【小説】3月お題『書き下ろし』

こんにちは。文芸研究同好会です。

全員共通のテーマで作品を書くお題企画が2月に息を吹き返しました。

今更ですが、3月のお題は部誌のための書き下ろしでした。

以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。

※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。


リンクの先に【前編】/月夜


 ぐるぐるする視界で陽太はぎゅうっと目を閉じた。今、自分が立っているのか座っているのかも分からない。耳に入る音はマイクを通した声よりも、自分の近くの期待と不安を詰め込んだ声の方が大きい。

 ぎゅうっと身体を縮こまらせて陽太は意識して息を吐く。しかし、これ以上はだめだ。よろよろと座り込んだ陽太はそのまま耳をおさえた。

「大丈夫か?」

 そっと肩に手が置かれる。相手が分からない不安から陽太は小さく肩を震わせたが、それを振り払うほどの元気はなかった。

 明らかに様子がおかしいことに気付いたのか、その人物は陽太をそっと抱き上げた。急な浮遊感に驚くも目を開ける余裕はない。せめて落ちないようにと自分を抱き上げた人物のシャツを掴んだ。あまり指に力が入らず、弱々しく握るような形になってしまったことには陽太すら気付かなかった。

「もうすぐ保健室に着くからな」

 陽太はその声を聞いて少し安堵した。彼の声は陽太の耳を刺激しない。ちゃんと心から心配していることが分かった。

 ガラッと戸の開く音がする。陽太を抱き上げた人物と保健医と思われる人物の声がする。しかし、陽太は既に限界だったのか、そのまま意識が落ちていった。


 小さな頃から二つの声が聞こえた。一つはお喋りの声。ちゃんと声帯を震わせて、他の人も聞ける声。嘘だって言うしお世辞だって言う。みんなが聞ける声だ。

 そしてもう一つはーー。


「んっ……」

 ゆっくりとまぶたを持ち上げた陽太は白い天井に自分のいる場所が保健室だろうとあたりをつける。これまでにも何度も倒れて保健室に運ばれたことがあるので見覚えのあるものだった。

 進学しても保健室だけは大きく変わらなかった。小さなシミでも目立つ白い天井、薄い色のカーテン、ちょっとだけ硬いベッド、ふわりと香る消毒液の匂い。

 周囲の様子を観察しながら陽太は起き上がる。しかし、すぐにベッドに逆戻りしてしまった。やはりまだ調子は戻っていないようだ。ぐるぐるしていた視界はおさまり、周囲の色も見える。いや、単純に今いる場所が白いから視界がクリアなように感じるだけかもしれない。

 はあっ、とため息をついた。せめて入学式はちゃんと出たかった。お守りはポケットの中で眠っている。大丈夫と言ってくれた陽太の母はそれでもやはり不安そうだった。

 そんなときシャッとカーテンが開く。顔を見せたのは四十代くらいの女性だった。目尻に寄ったシワが女性の人柄の良さを示しているようだった。

「あら、起きたの?気分はどう?」

 声もそれほど大きくない。ふんわりと優しい声は保健医と言われて納得するものだった。

「へ、いきです」

 小さな声で陽太がそう言えば女性はくすくすと笑った。平気って顔じゃないわと言ってもう少し寝ていた方が良さそう、と続ける。陽太は困ったように笑った。昔から保健医には陽太の嘘がバレてしまうのだった。

 女性は手元のバインダーに挟んだ紙にペンを走らせる。サラサラと音がして心地よい。

「次に起きたときに気分が良くなっていたら話を聞いても良いかしら?」

「はい」

 陽太はそっと目を閉じる。この人も陽太のことを心配しているのがよく分かる。きっとそういう人なのだろう。ほうっと息を吐いて寝返りをうった。

 次に起きたときにはきっとよくなっている。そう思った。


 目覚めた陽太は女性ーー梨木美帆ーーから色々と質問をされた。学年、年齢、名前はもちろんのこと、倒れた場所、状況などを事細かに説明した。

 美帆が持病について聞いたとき、陽太は元々貧血気味なのだと言った。陽太の冷えきった手と未だ戻らない顔色に不安そうだったが、いつでも保健室に来て良いと言ってくれた。

「本当に大丈夫なの?」

 陽太はうなずいた。今日中に寮に行かないといけない。寮の部屋分けは終わっているらしいが、まだ荷物を運んでいなかった。

「何かあったら連絡しなさい。これ、私の携帯電話の番号よ」

「でもーー」

「私、この大学の近くに住んでいるの。深夜でも全然大丈夫!佐倉くんの方が大事よ」

 小さな付箋を渡される。陽太はそれを手帳に貼った。そこならばなくすことはないだろう。

「気をつけて帰りなさい。温かくして寝るのよ」

「はい」

 美帆に見送られて陽太は保健室を後にする。あらかじめ保健室の場所と大学の寮の場所だけは把握していた。おかげで迷うことなく寮まで辿り着いた。

 扉を開ければ仁王立ちの青年と目が合った。陽太はびくっとして背を伸ばす。たぶん、門限を過ぎているのだろう。

「こんな時間までどこに行っていたんですか!」

 陽太は震えながら入学式で倒れたことと今まで保健室で休んでいたことを話した。青年は陽太の顔色を見て慌てて陽太を中に招いた。

 温かい室内で青年はお茶を淹れてくれた。ほうっと息を吐く。温かいお茶は身体に染みた。

「さっきは怒って悪かったです……。俺は寮長の畑中悠木です」

「一年生の佐倉陽太です……。ごめんなさい、連絡、できなくて」

「あぁ、気にしないでください、俺も悪かったので。門限を破るやつが多くて……。てっきりそうなのかとーー」

 恥ずかしそうにうつむいて悠木はそう言った。陽太は悪い人ではなさそうだと思った。

「一年生、ということは部屋を知りたいですよね。ちょっと待っていてください」

 悠木は棚に近付く。そこから一つのファイルを取り出すと紙を繰っていった。

「あったあった。佐倉陽太くんですね?」

「はい」

「うん、二人部屋です。ルームメイトは佐々倉遥。ーーそう言えば荷物が届いていたから部屋に置いておきました」

「ありがとうございます」

 陽太はうなずいた。陽太の母が必要なものを後から送ると言っていた。どうやらそれは届いたようだ。

「これはルームキーです。佐々倉くんも持っていますよ」

「あ、はい」

「寮のルールは佐々倉くんに聞いてみてください。分からないことがあれば連絡してくださいね。これ、俺の携帯電話の番号です」

「ありがとうございます」

 小さな紙を手帳に挟む。とりあえず寮の部屋を目指すことにして、陽太は悠木と別れた。

 階段を上がりながらルームメイトはどんな人だろうと考えていた。できるだけ優しい人が良い。それも素直で裏表のない人。陽太にとって表面上の優しさは嬉しくなかった。

 ルームキーと共にかけられた部屋の番号を探せば案外すぐに見つかった。角部屋だ。しかも階段が近い。

 陽太は何度か深呼吸した後、ルームキーを使って鍵を開けた。ガチャッと音がして扉を開ければ、中にはガタイの良い青年がいた。

「きみーー」

「は、初めまして!佐倉陽太です!」

「あ、佐々倉遥っす。よろしく」

 握手を求めて手を差し出した遥の手をおずおずと取った。陽太が中に入れば扉は閉まった。

「ベッドはそこな」

「は、はいーー」

 遥はスポーツをやっていたのかガタイが良く、陽太よりも身長が高い。長時間顔を見て話そうと思えば首が痛くなりそうだった。顔立ちはシュッとしていて目つきが鋭い。ツリ目だった。

「ルールはゆっくり覚えていけば良いって。とりあえず、朝食と夕食の時間だけ覚える?」

 遥はそう言って壁に貼られた紙を見た。朝食は六時半から八時の間。夕食は七時から九時。かなり幅がある。

「風呂は部屋の使えってさ」

「そうですか」

 陽太はびくりと肩を跳ねさせる。遥は怪訝な顔をした。陽太は慌てる。

「僕、お風呂っ!」

 バッと駆けていき、あっという間に洗面所に消えた。遥は自分の見た目で恐怖を与えてしまったようだとため息をついた。

「はぁ〜」

 陽太は湯船に浸かって息を吐く。今日は色々な意味で疲れた。地元と違って人が多い都会の大学。どこからこんなに現れたと思うほどいて、陽太は人ごみに酔ってもいた。その上に負担がかかれば倒れてしまうのも仕方のないことだった。

 ふと入学式で自分を助けてくれた相手のことが気になった。陽太はその相手にお礼を言っていない。

 入学式にいたということは陽太と同じ新入生だろう。近くには同じ学部の人が座っていたはずだ。ということは、明日の新入生オリエンテーションで会うかもしれない。

 ちゃんとお礼を言わなくちゃと思いながら陽太はもう一度息を吐いた。ちゃぷん、と水面が揺れた。

 お風呂からあがればドライヤーが置かれていた。髪を乾かせということのようだ。

 コンセントをさしてスイッチをいれる。カチカチッと風力を上げて風を浴びる。髪を切ることが億劫で伸ばしたままにしているため、たしかにドライヤーで乾かした方が良いだろう。有り難いがあまりドライヤーを使ったことがないから、使い方が分からない。

 少しうなりながらなんとか冷風を浴びせることに成功した。ドライヤーはまだ熱を持っていたのでそのまま置き、一応くしでとかした。

 そっと共用スペースに行くと遥は分厚い本を読んでいた。暗い青色の表紙はシックで格好良い。

「何を読んでいるんですか?」

「ん?あぁ、源氏物語だよ」

 読んでみるかと聞かれて遥がひらいていたページを見せられる。陽太はそれをチラッと見て目を丸くした。現代語訳がない。今まで読んできたものは現代語訳がついていた。

 遥は苦笑を浮かべた。

「俺もあんま読めない。でも慣れとこうって思ってさ」

 ほら、文学部だしと遥は続ける。陽太はそうか、文学部かと思う。たしかに文学部に合格したが文学部だからと言って勉強したことは一つもない。古典文法なんて陽太は大の苦手だ。

「大丈夫だって。俺、苦手だからさ」

「僕も苦手なんです……」

 泣きそうになりながら陽太は言う。たしかに古典だって扱うだろう。どうして思いつかなかったのだろう。

「ふっ……。あはは……」

 見れば遥が笑っていた。なにか笑うところがあっただろうかと陽太は首をかしげる。

「おんなじだな、俺たち」

 そのときに、陽太はそんなことで笑えるんだと思った。こんな小さな『同じ』があっただけで笑って、そして楽しくなるんだ。

「ふふっ……、そうだね」

 陽太も笑い出した。遥は笑えば鋭い目つきがほわんと柔らかくなって怖くなくなる。そのギャップにも笑みがこぼれた。

 陽太の笑顔を見た遥はどこか赤い顔で陽太の頭をぐしゃぐしゃとかきまわした。ちょっと乱暴で視界がぐわんとしたが、これぐらいならば大丈夫だ。陽太はなおも笑う。ころころと笑う様は幼い顔立ちをさらに幼くさせる。

「はーっ、笑った笑った!」

 遥はしばらく笑った後、目元に浮かんだ涙を拭った。陽太も目元を拭う。涙が出るまで笑ったのは久しぶりだった。

「陽太さぁ……、あっ、陽太って呼んでへーき?」

「うん」

「敬語、とって良いから。俺ら同い歳じゃん?」

「敬語……。うん、分かった」

 笑い始めてから敬語が取れていたのだが、陽太は気付かなかった。遥は気付いていたが、あえて伏せていた。

「ねっ、俺のことも名前で呼んで」

「えぇっ?!えっとーー」

 うろっと目線が宙をさ迷う。遥の名前をまだ覚えていないらしい。遥は笑いながら自分の名前を言う。

「うっ……。は、はる、か……」

 陽太は少し照れくさそうに笑いながらそう言った。しかし、すぐに遥くん、と言い直す。呼び捨ては難しいようだ。遥は少し肩をすくめたが、陽太は気付かなかった。

「ん、陽太の呼びやすい呼び名で良いよ」

「ありがとう」

 陽太はほうっと息を吐いた。ルームメイトが良い人で安心すると同時に眠気が襲ってきた。遥はそれに気付くと時計を見た。

「やべ、そろそろ寝ないと」

 壁にかけられた時計は十時を指していた。たしかに明日は九時からオリエンテーションなので早く寝た方が良い。特に陽太に関してはまだ本調子でないため、今すぐ休んだ方が良い。

「ほら、寝よ?」

「……うん」

 遥は陽太の様子を見てベッドに陽太を押し込む。ベッドは部屋の端にあった。それも両方壁際で両極端の位置だった。

 布団をかけてあげれば陽太は微かに笑った。どうやらもう夢の中らしい。遥はそっと自分も端のベッドにもぐりこんで目を閉じる。

 遥はそっと陽太のいる方を向いた。たぶん、このときにはナニカがおこることを遥は予見していたのかもしれない。


 翌日、陽太が目覚めたとき、遥は既に起きていた。

「おはよ。そろそろ朝食を食べに行かないか?」

 陽太は起き上がると時計を見てうなずいた。それから五分で着替えて顔を洗うと遥の隣に並んだ。

「あ、これ、献立ね。朝食は日替わり。偶数日は和食、奇数日は洋食だって」

「今日は偶数日だから和食だね」

「おう」

 遥と共に食堂に行くとかなりたくさんの人がいた。陽太は見覚えのない人ばかりだったが、何人かは遥に話しかけていたので同じ一年生だろう。

「おばちゃん、ご飯多めに盛って!」

「あいよ」

「ぼ、僕は少なめで……」

 お盆に味噌汁と漬け物を乗せながらそう言った。今日の朝食のメインは焼き鮭だった。陽太はできるだけ小さな鮭を選んだ。隣に座った遥は大盛りなのに陽太は全てが並盛りよりも少ない。遥は目をみはる。

「足りるか?」

「うん、少食なんだ」

 陽太はそう言って手を合わせた。いただきますと呟く様はお行儀が良い。遥もいただきますと言って食べ始めた。

「お、遥。おはよ。隣のきみもおはよ」

「おはよ、榊原」

 顔を上げた陽太の前に儚げな美青年が立っていた。ふんわりと笑った顔は病弱そうで、守ってあげないと、と思ってしまう。

 アイロンのかけられた水色のシャツにカーディガンを羽織っている。茶色の髪はふわふわしていて動く度に揺れた。

「あ、榊原。こっちは陽太」

「佐倉陽太です。よろしくお願いします」

「よろしく。おれは榊原正人。遥とは高校生のときから付き合いがあって」

「けっこう頻繁に会ってたよな」

「そうそう」

 くすくすと笑いながら正人は遥の前に座った。陽太はどこを見たら良いか分からず、必死に箸を動かして食べることだけに集中した。

「サークル、どうするの?」

「え?うーん、あんま気乗りしない」

「そっか。うん、それで良いかもよ?」

「え?なんで?」

「いや、ここだけの話だけどさ」

 ずいっと身を乗り出した正人に合わせて遥も身を乗り出す。キスするかのような距離まで顔を近付けてひそひそと話している。

 陽太はその隣で味噌汁を飲み干すとほうっと息を吐いた。今日は普段よりもご飯が食べられた。そんなちょっとした達成感に浸っていた。

「そっか。じゃあ、そのサークルは諦めるかな」

「そうしときなよ。あ、でも文化系のサークルは良いかも。悪い評判はないし」

「あーー、そっか」

「ごちそうさまでした。遥くん、僕、先に行くね」

「あっ、オッケ。分かった」

 陽太はお盆を持って立ち上がるとお盆を戻して部屋に一度戻ってリュックを背負って寮を出た。

 怖いぐらい心臓が脈打っていた。自分にはまだ、遥しか仲良くなった人がいないのに遥は高校生のときから付き合いがある人がいて、陽太よりもずっと親しみやすい顔をしていた。

 目つきが鋭いとかきっと関係ない。遥は優しい人だ。だから見た目の怖さなんて簡単にこえて友だちができる。

「陽太!」

 ぐいっと肩をつかまれて聞こえたギュインと大きな声に陽太は顔をしかめた。

 ーーいっしょに行きたかったのに。

 えーー?

「遥!陽太くん、いた?」

「おぉ。ありがと、榊原」

 陽太がそちらを見れば正人と遥がいた。陽太は恐る恐る言葉を乗せた。

「僕と一緒に行きたかったの?」

「当たり前じゃん!一緒の方が楽しいだろ?」

「それに、今日の集合場所を知らないんじゃないかって遥が言ってて。同じ学部だし、場所一緒だからさ」

 一緒に行った方が良くない?

 陽太はうなずいた。そう言えば集合場所を知らなかったことに今気付いたのだ。

「それに、おれ、陽太くんと仲良くなりたいし」

 にこっと正人は笑った。儚げな美青年は笑うと一気に華やかになる。陽太はくいっと正人と遥の服の裾を掴んだ。

「一緒に行こ……?」

「もちろん!」

「やったね」

 二人は顔を見合わせて笑いながら歩き出す。なんとなく、正人とも仲良くなれそうな気がした。

 三人は教室に入って空いている席に座った。まだオリエンテーションは始まらないらしい。ぐわんぐわんといらぬ音まで入ってきて、陽太はゆらゆらと頭を揺らす。

「大丈夫か?」

「う、うんーー」

 遥が陽太の肩を抱く。陽太は目を閉じた。リュックに手を入れてイヤホンを探す。とりあえず応急処置をしようと思った。

 しかし、見付けるより先にガラッと戸が開いて先生が入ってきた。陽太は目を開けて遥に預けていた身体を離した。

「それでは早速プリントを配る。明後日からの新入生合宿の日程と部屋割だ。準備をしておくように」

 まわされたプリントを一枚とって後ろにまわす。プリントの中身を見ようとしたとき、陽太は目眩を覚えるほどの歓喜の声に押し潰された。

「……っ、」

「陽太?」

 ーーやったぁ!授業はない!

 ーーはやく行きたいな。景色良さそうだし!

 ーーハイキング楽しみだな〜。

 ーー恋バナできっかも!

 ーー早く友だち作らなくちゃ!

 ぐちゃぐちゃな声を防ぎたくて陽太は身体を丸めて耳をふさいだ。自分にとっては嬉しくもないイベントなのに、強引に気分が上向きにされる。

 やばい……、リンクだーー。

 ポタッと冷や汗が陽太のズボンに染みた。犬のように荒い呼気に気付いた遥が素早く手を上げた。

「どうした、……えっと」

「佐々倉です。すみません、佐倉が体調悪いみたいで」

「苦しそうなんで保健室に行っても良いですか?」

 正人が遥の言葉を引き継ぐ。先生が陽太に近付く。伏せられた顔を上げさせれば、真っ青な顔色と虚ろな目を真正面から見てしまった。

 行ってこいと先生は言った。

 その目は人形のようだった。何も感情をうつしやしない硝子玉。

 遥と正人はうなずくと正人が陽太のリュックを持ち、遥が陽太をおんぶした。

 ゆらゆらと揺れる遥の背で陽太は静かに泣いていた。

 本当に嫌になるーー。

 ガラッと戸を開けて保健室に入った二人は保健医の美帆にベッドまで案内してもらった。美帆は嗚咽すら漏らさず静かに泣く陽太に驚いた後、それでも布団をかけてできるだけ優しい声で休みなさいと言った。

 陽太は静かにその指示に従った。ゆっくりと目が閉じられ、呼吸が安定するまで見守った美帆はカーテンを閉めた。昨日より酷い顔色だった。

「先生、陽太はーー」

 美帆はおや、と思う。昨日の入学式で陽太を運んでくれた学生がいたのだから少し驚きであった。どういう関係なのかはまだ分からないが、彼が味方になってくれると有り難い。

 美帆は陽太が来てくれないと分からないが、彼の近くにいる人ならば陽太の様子を確認してもらうこともできると思った。

「寝ているわよ」

 どこを見ているか分からない虚ろな目は、昨日より症状が酷いことを物語っていた。受け答えもハッキリせず、どこか人形のようだった。けれど美帆は知っている。

 ーーあの子は、人形じゃない。

「……さて、事情を聞いてもいいかしら?」

「はい」

 美帆は遥と正人を椅子に座らせ、名前を聞いた。二人は名乗った後、陽太と同じ学部であることを告げた。遥に関してはルームメイトであることまで教えた。

「そっか……」

「陽太くん、そんなに悪いんですか?」

「悪いっていうか……」

 美帆は言葉を濁す。陽太のことはまだ分からなかった。まだ入学式から一日しか経っていない。それなのに二回も保健室に運ばれる学生なんて初めてだった。

「部屋での様子はどうだったの?」

「え?普通、でしたよ?顔色も悪くなかったし」

「朝食は少なかったですけど」

「あれは少食なんだって……」

 美帆はパソコンに向かう。在学する学生の情報を検索するためだった。入学時に持病などを申請してもらったのだ。昨日は忙しくて確認できなかったが、確認するならば今だと思った。

 カチッとマウスから音がする。見れば持病の欄には貧血気味と書かれていた。やはりこれ以上の情報は明かす気がないらしい。

「あの、明後日から合宿があって」

 美帆は思い出す。たしかに文学部は新入生合宿がある。内容としてはいたって普通の合宿で、勉強よりも同じ学部の者同士、仲を深めることを目的としている。そのせいかハイキングだったりグループディスカッションが多い。

「行くつもり?」

「分からないです」

 正人はそう言った。陽太の様子を見る限り、合宿は難しそうだ。ハイキングなんてもってのほかだ。

「私は引率で行くけど不安ね……」

 美帆は付き添いの形で行くことが決定していた。陽太を気にかけることはできるが、彼ひとりにかまうわけにもいかない。学生ひとりを優先するわけにはいかないのだ。

「起きたら聞いてみるわ。……ほら、戻りなさい」

「はい」

 二人が保健室を出ていく。戸が閉まる音を確認した美帆はパソコンに向き直ってため息をついた。

「保護者とお話が必要かしら」

 保護者の欄を見れば佐倉唯愛と書かれていた。これでいちか、と読むらしい。ずいぶん珍しい名前だ。美帆は聞き馴染みがあるような気がした。しかしそれが何故なのかは思い出せなかった。

「まずは電話してみましょう」

 そう言ってふと時計を見た美帆は慌てる。そう言えばあと五分で会議が始まるのだった。会議と言ってもオンライン上で参加するものだから平気なのだが、学生が休んでいるのだから音は出せない。

 会議の準備を終えた美帆はそっと陽太の様子を見た。顔色は相変わらず悪い。このまま消えてしまいそうだった。

 起きたときに困らないようにベッド脇の机にペットボトルとコップとメモを置いた。メモには会議に出ています、と書いた。

 準備は完了した。美帆はカーテンを閉めると陽太のいるベッドがカメラに映らないことを確認して、マウスを動かして会議に参加した。

 陽太が目覚めたとき、一番はじめに思ったことは話し声が聞こえる、だった。なのに相手の声は聞こえない。通話なのかと思いながら陽太は身体を起こす。少し視界が揺れたがなんとか耐える。昨日と違って感情がリンクしそうになったせいか、やはりまだ頭が重いような気がした。

 昨日ぶりの景色に陽太は倒れたのかと思う。ふとベッド脇の机に目をやるとメモとペットボトルとコップが置かれていた。

「これ……」

 声が掠れていた。ペットボトルに手を伸ばし、フタをあける。どうやらあいているものを置いてくれたらしい。それは有り難い。

 とぷとぷとコップに水を注ぎ陽太はそれを飲んだ。かさついた喉に水は染み渡った。

「はぁっ……」

 ゆっくり息を吐けばやっと落ち着いたような気がする。コップを置いて再びベッドに背を預ける。聞こえる声は一つだけで、陽太にとって聖域だった。ほうっと息を吐けばまぶたが重くなる。

 やはりまだ調子が良くないのだ。だったら寝てしまおう。久しぶりにリンクしかけたのだ、身体は休息を求めている。

 陽太は目を閉じて静かに深呼吸をした。乱れた布団もそのままに意識が落ちていった。


 会議が終わった美帆はそっとカーテンを開けた。見ればかけ布団が乱れていた。コップを覗けば中に水があることから飲んだ後、そのまま寝てしまったようだ。かけ布団をかけながらそっと顔色を確認すれば、運ばれてきたときよりは良くなっていた。

「よいしょっと……」

 メモを回収してカーテンをひく。もうすぐ昼食の時間だった。美帆に関してはお弁当があるため気にしなくても良いが、陽太はどうだろう。お弁当を持っているわけではなさそうだったので買いに行かねばならない。

「どうしようかしら……」

 ーーひとりにはしたくないもの。

 今にも消えてしまうのではないか、という不安はまだ美帆の心に巣食っていた。

 そこへガラッと戸が開く。美帆が目を向ければ正人と遥がいた。正人の手には購買の袋が握られていた。じゃっかん透けているそれを見ればサンドイッチやおにぎり、弁当などが見えた。

「それ……」

「陽太と食べたくて。起きました?」

「一回、起きたみたいだけど今は寝ているわ」

「そうですか……」

 正人がそう言って目を伏せた。やはり優しい。この二人ならば陽太のことを見てもらうこともできるだろう。

「あの、陽太の様子とか、見られます?」

「ええ、大丈夫よ」

 ついさっき見たとき、ぐっすり寝ていたから起きることはないだろう。美帆はカーテンを少しひいた。

「お昼も食べたらどうかしら?お腹空いちゃうわよ」

「はい。ありがとうございます」

 二人はカーテンを閉めると丸椅子に座った。そっとビニール袋の中から弁当を取り出した。

「ほら、遥の分」

「サンキュ。榊原は何を食べるんだ?」

「えぇ〜?おにぎりかな」

 袋からおにぎりを取り出した正人はペリペリッと包みをあけていく。遥も弁当の蓋をあけた。

「ん、美味しいな」

「そうだね。美味しい」

「購買は安くて良いよね」

「大学生は金欠だもんな」

 遥はそっと陽太の顔を見る。すうすうと寝息が聞こえる。

「なぁ、遥」

 正人は真っ直ぐ遥を見た。遥はうなずく。

「陽太くん、しばらく見とこうね」

「まあな。見とかないと消えそうだもんな」

 おにぎりを食べ終えた正人は次のおにぎりへと手を伸ばす。陽太はまだ起きない。

「サークルさ、おれはもう決めた」

「へえ。どこ?」

 ふっと正人が笑った。遥は箸を置いた。

「漫研」

「榊原、絵、描けんの?」

「もちろん」

 正人はそう言ってゆらゆらと揺れた。おにぎりも食べ終えて暇そうだ。

「サークルって絶対だっけ」

「たしか」

「あーー。どこに入っかな」

「陽太くんはなにか言っていた?」

「んにゃ。聞いてない」

 遥の言葉に正人はそっかと言った。ふと陽太を見ればゆっくりと目を開けていた。

「おはよ。平気?」

「……おはよう」

 陽太はゆっくりと身体を起こした。正人が美帆を呼びに行った。

「とりあえずご飯食べちゃいなさい。食べながら話を聞かせてね」

 陽太はきゅっとシーツを握った。たぶん、言いたくないのだろう。

「サンドイッチとか菓子パンがあるぞ」

「遥くんたちが買ってきたの?お金……」

「良いって。正人のおごりだし」

「そうそう。お腹空いたら何もできないからさ。お金は気にしないで」

「あ、ありがとう……」

 陽太はサンドイッチを受け取るとペリペリとあけていった。はむっと口にしてもぐもぐと動かす。その様はリスみたいでかわいらしい。

「美味しい?」

「うん。これ、どこの?」

「購買のだよ」

 陽太は目を丸くした。それからサンドイッチにもう一度かぶりつく。

「食欲はありそうね。よかった」

「はい、ありがとうございます」

 陽太はごくんとサンドイッチを飲み込んでからそう言った。美帆はバインダーに挟んだ紙を見る。

「どうして倒れたかは分かる?」

「……貧血なんです」

 陽太は顔を少しだけ伏せた。

「あんまりご飯も食べられないし、貧血気味だし……。しょっちゅう倒れていて」

「そう……」

 美帆は少し考え込むような顔をした。陽太はサンドイッチを食べきるとコップに水をいれて飲んだ。

「どういうときに倒れちゃうのか分かる?」

「……人が多いところです」

 人が多いところは高確率で倒れる。陽太の言い方をすればリンクしやすいのだ。

「ところで新入生合宿には行く予定かしら?」

「えっと、今のところ……」

「先生、大丈夫です。俺たちが陽太の様子を見ておきます」

「先生も行くみたいですし、大丈夫ですよ」

 遥と正人がそう言う。陽太は美帆を見た。美帆は陽太の意志を尊重したいと思った。美帆の役割は学生の健康を守ることであり、学生の意志を無視することではなかった。

「じゃあ、任せても大丈夫かしら?」

「はい」

 パアッと二人は顔を輝かせた。陽太はどうやら決まったようだと思った。合宿には行けるらしい。

「佐倉くん」

 無理はしないことよと美帆は言う。陽太は大きくうなずいた。

「さ、今日はもう帰りなさい」

 まだお昼なのに寮に帰れるのか不安だったが、そんな心配は必要なかった。談話室には寮長の悠木がいて、陽太たちを温かく迎えてくれた。

 悠木は四年生だと言う。四年生ならば就職活動で忙しいはずなのに、どうしてこんなにものんびりしているのだろう。不思議に思った正人がたずねた。

「寮長は進路決まっているんですか?」

「まあそうですね。この寮の管理人ですよ」

「寮の管理人?」

 不思議そうな顔をした陽太に向かって悠木はうなずいた。

「ここ、俺のばあちゃんがやっていたんです。でも、腰を痛めてできなくなって……。俺、ばあちゃんにたくさん世話になったから継ぐって言ったんです」

 四年生の一年間はずっと管理人見習いとして修行をするんですよ、と笑った。眉を下げて笑う様は、どこか困っているようにも見えた。しかし楽しい気持ちが隠せていない。

 ーー俺が、ずっと残しとくんです。

「大丈夫ですよ」

 陽太は小さく笑った。ばあちゃんが好きでその意志を継ぎたいと思う悠木ならば、その願いは叶う。陽太は本気でそう思った。

 悠木は少しだけ嬉しそうな顔をした。賛同されたのが嬉しかったようだ。陽太はこっそり悠木を応援しようと決めた。


 合宿の出発日。バスに乗り込んで陽太は目を閉じた。今日はイヤホンをしていた。

「おはよ。隣、良い?」

「遥くん、おはよう。良いよ」

 片方だけイヤホンを外して陽太は笑う。遥は陽太の隣に座った。わいわいと少しうるさい車内。しかしリンクしてしまうほどではなかった。

「辛かったら言ってくれよ?」

「うん、分かっている」

 遥と正人は美帆と共謀して陽太の健康観察係になった。保健医が学生と連絡先を交換することはあまり推奨されていなかったが、入学してたった二日で保健室に二回も訪れた学生の陽太と、その周囲の学生は特例として認められた。

 もちろんその存在は陽太には伏せられた。知っているのは教員と美帆と遥と正人と陽太の母の唯愛だけだった。唯愛にだけは知らせた方が良いと言って、陽太のルームメイトや学友が陽太の体調を注視することになったと告げた。

 バスが出発した。陽太はぼうっと窓の外を眺めていた。ビルばかりだった景色が田畑がメインに変わるまでそれほどかからなかったと思うが、実際にはだいぶ時間がかかっていた。

「眠いなら寝ちゃえば?」

 ガラスに写った遥は眠そうだった。陽太がそう言えば遥は目を丸くした後、大丈夫と言った。陽太はそう、と返して再び田畑に目を向けた。

 のどかな風景を見れば懐かしさが胸を埋め尽くした。陽太の地元は田畑が多いところだった。車道と歩道の区別もない広い道を歩いていれば、風が陽太の脇をぬっていった。蝉と蛙の声が聞こえる、そんな田舎だった。

 あそこには今は亡き父、裕との思い出がたくさんある。陽太が小学校二年生の頃に亡くなるまで、休日には川で釣りをしたり、空き地でキャッチボールをしたりした。人の多い観光地にも行けない陽太のために、人の少ない穴場スポットを探してくれた。

 幼稚園で、小学校で、陽太がリンクしても大丈夫だ、と言って笑ってくれた。リンクして暴走して壊したりしたときは、一緒に謝ってくれた。

「陽太、行こう。着いたぞ」

 ゆるりと目を開けた陽太は目の前に差し出された手を不思議そうに見た。

「……ほら、行こう」

「うん」

 遥の手をとってバスをおりる。目の前にある大きな建物には見覚えがあるような気がした。

「部屋割りはしおりに書いてある通りだ。荷物を置いたら大広間に集合」

 バタバタと人が動いていく。陽太はぼんやりとそれを見ながら隣に立つ遥と正人を見た。

 陽太の部屋は四人部屋だった。遥と陽太と正人ともう一人、大樹という学生が一緒だった。怪我人がいるため部屋は一階でエレベーターが近い。とても便利なところだった。

「よろしく」

 ふわりと笑った大樹は、足に白い包帯を巻いていた。どうやら骨折したらしい。陽太たちと同じ部屋の学生だ。遥と正人の役割は陽太と大樹の世話を焼くことだった。

「それじゃ、ここに荷物を置いとくね」

「ありがとう、榊原くん」

「荷物置いたね?それじゃあ行こうか」

 陽太は扉をおさえる。大樹が松葉杖をつきながら歩き出す。部屋を出てすぐのところに大広間はある。ちなみにお風呂は最上階だ。

 コツンコツン、と松葉杖の音がする。陽太たちの靴が床の上を滑るような音が響く。大広間には一番乗りしてしまった。

 大広間の隅の方にパイプ椅子を設けて大樹が座る。その隣に正人、陽太、遥の順で座っていた。ちょっとした特別扱いだ。

 やがて人が増える。陽太は顔を伏せて耳をおさえた。少しずつ声がまざり始めていた。

「辛いか?」

「……っ、平気……」

 深呼吸をして落ち着かせる。この前にリンクしかけたとき、陽太は再び線引きをした。自分と他の人の感情の間に線を引いてハッキリとさせた。これまで以上にハッキリとした線は、きっと揺らぐことがないだろう。

「なにか飲むか?」

「大丈夫」

 飲み物を飲んだところで治らないことは分かっている。ポケットから耳栓を取り出した。それを耳に入れてぐっと下唇を噛んだ。

 しばらくして学生が全員そろったらしい。陽太はマイクのスイッチが入った音と共に耳栓を抜いてポケットにしまった。

「えーー、これよりこの合宿中のグループディスカッションのグループ分けを発表する。今日発表したグループは今日限定だ。明日の朝には別のグループになる。ではスライドにうつすからそこに移動しろ」

 パッと画面に学生の名前が表示される。陽太たちは全員バラバラになってしまった。グループはあえてバラけさせて様子を見る予定なのだ。

「じゃあ、行ってくるね」

 陽太は立ち上がってグループの位置まで行く。グループのメンバーは初対面の陽太を快く受け入れてくれた。

「よろしく〜」

 ニッと笑った学生に陽太は笑い返す。そこからは自己紹介と今日のテーマについて話し合った。その日のテーマは文学部で学ぶことはなにか、だった。

 正解はないから自由に答えてくれと言われてグループのメンバーがそれぞれ意見を出す。

 陽太のグループで一番多かった意見は古典だった。文学部といえば、という印象だった。しかし、少数意見ではあるが民俗学や言語学などもあげられた。

 その二つの言葉を知らなかった陽太は隣に座っていたおとなしめの女子学生に聞いた。彼女は優しく説明してくれて、陽太はその二つを理解した。

 民俗学は民間伝承・風習・祭礼などの研究から民衆の生活文化を研究する学問で、言語学は人類の言語の構造・変遷・系統・分布・相互関係などを研究する科学のことだ。具体例をあげれば民俗学ではお祭りや民話やトイレの花子さんなどの怪談、言語学では方言や若者言葉や文法などだ。

 そういえば文学部って卑怯だと思う、と別の女子学生が言った。陽太は顔を上げた。

「だって、そうじゃない?医学部って言えばお医者さんになるのって言われるけれど文学部ですって言ったところで何をやっているかなんて人それぞれでしょう?」

 類型化できないから毎回説明しないといけないじゃない、なんて不満そうだ。

「でも、類型化できないってことはそれだけ印象に残りやすいってことだと思う」

 気付けば陽太はそう言っていた。メンバーの視線が突き刺さる。

「例えば医学部って言ったときにお医者さんになるのって言われちゃうでしょ?でも、文学部って言ったら何やっているのってなる。そこで若者言葉を調べてるとか、トイレの花子さんを調べてるって言えば、珍しいから覚えてもらえる。それって特権だと、思う」

 陽太はうつむいた。少し喋りすぎた気がすると陽太は思った。自分はそんなキャラじゃないのに何を思ったんだろう。

「そうだよな。研究のテーマとかアプローチの仕方で自分の個性が出せるよな」

 陽太は弾かれたように顔を上げた。そんな風に言われるとは思っていなかった。言った学生はニカッと笑った。陽太は良い奴だと思った。彼の心も矛盾なく肯定している。

 あぁ、都会の人は冷たいって言うけれどそんなことはないじゃないかーー。

 陽太は安堵の息を吐いた。ここでなら上手くやれるような気がした。

 グループディスカッションの結果を発表するとき、陽太はその発表者になってしまった。くじ引きだ。運が悪かった。

 発表者の列に並べば嫌だなという声ばかり聞こえた。陽太自身の感情としては不安の方が多く、嫌という感情はなかった。

「僕たちのグループでは、文学部で学ぶことは古典ではないか、という意見が一番多かったです。ですが、民俗学や言語学も少数意見ながらあげられました」

 真っ直ぐに陽太は言った後、

「文学部で学ぶことは僕個人としては多様性だと思います。古典でも、方言でも、民話でも、風習でも、ここでは学べます。同じテーマでも僕と皆さんでは違うところに興味を持って、違う方法で調べるでしょう。そうすれば違うことが分かります。……文学部はそういう学問を扱う学部だと、僕は思います」

 肩から力が抜けた。言い切った、そう思った。小さな拍手が次第に広がっていく。あぁ、やりきったんだと思う。

 その瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。強い感情が陽太の耳を刺激して頭をかき回した。耐えられなくなった陽太は自身の耳をおさえる。ガクリと足から力が抜ける。

「佐倉!!」

「陽太!!」

 なんとか膝をついて座り込むまで耐えたが、吐き気が酷い。陽太は床を見た。

「佐倉、佐倉!」

 同じグループの学生だろうか、陽太は肩をつかまれて顔を上げさせられる。あまり焦点の定まっていない目がなんとかピントを合わせる。

「大丈夫か?」

「問題ないよ、貧血だろうから」

 ひょいっと陽太を抱き上げたのは遥だった。陽太は寒いのか自身をかき抱いた。

「おれの着てたのでごめんね」

 ふわりと正人の上着がかけられる。陽太は目を閉じて遥に身を預けた。

「部屋に運んで」

 美帆の指示に従い、遥が大広間を出て部屋に戻る。正人は残ることになった。

 部屋のベッドに横にならせた陽太は気を失っていた。遥は正人の上着を丁寧に畳んだ後、かけ布団をかけた。

「佐々倉くんは戻りなさい。私が見ておくわ」

「はい」

 遥の居なくなった部屋で、美帆は陽太の寝顔を確認する。

 ーーあぁ、やはり見覚えがある。いや、似ている。

 美帆の脳裏にかわいらしい少女とふわりとした髪の女性が浮かぶ。かわいらしい少女は女性の幼少期だ。

 ーーやっぱり唯愛の子どもなんだ……。


 美帆が唯愛と出会ったのは幼稚園のときだった。その頃の唯愛は明るくて元気な子どもだった。同い歳で仲が良かった美帆と唯愛は、互いの家に頻繁に遊びに行っていた。二人の生まれた村では、同じ歳の子どもは珍しかった。

 しかし、美帆は小学校にあがる前に引っ越した。父親の転勤だった。それから美帆が唯愛と再会するまで、実に十年以上の月日が必要となる。

 美帆が唯愛と再会したのは、大学だった。はじめは全く気付かなかった。しかし、学部をまたいだ講義で幼少期の話で盛り上がったときにお互いに思い出した。

 美帆は印象の変わった唯愛に驚いたものの、昔と変わらない態度で接した。美帆にとっては唯愛と再会できたことは嬉しかった。

 唯愛は美帆と楽しそうに話したり笑ったりすることが多かったが、他の人を交えると一気に顔色が悪くなることがあった。多くの人がいるところでは、倒れることも多かった。そしてその度に唯愛は美帆に謝った。

 ごめんねと謝る唯愛は決して理由を明かさなかった。しかし彼女は理由を分かっている。そう思った。美帆は言及できなかった。唯愛は実に見事に話題をすり替えるのだから、いつしか聞くことを諦めた。

 そして卒業を迎えた。美帆は唯愛と連絡先を交換しなかった。言えなかった。あのとき言えば良かったと今さらだが後悔している。それから唯愛は子どもを産んで、夫を亡くし、現在に至るようだ。

 陽太は本当によく似ている、大学時代の唯愛に。いや、当時の唯愛よりもひどいかもしれない。あの頃の唯愛はしょっちゅう倒れていたけれど、十日に一回のペースだったはずだ。もちろん、美帆が知らない分もあるだろうが、それほど誤差はないと思う。なのにどうして陽太はーー。


 ふっと意識が浮上する。美帆の目の前で陽太が身体を起こしていた。どうやら気付いたらしい。

「体調はどうかしら?」

 美帆がそっと笑めば陽太は美帆を見た後、へにゃっと笑った。それは唯愛がよくやっていた誤魔化す笑みだった。

「もう大丈夫です」

 ーー嘘。そんな顔色じゃあ、きっとまた倒れてしまう。

 美帆は陽太の肩を押す。陽太は重力に逆らわずにベッドに戻った。とろりとした目はまだ眠たそうにしている。

「寝ちゃいなさい」

 陽太はうなずいて眠りについた。美帆はぎゅっと握り拳を作った。

 全ての鍵は今は水底に沈んだ二人の生まれた村にある。

 これはただの憶測だ。しかし、確証のある憶測だ。同じ村に生まれた子どもなのに片方は苦しみ、片方は何もなく暮らしている。なにかが二人の運命を変えたのだ。ではそれは一体なんだろう。

 村を離れた年齢か。それともなにか儀式のようなものか。そんなことは分からない。けれどその鍵は大学生だった唯愛が持っていた。

 唯愛はどこの学部で何をやっているの、と聞いたとき、唯愛は言っていた。私は文学部で地域の伝承について調べているの、と。

 保健医を目指していた美帆には真新しい言葉で、印象に残っていた。しかし、覚えていて良かった。

 これらのことをヒントに美帆は調べ始めた。その結果はまだ、出ていない。


 二日目のハイキングを陽太と大樹は見送った。陽太の顔色が悪いことが理由だった。大樹に関しては元からハイキングには参加する予定ではなかった。怪我の影響は思ったより大きかった。代わりに二人と教員二名で合宿所の案内を作ることになった。

 大樹は絵がとても上手だった。陽太はあまり絵は得意ではなかったが、教わって簡単な絵を描いた。

 お風呂は男女をそれぞれ描いて女性用、男性用、と書いておいた。大広間は食事と集合の場だから人とご飯を描いた。トイレ、各フロア、教員用の部屋、保健医のいる部屋。たくさん描いて全て二人で貼るために合宿所の中を回った。

 階をまたぐ移動は全てエレベーターだったので陽太は一度として階段は使わなかった。これは寮に戻ってからが怖いなと思った。もうすっかり運動をしていない。

 ペタリとセロハンテープで壁に貼りながらふと思い出したことを陽太は口にする。

「大樹くんは、サークル決めたの?」

「うん。漫研だよ」

「そっかぁ。絵、上手だもんね」

 陽太はうつむく。自分はまだサークルを決められなかった。一人でも活動が成り立つならば喜んで入るが、それは芸術関係のサークルばかりで陽太は頭を抱えていた。

「佐倉くんはどうなの?」

「え?……うーん、悩んでる」

「そっか。うん、いっぱい悩めば良いよ」

 大樹はふわりと笑う。ついさっきまでペンを握って楽しそうに描いていた人と同じ人とは思えない。

「佐倉くんの気が済むまで悩んで、それでも決まらなかったら言ってよ。サークル見学会でもやろう」

「……うん」

 大樹は良い奴だ。昨日、倒れた後に目覚めた陽太に向かって大樹は何も言わなかった。聞きたいこともあっただろう。けれど顔色の悪い陽太に合わせて部屋で食べると告げた大樹は、陽太の少ない量の食事を見て驚いていた。

 もっと食べなよと言って大樹の分のからあげを一つだけ陽太の皿に乗せてくれた。陽太はそのからあげを食べた。それを見ながら大樹はゆっくりと自分の分を食べ始めたのだった。

 さて、夕方ぐらいになってハイキングから学生たちが戻ってきた。陽太は大樹と共に部屋にいた。たくさんの疲労が陽太を押し潰そうとすることが目に見えていたからだ。

 もちろんそれは大樹には言わなかった。いや、言えなかった。言ったら気味悪がられる。そんな経験ばかりしてきたのだから。

 それから少しして部屋に戻ってきた遥と正人は大樹から今日は陽太が倒れていないと聞いて少しだけ安心していた。毎日倒れている陽太が倒れなかったという小さなことだけど、二人は嬉しかった。やはり人数が関係しているようだと彼らは思った。

 それからお風呂の時間になった。陽太たちは大樹の介助の役割もあるため、一番遅い時間が割り振られていた。

 けれどその日は違った。お風呂の時間が遅くなったのだ。そうなると一番遅い時間に入ることになっている陽太たちが遅くまで起きていることになる。それを危惧した教員がシャワーだけで良いなら入れると言ってくれたのだった。

 四人でエレベーターに乗ってお風呂に行く。脱衣場で服を脱いで大樹の包帯を巻いた足に袋を被せて遥が抱き上げる。

 シャワーコックをひねってお湯を出す。それぞれで洗った後、遥は大樹を再び抱き上げて脱衣場に戻る。正人と陽太はそれぞれ身体を拭いて服を着た。

 この間実に十五分。四人は再びエレベーターに乗って部屋に戻った。誰ともすれ違わず、誰にも知られず。いや、教員は知っていたが。でも、彼らにとっては小さな冒険だった。


 合宿が終わった。授業が普通に始まってから、陽太は倒れることが少なくなった。授業以外で他の人と関わることがなければ、多くの人がいるところに行かなければ。それゆえイヤホンも許された。授業中は耳栓をすることも許された。

 そうやって少しずつ予防した結果、陽太が倒れる回数は週に一回程度に減少したものの、学友を作れずに孤立することが多かった。今はまだ遥や正人と関わりがあるが、進級すればそうもいかなくなる。なんとか友だちを作ろうとすれば人の多いところに行かねばならず、ずしりと気が重くなる。その結果、陽太は学友を作ることを諦めていた。

 そうこうするうちにテストも終わって夏がやって来た。寮は夏の間、点検などで閉じることが決定していたため、陽太は帰省を余儀なくされた。

 夏休み前の最後の日、俺の地元に遊びに来ないかと遥に誘われ、陽太は夏休み中には行くことを告げた。遥の地元は陽太の地元の隣の県だった。

 遥の実家の住所の書かれたメモを手に新幹線に乗った陽太は、そのまま実家に帰った。

「おかえりなさい」

 ふわりと笑った母、唯愛は陽太を迎えると陽太の持っていた荷物を持った。寮では洗濯もできるが、ここ数日ほど忙しくてできなかった。

「大学はどう?」

 洗濯物を洗濯機にかけながら唯愛はたずねた。

「うん……。友だちができたよ」

「そう、良かった」

「そうだ、友だちに遊びに来ないかって言われて」

「良いわね。どこ?」

「隣の県。住所はもらったよ」

「じゃあ調べてみるわ」

 陽太からメモを受け取ると住所を調べ始めた。陽太はその間に自身の部屋に向かう。これからの時期の服を補充するのも目的だった。

「この住所は旅館ね」

「へぇ、そうなんだ」

「大丈夫?人が多いかもしれないわよ?」

「大丈夫だよ。耳栓もイヤホンも持っていくし、遊びに行くだけだもの」

「……分かったわ。いつから行くの?」

 陽太はカレンダーを見る。本当は唯愛と長く一緒にいたい。しかし、陽太にとって地元は生きにくいところだった。

 陽太は一度として引っ越していない。もちろん周りもそうだ。そうなると必然的に全員が知り合いの小さなコミュニティに属することになる。そこは陽太を排除するコミュニティだ。そんな場所に居場所はない。息苦しいだけだ。

 けれど、引っ越せるほどのお金はなかった。父、裕が死んでからはもはや頼れる場所はないに等しかった。仕方なくそのコミュニティで生きてきた。お金があれば、きっと引っ越していただろう。

「来週には」

「そう。分かった」

 唯愛は少しだけ残念そうな顔をしたけれど、陽太にとって生きにくい場所に長居させたいわけではなかった。寮の都合で閉まらなければ帰省などしなくても良いよ、と言うつもりだった。

 陽太もそれを分かっていた。同じ能力を持つ、いや、持っていた唯愛が陽太のためにそう言うことも、本当は帰ってきてほしいことも。

 その日の夜は久しぶりに唯愛の手料理を食べてぐっすり眠った。寮や学校ではいつあの声が聞こえるか分からないせいか、肩に力が入って気が抜けない。陽太はほっと息を吐きながら温かくて優しい布団にくるまって朝を迎えた。

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聖徳大学 文芸研究同好会

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