【小説】3月お題『書き下ろし』2


前記事の続きです。


リンクの先に【後編】/月夜


 陽太は生まれつき、二つの声を聞いた。

 一つは普通の声。声帯を震わせて、嘘もお世辞も言う声だ。

 そしてもう一つはその人の心の声。その人がどう思っているかが分かる。それは普通の声と同じように聞こえたから、陽太には判断できないことがあった。

 幼い陽太は嫌いと声に乗せられて泣いた。突然泣いた陽太に対して嫌いだと声に乗せた相手も先生もすっ飛んできて、陽太を慰めた。けれど、陽太は激しく泣いてその二人を追いやった。理由は簡単。先生は面倒だと声に乗せたからだ。陽太は悲しいやら悔しいやらでその日は早退した。

 そしてもう一つ。陽太がリンクと呼ぶ現象がある。これは周囲の感情に押し流され、同調、いわゆるリンクさせられる。自分の感情でないことがポイントであり、負担が大きいことだった。

 リンクは陽太の感情を無視するため、陽太の目は光を失う。それが虚ろな目の理由だった。

 そして陽太のそれらは遺伝だった。母親の唯愛が持っていた能力が陽太へと遺伝した。しかも濃度が濃くなったせいで、陽太は唯愛よりもずっと倒れやすく、感情のコントロールの苦手な子ども、というレッテルを貼られてしまった。

 そんな陽太でも安心してそばにいられたのは、父と母だった。唯愛は幼稚園を早退した陽太を抱き上げながら教えてくれた。陽太のことが大好きな人の心の声は聞こえないのよ、と。そしてその通り、陽太は一度として二人の心の声を聞かなかった。

 父、裕に関しては死ぬその瞬間になっても心の声は聞こえなかった。陽太のことを愛し抜いたのだ。

 陽太はそれ以降、同級生や見知らぬ人の醜い心の声を聞き続けてきた。

 そうして倒れることが普通になった頃、陽太は一度だけ海に身を投げた。けれど何故か助かってしまった。たぶん、死ぬには早かったのだろう。病院の先生はそう言ったが、陽太の噂は病院にまで轟いていたのか、どこか面倒くさそうだった。

 そうして何度も季節は巡った。


 目覚めた陽太は見慣れぬ天井に驚く。しかし、身体にかけられたタオルケットからはこの四ヶ月ほどでかぎなれた匂いがした。身体を起こせば、隣でぐうすか寝る遥がいた。

 ここは遥の実家の旅館。

 陽太は宣言通り、一週間ほど自分の実家に滞在した後、遥の実家の旅館にやって来た。忙しい遥の家族の手伝いとして庭の掃除や宿泊客の案内などをした。

 遥の家族は全員そろって背が高く、少しツリ目がちだった。しかし陽太は小さくて華奢、大きなタレ目とふんわりと柔らかな髪の愛らしい見た目をしていた。遥の家族と従業員にとっては、癒やし以外の何ものでもなかった。

「あっはっはっ、遥が連れてきた子、かわいいねぇ!」

 そう言ったのは遥と六つほど歳の離れた姉の紗夜だった。現在は若女将として修行中らしい。

 陽太の顔色が悪くなれば体調不良を心配され、従業員用の仮眠室に押し込まれた。それでも陽太が手伝いをしたいと言えば体調が良くなってからで良いよ、と言われた。申し訳ないなと思いながら陽太は眠ったことを覚えている。

 ふっと時計を見れば三時だった。もう少しすれば外が明るくなるのだろうか、カーテンの向こうは少しだけ明るい。

 陽太はそっとタオルケットから抜け出して窓に近寄った。ふっと手を伸ばしてカーテンを開けようとする。しかし、陽太はカーテンを開けられなかった。

「ようたぁ?」

 見れば遥が目を擦りながら身体を起こしていた。どうやら起きてしまったらしい。

「ねれない?」

 まだ薄暗い部屋の中。互いの表情なんて見えない。それなのに陽太は遥が少し硬い表情をしていることが分かった。それが分かるとイタズラを咎められた子どものような気分になった。

「ちょっと目が覚めちゃって」

「そっか。うん、寝れるまで俺も起きてるよ」

「それはちょっと……」

 ほら、戻っておいで。遥はそう言ってぽふぽふと布団を叩いた。陽太は遥の布団に潜り込む。ぱさっとタオルケットがかけられた。

「勝手にどこかへ行くなよ」

「もう……、僕は子どもじゃないよ」

「知ってるけどさ……。こわいんだ」

 いなくなっちゃうんじゃないかって。ときどき思うんだ。

 遥の腕が伸びる。それは陽太をつかまえて閉じ込める。とくとくと遥の心音が聞こえる。

「寝れそ?」

「まあ……」

 暑いけど、とこぼせば遥が笑った。ついさっきまでの表情はどこにもない。陽太のよく知る遥だった。

「良いじゃん、れーぼーついてるし」

「良いけどさ」

 陽太もくふくふと笑った。温かくてまぶたがおりてくる。少しすれば陽太から寝息が聞こえてきた。遥は陽太の髪を撫でた。

「そっちには行くなよ」

 そこはもう、こっちじゃないから。

 遥の声は静かに溶けた。けれど聞く者はなかった。


 ふっと意識が浮上する。陽太は周囲を見て驚いた。そこは旅館のロビーで、自分はついさっきまで寝ていたらしい。お客さん用のソファーに座り、ぼんやりと庭を眺めていたのが最後の記憶だった。

「おっ、起きた?」

 ニッと笑った紗夜は陽太の前にしゃがみこんだ。大きい身体を小さくしているからか窮屈そうだった。

「寝顔もかわいーね、陽太くん」

「かわいくないですよ」

 仕事をしなくちゃ、とソファーから立とうとしたが、紗夜に止められた。見れば膝に小さな子どもが座って寝ていた。すよすよと聞こえる寝息は落ち着いている。

「今日お泊りの朝倉さんのお子さん。旅疲れで寝ちゃってさ」

「なるほど」

 子どもは小さいと言ってもそれなりに重い。陽太はこの子どもを抱えて動くことはできなかった。

「悪いけどそのままでいて」

 暇なら歌ってても良いからさ。紗夜はそう言って陽太に手を振って行ってしまった。まだ仕事があったらしい。話し相手がいなくなった陽太は天井を眺めた。それもすぐに飽きたから紗夜のすすめ通りに歌うことにした。

「仕方ないなぁ……」

 陽太は目を閉じて歌い出した。小学校で習うような歌は、変声期を終えた男には出しにくい音域もある。しかし陽太は変声期を終えても声は大して変わらなかった。それがまた、からかわれる原因にもなったが、今はもう気にしていない。

 歌う、歌う。いくつも歌った後、陽太は目を開けた。途端、声が途切れる。だって目の前に人がいたのだから。

 あ、と小さくこぼれた声は恐怖に歪んでいた。陽太の頭を埋め尽くしたのは罵詈雑言だった。男のくせに、という言葉が脳内でこだまする。しょっちゅう倒れて、身長も低くて、筋力もなくて、顔はかわいらしい部類で、声まで高いままで。ホントに男かよ、と言われて陽太はーー。

「おいっ、大丈夫か?!」

 ガッと肩をつかまれて陽太は顔を上げる。眉を寄せた遥と目が合った。丸い目をさらに丸くした陽太の目尻から雫が溢れる。遥はパッと手を離した。

「やっ……!」

 陽太が慌てて遥の手を掴む。ぐいっと二人の距離が近付いた。しかしお互いに何も言わない。何を言えば良いのか分からないようだった。

「お兄ちゃん、お歌じょうずだねぇ~」

 不意に幼い声がして、そこを見れば陽太の膝を占領していた子どもが目をキラキラさせていた。陽太は目を丸くした。

「じょうず?僕の歌?」

「うん!とってもじょうず!」

 真っ直ぐ褒められた陽太は少し照れくさそうに笑った。その子どもから聞こえる声は嘘偽りのないものだった。心の声もまた、陽太をたたえていた。

「陽太、ちょっと手伝ってくれないか?」

 ふと遥がそう言った。陽太はうなずいた。膝に乗っていた子どもをおろし、手を振る。子どももバイバイ、と言って手を振り返してくれた。その様子は本当はかわいらしい。

 遥に手を引かれて台所に案内された。そこでは板前さんたちが女将、遥の母親と何やら話していた。聞けば、料理に時間がかかるらしい。その間をもたせる方法がないか、はたまた早く作れないのかという相談だった。

 遥が陽太を連れてきた理由がなんとなく分かったような気がした。

「陽太、歌うまいじゃん?歌ってくれたら良いのに」

「そんなっ……!僕は別に、うまくなんか……」

 声がどんどん小さくなっていく。自信なんかない。歌うのだって本当はストレス発散でやっていただけだった。歌っている姿さえ見られなければ陽太だと分からないから。

「いーじゃん、減るもんじゃないし。アタシは陽太くんの歌、好きだよ」

「ねーちゃん!」

 声のしたところには紗夜がいた。陽太は困ったような顔をした。

「頼むよ、陽太。どうしても必要なんだ」

「アタシからもお願い」

 陽太は沈黙した。歌っても、良い。でも、一番防がねばいけないことは自分が特定されることだった。

「変装は許されますか?」

「もちろん」

「ならーー」

 陽太はうなずいた。パッと彼らの顔が輝いた。

「ありがとう!」

「それじゃあ今すぐ準備するよ!」

 紗夜が陽太の手を引いて駆け出す。陽太は慌てて足を動かす。

 二人の姿が見えなくなってから遥の母は遥を見た。すがるような目だった。

「ねぇ、やっぱり……」

「大丈夫さ」

 大丈夫なんだよ。遥はそう言った。そう言うことしかできなかった。


 昔むかし、小さな村があったそうです。村の人々は農業をして生計を立てていました。

 その村には小さな祠があって神様が祀られていました。村の人々は人生の節目に神様に挨拶をする風習を律儀に守っていました。その村では子どもは十二歳で成人とみなされ、それ以降の挨拶は自分で行くことになるそうです。

 けれど、ある少女がある年、それを怠りました。その結果、その少女は突然身体が弱くなり、年寄りがどんどん亡くなり、ついにはその村はダム底に沈み、村の人々は散り散りになりました。

 その村を出ていった人々の中に旅館を建てた者もいます、漁師になった者もいます、農家を続けた者もいます、林業を始めた者もいます。様々な人が他所へ行ってもそこに馴染みました。

 けれど渦中の少女はそこを離れて今はどうなったか分かっていません。身体が弱くなったのだから、きっと亡くなった年寄りたちを追いかけるように召されただろう、と言われています。


 美しい黄色の着物をまとった長い黒髪の少女が歌う。かわいらしい顔立ちのその少女は化粧などしていなくてもかわいらしい。

 くりんと上を向いたまつ毛は長く、頬へと薄く影を落とす。程よく潤った唇は薄くピンクに色付いている。頬は恥ずかしさからか紅く染まり、大きなタレ目はじゃっかん伏せられていた。指先のピンクの爪も、ほっそりとした指もかわいらしい。

 ほうっと誰かの感嘆の息が漏れた。今、その場を支配しているのは紛れもなくその少女だった。

 少女は二曲ほど歌うと小さくお辞儀をしてそこから出ていく。タイミングよく料理が運ばれてきた。それをかげから見ていた遥は少女を追いかけた。

「陽太!」

 従業員用の通路で少女に追いついた遥が声をかければ少女は振り返った。パッチリとした目に安堵が広がる。

「遥くん」

 ふわりと言葉が声に乗る。遥は陽太の隣に並んだ。着物を着ているせいか動きにくそうな陽太に手を貸しながらいつも寝ている母屋の部屋に入った。

「脱ぐか?」

「うん」

 陽太が遥に背を向ける。帯をほどいてほしいようだ。遥は帯をほどいた。胸を締め付けていたそれがなくなると陽太は息を吐いた。ほっとしたようだった。

 着物を脱いだ陽太はそれを丁寧にかけた。そうするとタンクトップとハーフパンツのみになる。さすがに寒そうということで遥が服を投げた。陽太はそれを着ると母屋を出た。今のうちに客室の布団を敷くのだ。

 全ての部屋をまわり終えた頃には、陽太はくたくたでもはや寝そうだった。そんな陽太を抱えて遥は母屋に向かう。母屋で夕食を食べるからだ。

 お客さんに出した料理の余りだったり、使わなかった物を利用して簡単な丼を作る。これが美味しくて遥は手伝いを喜んで引き受けていた。

「お疲れ。陽太くんは寝ちゃった?」

「起きてます……」

 少しだけ目を開けた陽太を見ながら紗夜は笑った。小さな子どもみたいでかわいいと思っているのだろう。

「起きてるね。もう少し頑張って。ご飯食べたら寝ちゃってもいーからさ」

「ふぁ……、い」

 かろうじて返事をした陽太に紗夜は手を振って先に行ってしまった。遥は歩くペースを速めた。眠い陽太のために早く終えたいと思ったのだ。

 そこからが大変だった。寝そうになる陽太を起こしつつご飯を食べさせて着替えさせた。お風呂と歯磨きに関しては今日は諦めた。どちらも明日でも良いはずだ。

 そうやって陽太を布団におろした頃には遥も疲れきっていた。その疲労度は陽太の隣に布団を敷くことすら面倒だと感じるほどだった。

 仕方ない、と思って自分の布団を敷くことは諦めて少し行儀が悪いが、ゴロゴロ転がってタオルケットを手に取ると、同じようにゴロゴロと転がって陽太のそばに戻った。タオルケットを陽太にかけた後、これまたゴロゴロ転がって冷房のリモコンを取って温度調整をした。ついでに切れる時間も設定した。

 これでやることはもうないと思って戻ろうとしたが、電気が点いたままだった。電気のリモコンを取って最小電灯にすると陽太のそばまで転がって戻った。

 陽太にかけたタオルケットを自身にもかけて陽太を抱きしめる。既に寝てしまった陽太の穏やかな寝息が小さく聞こえる。

 ーーねれそう。

 ふと遥はそう思った。暗闇に目が慣れる前にさっさと目を閉じた。明日は二人で朝からお風呂に入ろう。普段よりも早起きになるだろうが、陽太は応じてくれるだろう。

 ふあ、とあくびをこぼして遥はゆっくり息をした。それからすぐに寝入ってしまった。


 夏休みが終わる少し前に二人は寮に戻った。正人は談話室でのんびりとしていたが、遥と陽太の姿を見付けて駆け寄った。

「夏休みどうだった?おれ、すごく楽しくて。海に行ったりキャンプしたり……。遥たちは?」

 にこにこと楽しそうに笑った正人は少し日焼けしているようだった。それも少しだからほとんど分からないぐらい。

「俺は旅館の手伝いしてた」

「僕も遥くんのところに遊びに行ったんだ」

「えぇっ、ずるくない?!なんでおれは誘ってくれなかったの?」

「いや、榊原の実家は遠いだろ」

「高校時代は祖父母の家に居たんでしょ?実家は遠いって遥くん、言ってたよ?」

 正人は泣きそうな顔をした。初対面のときに感じた儚げな美青年というのもこういうときに役に立つ。遥たちが悪いことをしているかのように感じた。

「おれだって行ったのに!」

「ごめんって」

 遥はそう言って謝る。正人は次こそ行くからねと言ってこの話は終わった。

「そう言えばオリエンテーションに参加する?」

「そりゃそうでしょ」

「参加しないっていう選択肢はあるのか?」

「ほら、アルバイトとかで予定があるとか」

「大学生は意外と忙しいからね」

 正人はそう言いながらお土産を二人にすすめた。美味しそうなお菓子に遥の手が伸びる。陽太はそれに手を伸ばそうとして……、やめた。

「どうした?」

「あ……。なんでもない。ごめん、今、お腹いっぱいで」

「そう?じゃあ、後ででも良いよ」

 正人はそう言いながら陽太の様子をうかがった。顔色が少し悪かった。けれど、倒れるほどではなさそうだと判断した。それでも念のために部屋でも様子をうかがうよう遥を視線だけで促した。

 遥は陽太の手に正人のお土産を握らせた。部屋で食べる分だった。陽太はお土産の包みを見ながら少しだけ悲しそうな顔をした。

「そろそろ部屋に戻るか」

「うん。それじゃあ、またね」

「うん、また」

 遥が陽太の手を引いて階段を上がった。部屋に着くと陽太はベッドの端に座った。

「シャワー、浴びちゃう?」

「ううん、僕は後で大丈夫。遥くん、先に浴びちゃいなよ。汗、かいたでしょ?」

「ん。じゃあ浴びてくる」

 遥が風呂場に向かう。陽太はその背を見送りながら自身の手の中にある包みを見た。

 まだ陽太がそれほどコミュニティから弾かれていない頃、近所の人がお土産を持ってきた。お土産は美味しそうな饅頭だった。個別包装だった。陽太は躊躇いなく袋をあけて、食べようとして饅頭の真ん中を割ったとき、指の腹を怪我した。

 饅頭の中から針が出てきたのだ。小さな針だったが、陽太の心の奥深くに突き刺さった。幸い、怪我は軽かったし、お土産をくれた人に悪意があったわけではないと陽太は思っている。けれど、どうしても嫌だった、怖かった。だからお土産で個別包装の物を見ると思い出してしまう。

「あがったよ~って、あれ?大丈夫?」

 遥が戻ってきたのは陽太が秒針の音を聞き始めてから二十分ほど経った頃だった。陽太はハッとして遥を見る。

「お風呂どうする?」

「はいってくるよ」

 陽太は着替えを持ってお風呂場に向かった。遥はそれを見送った後、陽太に持たせたお土産を確認する。どうやらあけていないようだった。

 ーーもしかしたら、トラウマがあるのかも。

 ふとそう思った。正人がお土産を見せたときの陽太の顔はまさにそれだった。どんなトラウマかは分からないが、陽太の心を占めていることは分かる。

「……しくったなー」

 できるだけ陽太のことを気遣ったつもりだった。けれど二人はまだ出会って五ヶ月程度。遥は陽太のことを分かりきっているわけではない。

 お風呂場からふんふんと小さな鼻歌が聞こえる。どうやら気分を上げようと歌っているらしい。遥は小さく笑うと棚に近付いた。

 陽太と実家で話していた作品の原文が載っている本がそこにはあった。読みたいと言って目を輝かせていた陽太に寮に着いたら貸すよと遥は返した。嬉しそうに笑った陽太は、春に古典が苦手だと話した青年と同一人物には思えなかった。

「懐かしい。これ、こんな話だったっけ」

 ペラッと少し茶色くなった紙を繰れば、一気にその世界へと案内される。春学期の授業のおかげか、遥も古典が好きになった。まだ文法は得意ではないが、それでも大まかな内容の把握はできるようになった。

「ふっ……」

 懐かしい話だ。まだ遥が小さい頃、母親が寝る前に読み物として読んでくれたのがこの古典作品だった。もちろん現代語訳してくれたのだが、今思えばどうやって訳していたのか気になるくらいだ。

 ふと、脳裏をかすめたのは実家の近くにあるダムだった。そのダム底には母方の実家がある。いや、親戚たちの住んでいた村がある。

 その村はある出来事をきっかけに全てが変わった。遥は寝物語にそればかり聞かされた。たぶん姉である紗夜も聞いていたと思う。遥は昔むかし、で始まる短いその話があまり好きではなかった。

 とある少女が伝統を怠ったがために招いた悲劇の数々。伝承を語る者は亡くなり、村自体もなくなった。件の少女は病弱になり、現在の居場所は不明。全ての鍵を握る祠も行方不明。

 おまけにこの話の結末は白紙だった。なにせこれはまだ、途中なのだから。母親は続いている物語だとは言わなかった。けれど不自然な話の終わり方に幼いながらに遥はそう思った。

 ふとした時に遥は思う。その村に昔から語られてきた伝承の結末はなんだったのだろうと。

 昔話はこんな目に遭うよ、こんな状態になるよと言って逸脱しないようにするのだ。ならば誰かが知っているはずだ。伝統を怠ったらどうなるか。

 幼い頃の遥はそれが分からなかった。結果として病弱になって村が破滅の一途を辿ることしか分からない。親戚の中には少女がそれをはたらいたと言う者もいた。しかし遥はその少女が村をダム底に沈めたとも、伝承を語る者を殺したとも思えなかった。

 そんな謎を抱えて進学した先で遥は陽太に出会った。彼は突然倒れることがあった。人が多ければ多いほどそうなることは多かった。

 病弱だな、とはじめは思った。守らなきゃ、とも思った。けれど長く一緒にいるにつれ、遥は一つの仮説を立てた。それが陽太が居場所が不明とされる件の少女の親族という突拍子もないことだった。

「遥くん?」

 ハッとして顔を上げた遥の目の前で陽太が首をかしげる。なんでもないよ、と返せばそっか、と返される。

 ドライヤーをした髪はふわふわしている。肩につくほどの長さだが、似合っていないわけではない。むしろ似合いすぎていて困る。

「そろそろ夕食行くか」

「うん」

 靴を履いて部屋を出る。階段をおりて向かえば、落ち込んだ様子の悠木に出会った。

「こんばんは」

「こんばんは……」

 心なしかいつもより声が小さい。落ち込んでいるらしい。

「寮長、どうしたんですか?」

「……いや、あの」

 悠木は言いにくそうにしている。陽太は悠木の手を取るとにこっと笑った。

「一緒にご飯、食べませんか?」

 悠木は少し戸惑ったような顔をした後、小さくうなずいた。陽太はパッと顔を輝かせるとぐいぐいと悠木の手を引いた。悠木は少し困ったような顔をして遥を見たが、遥は陽太に従うよう促した。

「……それで、落ち込んでしまって」

 悠木の話をまとめるとこうだ。夏休み中は点検とリフォームをしていたが、苦情が殺到したのだ、主に寮生の家族から。

 夏休みに帰省しないといけないほど長く寮を点検する必要があるのか。再試期間に大学に行かなければいけないから交通費が馬鹿にならない。帰ってきた我が子の愚痴が多い、など。

 悠木はそれら一つひとつに対応しながらリフォームの様子を見たりしていた。

 睡眠時間を削っていたらなにやら計算を間違えてしまったらしい。方々に謝って正しいものと交換したが、それ以降もミスが続いているらしい。

「こうなると自分なんかに務まるのかって思っちゃいまして」

 寮の管理人なんてできないかもしれません。それが、すごく怖いんです。

 悠木はそうこぼした。陽太は悠木の手を握った。

「大丈夫です。良いことだってありますから」

「たとえば?」

「そうですね……。お土産がもらえるとか」

 悠木はくすっと笑う。遥と正人がお土産を差し出した。

「他には……」

 陽太は立ち上がって悠木の頭を撫でた。悠木が目を丸くする。

「いつも寮のことをやってくれてありがとうございます。おかげで僕たちは安心して過ごせます」

「寮の治安が守られているのは先輩のおかげですし!」

「そうですよ!先輩がいないとこの寮はまわりませんよ!」

 口々にそう言えば、悠木の顔にいつもの笑みが戻ってきた。

「先輩にしかできないことですよ」

 信じられないぐらい綺麗に笑った陽太は、それこそ神様のようだった。悠木はサッと陽太を拝んだ。陽太が慌てる。

 けれど、遥には悠木の気持ちが分かった。たしかにそうしたくなるほど陽太はときおり神々しい。

「ま、そういうわけで諦めちゃだめですよ」

 正人はそう言ってデザートのゼリーを食べた。ツルンとした食感が残暑の時期にちょうど良い。遥は既に食べ終えていたが、陽太はまだだった。ゼリーが好きなことを知ったのはつい最近のことだった。

 陽太がゼリーを食べ終える前に悠木は仕事に戻っていった。悠木がいなくなると正人が遥に顔を寄せた。

「陽太くん、変わった?」

「うーん、少し?」

 なにが原因なのかは遥にだって分からなかった。けれど、明らかに夏休み前とは違う。夏休みの間、会っていなかった正人が言うならば間違いないだろう。

「美味しー」

 ゼリーを食べて喜んでいる陽太は変わらないように見える。けれどそれは本当に?

 遥は机の下でぐっと握り拳を作った。

 夏休みがあけた。学生がまばらな構内を陽太は急いでいた。今日は遥に誘われてランチに行く予定があった。直前の講義は違うものを選んでいたため、校門で待ち合わせをすることになったのだ。

 暑い、と呟きながら陽太は顎を伝う汗を拭う。たまたま講義が長引いた。遥たちはもう、着いているだろうか。

 遥が陽太を誘ったとき、近くには正人や大樹もいた。話を聞いた彼らも一緒に行くことになり、陽太は嬉しくなった。大樹とは新入生合宿以降も交流があり、同じ講義をとっていた場合には近くに座ることもあった。

 友だちとランチ。それは陽太の憧れでもあった。だからこそ、少しだけ浮かれていた。

 ダンッと大きな音がしてそちらを見れば、気弱そうな男子をチンピラのような長身が囲んでいた。見るからに絡まれている。

 じわじわと陽太の足元から恐怖が伝染する。気弱そうな男子はこれが初めてではないらしい。これまでの記憶のせいか、より恐怖を感じている。

 ぞわりと陽太は嫌な予感を感じた。慌てて見ないようにしようとしたが間に合わなかった。バサッと持っていたメモ帳が落ちる。陽太の手にもう力は入っていない。

 足から陽太を絡め取った恐怖は陽太の首元までやって来てガブリと噛み付いた。陽太の目から光が消える。膝から崩れ落ちた陽太の呼吸は荒い。ぎゅうっと震える身体を抱きしめて陽太は目を閉じた。

 陽太が春に引いた周囲の感情との境界線を消された気分だった。立っていられないほどの恐怖。それは陽太の記憶からトラウマを引っ張るには充分だった。

「陽太っ!」

 声が聞こえる。陽太のことを心配する声だ。けれど陽太は顔を上げることも目を開けることもできない。ぐるぐると陽太の頭を巡るのはチンピラのような長身と恐怖し動けない気弱そうな男子の心の声だった。

「陽太っ!陽太っ!」

 肩に手が置かれる。陽太は自身のことを必死に呼ぶ声に目を開けたくとも視界は暗いままだった。ついにはガクッと力が抜け、記憶も声も途切れていく。

 ーー覚えておくことはないさ。

 聞き馴染みのない声が陽太の耳に残った。


 昔から村は彼の庇護下にあった。他の村が干ばつや豪雨で大変なときも、この村だけは無事だった。それもこれも彼のおかげ。

 ずっと昔、彼との約束の節目の挨拶を怠った者がいた。その者と家には不幸が襲った。作物が食い荒らされ、崖崩れで家が潰れ、引っ越しを余儀なくされた。

 その者は引っ越す前に言った、信じてないくせに、と。それが何に対してかは分からなかった。けれど村の人々は恐ろしいと思った。だってそれはずっと思っていたことだったから。

 それから村ではよりその挨拶を大事にした。彼が村の長老の夢枕に立ち、次はない、と言ったのだ。

 それから何年、何百年と経ち、ついに怠る者が出た。彼は今度こそ本気で怒り、その村は沈んだ。彼との約束を語る者も亡くなった。

 それからずっと機会を伺い続けた。次があった場合、どうするとずっと昔に破られたときに告げていた。

 その者が三十歳までに子どもがいればその子どもを、いなければその者を連れて行く。残念ながらそれは伝わっていなかったが。

 今回、その者は女性で三十歳までに子どもを産んだ。だからその子どもを連れて行くことにした。しかし彼の力は村の周辺にしか及ばなかった。村が沈んでから隣の県に越した女性と子どもを手元に呼ぶ術はなかった。

 しかし、よく考えた。どうにか成人してしまう前に連れて行く方法はないかと。子どもの方が扱いやすいし、記憶などの操作もしやすい。

 それに子どもが消えたところであっという間に忘れられていく。子どもがいなくなっても神隠しだと言われるだけだ。だから子どものうちが良い。

 子どもが十八になり、あと二年と差し迫った頃、村を沈めたダムの近くにあの村の人の子孫を見付けた。都会の大学に行くらしい。関係ないと思った。だって隣の県の子どもと出会う確率は低い。あの子どもも都会の大学に行くかは分からなかった。

 それから少しして夏がやって来た。あの子孫は実家に帰ってきた。どこか浮かれている様子が見てとれた。しかしなんで浮かれているのか分からなかった。

「友だちが来るんだ」

 そう言って笑った。その友だちは誰なんだろう。あの子どもでなければ意味がないからあまり興味はなかった。

 それが全て吹っ飛んだのはその友だちが来たときだった。あの子どもだ。あの不幸者の子どもだ。

 ーーあぁ、やっと見付けた。

 くすりと笑った。あの子どもを連れて行かなければ。だってそのために産まれたのだから。

 それでそっと夜に連れて行こうとすれば、隣で寝ていたあの子孫に邪魔をされた。

 何度やっても阻まれる。それもこれもあの子孫だった。その家族も阻止する動きを見せていたが、その子孫がダントツで阻止していた。まるでこちらの動きを読めるかのようだった。

 腹立たしい。けれど、ヤキモキしながらも連れて行こうとし続けた。

 結果は惨敗。夏休みが終わる少し前に子孫と子どもは寮に行った。県を出たせいで手出しはできなかった。

 けれど連れて行くという目標に比べれば小さなことは達成した。それは、あの子どもの中に欠片を入れること。これで少しは干渉ができる。だから倒れたその時に覚えておくことはないさ、と言った。あの子どもにも伝わっているだろう。


 ハッと目覚めた陽太は次の瞬間、ドクドクと心臓が激しく脈打った。陽太はぐっと胸をおさえた。呼吸が苦しい。

「佐倉くん?!落ち着いて、大丈夫ーー」

 パッと陽太に手を伸ばした美帆は陽太の背をさすった。陽太はうつむき、その目から涙がこぼれた。

 次第に陽太の呼吸が落ち着いてくる。ぐったりと力の抜かれた身体を支えながら美帆は陽太を横にならせた。

 ぼんやりと天井を眺める目はどこか遠いところを見ているようだ。美帆は陽太にはまだ休息が必要だと思った。

「さあ、寝ちゃいなさい」

 陽太は美帆を見た後、小さくうなずいて目を閉じた。少し待てば寝息が聞こえてきた。

 美帆は時計を見た。夕方の六時をまわっていた。本当は用事がなければ帰るべき時間だ。けれど、この状態の陽太を帰せない。ここは寮長に連絡を入れるべきだろう。

 美帆は子機を取ると陽太の寮に電話をかけた。とったのは悠木だった。美帆が事情を説明すれば分かりました、と返ってきた。もしかしたら遥たちから聞いたのかもしれない。

 今日の昼頃、陽太を担いでやって来たのは新入生合宿で同じ部屋だった彼らだった。正人、大樹、遥。陽太と定期的に相談会を開けば彼らの話題が頻繁に上がった。どうやら仲が良いらしい。

 陽太をベッドに寝かせ、様々なことを聞けば、陽太の近くでカツアゲがあったらしい。陽太は特に何かをされたわけでもないのに倒れたらしく、周囲は一時騒然としたらしい。

 カツアゲされていた学生とその関係者は職員に聴取され、遥たちは陽太を保健室に連れて行く役目を仰せつかったわけだった。

 美帆と話をした後、正人、遥、大樹にできることはなくなり、遥と正人は寮に、大樹は家に帰ることになった。

 今日は陽太は帰らないかもしれないと美帆に告げられ、遥は初めて二人部屋を一人で使った。陽太のいない部屋は広かったし寂しかった。布団を頭から被って、陽太の無事を願った。

 翌日、遥と正人は大樹と共に保健室に向かった。陽太が今日とっている講義の教科書を持った遥は不安そうな顔をしていた。しかし、陽太が起きていたこと、コンビニで買ったらしいチーズ蒸しパンを食べていたところを見た三人は安堵で足元から崩れ落ちた。

 それを見て美帆や陽太は驚いていたが、美帆は彼らの気持ちも分かるような気がした。昨日、陽太は寮に帰らなかった。それだけ起きなかったということは……、と最悪の想像がよぎったことだろう。

「心配したんだよ!」

「ほんとうにごめん……」

 陽太の使っているベッドの近くに丸椅子を持ち寄って三人と陽太が話している。チーズ蒸しパンを食べながら陽太はうなだれた。

「起きて良かったよ」

「うん、ほんとうにごめん」

 わいわいがやがやと少し騒がしい。美帆はふっと笑った。保健室にあるまじきことかもしれない。けれどそれでも良い。

 美帆は昨夜のことを思い出していた。陽太と夕食を食べた後、事情を聞いてみた。陽太はカツアゲの恐怖で動けなくなってしまったことを話した後、少し沈黙した。

「どうしたの?」

 美帆がたずねれば、陽太は不安そうな目を美帆に向けた。

「記憶がないんです」

 陽太が口にしたそれは美帆にとっても衝撃的なことだった。

「それじゃあ、行ってきます」

「気をつけて」

 四人を見送って美帆はノートに向かい合う。そこには小さな字が白を埋め尽くしていた。美帆の字だ。

「何かが足りない……」

 様々な資料を見ても、結末だけが分からなかった。村に昔から伝わる挨拶、怠ったことによる悲劇、そして二度目ーー。美帆には二回目に怠ったときの罰が分からなかった。対象を病弱にさせ、伝承を語る者も村も消えた。ではその先は?

 まさかそれだけで終わるわけがないだろう。神様は人ではない。人でないのだから、自分たちとは感覚が違う。神隠し、なんて言葉があるくらいだ、人を連れ去ったりすることは得意なのだろう。そんなことが得意であってほしくはないが。

 美帆はノートを閉じる。美帆はまだ、答えに辿り着けていない。


 ハロウィンの時期が来た。大学構内でも仮装をしている人が見られる。中庭はわいわいと騒がしく、陽太はそこを通らないようにして過ごしていた。

「それでさ、そのときにーー」

 次の講義は四人が同じものを取っていた。席も指定なし。四人で近くに座るため、いつの間にか四人分だけ席があいていた。

 席に座って教科書とノートを開く。もう少しで講義が始まる。

「そういや、ハロウィンはなにかする?」

「んにゃ。お菓子も買わない予定だよ」

「えー、やろうよ、お菓子パーティー」

 正人が不満そうな顔をしてそう言った。陽太は例年のハロウィンを思い出す。いつだって陽太には関係のないイベントとして位置していたのが、ハロウィンとクリスマスだった。

「陽太くんは?」

「え?僕?」

「そうそう。お菓子を持ち寄ってパーティーするんだ。楽しそうでしょ?」

「楽しそうだね」

「でしょ?やろうよ、一緒に」

 一緒にと正人に言われ、陽太は目を丸くする。けれど次の瞬間、嬉しそうに笑った。

「やった、約束だよ」

 ふんわりと目尻を垂れさせ、頬をうっすらと色付かせた姿は歳下のように見える。

 誰かがなにかを言う前にチャイムが鳴って教員が入ってきた。陽太は前を向いてしまった。同じ講義を取っていた者たちは顔を赤らめながら必死に教員の話に集中していた。そうでもしていないと思い出してしまいそうだった。

 それから着々とお菓子パーティーの準備は進められた。ハロウィンの日は四人ともが同じ講義を取っていたので空きコマも同じだった。

 持ち物はお菓子。個別包装の方が良いが、ポテチなどでも良いという決まりで一人二つ。

 陽太は早速買いに行こうとスーパーに足を向けた。しかしここで彼が直面したのはお菓子の種類の多さだった。あまりお菓子を食べてこなかった陽太には、パッケージだけでは何が美味しいのか、どんな味なのか分からず選べなかった。なんとか馴染みのあったふ菓子とラムネにしたが、陽太は一人でスーパーのお菓子売り場に行ったことを後悔した。

 そんな小さな冒険を無事に終えた陽太はハロウィンの日、ウキウキした面持ちで大学に向かった。遥は寄りたい場所があると言って先に行った。正人とも会わなかったので、陽太は一人だった。

 大学への道を歩きながらハラハラと舞う葉を眺めた。葉は絨毯を敷くかのように道路の隙間を埋めていく。まるで磁石でもついているかのようだった。

 ねぇ、と不意に声をかけられた。振り返れば陽太の胸ぐらいまでの身長の少年が立っていた。

 その少年はハロウィンにしては珍しい和装をしていた。白い羽織り袴と紫と黄色の組紐の巻きつけられた帯は神々しい。顔は丸く、長いまつ毛が目を縁取っていた。目尻に朱を塗り、髪は綺麗におかっぱに切り揃えられていた。裸足かと思えば草履を履いているらしく、手の込んだ珍しい仮装だった。

「さくらようたくん?」

 陽太は名前を言われて瞬時に警戒する。こんな小さい子ども相手に大人気ないとは思いつつも、母である唯愛に言われたことだった。

「にらまないでよ」

 少年はそう言って陽太の手を握った。小さな手はどこか冷たかった。

「いこう」

「待って、どこに?」

「おしえたらきてくれる?」

 陽太は言葉に詰まる。その場所が分かっても行くかは分からない。聞いてはいけない、ついて行ってもいけない。なんとかしてこの少年から離れないと。

 しかし一歩遅かった。少年は黙ったままの陽太の手を引いて歩き出す。陽太は半ば引きずられるままについていくことしかできなかった。

「ま、待って」

「もう待てないよ」

 幼い声があっという間に低くなる。ゾクリと寒気がしたがもう遅い。あっという間に景色は大学の近くからどこかの林に変わっていた。少年に手を引かれるまま、ついに陽太は辿り着いた。

 小さな祠。それは崩れかけのようにも新しいようにも見えた。けれど、周囲も含めて手入れはされていないらしい。ぼうぼうの草が祠の半分を隠している。

「ようやく会えたね、陽太」

 少年はニイッと笑った。わけも分からず、陽太は震え上がる。少年の目が紅く光った。それを最後に陽太の記憶は綺麗さっぱり消えてしまった。


 大学生が行方不明になった。

 それは瞬く間に世間に広がっていった。警察は顔写真を公開し、広く情報提供をよびかけた。それだけでなく、大学と実家の周辺を捜した。けれど陽太は見つからなかった。

 荒れたのは遥だった。陽太を搜そうと空きコマ全てを費やし、寮の部屋で陽太を待ち続けた。何度もメッセージを送り、電話もした。けれど陽太は返事をしなかった。

 はじめは大々的に報道していたメディアも、たかが大学生一人がいなくなったことをいつまでも報道するわけもなく、いつしか報道されなくなった。と同時に警察の捜索も規模が小さくなった。

 遥はそれを見て休学届を出した。なんとか大学一年生の単位はとったものの、しばらく休学することにしたのだ。それもこれも全て陽太のためだった。

 大学の教員はそこまでしなくても、と遥を止めた。けれど遥は譲らなかった。それだけ遥にとって重要なことだった。

 桜舞う四月。遥は寮の管理人になった悠木に陽太が戻ってきたら連絡するように言って陽太を捜しに出かけた。

 寮を出た遥は真っ先に実家に戻った。陽太が消えたのだからあの村が関係しているに決まっている。今も行方不明になっている祠。それがきっと鍵だ。

「お帰りなさい」

 母親に迎えられた遥は母屋の先、蔵に入ると一番奥に置かれていた巻物を手に取った。あの村の挨拶の風習について残された唯一の資料だった。これが発見されたのは昨年の大晦日のことだが、ここではあえてその詳細は記さない。

 さてその巻物を見ながら遥は情報を頭の中に叩き込んでいく。取り戻せるならば取り戻す。世間は陽太を忘れても母親である唯愛や、陽太のことを見守ってきた美帆、心配している正人や大樹などは忘れられない。陽太のいなくなった日はきっと忘れることなどできやしない。

 遥は下唇を噛んだ。自分は無力だ。どれだけ頑張ってもただの人間にできることは限られている。陽太を取り戻すどころか遥自身が死んでしまうかもしれない。けれど遥はそれでも良かった。

「遥」

 蔵に紗夜がやって来た。遥は巻物をしまった。

「ほんとに行くの?」

「うん」

「陽太くんのこと、好き?」

「……うん」

「そっか」

 紗夜は遥のそばに来るとその背をスパーンと叩いた。遥は驚いて振り返った。

「だったら取り戻しな。まあ、無理だとしても向こうで一緒になんなよ」

 紗夜の顔を見ればどこか泣きそうにも見えた。遥は悟る。本当は帰ってきてほしいこと。欲を言えば行かないでほしいこと。

 遥は心の中だけで謝罪する。たとえ紗夜の思いを踏みにじる行為だとしてもやるしかなかった。

「行っておいで」

 ニッと笑った紗夜は普段通りの紗夜だった。遥はうなずいて準備を始めた。

 時は少し遡り、遥が休学届を出して実家に向かう前。遥はテスト期間中に保健室に呼ばれた。テスト期間と言えど、遥の試験がない日を狙って呼び出されれば、遥は応じるしかなかった。

「来たわね」

 美帆はそう言った。その隣には陽太に似た女性が立っていた。遥はハッと息を飲んだ。陽太に似ているということは、陽太の親族ということだろう。

「初めまして。佐倉唯愛です」

 女性はそう挨拶した。遥は慌てて佐々倉遥です、と挨拶をした。

「そう……。あなたが陽太のーー」

 唯愛は微笑んだ。綺麗な笑顔だった。少女のように無垢でかわいらしく愛らしい。パッと見た限りでは三十代に見えるのだが、もう少し上の年齢だろう。若く見られることは羨ましい限りだ。

「唯愛は私と同い歳なの。佐倉くんをきっかけに親交が戻って」

「陽太を取り戻そうとしているの?」

 唯愛の一言に美帆はかたまった。けれど、遥はかたまらなかった。

「もちろんです」

「そう」

 唯愛は沈黙するとカバンから分厚い書類を出した。遥は不思議そうな顔をしてそれを見た。

「これは私の卒業論文よ。あの村の挨拶の風習をまとめたの」

 遥は書類を手に取った。

「もし、陽太が伝承通りに連れて行かれたのならばそれは全て私のせい。そのときは私が命をかけるしかないわ」

「なんで!?」

「私が罰をうけなくてはいけなかった。けれど三十歳までに産んでしまった。陽太はそのせいで連れて行かれたの」

「そうだとしても!だからって唯愛が命をかける以外にもあるはずでしょ!」

 美帆は唯愛の肩に手を置いた。唯愛はうつむく。

「あの、情報の整理をしましょう」

 遥はそう言って一つずつ確認していった。

 唯愛や陽太が持っている力、あの村の挨拶の伝承、破ったときの罰、祠の場所……。

「祠はたぶん、変わらずあると思うわ。私はもう、行けないと思うけれど……」

 遥は俺が行くと言った。

「佐々倉くん」

 陽太のこと、お願いします。

 小さく震えている唯愛は小動物のようでかわいらしい。きっと、心の中では陽太のことも遥のことも案じている。けれど陽太を取り戻したいから。無茶なことだと分かっていても遥に頼むしかない。

「全力を尽くします」

 必ず取り戻すとは言えなかった。けれど唯愛も美帆も分かっているのか、少しだけ晴れやかな顔をしていた。


 遥は前を見据える。大きな林だ。ダムの近くにあるそこは、観光客やダムで働く人すら訪れないほど暗い場所だった。けれど遥は一切の躊躇もなく中に入った。

 林の中は日光がないからかとても暗い。足元すらおぼつかないが遥はとにかく前進した。一刻も早く陽太を取り戻したかった。

 そんな思いだけで進んでいれば、古びた祠に辿り着いた。唯愛の話の通りだった。遥はそっと近付こうとした。しかし目の前にいつの間にか少年が立っていた。

「なんの用?」

 低い声は見た目からは想像もつかない。遥は直感する、彼が神様だ。

「陽太と話をさせてくれ」

「陽太?誰、それ?ここにはいないよ」

 少年はそう言って首をかしげた。

「俺の友だちなんだけどさ」

「知らないってば」

 少年は譲らない。遥が祠に近付くことを妨害している。祠の中を調べられると都合が悪いのだろう。そこにいるというのだろうか。

「そういうきみはなんでここにいるんだ?ここは暮らしていくには不便だろう?」

「ふん、不便なもんか」

 少年は腕を組んで遥を見る。まるで遥の方がおかしいとでも言いたげだ。

 しかし普通の人間ならばこんなところで生きていけない。だって食べ物がない。景色だって大して変わらない。話し相手だって少ない。退屈だろう。

「ここにいれば歳はとらない。煩わしい関係にも悩まされない」

 それは良いことじゃないの?

 少年の無垢な目がそうたずねる。それはたしかに陽太にとっては良いことだろう。

 傷付き、どうしようもないと諦めてきた陽太にとって自分が自分のままでいられる場所。遥だって陽太の力に関する幸せだけを考えればこの形でも良いとは思う。でも。

「陽太にとっての居場所はここじゃない」

 ーー陽太は独りじゃない。心配して、不安を感じてくれる人がいる。

「陽太に会わせてくれよ」

「だから、陽太なんていないってば!」

 そのとき、キイッと祠の扉が開いた。中からそっと顔を出したのは陽太によく似た青年だった。しかし、その目はどこか虚ろで遥をとらえない。

 白い羽織り袴と紫の帯をした青年はかわいらしい顔立ちのせいもあってか若く見える。少年も愛らしい顔立ちなので兄弟のようだ。

「あぁ、もう!中にいてって言ったでしょ?」

 青年は何も言わない。不安そうな顔をして少年を見た後、初めて会ったかのような顔で遥を見た。そこにはなんの感情もない。

 記憶がない。遥はそれを察知した。それは取り戻すのが難しいと示していた。けれど遥には一発逆転の方法があった。

「ほら、中にいて」

 少年に促された青年が戻ろうとするのを遥は止めた。その腕に触れた。ぴくりと青年が反応する。

「なぁ、陽太。帰ろう。唯愛さんが待ってるぞ」

 ーーいちかさん?

 真っ直ぐ目を見てやれば、その目が少し揺らぐ。虚ろな目のままだが、少しは感情が戻ったように見えた。たぶん、記憶がないんじゃなくて封じ込められただけだ。それなら戻すべきだ。その上で彼自身が決める。

「大学では大樹が待ってる。美帆さんも、榊原も待ってる。もちろん、俺だって」

 遥は青年の腕を掴んだまま必死に取り戻そうと心を砕いた。少年は遥のやりたいことが分かったのか、強引に青年の腕を引いた。遥の手が離れる。

 ーー気付かれたか。

 陽太に記憶がなくて遥を認識できない場合、陽太のもう一つの力であるリンクを利用するように唯愛に言われていた。大きな感情に引っ張られるリンクは、遥の取り戻したいという思いに呼応するはず。そうなれば記憶のフタをこじ開けられるだろう、と言われた。

 ーー聞いてみたい、外の話。

 ぽうっと青年の胸元の帯が光る。青年の意思疎通はそうやって行うらしい。

 少年は嫌そうな顔をした。どうやら少年は感情を隠さなくなったようだ。

「……少しだけだよ」

 少年は渋々折れてくれた。たぶん、青年の機嫌を損ねたくないのだろう。

「何が聞きたい?」

 ーーなんでもいいよ。

 青年はその場に座った。白い羽織り袴は汚れないのだろうか。遥には分からなかったが、少年が止めないということでそのままにしておいた。遥もその隣にどっかりと座った。

 遥は少し考えた後、俺の友だちの話でも良いか、と聞いた。青年はうなずいた。

「そいつは陽太って言うんだ。かわいくて身体が弱くて……。しょっちゅう倒れてた」

 遥はその度に陽太とかわりたいと思った。だって倒れた陽太の顔色は悪く、指先は冷えていたから。そのまま消えちゃうんじゃないかと思ったことは一度や二度じゃない。

「でもさ、少しずつ対策をして倒れる回数が減った。笑うことも増えた。俺はたぶん、嬉しかったんだ」

 陽太にとって自分が絆(ほだし)になれれば良い。この世界にいてくれれば、それで良いと思った。けれど今、それが脅かされている。

「だからいなくなっちゃって寂しいんだ。……いや、なんだろう、違和感が大きい?分かんないけどさ、大切なんだよ」

 一言じゃ表せない。遥はそう言い切った。青年は少しだけ目を細めた。

 ーー良いなあ、その人。そんなに想われて。

 遥はくすりと笑う。記憶がなくても陽太は陽太だった。どこか幼くてかわいらしい。根底は変わっていなかった。

「もしかしたらここにいるかと思ったんだが」

 ーー僕じゃないからなぁ。あの子じゃないの?

「違うなぁ」

 青年は少し考え込んだ。遥はそっと陽太に手を伸ばす。伝われ、伝われ。俺は、佐倉陽太を迎えに来たんだ。一緒に帰らないならば俺はここに残る。だからーー。

「もう良いだろ」

 少年は遥の手から青年の手をかっさらった。遥は少し残念そうな顔をした。青年はゆっくりと瞬きをした。まだ聞きたそうだったが、少年に従うらしい。

「ほら、もう帰って」

 それで二度と来ないでね。

 少年はそう言って青年を立たせた。その背に向かって遥は口走る。

「なぁ、知っているか。異界のものを食べたらその世界の住人になってしまうらしい」

 ぴくりと少年の動きが止まった。少年もその話を知っているらしい。

「神話ではある女神の娘が冥界でザクロを食べた。結局地上に帰れることになったが娘はザクロを食べてしまった分を冥界で過ごすことになった」

 青年が遥を見る。青年は記憶がないからか知らないだろう。

「その女神は娘の不在の間、嘆いて過ごした。そのせいで冬が生まれたとされている」

 遥は青年に向かって笑った。青年は目を丸くする。そこにたしかに感情があった。

「帰れると良いな、求めている人がいるところに」

 遥はそっとその場をあとにした。青年は遥の背に手を伸ばす。けれどその手は遥まで届かなかった。

「行こう」

 ゆっくりと少年が青年の背を押した。ふわりと風が吹いて青年は祠の中に入った。少年の姿も消えた。


 遥は林を抜けてダムを見下ろした。ドバドバと流れる水を見てみればうっすらと虹が見えた。透明な水もその上辺は白い泡で埋め尽くされている。大きな音には癒やし効果があるのか、陽太を取り戻せなかったにも関わらず、遥は安堵していた。

 陽太の無事は確認できた。自分たちといるよりも幸せそうだった。きっと陽太にとって倒れない環境の方が安心だろう。

 強引に連れ戻すことは、陽太のためにもやりたくない。それでは同じになってしまう。

「あーあ」

 きっとしこたま怒られるんだろうな。なんて無責任なんだ、と罵られるかもしれない。

 正人も大樹も陽太を取り戻したかった。行けるものなら行っていただろう。けれど、遥に任せると言って断念したのだ。必ず取り戻せと言っていた。彼らにとって陽太はもう、大切な友人だった。

 そんなことは分かっている。分かっていてもーー。

「いたっ!」

 振り返って見ればそこに青年が立っていた。先ほど別れたときの白い羽織り袴のまま、肩で息をしていた。走って来たらしい。それにも関わらず衣服は少しも汚れていない。

「どうしたんだ?」

 頑張って優しく声をかけた。身長差もあって怖がられるかもしれないと思ったからだった。

「僕、きみと行きたい」

 拙い言葉だったと思う。けれど、記憶のない青年のたくさんの希望がこめられた声に、遥は胸がいっぱいになった。

 選んでくれたのだ、他でもない遥たちのことを。

 遥は青年の手を取った。この喜びを青年と共有したかった。

 ぱちりと青年が目を丸くする。その目がどんどん光を取り戻していく。

 ーーリンクだ。

 遥はそう思った。今までのリンクは陽太自身が望まぬ負のリンクだったが、今回は彼自身がそれを望んだ。だからポジティブなアクションなのだ。

 ぽうっと青年の指先が光る。それが次第に少年の姿を作った。それは遥を見て喋り出す。

「契約だ。一年の四分の一を分割したりしてこっちで過ごさせる。それ以外はそっちで過ごせ」

 これ以上は譲歩しない。契約を反故にするなら陽太の記憶も存在も戻さない。

 遥はうなずいた。一年の四分の一、つまり三ヶ月だ。それならば夏休みと春季休みを費やせばお釣りが来るぐらいだ。ゴールデンウイークなどを使えばもっとお釣りが来る。それで良い。それで陽太が戻るなら良い。

「分かった」

「ならば戻してやる。契約は違えるなよ」

 少年はそれだけ言うと消えた。それと同時に青年がふらりと倒れた。遥は慌ててその身体を支える。急に体調が悪くなったかもしれない。慌てて口元に耳を寄せた。

 すうすうと小さな寝息が聞こえる。遥は安堵の息を吐いた。

「……帰るか」

 遥は青年を抱え直した。首筋に青年の寝息がかかる。あぁ生きているなと遥は安堵した。

 遥は実家に向かって歩き出した。背負った陽太は意外と軽くてやっぱり少し寂しくなった。

 実家に着く頃にはいつの間にか夕方になっていた。オレンジの空ではカラスが鳴いていた。早く帰れと言われているようだった。

 母屋の扉を開け、玄関で靴を脱いだ。青年は裸足だったので気にせず背負ったまま上がった。

 そのまま夏に来ていたときに使っていた部屋に入る。布団は敷きっぱなしだったのでそこに青年を寝かせる。

 長くなった前髪が目にかかっている。遥はそれをそっとはらってやる。寝顔は変わらない。どんなに服装が変わっても陽太は陽太だった。

「陽太、おかえり……」

 遥は目を閉じる。本当はお風呂に入るべきだろう。着替えてさっぱりするべきだ。けれど遥はもう限界だった。疲れて仕方がない。指一本、動かせない。あとはもう、寝るだけしかできない。

 遥の意識はゆっくりと落ちていく。起きたらやる、なんて未来の自分に任せて遥は眠った。陽太がいなくなってから見始めた悪夢は一度も見なかった。


 それからが大変だった。

 遥は翌日の朝、警察に連絡をして陽太を保護してもらった。陽太は一度、病院で検査をして少しの栄養失調とだけ診断された。点滴で栄養をとりながら、警察からの聴取に応じた。

 しかし、陽太に記憶はなかった。どこにいて何をしていたのか。陽太は何も証言することができなかった。

 警察は陽太に記憶がない以上、これ以上の捜査もできず、捜査本部はなくなった。陽太の行方不明に関しては原因不明ということで終了したらしい。誘拐ではない、ということは母親の唯愛には伝えられた。

 陽太はそれから実家に一度顔を出したらしい。唯愛は陽太を抱きしめ、事の顛末を聞いた。一年の四分の一を祠で過ごすことになったことはあらかじめ遥から聞いていたが、陽太もそれは知っていたらしい。

 ごめんなさい、と言って切り出した陽太に対して、唯愛は怒ることもなく、苦しませてごめんなさいと返した。元はと言えば唯愛が怠ったことが原因だから責任を感じているのだろう。陽太は唯愛を責めることなく大丈夫だと笑った。

 唯愛には陽太が大きく成長したように見えたらしい。少しだけ涙ぐんでいた。

 一方、遥は寮に戻り、陽太とはそこで再会することにした。警察に陽太を預けた後、大学に連絡を入れて休学期間を二ヶ月に短縮してもらった。事前に時間割りは見ていたので、講義自体は選んでいた。出席簿に遥の名前がないだけで、一応、とってはいたのだ。

 さて、そういうわけで遥は寮に戻ると講義の教師に提出するレポートを作った。その提出によって欠席していた分を補うのだ。

 気まぐれでとった民俗学の教師からは休学中にしていたことを書くよう言われた。たぶん、陽太を捜すことではなく、少年とのことが知りたいのだろう。民俗学のにおいがするのだろうか、遥にはよく分からなかった。

 そうこうしているうちに陽太が寮に帰ってきた。その日、寮は大騒ぎだった。陽太と同じ講義をとっていた学生が陽太の無事を喜び、正人や悠木は泣いていた。陽太はそれを見て困ったような顔をしていた。しかし遥は陽太をその中心に押しやった。

 心配されていれば良い。そうやってこっちにいる理由を作れば良い。

 散々もみくちゃにされた陽太は少し疲れた表情で遥と部屋に戻った。陽太の記憶にある部屋と少しも変わらない家具の配置に安堵したようだった。

「お風呂、はいってくる」

「あぁ」

 あれ以来二人は会っていなかった。そのせいか遥と陽太の間にはどこか気まずい空気が流れている。陽太は逃げるようにお風呂へ行ってしまった。

 かくいう遥もベッドに乗って頭を抱えていた。陽太と上手く話せない。それは遥の中に罪悪感があるからか、それとも別の感情があるからか。それは分からなかった。

 しばらくジタバタとベッドで暴れていた遥だが、いい加減腹をくくったのか、ベッドに座るとぐっと手を握った。

 ドライヤーの音がする。ずいぶん手慣れたものだ。一年以上前では考えられないものだった。遥が思い出し笑いをしていると陽太がやって来た。

「あがったよ」

 遥がそちらを見れば陽太が目を細めていた。お風呂は気持ち良かったらしい。

「なぁ、陽太」

 なあに、と言葉が返ってくる。こてんと首をかしげて問われると遥はどう切り出せばいいものかと少し悩んだ。けれどストレートにいくしかないと思い、真っ直ぐ言った。

「陽太は俺の心の声、聞けこえないの?」

 陽太は目を丸くした。どうして遥がそれを知っているのか分からなかった。けれどよく考えれば答えは簡単だ。陽太が唯愛にこぼしていたことを唯愛が遥に伝えたのだ。

「き、聞こえないけど……」

 陽太は少し戸惑いながらそう返した。

「良かったぁ〜。俺、結構いろいろ考えているからさ。聞かれてたら苦しめちゃうと思ってた!」

 陽太を苦しめていたわけじゃないんだな。良かった良かった。

 ニッと遥は笑った。それがずっと気になっていた。唯愛がこぼしていた言葉が本当か確かめたかった。だって、本当に遥の心の声が陽太に聞こえていないのか分からないから。

「陽太が苦しかったら考え事しないようにしないといけないなって思ってて!」

 でも、なんで聞こえないんだろうな?

 遥がそう言った後、陽太の顔を見たときの衝撃を忘れられない。陽太は熱でもあるかのようなほど潤んだ目と真っ赤に染め上げた頬でどこかぼうっとしていた。

 ーーあ、かわいい。

 陽太は遥に顔を見られないように腕でガードする。遥はもったいないと思いながら手を伸ばす。陽太のガードなんて子どもでも崩せるほどだったので遥にとっては簡単なことだった。

「やっ……!」

「なんで?」

 遥が素直に聞けば、陽太はさらに真っ赤になって遥の腕から逃れようと暴れる。遥には陽太がどうして逃げようとするのか分からなかった。

 熱があるなら風邪を疑わないといけない。薬が必要かもしれない。美帆に連絡をしないといけない。心配しているだけなのに。

「とっ、とにかく!今日は疲れたから寝るね!おやすみ!」

 陽太は遥の一瞬の隙をついて抜け出すとベッドにもぐりこんだ。遥はしばしそれを見ていたが、やがてお風呂に入ろうと準備を始めた。

 陽太はベッドの中で冷めない顔の熱をなんとか下げたかった。だって唯愛の言葉がずっと陽太の頭にあるのだから。

 陽太のことが大好きな人の心の声は聞こえないのよ。

 父と母である裕と唯愛の心の声を陽太は聞いたことがない。二人が陽太のことが大好きだと分かっていた。では、遥は?

 遥の心の声が聞こえない理由をそれに当てはめて考えれば答えは一つだ。遥は陽太のことが大好きなのだ。

 陽太はぶんぶんと頭を左右に振る。そんなことはない。遥が陽太のことが好きだなんてーー。


 この鈍感な二人が今後どうなっていくのかはまた別の話である。


やさしい失見当識/鱸

 靖子は花を見ていた。卵色の大振りなパンジーだ。それは円形の鉢にぎっしり植えられ、平たい蒸しケーキのように見える。いつのまにか、喧騒は止んでいだ。靖子の前にある巨大な蒸しケーキはビル風に吹かれてなお、柔らかそうに振る舞った。

 空は青く、花は黄色い。それだけで、靖子は靖子の見ている世界を穏やかだとみなす。

「すみません、大丈夫ですか?」

 突然降ってきた声に、体が強張った。靖子は蒸しケーキから顔をあげた。横には制服を着た若い警察官が立ち、花を愛でる靖子の様子を窺っていた。

「大丈夫だけど」

「なにかお困りですか?」

「え?」

「ここでなにをしてるんですか?」

 花を眺めただけで、なぜ警察官に問い詰められているのか。たしかに花は靖子に見られるために咲いているわけではないが、花と靖子の関係を赤の他人に咎められるのは理不尽ではないか。靖子は困惑した。

「なんでもないのよ。……花が綺麗でしょ?」

「そうですね。自分の名前はわかりますか?」

 靖子は、もしかしてこの人は会話ができないのではないか、と思った。警察官は膝に手をついて屈み、靖子と目線の高さを合わせ、大きな声で、遅く話す。

「自分の名前は、わかりますか?」

「あなたこそ、自分の名前はわかるの?」

「……園田といいますが」

「あ、そう……園田さん」

「お名前は、なんですか?」

「国本靖子」

「お家はわかりますか?」

「なに言ってるの、自分の家くらいわかるわ。駅の近くだもの。そこのスーパーの奥に信号があるでしょ、あの右のマンションの四階にあるわよ」

 靖子は対抗心を燃やし、園田を睨んだ。園田は靖子をしばらく見つめると、わかりました、ありがとうございます、気をつけて帰ってくださいね、と言い残して去っていった。


 靖子はデパートの奥の信号を渡り、右のマンションに入ってロビーの鍵を開け、エレベーターで四階に上がった。自宅へ戻り、廊下に明かりを灯すと、誰もいない居間に向かってただいまと呟いた。

「なんだったのかしら、あの子」

 靖子は一人で怒りをあらわにしながら三時のお茶の準備をはじめた。喫茶店〈鶴亀〉で買った豆を挽いて冷蔵庫からディアマンクッキーを出す。最近買った長角皿に何枚かクッキーを並べると、名も知らぬ酪農家や陶芸家へのありがたい気持ちと申し訳無さで心がいっぱいになった。

 中挽きにした粉に湯を注ぎ、フィルターから滴る黒い液体を眺めた。丸い粒が伸びながら落ち、ぱちぱちと水紋を作るその様子は見ていて楽しいものだった。

 静かな部屋で、携帯電話はけたたましく鳴った。バイブレーションは聞こえないので、華やかな着信メロディでなければ電話をとることすらできない。

 靖子はコーヒーポットを置いて携帯の元へ駆けた。グリーンスリーブスの音色は、靖子の友人である八枝からの着信だ。靖子は彼女の娘にこの着信音を聞かれたとき「どちらかといえば保留音のチョイスでしょ」と言われ、ひどく腹を立てたのを覚えている。グリーンスリーブスだって、保留音になることを目指して今世紀まで生き延びたわけではあるまい。靖子はコールが途切れてしまう前に応答したいと考え、走った。電話をとった代わりに、靖子の息は切れてしまった。

「はいもしもし、八枝さん?」

『靖子さん。元気? 今、時間ある?』

「幸い元気だし、時間はいくらでもあるのよ」

 靖子は携帯電話を持ってキッチンに戻った。話を続けながら、コーヒーを淹れる。

『ただのお喋りだけどいい?』

「構わないわよ、今さら。八枝さん、大事な連絡は全部メールなんだから、わかってて電話出てるのよ」

『そう。ごめんね。でも、靖子さんの声聞くと元気が出るのよね。今日も膝が痛くて痛くて、もう、台所に立ってるだけで精一杯よ』

「あらあ。旦那さんは?」

『あのねえ京介に車乗せてもらって、病院』

「そうなの。でも京ちゃん仕事もあるんでしょう」

『うん、休んだの、自分の父親を病院に連れてくためにね。あの人も私も免許返しちゃったからね』

 八枝は家族と住んでいる。だから八枝は自分よりもはるかに大変な思いをしているのだ、と靖子は常々感じていた。膝も腰も痛み、それでも家事をしなければならない八枝のことを気の毒に思う。八枝は息子の京介が離婚してからまた揚げ物を作り始め、何度か火傷を経験し、もう俺も歳なんだからさすがに揚げ物は要らないと京介に言われて反省し、しかし揚げ物が大好きな幼き京介の笑顔を思い出しては賢明に揚げ物に挑む、よき母のままであった。もう揚げ物には誰も喜ばないと知っていながら、揚げ物を作り続けていた。コロッケはたまに、靖子がもらっていた。

『靖子さん、〈鶴亀〉の、ケーキが食べたいわね』

「そうね、食べに行きたいわね。でも、注文するときは二人で一個ね。食べ切れないから」

『次の月曜日に行かない? 京介は仕事だし、旦那は〈エデン〉だから。なんなら、洗濯も次の日に回そうかと思ってる』

「いいけどあなた、歩ける?」

『あんまり歩けないから、休み休みね』

「わかった、楽しみにしているわね」

 靖子はサーバーからカップにコーヒーを注いだ。ドリッパーはシンクに置いたまま、クッキーを置いた長角皿とコーヒーカップを順番にテーブルに運んだ。

「ケーキで思い出したんだけど、私今日ね、変な警察官に話しかけられたのよ」

『変な警察官? 警察官に、変とか、変じゃないとかあるのかしら……というか、ケーキで思い出すこと?』

「変よお、あれは。急に名前とか、住んでるところとか、聞いてくるんだもの」

 靖子は椅子に腰掛けて、カップからコーヒーを一口二口飲んだ。レースカーテンを貫通してくる日光を見ていると、少しずつ、その警察官のことも許してやろうかと思えてきた。不審ではあったが。

『ああ、靖子さん。たぶんそれはね、靖子さんが、徘徊してるんじゃないかって思ったのよ』

 靖子はたった今飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。噎せれば、誤嚥で死亡してしまう。靖子はなんとか自我を保ちコーヒーを喉の奥にしまった。

「徘徊って。ただ散歩してたのよ」

『あ、うん、でも、お巡りさんが靖子さんに話しかけたのは、念のためだと思うけどね。最近、認知症の人が迷子になっちゃったっていう無線放送も増えてきたから……』

「認知症? 私が? まさか」

『まさか私がって思ってる人が、認知症になったりするの。明日は我が身よお』

 八枝が言うと、説得力があった。八枝の夫は認知症の気があるという理由で、隣町の〈エデン〉というデイサービスを利用しているのだ。そこのレクリエーションが認知症予防に効くという話を聞き、八枝の夫はそれが彼の人生において注目のトピックとなり得ないような遊びを繰り返しながら、死ぬまでの日々を送っている。靖子は自分の心身の健康に感謝した。


 靖子が〈鶴亀〉に向かった日は、小雨が降っていた。湿り気のある空気はまだ涼しく、靖子にとっては快適な気候だった。気に入っているひまわり柄の傘を差し、〈鶴亀〉までの道を歩く。この歳になれば傘の柄やら服の柄やらなんでも(どうでも)よくなってくると周りは言う。しかし靖子は目を楽しませるものが身近にあったほうが、爽やかな気分でいられることも少なくなかった。終活も兼ねて雑貨を買わない代わりに、必需品は選んで使うようにしていた。

 靖子は八枝のことが心配だった。靖子と八枝は歩く速度が異なるために、出掛けるときは現地に集合することが多かった。靖子は八枝に「家まで迎えに行こうか」とたびたび提案しているが、「人様に迷惑かけたくないのよ」と言われ自粛している。靖子は八枝より先に〈鶴亀〉へ至る通りに到達したが、周囲に八枝の姿は見当たらなかった。

 靖子はしばらく道を見回して八枝を探した。しかしただ待っているほかないと考え、先に〈鶴亀〉へ向かうことにした。そこで靖子は思い出した。〈鶴亀〉は未だ、現金でしか支払いができない。最近はなんでもクレジットカードで支払えば事が済んだので、現金をあまり持ち歩かなくなっていた。靖子は傘を畳み、最寄のコンビニエンスストアに駆け込んだ。

 ATMコーナーに歩く。そこで現金を引き出そうとしたが、その前に八枝に連絡を入れるべきかと考え鞄から携帯電話を取り出した。通話履歴の一番上から八枝を選択し、電話をかける。

「あ、もしもし? もう着きそうなんだけどね」

『……え、靖子さん? ああ、ごめんなさいね、休憩しながら歩いたら……思ったより遅くなっちゃってて』

「ええ、それはいいの、ゆっくり来てちょうだい。待ち合わせの時間はまだなんだから」

『ありがとう。そう、そういえば、思い出したんだけど、靖子さんは現金の持ち合わせがあるかしら』

「今ね、下ろそうとしているところよ。それで電話したの。少しの間、待ち合わせ場所を離れるからね」

『わかったわ。今から下ろすなら、たくさん食べちゃっても安心ね』

「あらあ。じゃあたくさん下ろさないとね」

 幸いコンビニエンスストアには客が少なく、ATMコーナーにも人は居ない。靖子は鞄を荷物置き台に下ろし、画面に触れた。

『たぶん、あと十分くらいで着けるわ』

「急がないでね」

『ちょっと急ぐわね。……だって〈鶴亀〉にも、あと何回行けるかわからないもの』

「そうね、再建するにはとにかくお金がかかるから」

『うん。ええっと、息子さんが上京して就職したから、お店を継ぐ人もいなくなって、町からも人がいなくなってねえ?』

「仕方ないわよね」

 靖子は八枝と話しながら〈鶴亀〉で使う現金を下ろそうとしていたが、キャッシュカードを手に持ったところで、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、若く可愛らしい女性が立っていた。

「ごめんね、後ろに人が並んでいるみたいだから、一回切るわ。またあとでね」

 八枝の相槌を聞くと、靖子は通話を終了した。

「お待たせしちゃったかしら、ごめんなさい。もし急ぎなら、先に使ってくださいな」

 靖子は女性に謝罪し、その場を離れようとする。

「詐欺じゃないですか?」

 女性は不安げな目をこちらに向け、靖子の携帯電話を指さした。靖子は再び、その女性を不審がった。

「鷺じゃなくて鶴よ?」

「いえ、特殊詐欺……振り込め詐欺じゃないかと」

「振り込め? 違うわよ、〈鶴亀〉で現金が必要なのよ。あそこの喫茶店ね」

「そうでしたか。すみません」

 女性は自らの勘違いを恥じることなくすっきりとした面持ちで流れるように謝罪した。靖子は首を傾げながらATMに向き直ったが、ミラーに一瞬映った女性の顔に記憶を刺激され、つい先日のことを思い出す。

「あなた園田さんね?」

 振り向き、彼女の眼差しを確認する。制服を着ていなくとも、この強い意志を持った瞳は園田のものだと靖子は直感的に理解した。

「はい、園田です。……覚えていてくださったんですね。この前は失礼いたしました、国本さん。花の前で立ち尽くしていらしたので、つい」

「園田さん、あなたこの前、私が認知症で徘徊してると思ったんでしょう」

「もしそうだったらご家族が困るかなと思ったんです」

 靖子はキャッシュカードを差込口に入れる。

「そう。今日はお休みなのね」

「休みです。私も〈鶴亀〉でお茶をしようと思っていたので、驚いているところです」


 靖子たちは四人用のテーブルを使っていた。靖子と八枝は約束通りケーキを注文した。〈鶴亀〉の店主は靖子たちがひとつしか注文しないつもりでいたのを知っていたかのように、ひとまわり小さなケーキを用意して待っていた。結局靖子と八枝は、ひとつずつケーキを注文することになった。コーヒーと、好きなカップを選び、靖子と八枝は隣合って座る。

 園田は靖子の正面に座り、ココアを口にしていた。

「八枝さん、紹介するわ。この子は私を認知症だと思って問い詰めてきた、園田さん」

「そういう言い方をすると若者に煙たがられますよ」

「だって他に情報がないんだもの」

 園田は毅然とした態度で頷いた。

「そうですね。国本さんは認知症で、徘徊しているのだと思っていましたし、さっきも詐欺にあっているのかと思いました」

「仕事中じゃないのに、よく声を掛けてくれたわね」

「本当は、私じゃなくても、仕事じゃなくても、誰にだって声をかけてほしいですよ。可能性がわずかでもあるなら。前に一度、失礼かもしれないと思って声掛けを怠ったらその方は……、その方と同じ特徴に当てはまる方は、行方不明になって、未だ見つかっていませんし」

「ああ。それはもう、声をかけざるを得ないわね。失礼な子だと思っちゃって、失礼したわ」

「大丈夫です。でも、まだ躊躇う瞬間もあります。お歳を召した方に話しかけるのは。バスでも席を譲るに譲れなかったり、荷物を代わりに運びたくても運べなかったり」

 十四畳ほどの部屋は、よく通る園田の声で満ちていた。園田の言葉を聞いた八枝は微笑んで言う。

「若い子に話しかけるのも難しいわよ。たとえそれが身内でもね。なんだか申し訳なくなっちゃうの」

「八枝さんは京ちゃんに怒られるのが怖いのよね」

「まあ、そうね。同じこと何回も聞いたら怒るから」

「身体が痛いのも物忘れがひどいのも、結局自分がその年になるまで大変さはわからないのよね」

「毎日毎日、どうすれば周りに迷惑かけずに、嫌悪感を抱かれずに死んでいけるか、考えちゃうものね」

 靖子と八枝はただのお喋りを続けながら、だらだらとケーキを崩していた。店主は耳が遠く、彼女らの会話は全く聞こえていない。拭く皿も作るサンドウィッチもなく、ただ窓の外を見つめている。

「娘も結婚したし、旦那も……亡くなったし、私はもうやることがなくて気楽だわ。孤独死するとしたら、第一発見者は八枝さんね」

「そうかしら。じゃあ、毎日電話するわね」

「でしたら私も、できるだけ入念に警邏を……」

「やだ、二人ともどうしてそんなに協力的なのよ。さすがにそんな、すぐには死なないわ」

 靖子はせめて、転んで怪我をしないように、出掛けるときは手すりを積極的に利用しようと考えた。


 しばらくして靖子は「コーヒーを飲みすぎたわ」と言い残しトイレのために立ち上がった。靖子は嗜好品として自宅でも喫茶店〈鶴亀〉でもコーヒーを楽しんでいる。しかし実際は頻尿症のために一日十回程度はトイレに向かわざるを得ないのである。

 赤木鶴太郎の自宅のリビングで、八枝と園田は家主に会釈した。家主の鶴太郎は、靖子に渡すコーヒー豆を詰め替えてラッピングしていた。

「八枝さん、祖母を気にかけてくれてありがとうございます。……母のことはわかるみたいなんですが、私のことはもう、思い出してくれません」

「仕方ないけど、本当に残念なことね。それに、まだここを〈鶴亀〉だと思っているみたいだし……今日はまだ、土曜日だし」

「そうなんですよね。ここは、五年前にお店を閉めてしまったのに。ごめんなさい……」

 園田は謝罪しながらも、微笑んでいた。祖母の靖子が幸せそうに過ごす姿を見ていれば、自分が忘れ去られたことも、兎や角言われることも、ときどき周囲に迷惑がかかることも、大きな問題ではなかった。

 今の国本靖子は園田花のために生きているわけではないが、身勝手な厭世観から国本靖子と園田花の関係を赤の他人が咎めるのはお門違いだ。

 八枝も園田も、空は青く花は黄色い靖子の穏やかな世界を守り続けるべく、居間の椅子に座り続けた。

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聖徳大学 文芸研究同好会

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