことはわからなくもない。体を張った情報収集なら椿よりもオレに適性がある。オレという尊い犠牲を払って新しい事実を手に入れれば、あとは椿が正しく考えてくれるだろうから。 「綾が現時点で考えたことはある?」 「あ、うん、それなりに。本当に心霊現象じゃなくて悪戯なら、花子さんは男子トイレに居るほうが都合いいなって」 「それは、……なんで」 「脅しを目的としてできるだけ怖い花子さんを演出するなら、個人でトイレに行く傾向がある男子を標的にするほうが効果的だと思うんだよね。恐怖が一あるとしたら、複数人でトイレに行く傾向がある女子が四人とかで花子さんに会ったとき、一人あたりの恐怖が〇・二五になっちゃう」 「なんだそのおかしな式は」 「そこは目を瞑って。とにかく花子さんを差し向けたヤツは、体験の共有を避けたかったんじゃないの。遭遇した生徒に話させないか、話した場合はひとりずつ家に閉じ込めておけば、対策されにくいから」 歩行者用信号機が青を示す。鳥の鳴く声を聞きながらオレは椿と歩を進めた。「明日はもう日曜日か。今日はとりあえず、滝元からの差し入れを待つことにしよう」 「あのさ、……画集、重くないの?」 オレたちはデパートが立ち並ぶ大きな通りを歩き続ける。椿は目を屡叩かせながら、「重いよ」と言った。 それからいくつか連絡が来た。会って話すことは難しいけれど、メッセージで良いのならば、という人が多く、聞きたいことをまとめたリストを送った。 すぐに返事が来た人もいれば、水曜日のお茶会の頃になっても来なかった人もいる。結局のところ、それら一つ一つに目を通しながらオレは花子さんと遭遇しようとトイレに通い詰めることになった。 トイレ近いんだな、歳か?と聞かれては曖昧に笑って誤魔化した。椿はどこ吹く風だった。 「どうだった?」 「なにが」 美術室で下描きをしているフリをしながらオレは顔を上げた。あくまでポーズなので実際に描く必要はない。 椿はこの前買ったルノワールの画集をペラペラと繰りながら眺めていた。どうやら気に入っているらしい。椿は少しだけ顔を上げた。しかし、すぐに画集に視線を戻してしまう。 「花子さんだよ」 「それが全然。タイミングが悪いんかなぁ?」 集まった情報を元に頻出する時間を狙っているのだが、一度として会わない。まあ、焦りは禁物だ。焦れば全てが上手くいかなくなる。 「お茶会は明日だけど」 「そうなんだよなぁ。……まあ、どうにかなるっしょ?」 「テキトーだな」 テキトーじゃないオレはオレじゃなくない?なんて椿に文句を言おうと口を開きかけた。 「失礼します」 そこへメガネ君がやって来た。手には紙袋を持っていた。それが建前上の差し入れだろう。茶道部は頻繁に色々なところへ差し入れをするから怪しまれない、というのは本当だったようだ。 「差し入れに来ました」 「おう、座れ座れ」 「ありがとう」 椿はルノワールの画集を閉じた。メガネ君は空いていた椅子に座った。オレはペンを置いて向き直った。メガネ君は紙袋からお菓子を取り出した。どうやら本当にお菓子を持ってきたらしい。有り難く頂戴しておいた。 「聞いてみたところ、ほとんど全員が花子さんと喋っているみたいです」 「ほう。どんなことを?」 「それが曖昧で――。あんまり教えたくないとまで言われちゃって」 「ちなみにメガネ君は何か話したのか?」 「いいえ、何も。あ、それと僕と同じように花子さんがニイッて笑うところを見た人はいませんでした」 「ん?メガネ君は花子さんと喋ってないのか?」 「え、はい――」 お菓子を取り出してつまみながらオレは持っている情報と照らし合わせる。オレが聞いた限りではいなかった。連絡がつかない人は全体の一割ほどいる。それと関係しているのだろうか。「とりあえず、明日のお茶会について説明しておきますね」 メガネ君はそう言って色々と説明してくれた。あらかじめ部長にはオレたちの参加を伝えておいてくれたようだ。 お茶会は準予約制らしい。あんまり知られていないのもそれが理由だろう。もちろん、当日の飛び込みも可能だが、お菓子を大量に持っていないといけない。それは面倒なのでちゃんと参加したい旨を伝えておいた。 「持ち物はお菓子です。個別包装が好まれます。お茶は用意してあるので用意しなくて大丈夫です」 「部長の名前と特徴だけ聞いて良いか?」 「あ、はい。名前は山田で、ヒョロッとしています。頭一つ飛び抜けているのですぐに分かると思います」 名前と特徴をしっかりと頭に入れておく。部長にも話を聞いてみたかった。なにせ前部長が信用している人だ。どんな人だろうか。 「それじゃあ、僕はこれで」 「おー。ありがとな」 「いえ――」 メガネ君はどこか不安げな顔をしていた。椿はルノワールの画集を開いて――、といってもポーズだが、何やら考えていた。かくいうオレも自分の持つ情報と照らし合わせていた。 「――……っ」 メガネ君がなにか言っていた、ような気がした。けれどそれは、オレには届かなかった。 翌日、オレたちはお菓子を持って会場に向かった。部屋の前に立っていたヒョロッとした男が部長の山田だろうか。オレたちに気付くとこけた頬を少しだけ上げた。骸骨みたいだ。 「やあ、来てくれてありがとう」 「いえ。参加を受け入れてくれてありがとうございます」 オレがにっこりと笑えば山田も目を細めた。椿はあふ、とあくびを漏らした。どうせルノワールの画集を深夜まで眺めていたんだろう。お茶会にはお菓子を食べに来ただけを装うつもりのようだ。オレとしてはそれよりも寝てしまわないかが心配だ。 「どうぞ」 部屋に入ると大きな会議机の上にお菓子の袋が、壁際には椅子があった。なるほど、お茶会は立食パーティー形式か。 「自由に過ごしていてね」 「ええ」 椿と共に机に持って来たお菓子を置く。部屋を見回せばたくさんの人が参加していた。意外と女子生徒もいた。椿はいくつかお菓子を取ると壁に寄りかかった。壁の花だ。 オレは飲み物を紙コップにうつしてから数人で話している二年生の男子生徒の輪にまぜてもらった。 「そういや、連れションが増えたな」 それぞれの部活の話や成績の話をした後、西原がそう言った。くりっとした丸い目が呆れたと言うように細められていた。 「あれだろ、花子さん!」 「そうそう。なんでも呪われるらしいぜ」 「へぇ、どんな話なんだ?」 あくまで知らない態度を取れば、河内と平井も乗ってくれた。たぶん、優越感を感じているんだろう。 「男子トイレの個室に花子さんが出るらしい」 「花子さんが?覗きかよ」 「三番目っつーのは守ってるみたいだぜ」 「俺の友だちは花子さんと話したっつった頃から調子が悪くなっちゃってさ。今は欠席してんよ」 「あー、相川だろ」 「そ。アイツ、なんか花子さんと話したみたいでさ」 「何を話したんだ?」 「さあ?教えてくんなかった」 「そーいやー、佐竹は?」 「あー、佐竹も休んでんな」 「でも佐竹は調子悪くなかったじゃないか」 「アイツ、花子さんが笑ったっつってなかったか?」 「マジ?」 やはり花子さんの話は二つあるらしい。予想通りだ。一つは花子さんと話して調子が悪くなるパターン。そしてもう一つはメガネ君と同じように花子さんに笑いかけられたパターン。後者は調子が悪くなかったが、前者はその頃調子が悪かった。 オレは肩をすくめた。あくまでポーズだ。怖がっておいた方が後々やりやすい。 「マジかー。トイレひとりで行けねーじゃん」 「だから連れション」 「野郎がすることじゃねーけどな」 「身の安全には変えられねーっしょ」 「あー、オレもそうしよっかなぁ」 「トイレ行かなけりゃ良い話だけどな」オレはそれに笑い返す。そりゃそうだ。 それから同じように色々な輪にまざってみたが、最初に聞いた情報以上のものはなかった。 「えぇ?今、花子さんって男子トイレに出るの?」 「そうみたいなんだけどさ。なんか知らない?っていうか女子トイレに花子さんって出ていたのか?」 女子の会話に紛れてもみた。二組の村瀬は小首をかしげた。 「んー、わたしは知らないなぁ?ハルリンは?」 「女子トイレの花子さんは知らないよぉ」 「だよねぇ」 「っていうか花子さんって七不思議だよね?どうして綾くんが?」 「次の絵のテーマが七不思議なんだけど、どんな七不思議があるかなぁって思って。リアルな話を集めてんだ」 「そんなので絵が描けるの⁉」 「すごーい」 ハルリン、こと春野は目を丸くしていた。しかし、どこか浮かない顔もしていた。 「春野は、茶道部だっけ?」 「え? ――ああ、うん、そうだよ」 「毎週こんなお茶会をやっているのか?」 「そうだよぉ。これは洋風のお茶会。和のお茶会は二週間に一回、お茶の先生が来てやっているんだぁ」 「ハルリンの正装、めちゃくちゃかわいいんだよ!写真見たんだけどさ――」村瀬が話題を変えた。春野は安心したような顔をしていた。 「楽しそうな話だね。えっとー、村瀬さん?だっけ?茶道に興味ある?」 そこに山田がやって来た。品定めをするような目をしていた。あんまり部員は欲しくないようだ。オレでもそう思う。なにせ村瀬は口が軽い。 「えぇー?正装はかわいくて良いなぁって思いますけど、茶道って堅苦しいイメージなんで、遠慮しときます」 村瀬はハッキリとそう言うとお菓子を取りに行った。春野もついていく。同じクラスじゃないのに仲が良いようだ。 「今回は何を調べて?」 山田はオレの隣にいたままだった。オレはハッと笑った。前部長から付き合いがある山田は、当然オレたちが何かを探っていると思っているらしい。 「差し入れをくれるなら教えても」 「どうせ男子トイレの花子さんだろう」 分かっているなら聞かなくてもいいものを。オレはふっと肩の力を抜いた。 「正解」 「それでは差し入れしておく」 山田はチョコパイをオレの手に乗せる。ヒラリと手を振って去っていく後ろ姿を見送りながらチョコパイの袋を裏返す。そこには協力者は茶道部にあり、とあった。たったそれだけ。いや、それでも充分だ。 「ハッ……」上等だ。 オレはベリッと袋を開けてチョコパイを食べた。チョコパイは妙に甘かった。 その週の金曜日、事態は急変する。メガネ君と同じクラスの金田から連絡が入った。メガネ君がもう三日も休んでいる、連絡がつかない、と。三日、ということは水曜日からだった。 椿に一報を入れればどうやら想定内のようだ。今回は筆を紙の上で遊ばせながら退屈そうに頬杖をついていた。かくいうオレも焦っていない。こうなるだろうことは分かっていた。そして、それはメガネ君もそうだろう。 彼は相談時に欠席になる、ではなく消される、と言っていた。それはつまり、笑いかけられたパターンの人は連絡が取れなくなることを意味する。連絡が取れないイコール消されるというのはなかなか発想がぶっ飛んでいるが、まあ良いだろう。 今日は誰が休みだった。昨日は、その前は。そうやってどんどん増えていく。教師は空っぽの座席を見て呆れたようなため息をつくだけだった。 「花子さんは?」 「……」 オレは何も返さなかった。椿はふいっとそっぽ向いて筆で遊ぶのに飽きたのかラッセンの画集を見ていた。それはずいぶん前に買った画集だった。何年か前に有名画家よりラッセンが好き、などと叫ぶ芸人がいたが、一年ともたずに芸能界で見なくなった。まあ、そのおかげでラッセンの知名度が上がり、ラッセン好きは落ち込んだり喜んだりと忙しそうだったが、オレたちには関係ない話だった。 「ま、良かったな」 尊い犠牲だ。有り難いと思え。そう思いながらオレは椿を睨んだ。椿は涼しげな顔をしてペロリとページを繰った。 オレは不貞腐れながらノートの隅にニコちゃんマークを描いた。椿は横目でそれを確認するとフッと笑った。メガネ君という例と同じにするならば、オレも消されるということだ。でもたぶん、椿はこう言う。 「ま、暴けて良いんじゃない?」ほらな。そう言うと思った。 「パンか?それともソフト麺か?」 椿はコンパクトな筆箱から二本のペンを取り出す。青色のマーカーを「パン」、黄色のマーカーを「ソフト麺」と言って差し出した。 「いや、ドクペだな」 「ドクペか……」 傍からみたら訳の分からない遊びのように見えるに違いない。椿の言いたいことは恐らく、朝見たのか、昼休みに見たのか、これだろう。朝は椿が来るのを待ちながら惣菜パンを頬張っていたし、今日の給食のメニューはソフト麺だった。そしてオレが炭酸に飢えドクターペッパーを購入したのは二時間目の休み時間。つまり、そういうことだ。 「それで、椿の方は何か分かったか?」 「いいや?何も」 「えっオレ無駄死に?」 「無駄死にだな」 他人事だと思って平然と言ってのける。そこは嘘でも「助かったよ」とか「君のおかげだよ」とか一言くれるもんじゃないかね、椿くんよ。 「無駄死にかぁ」 厳密に言えばまだ口に出してはいないけど、なんて屁理屈が花子さんに罷り通るとも思えないし。随分と短い人生だったなと古い記憶を走馬灯に見立ててテキトーに思い返していると、椿が真剣な顔で、ただ、と続けた。 「ただ、少し妙な点が四つあるんだ」 「なんだ。ちゃんとあるんじゃんよ」 椅子にもたれた体を椿の机側に寄せて身を乗り出す。 「まずは、彼女を見たって奴らの話がやたら整いすぎているってところ」 「おー、確かに。今の所『話しかけられて逃げた』タイプと、『笑いかけられた』タイプの二種類だけだな」人によっては立ち向かったり、無視したり、接触を試みたりするパターンもあっておかしくないはずだ。 ちなみに俺は笑いかけられた方。何を言っても無言で笑うだけだから、とりあえず足元が透けてないことだけ確認してから撤退してきたのだ。そう、あれは戦略的撤退である。逃げた訳では無い。 「あぁ。文言までかなり似通っている。まるで、マニュアルがあるみたいだ」 「ということは、この花子騒動自体がある団体による自演、もしくは話を合わせることで何らかの利益がある……という線も見えてくるな」 「そう。そこで二つ目なんだが、綾、この間の火曜のこと覚えているか」 「火曜日?何かあったっけ」 「滝元が差し入れに来た日だ」 「あー、あれね。覚えてるけどそれがどうかしたのか?」 「綾も聞こえただろ、滝元の最後のセリフ」 その椿の言葉に、あ、ちゃんと話聞いてたんだ、と思ったけどあえてそこには触れないでおく。てっきり椿のことだから画集と羊羹のことでいっぱいで、メガネ君の話なんて所々飛んでたんじゃないかと思った。 「最後の、ってあれ聞こえたのか?」 「あぁ。『どうかあいつを救って下さい』って」 あいつ、ね。メガネ君からそんな感じの話聞かされてたっけ、と思い返してみても心当たりはなく、それは椿も同じらしい。さっぱり、と言ったように首を緩く振って両手を胸元あたりに挙げた。 「なるほどね。で、それがマニュアルっぽい証言とはどんな関係が?」 「救う、ってことは誰かを花子から守ってくれって意味なのか、それとも花子を守ってくれってことなのかの二択で考えてみたんだよ。滝元は一週間前の金曜、僕たちに相談に来た時点で自分が消されることを想定していた。もし、前者なら守りたい相手のことも初めから僕たちに相談していたと思うんだ。と言うより、隠すメリットがない」 なるほどな。確かに、メガネ君は花子さんの話を他人にするとどうなるかを知っていて、その人物のことを伏せていた。 「怪しいね」 「だろ。だから僕は後者だと思う。つまり、『あいつ』は花子のことじゃないかって」「メガネ君は花子さんの正体を知っていたかもしれない、ってこと?」 「あぁ。山田の言ってることとも繋がるし」 だとしたら、メガネ君の目的は何だ……。オレたちにわざわざ仲間を売るような真似をしたその理由は。 『協力者は茶道部にあり』 チョコパイの袋に書かれた言葉を思い出す。 椿があれを覚えてるとはこれまた意外だ。その袋を壁にもたれかかっていた椿に見せても、なるほど……と言ったきり固まったから興味無いのかと思ってた。 「次、三つ目な。その後たまたま一の三に行く用事があったから、知り合いの学級委員に聞いたんだが」 いつの間にかお茶会からいなくなったと思ったらそれだったのか。 たまたま下級生の学級委員の知り合いがいること自体が初耳だけど。とは口を挟まずに大人しく話を聞く。 「先月の欠席者一覧を見せてもらったところ、面白いことが分かったんだ」 一年生の欠席者に面白いも何もあるだろうか。疑問に思いつつ、椿が机から取り出した欠席者一覧のコピーを眺める。薄くシャーペンで印が付けられているところ。そこにを辿って読む。なんと月の後半ごっそり欠が付いている。少々卒業が危ぶまれるが、余計なお世話だろう。それで名前は……と。 はるの わたる……ん?春野? 「春野って茶道部の?」 「の、弟だ」 「へー、弟いたのか。てっきり末っ子だと」しかしこれを面白いと思うだなんて。 「不謹慎なやつめ」 「違う。何が面白いかってさ、普段から休みがちな奴らが多いんだ、花子の被害者。先月はまだ花子の被害者が出ていないのに、ちょっと妙だろ?」 花子さんに会う前から休みがちだった人が多く、偶然にもその中に春野の弟がいる。それからメガネ君のあの言葉、山田の『協力者は茶道部にあり』という助言。うん、オレの尊い犠牲のおかげもあり、確実に真相に近づいてきている。 「なるほどな。確証付けるには被害者の共通点をもう少し調べたいところだけど、それはそうとして四つ目は?」 「それがさ、お茶会の正装ついてなんだけど」椿は一段と真剣な顔をする。 ほう、正装か。結構近くで見てたけど何かおかしな点あったかね。 「あれ、手作りらしい…結構クオリティ高いよな。次の作品のモデルにしたいくらい」解散だ解散。 「さて、何から手をつける?」 「オレに考えがある」 放課後の美術室、キャンバスには絵ではなく秘密裏に入手した、というか普通に学級委員に頼んであっさり手に入れた三学年分の先月の出席簿。オレと椿とで、ひたすら両端から『欠席日数が多いやつ』と、その中でも『まだ花子と関わっていない可能性のあるやつ』を割り出していく。ここで再びお茶会での情報収集が役に立つ。 そうしてある程度花子と接触しそうなやつの山を張って、尾行するというアナログな戦略だ。が、この作戦には大きな穴がある。 「だめだ……目が悪くなりそう」 「漫画とそう変わらないだろ」 「全然違う、数字に味はないからね」 「漫画にも味はないが」 分かってないな椿は。と、とくとくと漫画の味について語っているうちに五人にまで絞ることが出来た。 「よし、どれも面識がない。連れションに誘われることもないな」 「あぁ。早速月曜にでも張るか?」 「そうだな。じゃあ、その時はソフト麺で」 月曜の給食のメニューなんて覚えてないし、二日続けてソフト麺なわけないことは分かっているけど、ここはあえて椿の言葉を使った。 しかし椿は、何を言ってるんだ?みたいな顔をして、 「月曜はカレーだ」こいつは……。昼間、椿とオレは枝松という男子生徒を静かに追っていた。絞り込んだ五人はもともと欠席日数が多いということもあり、オレたちが行動したいときに都合よく学校に居るわけではなかった。月曜日、カレーのあとの時間。たった一人登校してきた枝松を二人で見つめる。二年生の教室がある二階のトイレ付近には、まだそれなりに人がいた。 「誰かに話したら欠席するようになるっていうのは結局、……逆なのかもしれないな」 「やっぱり椿もそう思うか」 「うん。どちらかというと、誰かに話してからじゃないと、欠席が許されないんだろうね」 チェーンメールじゃないけど、噂を流してより多くの生徒が欠席すれば、学校も重い腰を上げて問題に対応せざるを得なくなる。じゃあ尚の事、なんで男子トイレだけにしか花子さんは出現しないのかって話だ。 「シンプルに考えれば花子さんは男性である可能性が高いし、三谷が嘘をついていなければ、花子さんはかなり幼い。幼いなら、性差も目立たない。女装しようが会話しようが『花子さん』は『花子さん』だ」 「とは言っても山田いわく『協力者』は茶道部にいるわけで、……茶道部にそんな小さい生徒いるか?」 「綾。『協力者』が茶道部にいるだけだよ」 「そうか。あくまで『協力者』か」 二人で話し込んでいると、しばらくして、枝松が一人でトイレに向かった。オレたちはその姿を見て、なるべく自然に後を追った。 「ねえ、とおるは、きょうもおねえちゃんのがっこうにいくの?」 「うん。ごめんね。透の保育園が見つかるまでね」 透を手製の服に着替えさせる。お姉ちゃんが戻ってくるまでに脱いだりしたら駄目だからねと念を押し、私は台所に戻った。透は黙って出発を待っていた。お気に入りの妖怪図鑑を開き熱心に机に向かっている。その様子を確認してから、私はプレートを持って廊下を歩いた。 「渉、朝ごはん。まだ咳出てる?」 渉の部屋の前に立つ。渉の返事は聞こえなかった。渉は返事をしているかもしれないが、大きな声を出すのがつらいのか、やはり聞こえない。入るよと声を掛けてから、片手でゆっくりと扉を開けた。咳をしながらも、渉はこちらを見て頷いていた。「おはよう。ごはん食べられそう?」 「うん。ごめん、香姉ちゃんも忙しいのに」 「大丈夫だよ」 私はなるべく、笑うようにした。渉が座っているベッドのサイドテーブルに食事を置いて、漢方薬と水のコップを差し出した。渉は上体を起こして、私を見た。 「ねえ、香姉ちゃん、学校で変なことしてないよね」 「え……変なことって?」 「透を連れて行くこと、本当に学校に言ってある?」 「うん。……ちゃんと許してもらってるわけじゃないけど……ほかに預かってもらえるところもないし。それに今は、茶道部の皆が協力してくれるから」 「そっか。本当は、俺が透の面倒を見られればよかったんだけどね」 「何言ってるの。もし渉が透の面倒を見られる状態だったら、そもそも渉は、学校に通えてるでしょ」 「そうかな。どうだろう……でも、俺が病院に行く日はなるべく透も連れて行って、キッズスペースに座らせておく……」渉は漢方薬を開封し、丁寧に水で喉へ流し込んだ。私はカーテンを開けて部屋に光を入れた。綺麗なままの教科書が、本棚で眩しそうに背を光らせている。 「食べ終わったら、テーブルに置いておいて。起きられそうだったらお昼食べてね。冷蔵庫に入ってる」 「わかった。ごめん。迷惑かけてばっかりで」 「いいよ。でもお姉ちゃん的には、ごめんより、ありがとうって言ってほしいな」 「あ、うん、ごめん。違う……ありがとう」 私は渉の頭を撫でた。自分と同じ高校生を子ども扱いしすぎだろうか、と思う反面、いくつになっても弟は弟で、守りたい存在であることに変わりはないという思いもあった。欠席が嵩んでいるとしてもそれは渉のせいではなく体調のせいで、渉が不甲斐ない気持ちになったり、責任を感じたりする必要はない。笑顔のまま、いってきますと扉を閉めて、待っていた透といっしょに高校へ向かった。 枝松はまだ、男子トイレから出てこない。これはおそらく、花子さんとの邂逅を果たしているのだろう(そうであってくれれば尾行のしがいがある)。「綾。さっきの続きだけど、ご存知の通り僕はそれなりに頭が悪いから、茶道部だの協力者だのの話を聞いたあとで欠席しがちな春野渉の存在を知ったらそれが偶然とは思えない。本当に偶然だとしても、僕はそこに接点を見出したくなる」 「そうだね。おまけに、メガネ君の『どうかあいつを救って下さい』って発言もあるからね」「動機はさておき、滝元が茶道部の内情を知っていたとして、ほとんどの情報を伏せて美術室に足を運んだんだから隠したい理由が……いや、全てのことに確信が持てないから、敢えて僕たちには黙っていたのかもしれないけど」 「確かに。オレたち前情報があると外堀を埋めるよりもまず関係者に突撃するからな。その方が手っ取り早いこともあるし」 「綾の場合は特にその傾向がある」 「でもド直球で遠慮がないのは椿の方ね」 「そんなことはない」 「そんなことあります」 昼休みで人通りが多いためか、オレたちが立ち止まって話し込んでいても、幸い目立つことはなかった。一方で、トイレの利用者は少なかったが。「で……誰かに話すっていうのは、『花子に会えば学校を休んでもいいらしい』って噂を流すってことなんだよ、多分。男子トイレに花子さんが出るらしいとかいう生半可な噂じゃなくて、休めるぜっていう。これも花子さん本人から頼まれてると見たな」 「そうか。だから、話された内容を聞かれたときに答えられないやつが居るのか……」 「それぞれの理由で休みがちな同級生を救いたい男児は懸命に噂を流すし、証拠作りも兼ねて自分も休む」 「義務教育ではない、という点が活きてくるわけだ」 「どうだろうね。来年度、留年する生徒が続出したりして。まあ、転校も高卒認定も簡単じゃないんだから待ってればそのうち終わる騒ぎではあるのかも」 ふと、扉の開く音がした。椿とオレは、一瞬、顔を見合わせる。枝松だ。ふらふらと、何事もなかったかのように教室へ戻っていく。 「僕が追う。綾は五時間目の授業サボって」 「……なるほどね。でも、オレが先生に怒られたら椿のせいにするから、そのときはちゃんと椿もいっしょに謝ってよ」 「断る。じゃあ、また後で」断るなよ。そう言いかけたオレを気にすることもなく椿は枝松の背中を追いかけて歩いた。オレは変わらず男子トイレに張りついていた。 南門の近くで、私と透は植込の影に隠れた。周りを少し確認して、私は透の帽子を取った。 「透、最初の鐘が鳴ったら、ここを通って、いつものお教室に行ってね」 「うん。わかってる。それで、おわりのかねがなるまえに、とおるはトイレにいくんでしょ」「すごい。もうちゃんと覚えてるんだね。はじまりの鐘が鳴ったら、またお教室に戻って待ってて」 「ねえ、またおかしたべてもいい?」 「あ、うん。いいよ、お茶会で余ったやつだから」 休み時間、人の往来が激しいときは、茶道部の部室に隠れたとしても覗かれれば周囲に透の存在がわかってしまう。本当はいつでも鍵がかけられるトイレの個室にずっと居てほしいけど、常識的に考えて小さい子どもを何時間もそんな場所に閉じ込めてはおけない。リスクも承知で、授業中は、茶道部の部室で遊んでいてもらう。部長や滝元君にバレてからは、二人もたまに透の面倒を見てくれたりする。サボりついでに。「透、確認ね。トイレで誰かに見つかったときは」 「みつかったら、うそのなまえをいう。とおるじゃなくて『はなこ』っていう」 「そう。透が透だってわかったら、学校がママに電話かけちゃうから。でも、そのあとたくさんトイレに人が来そうだったら――」 「いっぱいのおしゃべりはしない。えがおだけ」 「うん。あとは、いつも通りのお話をしてね」 「ちゃんとおはなしする。おにいちゃんががっこういけるように、みんなにおはなしする」 「ありがとう、透。……ごめんね」 渉にそうするように、私は透の頭を撫でた。父と、再婚した女性の間に生まれた、幼い末っ子。歳が離れていても、母親が違っても、私にとっては渉と同じように、どうしても守らなければならない存在だ。 「お姉ちゃんが迎えに行くまで、最後はトイレで待っててね。また何個かお菓子持ってくるから」 「わかった。おねえちゃんじゅぎょうがんばって」私は聞き分けのいい透に甘えて、正門に向かった。別に、一人だからどうということはない。前に花子さんと会おうと粘ったときだってオレは一人だった。だから授業をサボって男子トイレの前に立ち尽くす不条理だってオレは受け入れる。教壇から見える景色の死角に身を収めなければならない窮屈さだって受け入れる。それぞれの教室で五時間目の授業が始まり、廊下はすっかり静まり返っていた。先生たちもこのトイレを利用していれば早期に発見されたかもしれない。まあ、先生たちはほとんどの場合教職員用のトイレを使うのだから、それも無理な話か。オレは一応、スマートフォンを確認した。まだ椿からの連絡はない。枝松が早退なりしていれば椿も早退するだろうし、枝松が平然と授業を受けているのであれば椿もサボり中だ。 ――何の音沙汰も無いな。 扉は開かない。枝松が花子に会っていないことも普通に有り得るのだから、変な期待はしないが。だがこうも焦らされると、解決したい気持ちが先走る。オレは男子トイレの扉に手をかけた。念のため周囲を確認したが、特に誰もいない。みんな真面目に授業を受けているということだ。オレは特に迷いなく扉を開けた。すぐに、デジャヴを感じる。奥側の個室のわずかな物音に耳を澄ませた。金曜日の休み時間に見た姿が、たしかに、そこにはあるはずだ。オレは焦らずに個室へと近づき、中を確認した。 「え……山田、と、花子さん」 「やあ。どうも。こんにちは。君が外にいたから、出るに出られなくて困ってたんだよ」 「いや、いつからここに?」 「今日の昼は最初から。途中で何人か出たり入ったりしてたから、そのときは隣の個室にいたんだけど。しかし君も椿君も滅多に授業をサボるような人じゃないと勝手に思い込んでいたから……油断したな」 オレはため息をついた。椿の予想通り、花子さんの出入りがあるとすれば、トイレ利用者が少ない授業前半だったのだろう。花子さんが生きているなら、何時間もトイレだけに居られるはずがない。花子さんが素直に出てきてくれればそれはそれで楽に済んだような気もするが、オレに気づいてトイレの中で粘ったお迎えの山田付きのほうが、話は早いかもしれない。 「で、その子どもはいったいどこの誰なんだ」 「知ってどうする?」 「そりゃ、家に帰して、人を困らせないようにって家の人に伝えてもらうのがいちばんだと思うけど」 山田は腕を組んだまま、オレを見下ろした。 「それで問題は解決するのかい?」 「……しないわけか」 「意地悪を言うわけじゃないけど、美術部は相談屋なんだろう。花子さんの正体を知るよりもまず、相談者の問題を解決しようとするべきだ」 山田の穏やかな語り口に、緊張感が走った。オレは少しずつ、思い出す。当初メガネ君は、話したら僕も消されてしまうから一週間以内に解決したい、と述べていたはずだ。加えて、山田からの『協力者は茶道部にあり』という煽り。オレたちが一週間以内に解決できなければ、規定通りメガネ君は学校を休み始める。するとメガネ君は、今の山田のような花子さんの子守りに協力できなくなる。それはメガネ君にとっても花子さんにとっても望ましくない結果だったのだろう。それならメガネ君の言う『あいつ』というのは。 「──春野、か」 春野の名前を出すと、花子さんは初めてまともにオレのほうを見た。ポケットの中で、スマートフォンが短く振動する。取り出して電源を入れると、椿からのメッセージだということがわかる。 『早退した枝松を追いかけて捕まえた』 『今から美術部として、彼の相談に乗る』 『綾の方も何か動きがあったら知らせてほしい』 枝松を捕まえて新鮮な情報を吐かせようとしてる、って……やっぱり、ド直球で遠慮がないのは、椿の方だ。 山田は花子さん――、もとい春野の関係者らしい子どもの手を引いて茶道部の部室へ行った。そこで待機らしい。子どもは不安そうな顔をしてオレを見ていたが、小さく手を振るだけにした。 オレはそれを見送って美術室に向かった。椿は美術室では事情を聞いていなかったから、考えるためにこもった。 授業?そんなもんは受けずともなんとかなる。今は混乱した頭をどうにかしたかった。 『相談屋ならば相談者の問題を解決しようとするべきだ』 山田の言葉は最もだった。オレたちは相談屋。なのにメガネ君のことを気にせずに、花子さんを捕まえようとした。彼は望んでいなかったはずなのに、だ。 「まだまだ足りないな」 尊敬するオレたちの前部長ならこんな事態は招かなかった。メガネ君が消されることも、山田からあんな言葉が吐かれることも、椿が詰問をしにいくことも。すべてオレに力がなかったから。オレが、見逃していたから。 あぁ、こんなんで本当に部長なんて務まるのだろうか。椿の方がしっかりしていて、オレよりも信頼されるのに。どうして椿が部長じゃないんだ? 小さな音がする。暗くなっていた思考のまま、本能的にスマートフォンを取ればそこにメッセージが表示されていた。送り主は前部長だった。 『元気にやっているか?』 それだけ。その十文字程度のメッセージがオレをそっと掬い上げた。バチンッと自身の頬を勢いよく叩く。赤くなろうが構わない。 オレは、あの人から大切なものを引き継いだ。あの人が作り上げた『相談屋』を、オレは守ると伝えたはずだ。ほどほどにな、と笑ったあの人は、オレを――、いや、オレたちを信じてくれていた。こんな格好悪い姿なんて見せられない。立ち上がって美術室を見る。そこらにあるのは前部長のコレクション。管理もオレたちの仕事だ。 『まあまあ元気です』 前部長への返事を送って椿に連絡する。椿の方も情報を得たらしい。報告会をするか聞かれていたが、聞かないと返事をして早退することにした。この事態をおさめるため、そしてメガネ君の願いを叶えるために動こうと決意した。 『分かった。僕にできることがあればやるよ』 珍しく協力的だ。こういうときの椿は、非協力的だと思ったんだけど。心境の変化か?いや、あり得ないだろう。 『僕も事情を聞いたから』エスパーかよ。 ゆっくりと目を開けて私は周囲を確認する。薄暗い室内だが、カーテンから微かに光が漏れていた。慌てて身体を起こすと時計は寝坊を告げていた。 バタバタと顔を洗って髪をととのえて、制服を着て、朝ごはんを作って――。フライパンをコンロに乗せた瞬間、身体が傾いた。ドサッと音がして視界がひっくり返る。天井に小さなシミを見付けた。 いや、そうじゃなくて。動かなきゃ、と思うのに身体は動かない。下敷きになった右腕が痛い。ひゅっと息が漏れる。 トタトタと足音が聞こえる。透が起きたみたいだ。じわっと視界が濡れる。 ごめんね、朝ごはん、まだ、できていないの。でも、すぐ作るから。 「おねえちゃんっ⁉」 透の声が悲痛そうに聞こえた。笑おうとしたけど口元が引きつってうまくいかない。 あれ、笑うのって難しかったんだ。 「どうした、透……って、香姉ちゃん⁉……ゲホッ、うっ……、」 渉まで来たの?起きてこれるなんて調子が良いみたいね。これなら学校に行けるねって言いたかった。 けれど喉が引きつって声が出ない。肩に温かな手が触れる。渉の手だ。小さな透の手も分かる。でも、もう動けそうもなかった。 「おにいちゃん!おねえちゃんっ!」 「ぅ……、とお、る?く、すり……」だめだよ、それは発作じゃない。 でも透はパタパタ駆けていってしまった。薬の場所は有事のために教えていた。それが仇になった。 「おにいちゃん!」 その時、チャイムが鳴った。透の足音が遠ざかっていく。知らない人かもしれないから出ちゃだめって言ったのに扉を開けてしまったようだ。 足音が増える。 「春野!おい、聞こえるか⁉ってあつッ!」 「綾、とりあえず救急車!火を止めるのも忘れずにね」 「火って……、あぁ、これか」 お茶会で聞いた美術部の二人の声だ。あのとき部長がネズミがいるって言ってたけど二人のことだったんだ。 これでもう何もできないね。渉を、学校に行かせてあげたかっただけ、なんだけどなぁ。 「んで、こっちは――っと」「渉くんだね。大丈夫、深呼吸しようか。僕の真似して。そう、上手。……うん、発作じゃなくて良かったよ」 もう、何も見えないや。 暗い視界の中、音が徐々に遠ざかっていく。そう言えば、最後にちゃんと休んだのって、いつだったっけ――。 春野の家に行く二日前。オレたちは校長室に来ていた。 五センチはある分厚い書類を抱えたオレはさぞ思い詰めた顔をしていたらしい。隣にいた椿が容赦ない力でオレの背を叩いた。 くそ、本当に容赦なかった。思わずむせた。 「大丈夫さ。気楽にやろう」 「お前のそのなんくるないさ精神はどこから来るんだよ」 「おじいちゃんと話すだけだよ。緊張なんてしない方が綾には良いと思って」 椿はそう言うと扉をノックした。中から入室の許可が聞こえた。ノブに手をかけて開けた。 「やあ。美術部の二人だね。よく来てくれた」「いえ、お時間いただきありがとうございます」 校長はハゲていなかった。白髪でもない。うん、ちょっとふわふわした髪だけど天パではなさそうだ。目尻に寄ったシワとか、口元のシワとか年季が入っている。集会とかで遠目に見たことはあったけど、こんな近くで見るのは初めてだ。うわ、意外と小さい。 部屋の中はイメージより豪華ではなかった。もっと盾とかトロフィーとか飾ってあるものだと思っていた、勝手に。 ソファーに案内されて座る。おい、ふかぁってしたぞ、これ。うわっ、沈む沈む。埋もれちゃう。オレは姿勢を正した。椿はふかぁっとソファーに埋もれているようだった。おいおい、しっかりしろ。 オレは小さく咳払いをした。頼むから大人しくしててくれよ。 「生徒の大量欠席に関して意見があるそうだね」 「ええ。彼らが休んだ理由は不明ですが、一人だけ学校への登校が難しい生徒がいまして」 「ほう」 「学校に登校することは授業を受けるためには必須です。ですが、どうしても難しい事情の生徒だっているんです」「そのため、僕たちは意見書を作りました。体調が優れない、家事をしなくちゃいけない、幼い弟や妹の面倒を見ないといけない。そういう生徒にも学びの機会を与えることが学校の責務だと考えます」 椿め、良いところを取りやがったな。まあ、良いけどさ。 書類を机の上に乗せた。 「結論から言ってもらおうか」 「ええ。結論から言えば、遠隔授業を行いたいです」校長は特に何も言わなかった。表情も読めない。 「遠隔授業は動画形式で行います。実際の授業を撮影後、編集して生徒が観られるようにします」 「教師の仕事を増やす気か?」 「いいえ。編集は映像部が行います。彼らに許可は取りました。映像編集の練習として歓迎されています」 「すべてのクラスをやろうとしたら大変なことだぞ」 「ええ。なので学年別に一週間分を公開します。映像部と編集体験をしたい生徒、授業で取り扱うことでまかなえる計算です」 「教師陣のメリットは?」 「動画として残すことで授業の研究がやりやすくなります。また、生徒が復習として使うことで試験の点数が良くなります」 校長が黙った。他に質問はないみたいだ。実際、デメリットはほとんど潰しておいた。教師陣の仕事が増えるとか、学校にメリットがあるのか、とか。 色々な部活や先生に頭を下げて頼んで回った。それが広まったのか、出来上がった意見書を校長まであげられるようにしてくれた。 「この制度は、主に病気などで登校の難しい生徒や、生理休学申請した生徒に使ってもらうことを想定しています。また、インフルエンザなどの公欠扱いになる欠席も含みます。これにより、授業についていけない生徒が減ると予想されます」 「どうしても登校できない理由がない限り、使えないということかい?」 「いえ。動画自体はどの生徒も観られるようにします。しかし、その視聴をもって出席とする制度を利用できる生徒が先ほどあげた例に該当する……」 「率直な意見を言っていいかい?」 ごくりと唾を飲んだ。 「ええ、どうぞ」 「私は賛成したい。これによってメリットはとても大きい」 ほっと息を吐き出す。椿がオレの背を叩いた。痛い痛い。だから手加減しろって。 「私は元々そういうことをやりたかったんだけどね。いかんせんそういう意見を持ってくる教師がいなかった」 「まあ、対面で行うことがベストですけど」 「けれどヤングケアラーといった生徒も出てきている。病気や怪我などで通学が難しい場合も、登校が必須と言われると休学か退学しか方法がなかったものだ」 「はい」 「それが改善される良い意見書だ。生徒が提案するという形も素晴らしい。ここまでの君たちの努力を私は讃えたい」 「ありがとうございます」 「ただし一つだけ訂正だ。編集は教師陣も分担する。授業を使わなくても大丈夫にする。生徒にばかりやらせずに、教師もやってみれば良いさ。無駄に気付いたりもするしね」ふふっと笑った校長はちょっと子どもっぽい。うん、良い人だ。 「こんな素敵な提案をしてくれてありがとう。ぜひ、今週中に実行しようか」 「その場合、早速その制度を使わせたい生徒がいます」 「良いだろう。はじめは至らない点ばかりだろうが、少しずつ改善していこう」校長はそう言って右手を伸ばした。 「協力してくれるね?」 オレは椿と顔を見合わせる。椿は好きにしろ、というポーズを取っていた。面倒だって思ってんの、分かってからな。 「オレたちのできる範囲で良ければ」 だからそう返した。美術部の活動には影響がなくとも、相談屋の活動には影響があるかもしれない。さすがにそこは譲れなかった。 校長はハハッと笑った。某有名テーマパークのキャラクターみたいだった。 「なんでもって言わないあたりが賢いね。まあ、良いよ。高校生は私たち教師の想像以上に忙しくて楽しくて青春しているからね」 「それじゃあ僕たちはこれで」さっさと立った椿がオレを急かす。おい、お前どうやって立ったんだ。このふかふか、立てんぞ。ジタバタしていたら椿が助け起こしてくれた。その後についたため息さえなければ完璧だったのにな、おい。 「失礼しました」 校長室を出てオレたちは美術室に向かう。その足取りは平時より少しはやかった。 美術室にはメガネ君がいた。不安そうな顔を消し去りたくて親指を立てた。メガネ君の表情が一気に華やぐ。ありがとうございますっ、と勢いよく告げられた。 「うまくいったな」 「だろう?綾は緊張しすぎ」 椿が笑む。オレも小さく笑った。 メガネ君は茶道部に報告に行っていた。これで春野たちの問題も解決だ。そうすると必然的にメガネ君の相談も解決したことになる。 事の顛末はこうだった。 ハルリンこと春野香は病弱な弟、渉の欠席が嵩んでいることを気にかけていた。このままでは友だちもできず、授業も受けられず進級できないのではないか。 そこで遠隔授業の提案を教師にしたが、教師は話も聞いてくれなかった。そのとき、教師がボヤいていた生徒の欠席率が低いから、という言葉に彼女はひらめいた。欠席率が高ければ学校側も対応せざるを得なくなるだろう。そのときにもう一度提案をすれば聞いてもらえるのではないか。 その頃、茶道部のお茶会で調子が悪くて休みたいとボヤいていた生徒に目をつけた。彼らは調子がちょっと悪いだけで学校を休めないと思っていた。春野はそれを利用した。 まず、男子トイレに花子さんが出るという噂をばら撒いた。それから保育園が決まらない異母兄弟の透に女装させてトイレに配置した。透には渉が学校に行けるようにするために休んでほしいと『花子さん』として話をするよう伝えた。 ただし、休む前にチェーンメールが如く花子さんの噂を広めるよう約束させて。そうして『男子トイレ』の花子さんは広まった。 しかし全てが順調ではなかった。噂をばら撒き始めた頃、春野は山田に問われた、何をしようとしているのか、と。春野は仕方なく計画を話した。山田はそれを聞いた後、透が長時間トイレにいることはマズい、と言って茶道部の部室で透を預かると言った。もちろん春野は止めた。しかし、幼い子どもの安全には替えられないと言って譲らなかった。こうして茶道部全体が協力者になった。 そこからは比較的スムーズだった、メガネ君が協力できないと言うまでは。 メガネ君はたくさんの生徒が休んでも対応を変えない学校に諦めを抱いていた。それと同時にこれ以上続けても変わらないだけでなく、渉が気負うだけだと判断した。姉にこんなことをさせてまで渉が通いたいのか、メガネ君には分からなかった。けれど、今の春野の状況を渉が望んでいないことは分かった。 メガネ君は度々渉と勉強会をして仲を深めていた。メガネ君が来る日をカレンダーに印をつけて待ちわびるほどに渉は楽しみにしていた。今度は学校で会いたいね、と言う渉が、春野の行為を許すとは思えなかった。 そして、彼は賭けに出た。それが美術部に相談することだった。 あとは全て今回の相談に繋がっているので割愛する。 「いつ伝えるか?」 「正式決定は明日って言ってただろう?」 「そういやそっか。じゃあ明日か?」 「いや、明後日の朝かな。明日の朝、正式決定されるかは分からないしね」 校長に渉のことを伝えたため、明日にはこの制度の実施と共に利用生徒第一号が発表される。校長、即決即実行型だったな。こっちとしてはありがたいけど。 「家の場所は?」 「もう分かっている」さっすが。 オレたちが春野の家を訪れてから一週間が経った。春野は回復し、高校に来ていた。透は高校近くの保育園に通えることになった。渉は遠隔授業で出席をしている。全てがうまくいった。 「……なのになぁんでいんのかなぁ」 「良いじゃないですか、別に」 「そうだな。茶道部はしばらく活動休止も同然だからな」 「だからってここを貸すとは言ってないんだって」 「良いだろう、別に。邪魔はしていない」 「そぉいう問題?え、オレがおかしいの?」 美術室には茶道部がいた。保育園帰りの透がスケッチブックにクレヨンで絵を描いていた。 「まあ、良いけどさ」 「もちろんタダじゃないさ。茶道部は今後、美術部の協力者になろう」 「はっ⁉」 山田の言葉にオレは驚く。山田を凝視すればどこ吹く風。痛くも痒くもないようだった。 「今回はかなり迷惑をかけたからな」 「それはありがたい。これからもよろしく」 椿が山田と握手する。ほんっとに、お前は勝手に……。 けれどふはっと笑う。 「んじゃ、よろしくな」 「あぁ」

部誌用書き下ろし

こんにちは。文芸研究同好会です。過去の部誌(刻15号・刻16号)の、ブログに掲載していない作品を公開します。※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。後部座席/鱸君じゃない人に会うから仕方なく袖の毛玉を切るひとつずつ似たような答が鈴のD香る線の隣でゆるみはじめた歌うたい余白に黄色を敷き詰めて財布も携帯電話も持たずひまわりの種を数えたその日から野に降る日ざしは知らない音春風と君は鋼の龍に乗り時を止めたり巻き戻したりそれなのに起承転結トロニヘと積んだ日夜に檸檬をそっと階段を上った暑さ空の青今日のために生きていたらしい別に誰も読んでないと思うから言っちゃおうかな。みんな大好き誓いのキスなんて/空色さくらもち「ふぁ…」全身が怠くって、鉛のように重たい。何とか持ち上げた右手で縋るように目の前のシャツを掴むと、持ち主は小さくクスっと笑う。「ふ、ふふ。しおんさんもうちょっと上、来れますか。落ちちゃうから」シャツを握りしめていた手をそっと解かれて代わりに、朔の冷たい手に包み込まれる。その冷たさに夢の世界から一瞬だけ引き戻される。「ん゙…むぃ゙……」「んはは、むりかぁ」朔が笑うとその上に乗ってる俺まで盛大に揺れて、なに笑ってんの、と詰めてやりたいのに思うように体が動かない。だめだ夢の世界へ引きずり込まれていく。「ね、しおんさん」「ん…なぁに」「すごく眠たそうなところすみません。文句なら後日ちゃんと受けます。だから、」頭上で小さく息を飲み込む音が聞こえた。「僕と番になりませんか」例え熱と眠気に浮かされていた脳みそでも、その言葉はしっかりと聞き取ってしまった。番に……俺と、さくが…?「え…なに、」「しおんさんと、番いたいんです」目線がはにかんだようにきょろきょろ動き回る。ふ、緊張しすぎだろ。「番になりたい」……か、ずっと言いたくて、言われたかった言葉。気を抜いたら浮かれすぎてしまいそうになる。「ん…いいよ…」冷静を装って顔を背けたのも、赤くなってしまっているであろう頬と、あちこち泳いでしまう目線とできっと無意味だ。「へぁっ?」「だからうなじ、噛んでもいいよ」ほら、と重たい体を何とか動かして項を晒すと、小さな悲鳴が聞こえた。気遣いがちにそっと襟足に触れてくる。「…っすっっっっごく、噛みたい…です、が!今日はだめです」「んえ?なんで、」「こんな衝動的なものじゃなくて、もっとちゃんと正式に噛みたい。本気だって信じてもらいたいから」フェロモンの匂いのせいもあって、朔の顔が一層苦悩に歪む。んな顔してよく言えたなと少し可笑しく思う。それでも朔はギュムッと唇を噛みしめていて、断固として噛まないつもりなんだ。俺はいいって言ってるのに。衝動って言ったけど俺はヒートだから衝動的に許したんじゃないよ。「じゃあ…いつか、ね」「しおんさんがいいのなら」「ん。いいよ」いつか、じゃなくて今でもいいのに。朔はもう耐えられないと言ったように俺のうなじに手を添えて覆い隠す。ふは、そんなに頑なにならなくても。でもそれでも俺は愛されてんだなぁ、とか。そういう自負があった。だってあんな顔しておいて、「本気だって信じてもらいたい」だなんて恥ずかしいこと言えてしまうんだ。相当な覚悟をしてくれているんだなって思うだろ。それでも。それなのに。朔は翌年の夏、俺の知らない顔をして、俺の知らない人と結婚をした。俺と番になるよりも先に。あまりにも突然のことだった。祝いの席に参列した周りの友人達も驚きに満ち溢れていて。相方である俺にすら何も話してくれなかったんだ、恐らくほとんどの人にとっても急な報告だったんだろう。そりゃ驚くよなあ。「どしたの?しおんさん」隣の席の日向が心配そうな顔で覗き込んでくる。日向はというと何故かさほど驚いてはいない様子で、事前に聞かされていたわけじゃないなら、それはそれで状況把握能力高すぎだろと変に関心した。でも気が紛れたのはほんの一瞬で、すぐにまた気分は下がった。「浮かない顔ですね」「いや…」あれだけ、俺に愛を囁いていたくせに。甘ったるい顔を見せていたくせに。番になろうって言い出したのはお前のくせに。……キスだってしたくせに。恋人、俺じゃなかったんだね。考えれば考えるほどチリチリと傷のひとつもないうなじが痛んだ。誓いの言葉を紡ぐあいつは綺麗という言葉がとても似合っていて。白タキシードに金色の襟足が映えて、そんな横顔は男の俺から見ても綺麗だと思う。きょろきょろと動き回る目線さえなかったら本物の王子みたいな見た目。あぁ…めでたいな。そうだ、めでたいんだ。朔が取るのは彼女の華奢な手で。気遣いがちに触れるのは彼女のヴェール。俺とは行為中ですら目も合わせなかったのに、彼女とはうっとり見つめあったりしちゃって。……こんなこと考えるくらいならなんで俺、ここまで来ちゃったんだろ。確かに朔を祝いたかったけど、祝いたかったわけじゃなくて。幸せそうな朔を見てやりたかったけど、見たくなくて。そんな矛盾だらけでもう頭がきゅうきゅうだ。どこか期待していたのかもしれない。本当は全部ドッキリでした〜!とか、式の途中で連れ去るあの展開とか。でもいざ式が始まるとあまりにも絵になるふたりだから、俺が手を出す間もなくスムーズに進行されていって。あぁ、ドッキリじゃないんだな。なんて。余計に惨めな思いになった。なぁ……誓いのキスなんてするなよ。馴れ初め話ではにかんで微笑みあったりしないでよ。卑屈な心は一旦顔を出してしまうともう引っ込められなかった。ガーデンに出ると周りから「相方だから」、「次のおめでたはしおんさんすね」なんて言われながら前の方に押されるけど、俺がブーケトスで前のめりになってたらさすがに痛々しいから適当に言って後ろの方に流れる。でもあまりに後ろ向きだとそれはそれで怪しいから程々に手を挙げてバランスをとる。「じゃあ投げますよ〜」朔が顔の大きさくらいのブーケを頭上に掲げた。お前が投げるんかよ。「せーーーーっの」正直見るのも辛いのに取れちゃったとしても処理に困るだけだし、見る度に思い出してしまうかもしれない。思い出して、きっと朔を忘れてあげられなくなるかもしれない。目をぎゅっと瞑った。歓声がより大きくなって、そろそろ誰かの手の元に落ちた頃だろうか。と、薄目を開けようとしたその時。ブォン!とんでもない音がして、本当にブーケトスの音とは思えない音がして目を開くとバシュッと音の主が手に収まった。収まったというか飛び込んできた。「え、……は?」周りにいた奴らはなんて事ないように楽しそうにおめでとうと口々にする。いやいや……え??俺がいるここから朔まで結構距離あるよ?狙ってぶん投げたとしか…いや、まさかね。何のためにって話だし。朔が狙ったところに投げられるとも思えないし。当の朔はというと慣れない動きをしたからか、かっこいいタキシード姿で、ヘトヘトとかっこ悪いポーズになって休憩している。あぁ、ブーケ…取っちゃった。周りに欲しがってるやつがいたら渡してあげようと思って見渡すけれど、案外みんなあっさりと散っていく。いらない、と思っていたブーケでも花を見ていると不思議と気が逸れていって。特に青い紫陽花を見ていると少し気が楽になる。けれど少し経つといつの日か朔が笑いながら教えてくれた青い紫陽花の花言葉を思い出してまた沈む。あの時はただのジョークだったそれも、今では笑えない。*眩いほど華やかなガーデン。オードブルから何種類か食べ物をよそって、薄ピンク色のお酒を取る。正直味なんて感じないけど、少しでも胃になにか入れておかないと本当に空っぽになってしまいそうで。すると不意に後ろからトン、と肩を叩かれて颯が肩口から顔を出す。「しおんさん、楽しんでます?」「ん?…うん、大切な相方の結婚式だからそりゃあ楽しいよ」「ふうん?てっきり落ち込んでるものかと思ってました」「なんで俺が落ち込むの」「だって好きだったじゃん、さっくんのこと」一瞬ドキ、とした。颯にまでバレてたなんて。「……そんなことないよ。だとしても普通に嬉しい」嬉しいのは嘘じゃない。一ミリはあの朔がそういう女性を見つけられたこと本当に嬉しいと思ったから。すると颯は「う〜〜〜〜〜〜ん、なんだかなぁ」とでかいため息をついた。「しおんさんちょっとこっち来て」と何故か飲まないくせにワイングラスを手に取ってどこかへ歩いていく。しばらく見送っていると「ねえ!!来て!!来いよ!!」と騒ぐので仕方なく颯についていく。「颯、ねぇ、どこ行くの」「……」「颯?」「しおんさん。しおんさん、本当は今日お祝いしに来たんじゃないでしょ」「……何の話?」賑わいから少し離れてさっきブーケトスをした大階段の壁あたりまで来ると、颯が意味ありげに笑う。「話してくださいよ、俺には。誰にも言わないから」「……やめようってこんな話。失礼だよ二人に」「しおんさんには?」「え、?」「しおんさんには失礼じゃないんで?」「……そんなこと、いいよ別に」「はは、そこは「何の話?」って言わないんすね」「っな、」うわ嵌められた…っ。かけられたカマに引っかかって、まんまと自分の口で「ハイ、訳ありですよ」と言ってしまったようなものだ。もう言い逃れ出来ない。「言っちゃえって。どうせ沈むなら二人で沈んでも同じじゃないですか」とか何とかやたら楽しそうに言っているけど、きっと本心から俺の事心配してくれているんだろう。そこまで言うなら、少しだけ。と気が緩んだ。正直もうダメだったんだ。誰でもいいから、誰かに聞いてもらいたくていっぱいいっぱいだった。胃に詰め込んだ料理が丸々口から出てきてしまいそうなほど苦しくって。もしかしたら颯は気づいてたのかな。「…俺さぁ、本当はヒートじゃなかったんだよね、あの時」「あの時?」「そう、あの時」朔が「噛みたい」って言ったあの時。全然周期的にも俺は本当はヒートじゃなくて、頭も体もフェロモンの濃度も正常だった。だから全身力が入らなかったのも、沸騰しそな程熱かったのも。本当はぜんぶヒートじゃなくて、正真正銘、朔だけのせいだった。ヒートのせいにすれば噛んでくれるかもって。頑張ってちょっとそれっぽく誘ってみたりしたけど、ちっとも揺れなくて。それでも朔が、愛とか口にするのが苦手なあの朔が、顔を俺よりも赤くして「大切にしたいんです」とか口にするから。まぁこれもいいかなって単純に浮かれた。だけど現実はそんなんじゃなくて、本命の相手が他にいたからなんだって分かってしまった。すると俺の頭はもうまともに動いてくれなくなって、じゃああれは何だったのとか。全部嘘だったのとか。そんなので頭がいっぱいになる。「じゃあ、さっくんがしおんさんとそういう関係を続けてたの、どう思ってるんです?」「…それは、」「そういうのも全部、練習とか、優しさとか……そういうのだと思ってるんですか?」「まぁ…」「ふうん」自分から聞いといてふうん、で終わらせた颯の顔を窺うと怒ってるのか困ってるのかよく分からない顔をしていて。まるで当事者みたいな、なんでお前がそんな顔してるの。「自分から言っておいてあれですけど。さっくん、そんな不貞をやらかすような人ですかね」「それは…」「そんな無責任な人かなぁ」……本当は分かってる。あいつがどれだけ誠実なやつなのか。人生の半分くらいあいつを見てきたんだ、そんなことよく分かってる。だからこそ、苦しかった。いっそふざけた人間で女にだらしない無責任な奴だったら、すぐに諦めがついたのに。『本気だって信じてもらいたいから』じゃあなんで結婚なんてしたんだよ。なんでちゃんと振らないで、次に進んじゃうの。振り切ってくれないと考えてしまう。朔にも何か訳があるのかな、とか。本当は望んでないんじゃないかな、とか。でもどんな理由があっても、自分なりにちゃんと考えて結婚という道を選んだに朔にそんなことを考えるのは、失礼だと思うから。「……もう、どうしたらいいかわかんない…」「しおんさんはどうしたい?」「俺?…俺は………ちゃんと話したい、けど」んな遠くに行っちゃったら、もう何も言えないだろ。と、その時。ビシャァという水音と共に叩きつけられるような衝撃が降り掛かってきて数秒、やっと今自分は胸元にワインをぶっかけられたのだと理解した。白いワイシャツがどんどん濃い赤色に染まっていく。「え、?……え??なに、」「しおんさんはさ、実はすごく愛されてるよ」戸惑う俺を他所に颯は話続ける。意味がわからない。「は?…え、いや、何」「でもこんなのおかしいと思うんです。愛してるのに一緒になれないなんて、絶対間違ってる」「だから何の、」「そういうことだからもう、俺と付き合いません?」ワインが染みるネクタイを引っぱられて、油断していた体は耐えれずわたわたと颯の方へ倒れ込む。「さっくんのこと、好きなままでいいからさ」「っ、颯、」「お願い」じっと真剣な眼差しで見つめられる。本当に何がしたいの、と詰めようとしたとき。「――しおんさん!!!」*「えぇ!さっくんそれ本気!?」仲の良いいつも遊ぶ友人たち4,5人を誘って、とある相談事をすると誰からともなくそんな驚いた声が上がる。まず結婚することにすら驚かれている気がするけれど。相談事、それは二週間後の結婚式で僕の大切な人にブーケを渡したいってこと。しおんさん以外を集めた時点で大体察していたらしく、且つ、僕らの関係をなんとなく知っている皆は一旦知らんぷりをしてくれた。そんな優しさが今はとても染みる。「そんなの無茶だよ…」「やっぱりそう思う?」挙式の二週間前、時間がとにかく足りない。式自体急に決まったようなものだ、無理があるってことは分かってる。僕のわがままだとしても、でもこれはどうしても譲れない。「だってさっくんボール投げるの下手じゃん…」「ねえ」まったくいつの話をしているのだろう。失敬な。あんな数年前にやったキャッチボールのことなんて僕自身今の今まで忘れていた、言っとくけどあれからもう随分と進歩しているんだからね。「ふは。まぁ冗談だけどさ、俺たちは全然いいよ」「うん、オレたちに出来ることがあるなら協力する」一頻り笑うとふと真面目な顔に戻って、「任せてよ」と言ってくれる彼らが心強くて。「…っ、ありがとうみんな」少しだけ泣いてしまったのは秘密だ。「でもさ、協力するならちゃんと知っておきたいな」「うん?」「お相手のことと、ふたりのこと、それから…しおんさんのこと」颯くんが真剣な顔付きになった。確かに、みんなに協力をしてもらうのだから話しておいた方が良いのかもしれない。僕たちのこと。「…うん、わかった」*僕の思い人はとても優しい人だから、本当は肩も震えているのに「噛んでもいい」と言ってくれる。そういう人だ。そういうしおんさんだから、僕は男性とか相方とかそういうものを抜きにしても好意を抱いた。「次にしましょう」だってすごく震えてるし。だって勢いで噛んだと思われたくないし。するとしおんさんはあやされたと思ったのか毎回少しだけ不満そうな顔をするから、それがおかしくて。愛おしくて。「つぎ…ね」「次じゃ嫌ですか?」「そういうんじゃないけどさ、でも、お前毎回そう言うじゃん」「毎回怖がらせちゃうから。でも次はきっと出来ますよ」「……怖がってないんだけど?」「えぇ?ふふ、」「ヒートだから震えちゃうんだよ」そうやって頑張ってヒートのフリをして誘ってくれるけれど、αの僕にはわかるのだ。しおんさんのフェロモンの濃度は大して昂っていない、至って正常だ。それでもこうして照れてしまうのを惜しみながらあれこれ手を尽くしてくれている姿が尊くて。「ヒートなんて嘘でしょう?」とは言いたくなかった。だから僕はその日の晩も気づいていないフリをして、しおんさんに口先だけの約束をして終わらせたのだ。今となってはあの時噛んであげられてたら何か変わっていたのかな、とか。逆にあの時噛んでしまってたら余計に辛い思いをさせてしまっていたのかもな、とか。考えても考えても尽きない。もし時間が戻せるなら、何に替えてもまず僕はしおんさんの番になりたい。でも神様なんてきっといないのだ。番への一歩を踏み出せないまま一年が過ぎた頃、そんな僕に痺れを切らして試練を下したんだ。*その日、仕事でご一緒したミュージシャンの先輩に誘われ、飲みの席に同席した。二人だけだと思っていたそれは「食事会」という名の合コンだったらしく、僕は名前を使われたのだと一瞬で冷めてしまった。けれど、一応お世話になっている方の面を潰すのも気が引けて、とりあえずは乾杯に参加した。空けたジョッキの数が増えるとついにその話題は「合コン」の部分が色濃く出てきて、あまりのつまらなさにそっと席を立とうとすると先輩に呼び止められた。「じつは…ここに呼んだのには理由があってさ、」おずおずと口を開いて話し出す。なんでも自分の妹さんを紹介したいのだと。幼少期から病持ちで引きこもりがちだったらしく、持病が完治した今でも外に出られないでいるんだとか。でも僕には既に恋人がいるのでと断ってみても引く様子がなくて。「会うだけでいいんだ、長い間一人にさせたから……話し相手になって欲しい。なぁ、頼むよ」話し相手くらいなら……まぁ、と甘い考えで僕は断りきれずに承諾してしまった。すると嬉々として呼び寄せると、しばらくして髪の黒く色白で華奢な女性がゆっくりとこちらへ姿を現した。その女性こそが不本意ながら僕の後の婚約者となる人だ。「こちらが朔くんだ」「…はじめまして」緊張がちに目を伏せる動作や、僅かに震える指先を誤魔化す仕草がどことなくあの人に似ていて。姿が似ているわけでもないし、彼女にとっても失礼だとは思うけれど彼を重ねて少しだけドキっとしてしまった。「はじめまして」朔です、と自分も名乗ろうとしたその時だった。不意に体の力が抜けて、視界がどんどん狭くなっていく。あれ?おかしいな、飲み過ぎないようにしていたつもりだったのに。そうして完全に目が閉じてしまうその瞬間、「あ、ちがう…これ謀られたんだ」と気づいた。けれどもう後悔しても遅くって。次に目が覚めた時には見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。隣には見知らぬ黒髪に見知らぬ後ろ姿。慌てて飛び起きて彼女のうなじを確認するけど、鍵付きのチョーカーが付けられていて見れない。あぁ、なんでこうなってしまったんだろう。あの時もっと強く断っていれば。もっと強く警戒していれば。一年前からずっと下手な演技で「噛んで」と健気に誘ってくれていたしおんさんのことは何度も断ってきたのに。いいよ、ってずっと用意して待ってくれているってわかってたはずなのに。今でもきっと僕がただの飲み会に参加していると信じて、一人部屋で寝ているしおんさんを思うと後悔と自分への怒りとやり切れない脱力感で頭がめちゃくちゃになる。……大切に、したかったのになぁ。脱力していく頭で、これからどうしようか考えているとふとあることに気がついた。チョーカーが着けられているとはいえ、これほどまでにΩの匂いがしないものかな?もしかしてと淡い期待が過ぎる。もしかして、彼女は置を彼女じゃなくて。Ωってくれ責任取って「笑り予想通とニタリうと合が目がいて。兄の彼女りると、降にロビーいてれている撮よく姿。る眠でベッドく二人仲良が彼女と僕せつけてくる。見をスマホるよな」とからこうするつもりだったんだ。最初な。あぁ、そうか。「でも、彼女αじゃ?」「?朔くんはΩだから問題ないだろう?」Ω……?僕が?「いや、僕はαですが」「はは、あのさぁ。その程度のはったりがきくと思ってるなら大間違いだよ。俺もαだからわかるんだ、君が纏っているその匂い…どう考えてもΩのものだろ。初めて会った時から『良い』と思っていたんだ」「匂い……って、」「それとも、その匂いが他の誰かのものだというのなら、呼んできてごらん。その人を身代わりにしてもいいんだよ」ふざけるな、喉から出かかったけれど、そう言ってしまったらまさに「ハイ、いますよ!」と宣言してしまっているようなものだ。この人の言うΩの匂い、きっとしおんさんのものだ。ついさっきまで一緒にいたのもあるけど、きっとしおんさんがこっそり僕の服で巣作りをしていたからその時についたものだろう。「…それで彼女は何と」「兄さまのご随意に、それだけだ」「そう、ですか」微かな希望も打ち砕かれた。偽りとは言えど写真が出てしまえば間違いなく大問題になるし、ライブやイベントの企画が進んでいる現在それは避けたい。それに、ここで僕が曖昧にすれば、Ωであるしおんさんにも手を出しかねない。元々、彼女がαなら僕じゃなくてしおんさんの方を狙おうとしていたんだ。無条件で野放しにする訳には行かない。「……式はいつ頃にしましょうか」僕は、しおんさんを大切にしたい。だけど、僕じゃそれは出来ないから。だから僕は、しおんさんの知らない人と、しおんさんを知らないところで、しおんさんのことを想いながら、αの女性と婚約をした。彼女の兄は式はいい、と言ったが何とか押し通して日程を組んだ。三週間後。相手方のコネで急遽決まり、細かい確認などは省略しての挙式とはなるけど、彼女も僕もそれで十分だった。仮初の婚姻にはお誂え向きだ。ただ、どうしても僕は式を挙げたかった。しおんさんがもし来てくれたなら、ブーケを渡したい。僕の私物は全て没収だし、すぐに相手方の家へ入ることになっているから、しおんさんにはちゃんとしたお別れの言葉も言い訳も出来ない。だから挙式の日がしおんさんと話せる最初で最後のチャンスだ。きっと急に僕が結婚するだなんて言ったら悲しませてしまう、それでもしおんさんにはいつか幸せになって欲しいから。会場中の中で一番、しおんさんに幸せになって欲しいから。「……だから、どうにかブーケをしおんさんに届けたいんだ」一通り話すと、それまで黙って聞いていた皆は複雑そうな顔をする。こんな話されても困るかもしれないけれど、でもこれが本心なのだ。「……うん、わかった。話してくれてありがとう」「とりあえず当日はまかせてよ」「ただ、そこから先はさっくんがやるんだよ」彼らはそう言うと、「泣かないでよ」と笑顔を作ってくれる。その優しさに今度は隠す間もなくまた少し泣いてしまった。我慢、効かなくなっちゃったみたいだ。スマホもパソコンも使えなくなって、すっかり外の世界ともネットの世界とも遮断されてしまってから早数日。そうして着々と挙式の準備が整えられていって、あっという間に当日になってしまった。ライブメンバーを通してしおんさんや他の友人に招待状を届けてもらったから、先日集まってもらった人たち以外のみんなの顔を初めて見る。少し、怖かった。なにより、会場で久しぶりに見たしおんさんの顔が、最後に見たものよりもいくらかやつれているように見えて。気が気じゃないまま、誓いの儀式が終わっていった。肝心のブーケトスはそれはまぁ酷いもので。あれは果たしてブーケトスだったのかな…と思うくらい酷かった。みんながしおんさんの背中を押してくれたものの、しおんさんは優しい人だから遠慮して後ろへ行ってしまう。最前列にいたとしても届くかどうかな距離なのに、そんな後ろへ行ってしまわれたらもう確実に届かない。でもだからといって諦められる訳じゃなくて。何とか持てる力を出し切って投げるものの、やっぱり 分の も行かないようなところで失速してしまう。すると、日向くんが空中でそれを受け取って後方へさらに放った。この中のたった数人にしか話していないはずなのに、それを見てなんとなく察してくれたのかまた人混みの中で失速をすると、それを誰かが投げてを繰り返して真っ直ぐにただ一人、しおんさんの元へと紡がれていった。幸いにもしおんさんは目を瞑られていて、この明らかな小細工にちっとも気がついていないようだ。そうして最後の一人、というかもうほぼしおんさんから目と鼻の先にいた颯くんが投げると油断していたしおんさんの手元にポスンと収まった。ほっと肩を撫で下ろす。形はどうであれ、よかった、渡せた…渡せたんだ……。みんなのおかげで、しおんさんにブーケを渡せた。きっと自己満足でしかないけれど、それでも少しでもしおんさんが幸せになりますように。僕を忘れて次に進めますように。そんな願いを込めた。込めたはずだった。でも颯くんと二人きり、しかも隙間がないほど密着をしているのを目の前にするととうに捨てたはずの感情がぶり返してくる。どの口でというのは承知で、嫉妬してしまう。いやだ、と思ってしまったんだ。自分で決めたことなのに。上手くまとまらなくて。しおんさんに僕以外とその距離にいられることがすごくいやだ。わがままだけど、でも次になんていかないでほしい、置いていかないで。とても言える立場にないことはちゃんと分かっていたけれど、気がついたらもう名前を呼んでしまっていた。*「――しおんさん!!!」聞き慣れた声と共に後ろから袖を引かれると、簡単に颯の体から離れられる。久しぶりに近くで見た朔の顔は、自分でも驚いているような、それでいてどこか怒っているような表情を浮かべている。「なにをしてるんですか」「え?…あぁ、いや…颯とちょっと話してて」「……ワインをひっかけて、抱き合いながら”ちょっと”お話をね」「だっ、いてはないだろ。ただよろけちゃっただけ」颯に目線で助けを求めても、口を挟もうとはせずただにやにやと様子を見ているだけで。なんだよ、俺だけ浮気現場押さえられた人みたいになってるじゃん。「……少し二人きりで話しませんか。来てください」「…え?えっ、ぁ、朔?」どこを見てるのか分からない朔に手を引かれて、式場の中に向かう。「とりあえず着替え用意してもらいましょう」「ちょっ、奥さんは?」「友人が怪我したから診てくるとだけ伝えてきました」「俺は大丈夫だから戻りなよ」「でもそうしたらしおんさんはどうするんですか」「俺?」「だってしおんさんそんなびしょ濡れで、シャツも洗わないと…」間近で見てわかった。どこを見ているか分からないと思っていた朔の目は、どこも見てなんかいなかった。ずっと忙しなくキョロキョロと動き回っていて、自分でも混乱しているんだろう。そんな姿を見ると、少しだけ、付き合ってあげようかなという気持ちになる。式場の控え室を借りて、朔と二人で入る。会話はほぼ無かったけど不思議と気まずくはならなかった。「しおんさん、脱いでください」「え。いいよ、颯にやらせるし。元々これも颯が、」「他の男性の名前呼ぶんですか…」明らかに朔の見えない耳としっぽがへにょ…と垂れた。いやいやいやお前が言い出したのに?「お前のでもないけど」なんて。さすがにブラックジョークが過ぎた。「……本当に、颯くんとお付き合いされるんですか」「え?颯?……あぁ、あれ聞こえてたんだ」『そういうことだからもう、俺と付き合いません?』『さっくんのこと、好きなままでいいからさ』颯はどういう気持ちであんなこと言ったんだろう。あの顔を見る限り少なからず最後の方は確実にからかわれていた。だけど、全部が全部嘘だとは思えないんだよなぁ。自惚れとかじゃないんだけど。「お付き合い、されるんですか」「…朔には関係、」「ないですよ、ないです……ないですけど…」「……しないよ」なぜか俺よりも死にそうな、今にでも泡を吹いてしまいそうな青白い顔に負けて正直に言うと、朔は緊張で上がっていた肩をようやく撫で落とした。「俺は他に本命のやつがいるから」「っ、そう…ですか」…俺にだけ言わせるんだ、ずるいね。「ん…。」なんて当たり障りもない言葉で誤魔化すしかなくて。なんでそんなこと聞いたの?聞いて俺がもし「うん」って言ってたらどう返すつもりだったの?自分は婚約者とキスしてたくせに?「………誓いのキスなんて、」しないで欲しかった――。今更言っても遅いよな。最後まで言ってしまったら、もうそれっきりな気がして。どうせ言ったって朔はもう既婚者だ、何も解決しない。言いたいことが喉先まで来てるのに、あと一歩のところで俺の優秀な理性が働いてしまう。「ねえ、なんであの日俺に『番になりたい』だなんて言ったの?」「…しおんさん、あの日ヒート来ていたでしょう?」「うん」「とても辛そうで、」だから言ったの?俺がヒートで辛そうで可哀想だったから?それで?「最悪…」「…」「嘘でも聞きたくなかった」ただでさえヒート中は思考力が鈍るのに。俺は本物のヒートじゃなかったけど。『しおんさん…っ』『うれしいんですっ』あんなの、勘違いしちゃうだろ。初めから、違うよって。これはただのヒートを治めるための治療で本命はほかにいるんだよって。言っといてよ。体内時計数時間、たった数分間の沈黙が流れる。不意に朔と目が合って、これまでの何気ない日々のやり取りと同じ仕草で流れるように唇を近づけてくる。は?キス?こんな時に、コイツ…何考えて…?「んっ、な……さく…っ」「……嫌、ですか?」「ぁ、いや、だよ……」嫌に決まってんだろ。ばか。好いてるやつが他の誰かと誓いのキスした唇なんて、絶対嫌だろ。「……もしかして妬いてくれてますか」「して、ない」ことも無いけど。「してないですよ」「…え、?」「本当はね。キスしてないんです、あれ」「え、なんで?」「さぁ…でも誓いのキスなんて、したところでなんの意味もないですから」俺はそのなんの意味もない誓いのキスが羨ましかったけど。「ごめんなさい、嫌になりましたよね」「…なった」「では僕たち終わりですね…」「したいの?終わりに」「したいですよ」本当に朔が言うように全部が俺の独りよがりだったなら、朔の言葉に頷こうと思っていた。だけど、朔の顔がそうじゃないことを物語っていて、そんなの見ちゃったら「ハイそうですか」なんて出来ないよ。「そんな顔しといて?」「え?」「俺は朔のこと嫌になったけど、嫌いにはなれないから」「……なんですかそれは…」「だから、俺はまだ朔を諦めたくないよ」諦め方を忘れさせたの、朔でしょ。元々番なんて求めていなかったし、要らないと思っていた。それなのにいつからか朔のこと、諦められなくなっていた。一緒にいるだけじゃどうしても本能は満たせなくて。どんどんわがままになっていった。「っ、しお」「だから…もし朔が、まだ少しでも俺のこと諦めないでいてくれてるなら」少しでも、お前が今抱えている重荷を教えてくれるなら。ほんの一グラムくらいにしか変わらないかもしれないけれど、それでも俺が一緒に背負ってあげるから。だから、「一緒に逃げてくれる?」