【小説】4月お題『好きな歌から』2

前記事の続きです。



虹のない日を君と【中】/月夜


 進級した。瞳夜はももとセイとリミと同じクラスになれた。勉強では分からないところをももたちに解説してもらってなんとか過ごしていた。

 あれ以来、瞳夜は虹を見ない生活を続けて、記憶がリセットされないようにしていた。そんな中、周囲は相変わらず瞳夜たちを遠巻きに見ていたが変わったこともあった。

「付き合ってください!」

 それが告白だった。見目だけは良い瞳夜はしょっちゅう呼び出されて告白を受けていた。相手はたいてい瞳夜の事情を知らない一年生だった。

 けれど瞳夜は一度として付き合わなかった。そういうことは考えられない、と一蹴していた。

 当然だ。記憶をリセットされる瞳夜なんかと一緒にいたいと思うわけがないのだから。

 やがて、瞳夜の事情が知れ渡り、告白は一気に減った。思い出らしい思い出の残らない瞳夜といることに利がなかったからだろう。

 そうして毎日を送る中で、瞳夜の胸には微かな恋心が宿っていた。恋、と呼ぶのもおこがましいかもしれないが、それはたしかに恋だった。

 そばにいれば表情の変化を目で追ってしまい、笑いかけられると胸がギュンッと締め付けられる。声を聞けば嬉しくて、楽しそうだと嬉しいのに相手が自分じゃないと苦しい。

 瞳夜がそれをリミにこぼせば、リミは恋だね、と断言してくれた。そのおかげで瞳夜もこの胸をくすぐる気持ちを恋だと認定したのだった。

「リミちゃん、相談に乗ってくれる……?」

 そっと聞けば、リミはうなずいた。瞳夜は顔をほころばせる。それはとてもかわいらしい。

 リミは瞳夜に気はなかった。そもそも瞳夜と恋に落ちることは不可能だった。全然タイプじゃないのだ。

 リミはもっと強引で引っ張ってくれるような男が好きだった。瞳夜はたしかに優しくて紳士だけどちょっと優柔不断な面を持っていた。そしてかわいらしい。

 けれど、周囲はそうは思わなかった。

「なあ、二人って付き合ってんの?」

「はあっ?」

 こっそり会う二人を見ながら聞いてきたクラスメートにセイはないない、なんて言って蹴散らしていた。セイはリミの好みを知っていた。さらに瞳夜の好きな相手も分かっていた。これまでにも何度も告白したらしいことを聞いていた。今回もきっとそうなんだろう、なんて高を括っていた。

 ある日、瞳夜がリミに相談しているうちにももが呼び出された。用件は少し前までの瞳夜の呼び出しと同じだった。ももはうつむいた。少し沈黙がおりた。返事をしようと口を開いたとき、瞳夜がやって来た。

 そこは曲がり角のところで瞳夜の死角に相手がいた。言い訳のように聞こえるかもしれないが、瞳夜には見えていなかったのだ。だから、ももがいたから声をかけただけの瞳夜も目を丸くするはめになったのだ。

 タイミングが悪い。瞳夜は現状を理解すると顔を真っ赤にしてごめんなさいっ、と言ってその場から逃げ出した。走って走って、階段を駆け上がった。頭の中をぐちゃぐちゃにかき回された気分だった。

 ももがかわいいことは知っていた。いや、日記に書いてあった。小学生だったときもかわいらしい容姿だったから印象に残っていた。アルバムで見た中学生のももはどれも愛らしく、告白だってされただろうことは簡単に想像できた。

 けれど、瞳夜は今まで一度としてももが告白される現場に居合わせたことがなかった。いや、居合わせたかもしれないが、記憶にないだけだ。

 瞳夜はゆっくり足を止める。肩で息をする。胸が痛い。へなへなとその場に座りこんだ。床が冷たくて気持ちいい。この学校は土足で校内を歩けるのでズボンに砂がついたりするが気にしない。

「はっ……、はっ……」

 床に両手をついて目線も下げる。

 どうしてこんなに胸が痛いんだろう。どうして、ももは自分とこれからも一緒だと思っていたんだろう。これからも一緒だなんてありえないのに。

「ねぇ、相手がさ、僕以外を見てたり、話していたら嫌なのってふつう?」

「それは嫉妬〜」

「嫉妬……」

「そう〜。独り占めしたいって気持ち」

 リミの言葉がよみがえる。

 嫉妬。そう、嫉妬。瞳夜がももに抱く気持ちは恋で、ももの未来を縛れる告白の相手に嫉妬した。だって瞳夜はももの未来を縛れない。瞳夜の記憶はリセットされるから。

 スマートフォンが鳴る。瞳夜はのろのろとそれを取り出して応答ボタンを押した。

「……はい」

「もしもし?!瞳夜、今、どこだ?!」

 聞こえた声はセイだった。瞳夜はその声に泣き出した。

「セイいぃぃ……!」

「うお?!いーか、そっから動くなよ!」

 ーーぜってー見付けっから!

 通話が切られる。瞳夜はぐすぐすと泣きながらスマートフォンをぎゅっと握った。

 セイが来てくれる。それは瞳夜を安堵させた。すんっすんっと鼻をすすりながら瞳夜は手の甲で涙を拭う。セイが来るまでが長く感じた。

 実際にかかった時間は十分程度だっただろう。しかし、瞳夜には三十分にも感じられた。

「瞳夜っ!」

 バタバタと足音がして顔を上げればセイがいた。セイは瞳夜の前にしゃがんだ。

「どうした?何があった?」

「セイ……」

 ようやく引っ込んだ涙があふれる。瞳夜は再びぐすぐすと泣き出した。セイは瞳夜を抱きしめ、背を擦った。

「好きなだけ泣け。落ち着くまでこのままでいてやるから」

 瞳夜はセイの肩に頭を押し付け、さらに泣いた。瞳夜の頬をなぞった涙はセイの制服の肩に染み込んでいった。

 ……どれくらいそうしていただろうか。ようやく落ち着いた瞳夜がゆっくり顔を上げた。セイは瞳夜の言葉を待った。

「ももちゃんが、告白されていたんだ」

 ゆっくりと吐き出した瞳夜の言葉にセイは静かに記憶を辿る。その動作は決して瞳夜に悟られてはいけない。

「僕がももちゃんのこと、一番分かっていると思うし、気にしていると思う……。でも、僕はももちゃんの未来にいられないんだよ」

 ーーももちゃんだけじゃない。誰かの未来に一緒にいられない。

 セイは瞳夜が全て吐き出すのを待った。そして、全て吐き出した瞳夜の背を軽く叩いた。

「少なくとも俺は瞳夜が俺の未来にいてほしい」

 真っ直ぐ伝えられた言葉に瞳夜の胸が熱くなる。これからも、を瞳夜に届けてくれたのだ。来年もまた来よう、なんて言葉は残酷でも瞳夜に決意させることをセイは知っていたのだろう。

「瞳夜……、好きだったら伝えておけ」

 ーー伝えられるうちにな。

 聞いたことがあるな、と瞳夜はふと思った。けれど、瞳夜がセイに相談をするのははじめてだったはずだ。気のせいだろう、と瞳夜は思う。

「……ありがとう」

 瞳夜は笑う。目元は赤くなっているがそれほど気にならないレベルだ。

「今日はリミがももちゃんを送るって」

「……そっか。ありがとう」

 瞳夜はそう言うと立ち上がった。ようやく動けるぐらいまで回復したのだ。

「よーしっ、今日は俺と帰ろう!な!」

 セイは瞳夜と肩を組む。瞳夜はセイの好きにさせていた。それがセイによる慰めだと気付いていたから。

 セイは瞳夜のリュックを背負って瞳夜の手を引いて歩いた。二人分の荷物は重いだろうにセイは気にしなかった。

 バスには乗らずに歩く。セイは高校の近くに住んでいるので自分の荷物をおろしてから瞳夜の家まで向かった。

「セイ」

「ん?」

「僕、どうして忘れちゃうんだろうねぇ」

 虹を見たらリセットされる。それはたった一文なのに不思議がいっぱい詰まっている。

 たとえば何故虹なのか、虹と言っても色鉛筆などの七色でも駄目なのか。どこまでリセットされるのか。リセットされている間はどうなのか。リセットされるまでの記憶は二度と思い出せないのか。

「覚えていたいよ、セイのこと」

 ーー日記とか、アルバムじゃなくてさ。僕自身の記憶で覚えていたい。

 叶わない願いだ。望んだってどうにもならない。けれど、セイはそれを否定しなかった。

「俺も覚えていてほしいよ」

 ただそう返すだけ。瞳夜は嬉しそうに笑った。

 そこからは他愛もないことを話した。テストのこと、部活のこと、少し前のテレビのこと、ドラマ、アニメ……。

 楽しく話していたらあっという間に家に着いた。セイはまた明日な、と言って家に向かった。瞳夜はその背を見送った。

 明日が決戦だと思いながらその日は過ごした。

 翌日。瞳夜の決意はあっけなく折られた。虹が出たのだ。予報では出ないはずだったのに出てしまい、瞳夜は学校に行けなかった。しかし、それも良い機会だと瞳夜はアルバムを見返していた。

 事故の発生時刻を調べたら帰宅時間より少し遅かったのだ。普段ならば家に着いている時間。普段通りならば事故に遭わなかったはずなのだ。

 もしかしたらなにか分かるかもしれない、と思って中学生のときのアルバムを見返し始めたのだ。しかしなかなかヒントはない。一言添えられた言葉を読みながら瞳夜は記憶を戻そうとする。けれど、思い出せるのは通学路で見たもものランドセルを背負う後ろ姿だけ。

 ねぇ、こっちを向いて。

 声をかけることもできず、横をすり抜けて行った小学校。それは中学生になっても同じだったのだろうか。

 ふと、日記が目についた。今の瞳夜も毎日日記をつけていた。今日やったこと、明日の課題、新しく知ったことなど、本当に些細なことばかりだ。

 日記も全て読んだわけではなかった。過去の自分が未来の自分のために、という思いで綴られたそれは、どこか気恥ずかしい思いになる。

 だから読みきれないでいた。けれど、それもそれで困るだろうと瞳夜はようやく読む決心をした。

 パラパラとページをめくって文字を追う。給食でミニ揚げパンとミートソースが出た、なんていうかわいらしいことから体育の持久走で好成績が残せたなんていう努力の賜物まで様々なことがあった。けれど。

 ーーこれは恋だ。

 その一言から始まるそれは、瞳夜の胸を締め付けた。過去の自分は誰に恋をしたんだろう。先へ先へと読み続ければ、あるときからその想いは綴られなくなった。たぶん、リセットされたんだと思う。

 それからまた、日記は日常を綴った。ツイストパンが美味しかった、音楽のテストで褒められた。そんなありふれた日常だった。

 けれど、再び淡い恋心が文章に滲み出始めた。ふわふわした気持ちを恋だと瞳夜は知っている。けれどこのときの瞳夜は気付いていないようだった。

 ーーこの恋は叶わない。

 どこか諦めつつあった文章の中に唐突にそれが出現した。ああ、やっぱりか、と瞳夜は思う。ここで完全にふられたのだろう。

 けれど、瞳夜からすれば受け身の恋だった。こっちを見てほしい、笑って、そばにいて。そんなことも言えずにただ見ているだけ。そんなんじゃ、ふられても仕方ない。

 そしてふと思う。今の自分の恋も同じじゃないか、と。恋をするとまず態度に出るらしい。では、瞳夜はももを前にしてそれまでと態度を変えたか。否。普段通りに接してきた。ももに気付いて、と視線を送ってはいないか。

「僕は変わらないんだ……」

 たとえ恋する相手が変わっても瞳夜の行動は変わっていないらしい。ぐっと服の裾を握った。

「ただいま〜。ごめんね、瞳夜。今日、急に外の仕事が入っちゃって……!寂しくなかった?おやつ食べよう?」

 そこへバタバタと母親が入ってくる。手には駅前のケーキ屋の箱がある。ふわりと香った甘い匂いは生クリームだろうか。ということは箱の中身はロールケーキかもしれない。

「大丈夫だよ、お母さん。そうだ、紅茶淹れるね」

「ありがとう、すぐに準備しちゃうわね」

 母親は荷物を置きに部屋に向かった。瞳夜はお湯をわかしながら紅茶のティーバッグを用意する。

「まだわかないね」

「今わかし始めたばかりだよ」

 ずいぶん気が早いことだ。母親はもうロールケーキを盛って椅子に座ってゆらゆら揺れている。ハイテンションだが、ごくまれにこういうことはあるらしく、瞳夜の日記にも度々出てきていた。深夜テンションと言うらしい。

 お湯がわいて瞳夜は紅茶を淹れた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 ふわりと笑ってカップを受け取った母親はそのまま紅茶を一口飲む。瞳夜も飲んでほうっと息を吐いた。

「美味しい」

 幸せそうな母親を見れば瞳夜も嬉しくなる。こんな面倒な息子を見捨てずに育て続けてくれた。仕事も在宅でできることを最優先事項にしてくれた。会社も瞳夜の事情を分かってくれてできるだけ家にいられるように仕事を振ってくれるらしい。瞳夜も将来働くならばそういった会社が良い。

「ねぇ、お母さん」

「うん?」

「お母さんはお父さんになんて告白されたの?」

「……好きですって」

 ストレートな言葉だ。けれど、ストレートゆえにどれだけ本気なのかが伝わる良い言葉だと思った。

「嬉しかった?」

「えぇ、とっても」

 ーー私も、好きだったから。

 紅茶の水面を見る母親の目は優しい。恋をしていたときの純粋な乙女のような目だった。

「瞳夜」

 ロールケーキにフォークをさして母親は笑う。

「うまくいくと良いね」

「……うん」

 母親には恋をしていることも、誰が好きとも言っていない。けれど、きっと瞳夜のことならばなんでも分かっているのだろう。それが頼もしくもあるが隠し事ができないと項垂れることでもある。

 ロールケーキを口に運ぶ。口いっぱいに甘さが広がった。それは幸せの味だった。


 ーー好きです、付き合ってください。

 その言葉がするりと出てくる。あれだけ練習したから当たり前だ。けれど胸は死んじゃうんじゃないかってほどドキドキとして痛い。ここにいるって激しく叩いて主張をする。

 目の前の制服を来た少女は顔を真っ赤にした後、視線をうろっとさせた。悩んでいるようにも見えた。少しの間だけ沈黙がおりた。しかし、それもすぐに消えた。少女がうなずいたのだ。

 このときの喜びをどう表現すれば良いか分からない。とにかく嬉しかった。勢いよく少女の手を握ってしまった。少女は少しはにかむように笑った。その笑顔が最高にかわいかった。

 ーーこれで恋人、だね。

 照れながらそう言った少女を抱きしめなかっただけ偉かった。こんなにかわいい彼女ができた、と世界中に見せびらかしたいような、自分以外知らない場所に隠してしまいたいような気持ちが胸を占めた。矛盾する気持ち同士だ。それをぐっとこらえた。

 傘をさして二人して並んで外に出る。予報では晴れるはずだった。けれど、今はどよんと曇って雨が降っていた。

 どうせだったら相合い傘をしたかった、なんてワガママかな。

 チラリと横目で少女を見ればお気に入りらしい黄緑の傘越しに口元をほころばせているのが確認できた。よっぽど嬉しいようだ。

 それが伝染する。傍目から見ればニヤニヤしていて気持ち悪いかもしれない。けれどそう思う人は知らないんだ、恋人同士だって。

 学校を出て通学路を通る。少しして雨が降ったまま晴れた。傘をとじて見上げれば大きな虹が見えた。綺麗だった。

 二人で初めて一緒に見たのが虹ってロマンチックじゃない?

 少女を見れば傘をさしたまま虹を見て微笑んでいた。しばらくして視線に気付いたのか、こちらを見て虹だよ、と唇を動かす。虹よりも綺麗だよ、なんて言えないけれど思うぐらいは許してよ。

 そんな幸せな瞬間は崩れる、ずいぶんとあっけなく。

 少女の奥にトラックが見えた。今から逃げても間に合わない。それほどまでに迫っていた。せめて彼女だけでも、と思ってついさっきは我慢した少女の身体をおおうように抱きしめた。

 頭が致命傷になるかもしれない。逆に言えば頭さえうたなければ致命傷は免れるだろう。だから頭をしっかり守った。

 思いっきりぶつかった。けれど、そんなことよりも腕の中の彼女の方が心配だった。頭は守ったから平気かな。かわりに頭をうったけど平気だよ。大丈夫、ちょっとぐらぐらするぐらい。

 空には幸せを運ぶ七色があった。幸せを運ぶ?本当に?今、絶賛死ぬんじゃないかって思っているのに?

 ねぇ、本当にかかるのが珍しくて幸せを運ぶんだったらさ、助けてよ。全然幸せじゃない。だって今日結ばれたばかりだよ。少しぐらいサービスしてよ。

 ……目がかすんできた。ねぇ、彼女だけでも助けて。僕はどうなったっていい。せめて彼女だけでも、生きていくのに不便じゃなくして。笑った顔のかわいいあの子の明日は七色に輝いているはずだから、さ……。


 ふと目を開けると自室のベッドにいた。どうやらあれは夢だったらしい。それにしてはずいぶんリアルだった。

 あそこまで現実に近い夢は今まで見たことがなかった。いや、もしかしたら覚えていないだけで今までも何度か見てきたのかもしれない。げんについさっき見た夢でさえも細部が霞んできている。ほら、もうほとんど内容を思い出せない。

 ふとスマートフォンを見れば母親がロールケーキを買った日から二日経っていた。昨日も虹がかかっていた。それゆえ瞳夜は外出できずにひとりで部屋で勉強をしていたのだ。突然の虹でももは瞳夜の家に行く許可をもらえなかったようだ。

 そして今朝。今日は虹が消えているはずだ、と館川は言っていた。あそこの虹予報はかなり当たる。どうやら瞳夜の事情を聞いてから力を入れたらしい。独自の気象データを用いたそれは、ほとんど外れたことがない。それゆえ、瞳夜の母親が重宝していた。

 虹が消えていることを確認した瞳夜はカーテンを開けた。外は綺麗に晴れていた。今日は降水確率の低い日だった。傘も持たなくて大丈夫そうだ。

 ハンガーにかけてあった制服を着て下におりれば母親がトーストを焼いているところだった。今日は珍しく寝坊したらしい。あちこちに寝癖があるがそれもかわいらしい。

「おはよう」

 声をかければ瞳夜の方を見て微笑んだ。ふわっと目元がほころぶ様は血は繋がっていようとドキリとしてしまう。

「おはよう、瞳夜。すぐトーストできるからね」

「うん」

 コーンスープを器によそってちびちびと飲みながらトーストが焼けるのを待った。天気予報はついさっき確認した通り。ニュースも真新しいものはなかった。平和な日常だ。

 焼けたトーストにマーガリンを塗ってかぶりつく。じゅわっとするにはいくぶんか足りないがこれはこれで食べられる。

「お母さん、今日、虹は出ないよね?」

「ええ。その予報よ」

 絶好のチャンスだ。記憶がリセットされる前に告白してちゃんと返事をもらわないといけない。瞳夜は今日こそ言うぞ、と決めるとぐっとコーンスープを飲み干した。

 トーストを食べ終えて歯を磨くとカバンを背負った。今なら急げば間に合いそうだ。

「行ってきます!」

「頑張ってね」

 ふわりと笑った母親に向かって瞳夜は手を振った。


 普段通りに授業を受けた放課後、瞳夜はももと二人きりで音楽室に来ていた。ももが珍しくピアノを弾きたい、と言ったのだ。音楽室に行くと個室は空いているから使って良いと言われた。

 言われた通りに個室に行くと重い防音扉をガチャンと閉めた。これで完全なる二人っきりだ。他の人もいないから邪魔も入らない。

 言うなら、今しかない。

「ももちゃん」

「あのね、瞳夜くん」

 ももはふわりと笑った。……いや、笑った、のだろうか。それは半分ぐらい泣きそうに見えた。

「ごめん……、ごめんねっ……」

 どうして泣いているのか、瞳夜には分からなかった。けれど、その涙を拭いたいと思った。手を伸ばして、その柔らかな頬を濡らす憎い涙を。

 するりと瞳夜の手はももの頬を滑る。けれどももは変わらず苦しそうに謝るだけだった。それ以上は何も言わない。謝られても、瞳夜にはなんのことか分からない。

 瞳夜はどうすればいいか分からなかった。とりあえず泣き止んでほしい。

 ふっと頭の中を何かがかすめた。それは今の状況と似ていた。違うところと言えば、まるで病室のようなシンプルな部屋、そしてひょこひょこと頼りなく動き、今よりも幼い顔立ちで泣くもも。

 それを見たとき、瞳夜はああ、過去の出来事だ、と直感した。根拠はない。いや、正確に言えばあるのだが上手く説明できない。

 ーーあのときはどうやって慰めたんだっけ?

 そう思っていれば、手が伸びた。栗色の髪の上に置かれ、その手は優しく頭を撫でた。今よりも幼いももは涙に濡れた目で瞳夜を見た。どうして撫でるの、と言いたげだ。

 ーー笑ってた方が良いと思うから。

 するりとその言葉が口から出た。ああ、そうだ。このとき、ももとはほぼ初対面のような状態だった。それでも一応、お互いに顔を見たことがある程度の関係。瞳夜にとっては少なくともそうだった。

 ーー笑ってた方が良いって……。

 幼いももは困惑したような顔をしていた。けれど瞳夜は笑ってよ、と言った。

 ーーごめんって言うなら僕のお願いを叶えて。

 そう言えば、ももはしばらく呆気にとられていたがくすりと笑った。

「ねぇ、ももちゃん」

 ーーこんな風に言うのはずるいかもしれないけれどさ。

 ももは真っ直ぐに瞳夜の目を見た。

「ごめんって言うなら僕のこと、好きになって」

 そう言えばももは驚いていた。もちろん、瞳夜だって驚いている。どうしてその言葉が口から出たのか分からない。けれどあの時の言葉をリメイクしてまでも、好きだと伝えておかないといけないと思った。

 ふとももを見れば百面相をしている。パッと顔を明るくしたかと思えばシュンとして次には泣きそうな顔をしていた。これはこれで面白いけれど、ちゃんと返事を聞きたかった。

「ねぇ、ももちゃん?聞いてる?」

 少し不安になってそう聞けば、ももは瞳夜をしっかり見て言った。

「き、聞いてる……」

「良かったぁ。僕、ももちゃんのことが好き。ももちゃんさえ良かったら付き合わない?」

 ーーお試しだと思って、ね?

 やっぱり弱いな、と瞳夜はひとり自嘲する。お試しで、の言葉はももに逃げ道を示していた。もし今、好きじゃなくてもお試しなら、と付き合ってもらえるかもしれない。もはや玉砕覚悟とは言えない。

 ももは何も返せずにいた。ずいぶん悩んでいた。瞳夜は静かに返事を待った。焦る必要はないと分かっていても、家に帰るまでには返事をもらっておきたかった。

「……いいよ」

 消え入りそうなほど小さな声でももが言った。瞳夜はパッと顔を輝かせた。すごく、嬉しい。夢みたいだ。

「やった!じゃあ、とりあえず一ヶ月!試してみよう!」

 ももの手をそっとすくい上げる。ももが顔を赤らめた。

「……そろそろ、ピアノ弾いていい?」

「うん!楽しみだなぁ」

 ももは椅子に座る。杖を近くに立てかけてフタを持ち上げて白と黒を見る。久しぶりに見る鍵盤はももの胸を高鳴らせた。

 そっと押せば調律のされた美しい音が部屋をベールのように覆った。その音が完全に消える前に曲を奏でた。

 瞳夜はそっと目を閉じ、ゆらゆらと揺れてリズムをとった。楽しい。この綺麗なメロディーも素敵だが、もっとアップテンポな曲も得意だったはずだ。

 ももが演奏している曲のテンポを上げた。

 ギッと音がして瞳夜は椅子に座った。立ったままリズムをとることが難しくなったからだ。

 ぽふっぽふっ、と間抜けな音がする。つま先が何度も床と触れ合っているが、ふわっふわのカーペットのせいでそんな音がする。床の方が良いんだけど、とはあまり言えそうもない。

 ももがくすっと笑った。なにか面白かったのだろうか。瞳夜には分からなかった。

 やがてピアノは曲を終える。瞳夜が目を開けた頃には白と黒の鍵盤からももは手を離していた。

「上手だね」

 瞳夜は空色の屋根の家から聞こえるピアノの音が好きだった。その演奏者がももだと知ったのはずいぶん後だったが、ひと聴き惚れとはこのことを言うのだろう。

「そうかな」

 そう言ったももはどこか不満げだった。瞳夜には分からない何かが気にかかっているのかもしれない。

「そうだよ」

 瞳夜は励ますように言った。ふっと時計を見れば三十分は経っていた。そろそろ帰らないといけない。

 ももはピアノのフタをしめていた。瞳夜は立ち上がるとももに杖を差し出した。

「ありがとう」

「うん」

 個室から出たももと瞳夜はエレベーターに乗って学校を出た。バスに乗ってあいている座席に座ったももはぼうっと窓の外を見ていた。

 瞳夜はその横顔が悲しそうに見えて胸が痛かった。

 ーーねぇ、何を考えているの?

 それを聞けたら苦労はしない。それはきっと、瞳夜にだけは相談できないことなのだろう、となんとなく感じ取っていた。ももにとって一番の理解者でありたい。そんな小さな願いはいつ叶うのだろう。

 窓の外はどよんと曇っていた。虹は出ていない。こうして曇っているだけならば怖いこともないのだが、雨が降ると少し身構えてしまう。これはクセだった。

 ふと降りるバス停が告げられる。どうやらしばらく考え事をしていたようだった。

 ポーンと音がする。その音にハッとしたももは瞳夜を見た。瞳夜はももの視線に気付くと次だよ、と言った。

 バスが停まる。瞳夜はももに杖を渡して立たせる。ゆっくりとバスを降りれば瞳夜も降りた。バスが走り出す。次の角で曲がるまでを見送る。これはいつものことだった。

 家に向かって歩きながら瞳夜は少し緊張していた。ももに車道の近くを歩かせないように自分が車道側を歩いているのだ。半歩後ろを歩くのが常だが、今日は少し距離をとって隣を歩いた。車が通る度にドキドキするが、ももの安全のためだ。……あとは少しだけ彼氏面がしたいだけ。

 会話がなくとも瞳夜は居心地の悪さを感じなかった。黙ってそばにいるだけでも安心するのだ、もものそばは。他の人には感じないことだった。思えばもものことが好きなのでは、と思うより先に安心するから一緒にいたい、と感じた方が先だったと思う。

「じゃあ、また来週」

「うん……」

 瞳夜は玄関まで荷物を運んだ。最近は荷物が重いためそうしているのだった。

 ももの家を出て家に帰る。ほんの数分のことなのに、もうももに会いたい。一緒にいたい気持ちが強すぎて恋に気付けなかったのは反省すべき点だろう。ぼんやりとそんなことを思いながら瞳夜は家の玄関を開けた。


 お試し期間が終わる前に、ももから正式にお付き合いをしたいと返事をもらった。それはお試しを始めてから三日後のことで、ももからは瞳夜くんのことが好きだから、と言われた。もしかしたらずっと前から好きだったのかもしれない……、なんて自惚れても良いのだろうか。

 周囲の反応は様々だったが、総じて祝福してくれたと瞳夜は思っている。リミとセイにはお互いにもみくちゃにされた。これは彼らなりの祝福だと受け取った。母親には赤飯を炊かれた。おめでたいことよ、と笑っていたが、瞳夜の秘めたる恋心を知っていたと聞いて肝を冷やした。きっと母親に隠し事はできない。

 かくしてとても順調なお付き合いが続いていた。遠出はできないが二人で日帰りのおでかけを繰り返し、室内プールに行く約束を取り付けた。外のプールでは天気に左右されてしまうからだった。

 そこで二人に降りかかったのは水着を新調することだった。最後にプールに行ったのは小学生の頃だと言う瞳夜とももは今の二人にサイズの合う水着を持っていなかった。せっかくだから一緒に買っておいで、と言って母親は二人をバスに乗せた。

 それが三時間前のことだった。

 瞳夜の水着は比較的すぐに決まった。男性用はあまり種類がなかったのだ。瞳夜は好きな色のものを見付けるとそれに決めた。

 しかし、時間がかかったのはももの水着だった。様々な種類や色がある中でなかなか一つに絞れなかった。

 ももが悩むのにも訳があった。それが太ももの裏にうっすらと残っている傷跡。水着の丈が短くて隠したくともなかなか隠れてくれないのだった。

「ももちゃん、これはどう?」

 瞳夜はそれを分かった上で水着を提案した。それはワンピースタイプの水着だった。しかし上と下でセパレートになっているらしく、ふんわりと広がる紺色のスカートの裾には白いフリルがついている。鎖骨辺りからヒラヒラと紺色の布が垂れ、水中で舞うだろう。もちろん露出はそれほどない。

「ももちゃんに似合うと思うんだ」

 そう言って照れたように笑う瞳夜はかわいらしい。ももは着てみる、と言って試着室に入った。

 瞳夜はその前で番人のように立っていた。キョロキョロと周囲を見ることはしてはいけない。どこに虹があるか分からないから。もう、リセットされたくないから。

 しばらくするとカーテンが開けられる。振り返って見てみれば肌の白いももにその水着はよく似合っていた。太ももの傷跡はスカートの裾で隠れるか隠れないかぐらいだが、ビキニよりは隠れているだろう。

「どう……、かな?」

 恥じらうように頬を赤く染めて上目遣いで言うももは大変かわいらしい。

「とってもかわいいよ。似合ってる」

 普段よりも少し笑って言った瞳夜の言葉にももはさらに顔を赤くする。

「あ、ありがとう……」

「他のも見る?」

「ううん、大丈夫。これにする」

「そ、そう?」

「うん。これが良いの」

 ーーじゃあ、着替えてくるね。

 ももはカーテンを閉めてしまった。瞳夜は両手で顔をおおってへなへなと力なく座り込んだ。その顔は真っ赤で耳まで赤い。

 かわいかった。そう、かわいかったのだ。ただひたすらにかわいくて、見せたくないと思った。

「反則……」

 だってあんなに似合うとは思っていなかった。あんなにかわいいとは思っていなかった。

 独占欲がむくむくと顔を出す。彼氏面か。あ、彼氏だった。

「わっ?!瞳夜くん、何しているの?」

 瞳夜が振り返ればももがカーテンを開けていた。瞳夜は慌てて立ち上がる。なんでもないよ、大丈夫、と言えばももは不思議そうな顔をしていたが、レジに足を向けた。

 会計を済ませた後、二人はバスに乗った。高校よりも遠かったため、のんびりとバスの中でおしゃべりをしていた。

「プール、いつ行こうか?」

「来週ならいつでも良いよ」

「じゃあ水曜日にしよう。たしか割り引きされるはず……」

「そうだね。毎週水曜日は」

「「水の日」」

「だからね」

 二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。今からプールが楽しみで仕方ない。瞳夜は泳げないのでおとなしく浮き輪に乗って流されていた方が安全だ。また、ももに関しても浮き輪につかまっていた方が安全だった。

「あっ、次だ」

 ポーンと音がしてバスが次の停留所で停まることを告げた。ふと窓の外を見たももは目を丸くした後、瞳夜の目をふさいだ。瞳夜は薄暗い中、首をかしげた。

「ももちゃん……?」

「絶対に目を開けちゃ駄目。良い?」

「う、うん……」

 瞳夜はうなずくとぎゅっと目を閉じた。この方が安全だった。

 やがてバスが停まる。けれど瞳夜は動けなかった。何も見えないから不安なのだ。しかしそれをももに悟らせてはいけない。

「ねぇ、ももちゃん。僕、目を開けないから一度立って良い?」

 ーー手すりとか触れば立てるし。

「……うん」

 瞳夜はももの返事を聞くと手すりなどをうまく使って立った。しかしやはり怖い。

 少しすると後ろからももの声が聞こえてきた。

「真っ直ぐ、真っ直ぐ。そう、大丈夫だから」

 瞳夜はその声に従って歩いた。そう言えば支払いはどうするんだろう。分からないけれど任せて良いだろうか。

「段差があるよ。気をつけて」

 なんとかバスを降りたが、ずいぶんかかってしまった気がする。バスが走り去っていくのが分かった。これであとは歩いて帰るだけだ。しかし、ももの家に行ってからだと瞳夜が帰れるか怪しい。

「ねぇ、ももちゃん。今日は僕の家に先に行ってくれるかな?」

「もちろん。目は開けちゃだめ。カーテンも開けないで」

「分かった」

 それからのんびりと歩いていつもの二倍ぐらいの時間をかけて瞳夜の家に行った。母親は瞳夜の部屋の準備を終えるとももを送ると言って家を出た。もちろん瞳夜はお留守番だ。

 家の中はどことなく暗い。カーテンは全て閉められ、どこも電気が点いている。机の上にはパソコンがそのまま置かれ、飲みかけのお茶やら食べかけのお菓子などが散乱していた。それだけ急だったということだ。

 瞳夜は部屋に戻るとベッドに横になった。なんとなく疲れた。目を閉じればどっと疲労が押し寄せて瞳夜は流された。

 寝ちゃ駄目。だめ……だけど……、眠い。

 少しだけ、と瞳夜は意識を落としていった。


 ーーどんなときも隣にいるのは、僕じゃだめかな?

 その一言でパッと目の前がひらける。見れば高校のロッカーが周囲にあった。どうやらここは高校らしい。

 目の前にはかわいらしいももが立っている。きょとんとした顔をしている。それもそうか、と思う。ついさっき口から滑り出た言葉は告白とは取れない言葉だった。

 けれど、ももは戸惑ってはいなかった。

 ーーいいよ。私の隣にいて。

 それは了承の言葉だった。瞳夜にとってはとても嬉しかった。ありがとう、と勢いそのままに抱きつこうとして、ピクリと止まる。視界の端にうっすらと虹が見えた。キラリと雨を反射して描かれたそれによって血の気が一気に引く。

 ぐっと頭をおさえた。まぶたの裏には様々な景色が浮かんでは消えていく。走馬灯みたいだ、なんて不吉かもしれない。

 立っていられなくなって膝から崩れる。床は冷たいはずなのにちっともそれを感じない。どこか遠くで誰かが呼んでいる。

 えっと、誰だっけ?僕は……、どうして……。


 目を開ける。瞳夜の見覚えのある天井とカーテンだった。瞳夜はホッと息を吐く。起き上がろうとして手が温かいことに気付いた。そこを見れば母親がいた。疲れていたのかぐっすりと眠っている。

「……ごめんね」

 僕がこうじゃなければ、母親はきっと好きなことをできた。前の仕事は好きそうだった。だからこそ辞めないでほしかったけれど、瞳夜を支えたいからと言ってアッサリと辞めた。

 瞳夜はきっと、一人暮らしはできない。もしかしたら仕事もできないかもしれない。孫の顔だって見せてあげられないかもしれない。そして、なによりも。

 瞳夜は母親より先に死んでしまう。親不孝な息子だ。でも、なるべく長生きするから。だって僕は今がすごく楽しいのだから。

「んん……」

 ゆっくりとまぶたが持ち上げられる。ゆらゆらとまだ微睡みの中にいるらしい。瞳夜をとらえても再び閉じられてしまう。

 そのまま再び寝息を立てて眠った母親はどこか幼く見えた。瞳夜はそっと母親の手をほどいて下におりた。お腹が空いたのだ。

 時間を確認すれば八時。普段だったら夕食を食べて母親はお風呂に入っている時間だ。けれど、瞳夜は寝てしまい、母親はそのそばにずっといたのか、それとも仕事を終えて普段通りご飯を作って食べたのか。

 どちらにしても瞳夜はまず、お腹を満たそうと思った。腹が減っては戦はできぬ。頭もふわふわとしていて思考がまとまらないのだから先人の言葉は馬鹿にできない。

 冷蔵庫を開ければお刺し身があった。炊飯器は保温、味噌汁は冷めているが温めれば大丈夫だろう。うん、今すぐ食べられる。

 瞳夜はコンロに火をつけて味噌汁を温めながらご飯をよそった。お刺し身の下にはサラダがあったのでこれも出した。たぶんこれで一食分なんだろうな、と瞳夜は思った。

 ふわりと味噌の香りがして瞳夜は火を消す。味噌汁をいれてリビングの机に置いた。

 冷蔵庫にあったのは一食分。つまり、母親は食べたということだろう。瞳夜は両手を合わせていただきます、と言ってから食べ始めた。

 テレビの音すらない静かなリビング。普段はテレビをつけているが、今日はなんとなくつける気分ではなかった。

 少し前に行った定期健診で瞳夜は筋力の低下を指摘された。言われた通りの運動やストレッチはしているが、効果はもう少ししないと出ないらしい。けれど、本田の予想よりは低下していなかったため、効果は少し出ているとのことだった。

 そのときにもう一度、余命宣告をされた。虹がかかる頻度が上がっていることやその他の様々な条件を鑑みて、もう一度試算してくれた。それによると、瞳夜は最短五年、最長十三年の命と言われた。

 ーーどうする?華乃さんにはおれから言おうか?

 不安そうな本田の声がよみがえる。そのとき、瞳夜は頭を左右に振った。自分で伝えるよ、と言った。本田は瞳夜くんがそう言うなら、と言って母親には電話をしていないらしい。彼女なら、真っ先に事実かどうか聞いてくるはずだからだ。

「……ももちゃんにも言わなきゃ」

 自分があと五年から十三年しか生きられないこと。それを伝えても、ももは瞳夜のそばにいてくれるだろうか。

 ……どうだろう。瞳夜がももの立場だったら見限るのではないかと思う。ただの友人の距離に戻って、程よい付き合いをする。そうすればもし亡くなってもダメージは小さいから。泣かないで済むから。

 だから、好きだけど離れるだろう。

 不意にガチャ、と音がしてリビングに母親がやって来る。瞳夜を見るとふにゃっと笑った。

「良かった、ここにいたの?」

「うん。これ、僕の分でしょ?」

「そうよ。美味しい?」

「うん、美味しいよ」

 母親は瞳夜の目の前の椅子に座った。そして瞳夜が食べる様子をじっと見ていた。その視線は瞳夜にとってむず痒いものだった。けれど瞳夜は何も言わずにその視線に気付いていないフリをした。

「ねぇ、瞳夜」

「なぁに?」

 皿を洗い終えて瞳夜は声をかけられた。母親は真剣な目をしていた。

「もし瞳夜が私より先に死ぬなら」

 ーーそれまでいっぱい愛して幸せにするから。

 瞳夜はその言葉に目を丸くした。瞳夜は母親には余命のことをまだ言っていなかった。主治医である本田も瞳夜の意思を尊重して言っていないだろう。では何故、母親は知っているのだろう。

 ふわっと母親は笑う。

「だって母親だもの」

 分かるわよ、それぐらい。

 彼女が口にしなかったそれを瞳夜も分かっていた。瞳夜はしばし口を閉じていたが、小さくうなずいた。

「もしそうなら……」

 ーーお母さんにも幸せになってもらわなきゃ。そうじゃないと死ねないよ。

 母親は少しだけ悲しそうな顔をした。けれど、なんてことないと言いたげにうなずいた。

「じゃあ、一緒に幸せにならなきゃ」

「そうだね」

 瞳夜はお風呂入ってくる、と言ってリビングを出た。


 プールで倒れたと電話がかけられ、すぐに華乃はそこに迎えに行った。施設の職員たちが瞳夜を着替えさせて裏に運んでくれたらしい。眠る瞳夜のそばで水着姿のももが泣いていた。

 室内プールで虹は出ないと思っていたが、照明と水が作り出した虹をたくさん見たせいで倒れたとのこと。とは言っても浮き輪で浮かんでいただけなので溺れることなく、ふよふよと浮きながら失神していたらしい。施設の職員が気付いて引き上げてくれて発覚したのだが、そうじゃなかったらと思うとお腹がスッと冷えるような気がした。

 ももは別の浮き輪で浮いていたので、なかなか瞳夜に近付けずに気付かなかったようだ。二人乗りの浮き輪は全て借り出されていたことも災いした。

「ごめんなさい、瞳夜くんママ。私がちゃんと見ていれば……」

「大丈夫。ももちゃんは悪くないわ」

 あの事故の後、瞳夜が何をきっかけに記憶をリセットされるかたくさん調べた。そのときに照明で作られた虹は大丈夫だったからと室内プールを勧めたのだが、多く見ても記憶はリセットされるらしい。あのときはまだ幼かった瞳夜の負担も考えて一、二回で止めたのだった。

「さ、着替えておいで。このままだと冷えちゃう」

「……はい」

 華乃の言葉を聞いたももはゆっくりと更衣室に向かっていった。女性職員が補助に行ったので大丈夫だろう。

 華乃は瞳夜を見た。あの事故から瞳夜はどんどん大きくなった。声も低くなった。身長も伸びた。足も大きくなった。けれど父親譲りの穏やかなエメラルドの目だけが変わらなかった。

 純粋で、穏やかで、子どものときのまま。そこだけが、時を止めていた。他が見る影もなくなったとしてもそこだけはーー。

 そのとき、ピクリと指先が動いた。華乃が見守る中、瞳夜はゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視界が次第にハッキリとして、そして自分の置かれた状況に少し驚きつつもきょとんとした顔は間違いなく小学生の瞳夜だ。

「おかあ、さん?」

 ハッキリと母親とは分からなかったようだ。それでも、ちゃんと呼んでくれた。

「えぇ、そうよ」

 できるだけあの頃と同じように声をかければ、瞳夜はゆっくりと自身の喉へと手を伸ばした。声が低くなっていて驚いているのだろう。

「ここ、どこ?」

 ーープール?学校の?

 ふわりと漂っている塩素の香りに気付いたのか、瞳夜は不思議そうな顔をしていた。当たり前だ。瞳夜の最後の記憶は小学校の卒業式。気が付いたらプールにいるなんて驚くだろう。

「ここは室内プールの裏よ。倒れたから迎えに来たの」

「そ、そう……」

 目をキョロキョロさせる瞳夜に華乃は日記を差し出した。瞳夜はそっと手を伸ばして受け取ると中を見た。

 その目が驚きに見開かれる。だって自分の記憶がリセットされるなんてにわかには信じられない。けれどそれは事実なのだ。

「……ほんとう?」

「本当よ」

 華乃はそう答えた。瞳夜はそれ以上聞かなかった。かわりに立ち上がろうとした。けれどふらついて逆戻りしてしまった。

「ゆっくりで良いから」

 瞳夜は戸惑っていたが、ゆっくりと掴まり立ちをした。いきなり大きくなったように感じるから動くことが難しいのだ。特に立つ・座る・歩くことに関してが難しいらしい。それでも次第にコツを掴むのだから華乃は一度として口出ししなかった。

 そこへももが戻ってくる。瞳夜は少し迷っていたがももちゃん、と呼んだ。目元は変わっていないからだ。

「良かった。瞳夜くん、目が覚めたのね」

 そう言って嬉しそうに笑ったももは明らかに小学生のときの距離感じゃない。華乃は知らないが、二人だけのとき、いわゆる恋人の距離感ではないだろうか。

「……うん」

 瞳夜は少し距離感に悩んでいるようだった。華乃は助け舟を出す。

「じゃあ、帰ろうか」

 瞳夜はうなずいた。ももはゆっくりと歩き出す。瞳夜もゆっくりとそれを追いかけた。


 ももを送った後、家に帰った瞳夜は自身の記憶とそれほど変わらない内装の家に苦笑いした。家具の配置も何もかも記憶と違わない。けれどこれを維持するのは大変だろう。

「瞳夜の部屋は二階よ」

「うん」

 そこも変わらないらしい。瞳夜は階段をあがって自分の部屋を示すプレートとにらめっこした。黄色い星がたくさん描かれたプレート。そっとノブに手を乗せれば扉は開いた。

 中も変わらなかった。星柄のカーテン、天井に広がる星座マップ。

 棚にしまわれた教科書やノート、そして大切そうに置かれた重厚な見た目の日記が六冊、大きなアルバムが三冊。それが瞳夜の記憶にないものだが、それ以外は馴染み深いものだった。

「やっぱり……」

 瞳夜の記憶はリセットされたんだと、こういうときに気付く。追い打ちをかけるようにカレンダーは瞳夜の記憶よりずいぶん進んでいた。

 ベッドに座れば、カーテンが閉められていることに気付いた。帰ってくるときに見た外はまだ明るかったのだが、もう閉めているのか。

 ベッドから立ち上がりカーテンに手を伸ばしかけて瞳夜の手は止まる。もし、外で虹が出ていたら?瞳夜はまたリセットされてしまう。

 それが瞳夜を臆病にさせた。カーテンに伸ばしかけた手はゆっくりとおろされた。

 トントントンとノックの音が響く。瞳夜は慌ててベッドに腰かけた。

「瞳夜?ちょっと良いかしら」

「お母さん?うん、良いけど」

 扉が開いて姿を見せた母親は瞳夜が座っているのを見て目を細めた。そのまま中に入ってきて、瞳夜の隣に座った。

「取材を受ける気はない?」

「え?」

 母親曰く、とある出来事をきっかけに連絡をとるようになったテレビ局の館川が二十四時間テレビの企画の一つとして瞳夜を取り上げたいと言ってきたのだった。

「いくつか候補の企画があったみたいなんだけど、どれも潰れちゃったらしくて。瞳夜のことならば企画としても充分成立するからどうかなって」

「……話だけ、聞いてみても良いかな?」

「っ!ええ!館川さんも喜ぶわ!天気と相談して……、いいえ、来てもらいましょう!」

 母親は嬉しそうにそう言って瞳夜の部屋を出ていった。瞳夜はそっと横になる。目を閉じればひどく疲れているような気がした。

「寝ちゃ……駄目だよね」

 あふ、とあくびがもれる。噛み殺すことなくそのままでいれば次第に目尻に涙が滲んだ。それを指でそっと拭う。

 なんかこれも覚えがあるんだよね……。でも、どこでだっけ……。

 ズキリと頭が締め付けられる。その痛みで思考が止まった。するとふっと頭痛が消える。知らないままでいろって言われている気分だ。

 トントントンとノックの音がする。返事をすれば扉は開かず、館川さんが明日来てくれるって、と聞こえた。

 今は六月。件の二十四時間テレビは八月の終わり頃だった。今から撮れば間に合う計算なのか。瞳夜には分からなかった。

「分かった」

 瞳夜はそう言って本格的に眠る準備を始めた。今は何も考えたくなかった。

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聖徳大学 文芸研究同好会

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