こんにちは、「文字数おばけ」こと月夜です。
久しぶりにこうして筆をとりました。たぶん、私がこのブログを更新するのはこれで最後だと思います。たくさんの作品を載せたため、少しでも楽しんでいただけていたら幸いです。
今回は特にお知らせということもなく、ただただおしゃべりをしようと思って記事を書きました。とても長いのですがお時間と興味があれば、ぜひ最後までお付き合いください。
さて、少し前に空色がブログを更新しているのを見て少し羨ましくなってしまいました。空色とは大学一年生の時に出会いまして、かれこれ四年ほどの付き合いになります。作品などでは名前をご存じの方もいらっしゃると思います。空色と私は友だちでありながら全てが正反対なのです。
好みの作風や自分の作風、男女のどちらが書きやすいか、好みの人物……。ええ、作品を読んでもそれはあまり分からないところです。ですが男女どちらも書く私と男ばかり書く空色、恋愛色の強い空色と恋愛色をあまり打ち出さない私。主人公もあまり似ていません。
でも、私と空色は友だちなのです。お互いにお互いの作風やクセを理解してはいますが、自分とは正反対と分かっています。けれど、お互いの作風が好きなのです。私は私に書けない作品を書き上げる空色が好きですし、空色はーー、私の作風が好きかは分かりませんが、男女の恋愛を書くと甘いと言われてしまいます。バレンタインやホワイトデーの時期は男女を書きたくなる私ですが、この時期に書く男女の話を読ませると砂糖を吐いていると言われてしまいます。
褒められていると私は思っていますが、褒め言葉ですよね?ええ、そういうことにしましょう。ちなみにこのブログではあまり甘い話はあげていません。それは二次創作なので、あげられないんです。興味があればぜひ探してみてください。でも、見付けても何も言わないでくださいね。
ここでブログを終わりにしてはせっかく読んでくれる方をがっかりさせちゃいますね。しかし、特に面白いことは書けないので、文化祭である方に話したことを少しここで詳しく書きましょう。
皆さんは作品を書くのにどんなやり方があると思いますか?
ここで言うやり方は作者の数ほどある細かなものではありません。そこまでいったら全てをあげる必要があるでしょう。登場人物から考える人、書きたい場面から考える人、風景から考える人、道筋から考える人、曲から考える人……。様々なやり方があります。けれど、私は大きく分ければ「全てを考えてから始める人」と「一部だけ考えてあとは全て登場人物に任せる人」の二種類だと考えています。
前者と後者の違いは「プロットを考える」作業の有無が関わっています。プロットとは、物語の展開と大まかに捉えていただけると分かりやすいでしょう。プロットを考えることは、どんな物語にするかを考える作業であり、道筋を考える作業でもあります。また、プロットを考えるにあたって登場人物や舞台も考えます。なのでプロットを考えるということは物語の展開を考えるだけでなく、物語を設計する作業と似ています。
さて、話を戻しましょう。
前者はこのプロットがきちっとしています。登場人物、舞台、物語の展開など全てを考えて、はじめから終わりまで設計する人のことです。そしてその通りに進んでいきます。イレギュラーは一切おこりません。その道から外れることはないと言っても過言ではないでしょう。
逆に後者はプロットがしっかりしていません。もちろん、登場人物や大まかな舞台の設定はありますし、展開も考えています。しかし、後者は前者と比べて最後まで展開を決めないことがあります。いえ、決めていてもその通りにいかないのです。
では私はどちらに該当するか、ですね。私は後者に該当します。私が物語を書くときに考えるのは登場人物と舞台(どこなのか)、そして登場人物がどういう場面に出くわすかです。場面は一つの時もあれば複数の時もあります。
たとえば、今書いている話は一番はじめの場面だけ決まっていました。青年が意思疎通可能なぬいぐるみを拾います。その後どうなるかは話せませんが、この出会いがキーになっています。しかし、拾った後の大まかな流れは決まっていますが、そこで登場人物たちが何を思い、どう動くのかは分かりません。現に二話目で刀を武器に闘うのですが刀に身体を操作させるなんて書き始めた時には想像すらしていませんでした。
この書き方を、私は劇場型と呼んでいます。私自身の書き方を簡単に説明するには、これが一番です。
皆さんは観劇をしたことはありますか?どんな劇でも劇にはシナリオがあり、多くの役者がいて、演出家やスタッフがいます。彼らはエンドロールがあれば名前が載るでしょう。ですが、名前が載ることはない人に、劇場の支配人がいます。私の書き方はその支配人と似ているのです。
どういうことかサッパリそうですね。では、こう考えてはどうでしょうか。
私は上映する劇(どんな物語を紡ぐか)を決めます、演じる役者(登場人物)たちを決めます。そして台本(通る場面)を渡します。役者たちは戸惑います。当たり前です、自分たちに与えられたものは演じる役の設定と衣装、舞台、そして入れてほしい場面だけなのだから。しかし、私は戸惑う役者たちを前にこう言うのです。さあ、幕を上げよう!と。
いつの間にかお客さんは席に座り、幕が上がるのを待っています。私はスタッフ席にいて役者に最初の場面だけを指示します。開演のブザーが鳴って幕が上がり、役者はその通りに演じながら自分の役を掴んでいきます。そして、物語は滞りなく進んでいくのです。
私はスタッフ席にいながら(ライトや音楽を調整するため)、彼らの紡ぐ物語をシナリオに書き写していくのです。彼らは時に私の想像していなかった設定を考え出し、選ぶと思っていた選択肢を選ばずに進んでいくことがあります。私はそれが面白いのです。そうなると当初通ってほしいといった場面を変更することになることもあります。けれど、それさえ面白いのです。どんな場面ならば無理なく通れるか、どうしたら面白くなるか。考えて、妄想して、それを伝えても通ってくれない時だってあります。私の思うベストは彼らにとってのベターなことが多くあります。彼らのベストは、私の目の前で紡がれる物語なのです。
私は私の思う通りに行かなかった役者を責めることはしません。私はしょせん、劇場の支配人であり、シナリオライターであり、彼らを輝かせるスタッフなのです。
私は物語の生みの親でありながら、成長過程を見ることはできません。いえ、見てはいても関わることはないのです。そして終わりが近付くと、彼らはこれで良かったのかと不安そうな顔をします。ここからが私の最後の出番です。ナレーションで、音楽で、スポットライトで彼らの最後を飾ってあげるのです。そうして終幕します。
物語の終わった役者たちは舞台を降りて私のところに来ます。どうだったかと聞くのです。私はそこでようやく意見を言います。これが校閲作業にあたります。けれど、基本的に手を加えることはありません。あの場面が好き、この場面での感情を教えて、そこの描写を細かくしても良いか、いい表情するようになったねーー。感想戦のようなものです。いいえ、打ち上げのような場です。彼らはだいたい、私の意見を聞いて、それでもここはこうなんだ、それもあったけどこうしたかったんだ、その言葉を消さないで、と言います。結局、私は誤字脱字のチェックと描写の見直しをして終わります。
ね?私は劇場型だと思いませんか。舞台を用意して踊らせる。どんな舞台でも、基本的に全て観てから手を加えます。
さらに、私はハッピーエンドが好きですが、その道中で登場人物を一度、奈落の底に突き落とします。いいえ、あの表現に合わせて言うならば役者たちが進んで奈落の底に落ちていくのです。そこまでしなくても、と思う間に彼らは落ちていき、そして這い上がってくるのです。幸せになった顔をこちらに向けて、どう?と得意げに笑うのです。心を病みそうな奈落の底に進んで落ちるなんて!と言うとあの時は夢中だったと言うのです。這い上がれるかどうかも分からないで落ちていくのでこちらはハラハラしています。
だから私は、きっと彼らの舞台を観に来た観客でもあるのでしょう。劇場の支配人で、シナリオライターで、彼らを輝かせるスタッフで、舞台を観に来た観客。一人で多くの役割を担いながら彼らと世界を紡ぐーー。
なんて綺麗に書きましたが、実際はひとりで紡いでいるだけです。そばには誰もいません。私が書いているところを見たことがある人は、それをよく知っているでしょう。けれど、実際は私の目の前で舞台が動いているのです。彼らが泣けば私も泣き、彼らが笑えば私も笑う。なので声をかけられると舞台が消えてしまうのです。素晴らしい舞台が途切れてしまうのです。
それが、とても残念でならないのです。だからこそ、私もひとりの時に書くようにしています。せっかくの舞台が消えては、彼らに申し訳ないですしね。
……実は、昨年の文化祭で私はこれと似たような話を来場者の方にしました。どう書くのか聞かれたのです。私は登場人物に任せていると話し、隣にいたサークルメンバーはプロットを作ると言っていました。私の認識で言うならばサークルメンバーは前者の書き方です。
お互いにお互いの書き方に口を出したことはありません。きっと、彼女は私と同じように書くことはできないですし、私も彼女と同じ書き方はできません。プロットを作る方が優れているとは言いませんし、プロットを作らない方が優れているとも言いません。人それぞれに書き方があり、優劣はありません。
もし、それでどちらが優れていると言う人がいれば、それはその人の意見です。その人がどちらかを下に見ていても、読者も同じように考えないといけないことはありません。さらに言えば、私の書いた文を読んでも賛同しろとは言いません。否定をしたって良いのです。お前の考えは間違っている!なんて言ったって良いのです。
さて、あえてこの話を出したのは、ブログにコメントをいただいたのに返信をできずにいたためです。機会をうかがっていたものの、ここまで遅くなってしまいました。
昨年の文化祭で文芸研究同好会の部屋に訪れ、小説の書き方の話を聞き、このブログにコメントを残してくださったご来場の方へ。
私の書き方という、ただの一個人の小説の書き方に興味を持ち、丁寧にお話を聞いていただき、ありがとうございます。私の話がご来場者の心を軽くできたなら嬉しいことこの上ありません。私の方こそ、もっとうまく対応できたんじゃないかと心配していました。もっと上手に説明できたんじゃないか、そう、考えていました。なので、このブログの更新で詳細を書いてみました。ぜひ、今後ともこのブログに載せられる作品たちを楽しみにしていただけると嬉しいです。
こうしてまとめてみると、やはり私は書くことが好きだとしか言えません。十年以上の付き合いですからね。書くことは私のルーティンのようなものなのでしょう。
私は卒業という形で、このブログに登場することは、きっともう、ないでしょう。けれど作品たちはサークルに、このブログに、残していきます。こうして記事を書くことも数回あったので、そこでもお会いできます。このブログが閉ざされることなく、長く続くことを、私も願っております。
では、そろそろこの記事も終わりにしましょう。思いのほか長く語りました。とても楽しかったです。こんな長い記事に付き合っていただき、ありがとうございました。
またどこかで、お会いしましょう。
以上、本記事の担当は「文字数おばけ」こと月夜でした。
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2025.03.23 13:40