こんにちは。文芸研究同好会です。
全員共通のテーマで作品を書くお題企画の4月分です。
4月は、好きな歌からイメージを膨らませて書こうという話になりました。
以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。
※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。
虹のない日を君と【上】/月夜
初めて抱きしめた身体は柔らかくて、喪いたくないと思った。頭は庇ったから、きっと大丈夫だと思う。かわりに僕が頭をうったけど、平気だよ。ガンガン痛いけどへーき。
もしも僕が今日、君と話していなければきっと君はこれに巻き込まれなかった。僕のせいだね、ごめん。
目の前がキラキラしていて、冷たい雨が顔を滑って心地良い。天気雨。微かに見える世界には虹がかかっていた。
君の明日があの虹のように輝いているならば。
ーーそれなら僕は、この命をかけても良い。
朝起きて一番に天気予報を確認する。今日は虹が出ていない。それから恐る恐るカーテンを開けた。
それは小玉瞳夜の日課であった。
枕元の二冊の分厚い本のようなそれをとると、制服に着替えてから階段をおりた。
今日は三月十日。卒業式が近い。そのため、瞳夜のような在校生は準備に駆り出されることが多かった。授業の内容もほとんどないようなものだし、学校に行かなくても良いんじゃないか、なんて思ってしまう。
「おはよう」
「おはよう、お母さん」
リビングに行けば母親がいた。柔らかな栗色の髪は太陽の光を受けてキラキラ輝いている。瞳夜の栗色の髪は完全に母親譲りだ。
「ご飯食べちゃいなさい」
「うん」
のんびりと座ってトーストにかぶりつく。マーガリンが染み込んだそれは美味しい。ジャムをつけても美味しいけれど、瞳夜はマーガリンの染み込んだトーストが大好きだった。
「今日も一緒に行くんでしょう?」
「うん」
隣の町内会に住む黒沢ももは瞳夜の同級生だった。とある事故以降足が少し不自由なため、瞳夜は荷物持ちを買って出たのだった。
「今日は出るかもしれないわよ」
「……このあと、雨なんだ?」
「ええ」
瞳夜はコーンスープを飲むとお皿を流しに置いた。そのまま歯磨きをしてニュースを流し聞きしてカバンの中身を確認した。傘を持ってお気に入りのスニーカーを履く。トントンとつま先で玄関の床を叩くと行ってきます、と声をかけて扉を開けた。
隣の町内会までは歩いて三分。瞳夜の家はかなり境界に近かった。見慣れた空色の屋根の家の前にももは立っていた。肩からかけたカバンと自身の身体を支える杖。どこかボウッとしているように見える。
サラリと風になびく栗色の髪はストレートで綺麗だ。近くに行けばシャンプーなのかリンスなのか分からないが、ももによく似合う花の香りがした。
「ももちゃん、おはよう」
「瞳夜くん。おはよう」
こちらを見たももはふわっと笑うと足元に置いていたカバンを見た。瞳夜はそれを持つとゆっくりと歩き出した。ももの半歩後ろを歩くのが常だった。
近くのバス停でバスに乗り、ももを座らせる。お決まりの座席があって、そこはいつも空いていた。
そのままの状態で揺られること三十分。次第に乗客が減って、もはや乗っているのは同じ高校の生徒のみ。それも見慣れた顔ばかり。それでも名前は知らない。
「次は美里高校〜。美里高校です」
ポーン。
「次、停まります。お降りのお客様は、バスが止まってから席をお立ちください」
それから少ししてバスが止まった。ももから杖を預かって立ってもらう。立ったら杖を返して降り口に向かう。
ピッとタッチして降りればバスが出発する。それを見送って振り返ればもう高校だった。自転車が行き交う広い道からが高校の敷地である。
自転車と階段を避けてエレベーターへ。二人で乗り込んで目的の階のボタンを押した。エレベーターは扉を閉めて二人を押し上げる。
「今日の予定は?」
「三年生のフロアの掃除、だよね」
「セイくんとリミもだね」
「うん」
ポーンと音がして目的の階についた。ももに先に出てもらい、瞳夜も追いかけた。
「よっ、お二人さん」
「おはよう〜」
教室に着けば歌川セイと染谷リミがひらりと手を振っていた。二人はももと瞳夜の友だちだった。
足が少し不自由なももとパッと見では異常が見られない瞳夜のことを知っても離れなかったのは二人だけだった。かわいそうという目も向けない、何かあったら手を差し伸べてくれる距離を保ってくれる。そんな二人だった。
「今日の掃除、一緒だな」
「ワンフロア担当なんて大変だよねぇ~」
「隣のクラスからも駆り出されるでしょう?」
「そう聞いているけれど」
ももが椅子に座り、瞳夜はもものカバンを机の上に置いた。ありがとう、とももが言う。瞳夜はももの後ろの席に荷物を置いて椅子を引いた。
「そう言えば、二年生のクラスはどうなるだろうね?」
「同じクラスが良いなぁ」
「さすがにそこまで優遇してくれないでしょ〜」
リミはそう言ってため息をついた。一年で瞳夜やもも、セイと仲良くなれたのにあっという間にお別れかもしれないのだ。瞳夜もクラスは気になっていた。
「なぁ、小玉ってさ。虹、見れないの?」
残酷な言葉。一年前は何度も聞かれた。そしてその度に瞳夜はそうだよ、とうなずくしかなかった。中には信じていなくて虹の画像を見せてきた同級生もいた。
その度に瞳夜は頭をおさえてうずくまり、涙を一筋だけ流して意識を失う。次に目覚めた瞳夜は中学入学以降の記憶がない状態で、周囲を警戒しながら自分のことを把握する。
それがどれほど苦痛か、周囲は理解しようとはしなかったが、瞳夜に負担がかかることを知ってからはイタズラに見せようとはしなかった。
だから瞳夜のこの半年ぐらいの記憶は途切れていない。それが幸せなことなのかは分からない。
「あ、ホームルームだ。戻るな」
「また後で〜」
先生が入ってきた。先生は瞳夜の前の席のももがいることを確認してうなずいた。たぶん、ももがいないと連絡しないといけないからだろう。面倒な連絡をしなくて良いからだ。
「ーーというわけで今日は三年生のフロアの掃除、体育館の準備を行う」
先生のその言葉と共にチャイムが鳴って教室から人が出ていく。瞳夜のクラスのほとんどが体育館の準備を担当しているからだ。ここから除外されたのがももたち四人である。
「立てる?」
廊下が比較的静かになったことを確認して瞳夜が声をかければ、ももはゆっくり立ち上がった。
「先に行って担当範囲を聞いてくるね〜」
「ありがとう」
「行こう、ももちゃん」
「うん」
コツンコツン、キュッキュッ。エレベーターまでが遠い。ももの半歩後ろを歩く瞳夜はサラサラと流れる栗色の髪を見た。フラフラと揺れながら歩くため、髪も揺れる。絡まることを知らない髪。今日も天使の輪が見える。
ふと前から集団が歩いてきた。話に夢中なのか、こちらに気付く様子はない。ももに気付いて道をあけてくれれば気にしないけれど、そうじゃなければ瞳夜の出番だ。
瞳夜は素早くももの隣に並ぶ。集団との間に入ってガードする。集団は途中で気付いたのか、少し道をあけてくれた。
集団が去ってからありがとう、とももは言った。瞳夜は再びももの半歩後ろについた。やって来たエレベーターに乗って三年生のフロアを押した。
エレベーターをおりて教室に向かう。既に掃除を始めていたリミとセイに担当範囲を聞くと、四クラス分と言われた。瞳夜はももにロッカーの上の掃除をお願いした。
リミとセイは主にーーモップなどを用いるーー床、瞳夜は机の上を拭き掃除。ももの担当するロッカーの上は高さはそれほどないため、立ったままでも掃除ができる。
「何かあったら押すんだよ?」
「分かっているよ」
ロッカーは廊下にあった。ももは瞳夜の言葉にうなずいた。首から下げた防犯ブザーはももからのヘルプコールである。これは同じ学年ならば皆知っていることで、すぐさま駆けつけるように言われていた。
コツンコツン、と杖の音がする。瞳夜はそれを聞きながら机の上を拭いていった。机が終わったら今度は教卓。サッと拭いてリミとセイを見れば、先に隣に行っておいて、と言われた。時計を見れば十分ほど経っていた。
廊下に出れば、掴まり立ちをしているももと目があった。困ったような顔をしていたので駆け寄れば、杖が倒れていた。瞳夜はそれを拾ってももに手渡す。
「ありがとう」
「押して良かったんだよ?」
「うん。でも、ついさっき落としちゃって。押そうと思ったら瞳夜くんが出てきたから……」
ーーちょうど良いなって思ったの。
へにゃっとももは笑う。そんな風に笑ってほしくないのに、と瞳夜は思った。
「もう終わりそう?」
「うん、ここはもう終わり」
「じゃあ、休もう。おいで、次の教室に行こう」
ももはうなずいた。瞳夜が戸をおさえているうちに中に入ってもらうと、一番前の席の椅子を出してももに座るよう言った。
「私もなにかやるよ」
「大丈夫。ももちゃんは休んでいて」
「でも……」
うろっとした視線に言ってしまって良いのだろうか、と瞳夜は思う。
ついさっき、ももは嘘をついていた。杖が倒れたのは瞳夜が来る少し前だと言っていたが、本当は六分ぐらい、あの状態だったに違いない。掴まっていた手が白く、脚も震えていた。小さな震えだったが、それだけでももにとって長時間、苦しい姿勢でいたことが分かってしまった。
「……じゃあ、黒板のさ、チョーク置くとこ拭いてよ」
結局、折れたのは瞳夜だった。ももはその言葉に大きくうなずいた。ゆっくり立ち上がると瞳夜から雑巾を受け取ってそこに向かう。
「ね、もも、何かあった〜?」
いつの間にか後ろにいたリミにそう聞かれ、瞳夜は困った顔をした。リミは何かあったんだ、と思うとモップを瞳夜に押し付けた。
「黒板のとこ終わったら外のベンチの掃除してくるね〜」
「外ってベランダの?」
「そう。必要でしょ〜。中は二人に任せるよ」
「分かった」
リミはももがチョークを置くところを掃除し終えるとベランダの掃除をしよう、と明るく声をかけてベランダに連れ出した。
「ほら、さっさと手を動かす!」
「ん?……あぁ」
瞳夜はセイに声をかけられて慌ててモップを動かす。セイは苦笑いを浮かべた。セイには瞳夜がももを見ていたことがバレているようだ。
「なぁ、瞳夜。ずっとナイトみたいにしているけどさ」
ーーもう少しさぁ、なんとかなんないの?
言われてみればそうだ。二人の交友関係はかなり狭い。高校生になったならば、それなりに広い交友関係を築く者も多い中、二人は片手で数えられるほどの友だちしかいない。部活は入らなかったし、委員会も入っていない。教室の出入り口付近の席を与えられ、いつも二人で一緒にいて、世界はそこで完結している。
入り込む隙のない完璧な世界。はじめは図々しい奴が入ろうとしていたが、二人はそれを許さなかった。互いが互いにとっての傷であり、痛みであり、そして大切な存在。どんなに図々しくてもそれに気付かない奴はいなかった。
手を取り合っている二人を見て、今度は恋人じゃないか、と噂が立った。二人は否定しなかった。けれど恋人のような甘い関係であればどれだけ良かったか。何度も瞳夜は考えた。
「……僕、さ」
ーーきっと好きなんだと思う。
そう言えばセイは目を丸くした後、大きくうなずいた。
「そっかそっか。じゃあ、伝えとけ」
ーー虹が出る前に。
外ではポツポツと雨が降り始めていた。それはあっという間に大雨になった。天気予報は外れたみたいだ。瞳夜にとってはありがたい。
いつの間にか教室にはベランダから避難してきたリミとももがいた。降り始めに気付かずに濡れたらしい。ももの制服の肩のあたりがしとどに濡れて透けている。
「ごめん、タオル取ってきてもらって良い〜?」
リミはセイを見てそう言った。セイはうなずくと駆け出した。瞳夜はセーターを脱ぐとももの肩にかけた。
「僕ので悪いけど着てて」
「うん……」
リミはセーターを着ていたから濡れて透けていないが、ももはセーターを着ていなかった。肩だけ濡れていたももに比べ、リミはびっしょり濡れていたので着替えも必要だろう。
ももはリミに支えてもらってのそのそと瞳夜のセーターを着た。だいぶブカブカではあるが、透けているよりはマシだろう。
セーターを貸したは良いが今度は自分の臭いや大きさにももが嫌な気持ちになっていないかが不安になった。しかしそれもあとの祭り。瞳夜は諦めて気にしないことにした。
「ありがとう、リミちゃん」
ーーふたりとも座っていて。暖房つけてくるね。
リミにももを任せて教室の前方に向かう。普段は暖房なんて勝手につけられないが、今日くらいはおおめに見てもらおう。雨に降られて風邪をひくとか洒落にならない。
ピッと音がして暖房がつく。ぶわっと温風が出てきた。少し待てば教室が暖かくなってきた。
「お待たせ。ジャージも持ってきたけど、いらんかった?」
セイがやって来たのはそれから五分後のことだった。曰く、タオルはすぐ見付かったがジャージを探すのに手間取ったらしい。
「リミ、濡れてただろ?」
ーー着替えも必要だろう?
セイはそう言ってリミにジャージを差し出す。大きさからしてセイのものだろう。リミのロッカーは開けられなかったらしい。けれどタオル自体はリミのものだった。
「ありがとう〜」
「じゃあ、僕たちは端にいるね。着替えは見ないから!」
「あ、じゃあ、ももを拭いておいてよ〜」
「リ、リミ!大丈夫だ……、くしゅんっ」
小さくくしゃみをしたももに呆れたため息をついたリミはひったくるようにセイのジャージを受け取ると瞳夜にタオルを投げた。
「セイ〜、運んで。そおっとよ、そおっと」
リミの言葉で三人は察した。セイにももを運ばせようとしているのだ。椅子に座っているももはぎゅうっと杖を抱きしめた。
「ももちゃん、ごめんな」
「大丈夫……」
そっとももを持ち上げたセイはゆっくり廊下側の席の椅子にももをおろした。その間、ももは抵抗しなかった。それに、どこか顔も赤かった。
ズキリと瞳夜は胸が痛くなった。
「瞳夜くん?」
綺麗な栗色の毛先から水が滴っている。瞳夜はそっとタオルをあてる。わしゃわしゃとやると傷んでしまうと聞いたことがある。そっとタオルを押し当てるようにして水分を吸わせる。
すっかり雨を吸い取ったタオルを離せば、ふわりと漂った香りに瞳夜はももの髪をすくい上げた。そっとそこに口付ける。
ぴしりとセイとももが固まる。瞳夜は不思議そうな顔をした。
「お待たせ〜。やっぱでかいね〜」
「リ、リミ……」
リミは不思議そうな顔をしていた。セイはももの肩をぽんと叩いた。それが瞳夜の知らない二人の信頼関係のように見えて少し寂しくなった。
「ここの掃除、終わった〜?」
「あとは机拭いて終わり」
「そっか〜。じゃあ、アタシとももは次のとこ行くね」
ももはリミに連れられて次の教室に行ってしまった。瞳夜は雑巾を片手にどんどん机を拭いていく。それは無駄のない動きだった。
「……なぁ、怒ってる?」
「何に対して?」
「やっぱ怒ってんじゃん……」
セイはそう言うと少し強引に瞳夜の視界に入ってきた。
「あのさ、ももちゃんとは友だちだから」
「知ってるけれど?」
「ももちゃん、抱っこしたことは?」
「あるけど嫌がられた」
「恥ずかしいって?」
「そう」
まるで見てきたみたいに言われて瞳夜はちょっとシャクだった。だって、自分が一番もものことを知っていると思っていたから。
「……瞳夜って鈍いんだな」
「そうかなあ……」
「絶対そうだよ」
セイに絶対、なんて言われると反論できない。ぐっと距離をつめたセイは瞳夜の額にデコピンをした。いてっと小さく悲鳴を上げて瞳夜は額をおさえた。
「俺は瞳夜ほどももちゃんのことを知らないよ」
ーー嫉妬すんなって。
嫉妬。そう言われて瞳夜はたしかにうなずけるものがあると思った。高校からの付き合いであるセイやリミよりも瞳夜の方がももとの付き合いは長いはずだ。知っている、と言い張りたい。けれど。
「セイは僕の知らないももちゃんを知っているじゃん……」
あくまで瞳夜が知るのは虹を見て目覚めてからのももであって、中学生のももを知っているわけではない。事故に遭う前のももを知っているわけではない。
アルバムに貼られた写真から、仲が良かったらしいことは分かっても、どんな会話をして、どんな冗談を言って、どんな思い出を積み重ねてきたのか。今の瞳夜には分からなかった。
「あーーっ、もう。めんどくせえっ」
ドンッとセイは瞳夜の背を押す。瞳夜はそのまま数歩前によろけながら出て、不安げにセイを振り返る。
「いいから伝えてこい」
ーー今すぐだ!
どこかイライラしたセイのその気迫におされて瞳夜はコクコクとうなずいて駆け出した。廊下に出て少し行けばロッカーの上を掃除しているももがいた。
「あっ、瞳夜くん。終わったの?」
そう言って少し笑う。文句なしにかわいいけれど、アルバムで見たような満面の笑みを瞳夜は今まで一度も見たことがなかった。
ねぇ、やっぱり僕は『僕』になれないの?
「ももちゃん」
ーーあのね。
パチリと目を開けた彼は、身体を起こしてぐるりと周囲を見るより先に大きなエメラルドの目に涙を滲ませた。知らない場所、知らない匂い、自分の記憶より高い目線、大きくなった掌。そしてなによりも胸がとてもザワザワする。
「どこ……、ここ……」
声を出せば震えていた。しかも自分の声だと信じられないほど低い。聞き馴染みのある自分の声はもっと高かったはずなのに。
どうしてこうなったのか思い出そうとしても激しい頭痛がするだけで何も思い出せない。それが怖くて転げ落ちるようにベッドを降りた。けれど、立とうにも上手く立てない。
「立ってっ……!ねぇ、立ってってばっ……!」
ぎゅっと握りこぶしを作って立とうとする。けれど、恐怖が絡みついて身動きが取れない。
早く、早く行かなきゃ。でも行くってどこに?こんな知らない場所からどこに行くって言うの。
そのとき、カーテンが引かれた。パッと顔を上げて一番はじめに見たのは、栗色の髪の少女だった。
「瞳夜くん」
ハッとする。記憶の中の少女よりも大人びて綺麗になったけれどーー。
「ももちゃん……?」
少女はうなずいた。それから杖をそっとベッドに立てかけてしゃがんで目線を合わせてくれる。
「瞳夜くん、驚かないでね」
ももはそう言って瞳夜の現状を教えてくれた。
小玉瞳夜、十六歳。美里高校の一年生。中学生のときに事故に遭ってから虹を見ると記憶が中学校入学前までリセットされてしまう。
「虹を……?」
不安なのか手が震える。ももはそれを両手で包み込んで優しく笑いかけた。
「大丈夫。私がそばにいるから」
それから瞳夜が落ち着くまで抱きしめて背を擦ってくれた。ふわりと瞳夜の記憶にあるシャンプーかリンスの匂いがした。
高校生になってもシャンプーかリンスかを変えていないのか。それがまるで瞳夜のためのようで少しだけ嬉しい。
落ち着いた瞳夜を見てゆっくり杖を掴んで立ち上がったももは、ベッドのそばの机の上に置かれたカバンから分厚い二冊の本のようなそれを瞳夜に手渡した。
「これは?」
「アルバムと日記だよ」
瞳夜はそっとそれの中身を見る。
アルバムはその通りに写真と日付と一緒に一言添えられていた。
『体育祭準優勝』、『修学旅行 平等院鳳凰堂より』、『初の潮干狩り』など……。事故に遭う前と後では写真の雰囲気が違うが、その大半にももが写っていた。よほど仲が良かったらしい。
そして日記の一番はじめのページには自分の名前、家族の名前、それからももの名前が書かれていた。
「虹を見ると記憶が消えるらしい……」
事故の後遺症で、と書かれていた。ふとももを見れば、瞳夜の記憶にない杖が目についた。ペラリとページをめくった先に、瞳夜は衝撃の事実を見つける。
ーーももちゃんは僕と一緒に事故に遭い、足が不自由になったらしい。杖がないと歩けない。僕は彼女の荷物持ちを買って出た。
「瞳夜くん?」
「ねぇ、ももちゃん……」
瞳夜は日記を見せる。そのページを見たももは少し驚いていた。けれどいつも聞かれることなのか、驚きは小さかった。
「これ、ほんとう……?」
嘘だって言ってほしかった。けれど、ももは小さくうなずいた。どうやら嘘じゃないらしい。
「どうして……」
「瞳夜くんが庇ってくれたの。だから私は足だけ。でも、瞳夜くんはーー」
ーー頭をうったの。そのせいで記憶がリセットされちゃうようになって。
言いながらももは泣きそうな顔をした。たぶん、事故当時のことを思い出しているんだろう。今の瞳夜に記憶はないが、ひどい事故だったんだろう。入院は避けられなかったはずだ。
「ももちゃん……」
ーーあのね、これだけは覚えていて。僕はももちゃんを庇ったこと、後悔してないし、なんだったらちゃんと庇えなくて悔しい。
ももはハッとした。顔を上げた。柔らかな琥珀は、潤んでいるせいか輝きを放っていた。
「だからさーー。ももちゃんのせいじゃないよ」
それは残酷な言葉だと思う。でも、ちゃんと伝えておかないといけないと思った。
そうしたらももは少し笑った。でも目は潤んでいて、苦しそうでもあった。
「瞳夜くんは、変わらないね」
そっと手を伸ばしてももの涙を拭う。ももはそれを受け入れた。
すんすんとももが鼻をすする。今度は瞳夜がももの背を擦った。やがて、落ち着いたのかももが顔を上げた。目の周りは真っ赤だったけれど、それすらもかわいらしいウサギみたいだった。
「そろそろ帰ろうか」
「帰る?」
「うん。今日の授業は終わっているの」
「そうなの?」
「うん」
時計を見て少し戸惑ったような顔をした瞳夜に対して高校の卒業式が近いんだよ、と教えてくれた。
「じゃあ、準備してくるね」
「準備?」
「カバンを持ってくるの」
「どこに行くの?」
「教室」
「一緒に行く」
ももはうなずいた。瞳夜はカバンに日記とアルバムを入れると立ち上がった。今度はちゃんと立てた。
保健室を出てももはエレベーターに乗り込んだ。瞳夜もそのあとに続く。エレベーターは二人を運んだ。ポーンと音がして目的の階に着くと扉を開けて二人を吐き出した。
コツコツ、コツン。瞳夜の少し前を歩くももを見ながら、瞳夜はよたよたと歩いていく。小学生の頃は身長が低く、もものつむじを見ることはあまりなかった。しかし、今はももよりも身長が高い。重心の位置も違うのか、歩くだけでもちょっと大変だ。
「ここが私たちのクラスだよ」
中には誰もいなかった。ももは廊下側の後ろから二番目の席に座った。振り返って、その一つ後ろの席をトントンと叩いた。
「そこが瞳夜くんの席」
「僕の?」
「そう」
ももはそう言ってカバンを机の上に、肩かけのそれをかけて立ち上がった。肩にかけられたそれは、瞳夜の記憶にあるものだった。かわいらしいそれは制服と合わせて見るとどこか浮いていたが、ももだと証明するには一役も二役も買っていた。たぶん、瞳夜の記憶にある物を持つことで、記憶がリセットされた瞳夜が安心できるようにしているらしい。
「さ、帰ろう」
ももは瞳夜にカバンを手渡す。瞳夜はうなずいた。
来たときと同じようにエレベーターに乗って学校を出た。小学生の記憶しかない瞳夜には、これほど大きな学校に通っていることが信じられなかった。
学校から出てバス停に立つ。正面に見える学校は、瞳夜の想像よりも大きければ、古すぎることもなかった。
やって来たバスに乗り込むと、かなり混雑していた。しかし、スーツを着た男性がももを見ると席を譲ってくれた。肩からかけたそれにキーホルダーがついていた。瞳夜の記憶にはなかったが、たぶん、それがきっかけだろう。
「気をつけて」
スーツを着た男性はそう言ってももの近くに瞳夜も立てるようにしてくれた。他の人のそばにいるのはまだまだ厳しい瞳夜としては有り難かった。
その男性は病院で降りていった。
「あの人、瞳夜くんの主治医だよ」
「主治医?」
「瞳夜くんのことを診てくれるお医者さん。瞳夜くんの記憶がリセットされたことを察したみたい」
主治医、ということは何回も会っているのだろう。けれど瞳夜の記憶にはあの男性の姿はなかった。ももにカバンを預けて日記を出してもらって見れば、主治医の名前が書いてあった。本田良哉。
「本田先生……」
「友だちのような関係になりたいから良哉さんって呼んでねって」
よく見ればその下にそう書かれていた。
「平気?良哉さんって呼んでも大丈夫なの?」
「そう」
ももはそう言って瞳夜に日記をしまうように言った。瞳夜は空っぽのカバンの中に日記をしまった。
「どこで降りるの?」
「桜町五丁目」
それは、ももの家の近くのバス停だった。瞳夜の最寄りは緑町一丁目だが、ももを送り届ける使命がある。だからそこで降りるのだ。
「じゃあまだ先だね」
「そうだね」
病院を過ぎれば少しは席に空きが出始めた。けれど瞳夜は座らなかった。だってももと物理的に離れてしまうから。
「そうだ、明日、瞳夜くんの家に遊びに行きたいな。大丈夫?」
「学校は?」
「平気だよ。明日は休みなの」
「休み?」
「虹休学なんだ」
瞳夜は不思議そうな顔をした。初めて聞く言葉だった。
「明日から虹が出る予報なの。だから私と瞳夜くんはお休み」
「学校は許してくれるの?」
「もちろん」
ーーだから明日から三日ぐらいはお休みなの。せっかくだし、お泊りしても良い?
「……お母さんに聞いてみないと」
「じゃあ分かったら電話して」
ーーそれから明日は迎えはいらないからね!
瞳夜はうなずくことしかできなかった。
「次は桜町五丁目、桜町五丁目です」
ポーン。
「次、停まります。お降りのお客様はバスが止まってから席をお立ちください」
アナウンスを聞きながら瞳夜は窓の外を見る。瞳夜の記憶にある景色とそれほど変わっていなかった。
「……雨だ」
パラパラと降る雨を見ていたらいつの間にかバスが停まっていた。瞳夜は慌ててバスを降りた。ゆっくりとももが降りるとバスは発車した。
「傘、ささないの?」
「へ?あ、傘……」
保健室でももに渡された傘をさす。青色のシンプルな傘だった。ももは傘をささなかった。たぶん、杖をついて傘をさすのは大変なんだと思う。
「はいる?」
少し傘を傾けてももの頭上をおおう。
「うん、ありがとう」
そのまま歩き出した。もものペースに合わせて歩いて、ももの家に着いた。
「また明日ね」
「うん、また明日」
手を振って道を見る。この辺りは瞳夜の記憶と相違ない。迷うことはなさそうだ。
そのままキョロキョロと周囲を見ながら歩いていたら、あっという間に家に着いていた。目線よりも低い位置のチャイムを押して少し待つ。玄関が開いた。
「お帰りなさい、瞳夜」
母親は瞳夜の記憶より少し老けていた。けれど、瞳夜の記憶とほとんど相違ない。柔らかな栗色の髪は、変わらず艷やかで美しい。
「おいで」
「……うん」
傘をとじて家へ入る。少しぎこちない動きに母親は少し笑った。目尻にシワが寄るのは変わらない。
「ももちゃんが遊びに来るんだって?」
「あ……、うん」
「大丈夫よ。ももちゃんにそう連絡してあげて」
「うん」
電話を取ろうとしたが、母親にポケットの中の機械でやりなさい、と言われた。ポケットの中には板があった。これが機械だとは気付かなかった。
「そこを押して、ここを押すの」
教わりながらなんとかその機械でももに連絡をした。母親はその機械をスマートフォンだと教えてくれた。
瞳夜が小学生の頃にもたしかにあったけれど、瞳夜は実物を見たことがなかった。
「もう高校生だしね。スマートフォンを持っていないと不便なのよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
瞳夜はふうん、と言った。まだよく分からない。けれどこれはそういうものだから受け入れるしかないだろう。
「そうだ、明日はテレビは見ないでね」
「どうして?」
「虹を中継するから」
「そう……」
「でもひとつだけ見れるのよ」
ーー海南テレビってところよ。
瞳夜はうなずいた。海南テレビというのはテレビのチャンネルで言うと九になる。
「今回も、虹を映さないって連絡が来ていたから」
「なんでそんな連絡が?」
「……ふふっ、日記を読んでごらんなさい」
母親はそう言って台所に向かった。瞳夜は椅子に座って日記をひらいた。様々なことが綴られていた。テストで満点をとった、球技大会で優勝した、アイスが当たった……。そんな中、異質なものがあった。
ーー虹がかかり続けている。
そういう書き出しで始まったページはずいぶんと長かった。
そこには当時の瞳夜の苦痛が綴られていた。外に出たくても出られない。学校にも行けない。テレビでも虹をずっと映している。瞳夜にとっては家に軟禁状態だった。
しかし、ひとつだけ見られるものができた。それは虹がかかり始めて二週間後のことだった。
とあるテレビ局が虹を映さなくなった。瞳夜は喜んでそれを見続けた。どれだけ見ても虹が出ない。嬉しくて嬉しくて、ずっと見続けていた。
それから二週間ぐらいして虹が消えて、瞳夜は母親と共にテレビ局に行ったらしい。そしてテレビ局の館川和という人と会った。彼は制作の偉い人らしい。
彼は瞳夜と母親を会議室に通した。そして今後一切、虹を映さないと言ってくれた。瞳夜が驚く中、母親は事情を説明してくれた。
曰く、虹が出ている間、瞳夜は家から出られず、虹の映るテレビすら見られなかった。それゆえ瞳夜は部屋にこもってひたすら勉強していたらしい。けれど、だんだん瞳夜はやつれていった。
そしてついに倒れてしまった。本田に家に来てもらって診てもらえば、過労だと言われた。それで、瞳夜に話を聞けば、受験生もびっくりの十時間も勉強していたと言った。
そんなことがあってから母親はなんとかテレビだけでも見られるように、と思ってテレビ局に訴えた。息子は虹を見ると記憶がリセットされてしまうから虹を映さないでほしい、と。
全てのテレビ局に訴えた。しかし、母親の言葉をまともに取り合ってくれるところはなかった。そんな中、唯一まともに取り合ってくれたのが海南テレビだった。
海南テレビはどんな人でも見られる番組を、と掲げていた。そして館川はそれをしっかりと守ろうとした。
まず、母親から詳しい事情を電話で聞き、虹を映さないようスタッフ会議で言った。もちろん、大反対された。
あの虹を映さずして何を映す?こんな大きなニュースで他との差別化をする必要があるのか。
それでも館川は言った、虹を映さない、と。そして瞳夜の話をした。虹を見ることのできない青年のことを。
たった一人のためかもしれない。けれど、会社が掲げるどんな人でも見られる番組を作るならば、一人でも虹が見られないならば虹を映さない。館川の決意はかたかった。
虹を映さないと決め、実行してから二週間ぐらい経って虹は消えた。それでも館川は虹を映さないと言った。全ては虹を見られない瞳夜のために。
それが会社の決定になった。館川は正式に決まったことを瞳夜たちに伝えることにしたらしい。その日、瞳夜が母親と共にテレビ局に行った理由はそれだった。
日記には、当時の瞳夜の驚きが素直な言葉で書かれていた。
「お母さん……」
台所に行けば母親は少し笑った。
「館川さんから。虹が出る予報はいち早く伝えるって」
「……うん」
母親は瞳夜を抱きしめる。
「館川さんは瞳夜の記憶がリセットされても気にしないの」
ーー忘れたことを気にすることないからね。
瞳夜はうなずいた。瞳夜の日記にいる館川は怖い人じゃない。けれど瞳夜だったら忘れられるなんて辛い。だから気にしてしまう。
「ほら、お風呂入っておいで」
瞳夜は母親に背を押されて自室に行くと着替えを持っておりてきた。湯船に浸かって瞳夜は考える。
もう、日記を見なくてもよくなりたい。アルバムを見ないといけないのも嫌だ。
虹を見なければいいだけ。けれどそれがとても難しいことを瞳夜は知ってしまった。
近年、天気は晴れながら雨が降るーーいわゆる天気雨ーーが増えてきていた。瞳夜の日記にあった一ヶ月も虹がかかり続けることはあれからおこっていないようだ。けれど、一週間だったり三日だったり、短期間だが虹がかかり続けることはあるらしい。その間、瞳夜は外に出られない。
「なんで虹なんだろう……」
ぱしゃ、とお湯を肩にかけ、瞳夜は目を閉じる。全てのきっかけが事故というならば、それを知っておかないといけない。
瞳夜は湯船から出て服を着ると日記をひらいた。過去にリセットされた自分も知ろうとしただろう。それならば記録があると思った。
パラパラとページをめくっていく。そして、ついに見付けた。
トラックが突っ込み、中学生二人が巻き込まれ、女子中学生は足を、男子中学生は頭をうち、病院に搬送。命に別状なし。
小さな新聞記事だった。それが全てだった。
写真には前がへこんだトラックとたくさんの人と、ずっと遠くに微かに見える大きな虹。天気雨だった。
それを見た瞬間、瞳夜はなぜ虹なのか分かったような気がした。事故に遭った瞳夜が最後に見たのが、この大きな虹だったのだ。
結局、虹は二週間ほどかかっていた。その間に学校は春休みを迎えた。しかし、瞳夜とももは学校に行けなかったこともあり、ロッカーの片付けをしていなかったため、虹の消えた翌日、学校に向かった。
バスに揺られて着いた学校は生徒がいなくてガランとして静かだった。エレベーターに乗り込んで目的の階を押すとエレベーターはゆっくりと上昇した。
「どれくらいある?」
「……少ないよ」
ももはそう言って瞳夜を見た。目が瞳夜くんは?とたずねていた。
「分からないや」
この前はロッカーの中身を見ることなく帰ってしまった。家にある教科書を母親と確認したが、いくつかなかったのでそれだけだと思いたい。そんなことを言えば、ももは少し考え込んだ。
「上履きがあるかなあ」
エレベーターをおりて教室に向かいながらももはそう言った。たぶん、瞳夜の持ち帰るものだろう。
「このリュックじゃ足りなかったかな?」
「大丈夫だよ」
不安げな瞳夜に対してももはそう言うとロッカーを指した。二つだけ鍵がかかっていた。
「番号は誕生日だよ」
ももに言われた通り、誕生日に数字を合わせる。カチリと音がして鍵があいた。中にはいくつかの教科書と上履きが入っていた。
「どうだった?」
上のロッカーのももはそう言って瞳夜を見た。瞳夜は予想通り、と返した。ももはくすくすと笑った。それなら良かった、と口にした。
リュックに詰め終えた瞳夜はももから上履きの入った袋をもらって立ち上がった。これで今日の用事は終わりだ。
「帰ろっか」
コツンコツン、と杖をつく音がする。ゆらゆらと揺れる髪に見覚えがあるような気がして手を伸ばしかけてーー。それからやめた。かわりにももを追いかけて隣に並んだ。
エレベーターに乗って下へおりる。バス停に向かいながらももを見れば、どこか悲しそうな顔をしていた。瞳夜が聞けずにいるとバスはもうすぐ来そうだった。
バスに乗り込み、人が少ないがゆえに二人で並んで座った。流れる景色を眺めながら、瞳夜はついさっきのももの表情について考えていた。
やがて、バスは降りるバス停に着いた。結論は出なかった。
ももの家に向かいながら瞳夜はももの表情をうかがう。前をしっかり見ているが、その目は潤んで泣いているようにも見えた。
ズキリと胸が痛い。どうして泣きそうなの?僕のせい?それともなにか辛いことがあった?
結局聞くことはできず、瞳夜はももの上履きの入った袋を玄関に置いて家に向かった。ぐるぐると考えていたら、家を通り過ぎて公園に来ていた。
「ここ……」
公園は中学校からの帰り道にあった。一部だけ新しくなっているフェンスと電柱に、事故現場はここか、と思う。新聞の写真の背景もここで間違いなかった。
ベンチに座って景色を眺める。家まであと少し、という距離にある公園。子どものはしゃぐ声が聞こえる。平和な景色だ。瞳夜たちもその景色に溶け込んでいたはずだった。それがあの事故で崩された。
言葉が出ない。たぶん事故以来、ここに来ていないだろう。だからかもしれない。
「ねぇ、お兄ちゃん」
顔を上げれば女の子が立っていた。
「泣きそうな顔しているね。キャンディ食べる?」
女の子が差し出した手にはイチゴミルクキャンディが乗っていた。瞳夜が受け取れずにいると、女の子は笑った。
「キャンディ食べると笑顔になれるんだよ」
ーー笑ってた方がお兄ちゃんは良いと思う。
女の子は瞳夜の手にキャンディを乗せると駆けて行った。あっという間に姿が見えなくなる。
「……良いのに」
イチゴミルクキャンディを口に運ぶ。舌の上で溶け出した甘さに瞳夜はももを思い出す。甘いものが好きだったはずだ。
「ももちゃんにあげたかったな……」
コロンと口の中で転がした。ふっと空を見上げてその薄い青に瞳夜は目を細めた。どこまでも澄んだ空は綺麗だった。
どれくらいそうしていただろう。スマートフォンの鳴る音に驚いて瞳夜は飛び上がった。ポケットからスマートフォンを出して画面をタップする。
「瞳夜くん?今どこ?」
ももだった。瞳夜は公園、と返した。ももの驚く声が聞こえる。
「まだ外にいるの?」
「うん」
「どうしたの?」
「ーー考え事してた」
「なにを?」
「……ももちゃんのこと」
「私のこと?」
ももが不思議そうな声を出す。それもそうか、と瞳夜は思う。
小学生の瞳夜はももの存在を知ってはいたが、あまり関わりはなかった。たぶんだけど中学生からちゃんとした関わりがあったのだろう。
「うん。どうして悲しそうなのかなって」
電話の向こうでももが息を飲む音がした。
「……悲しそうに見えた?」
「うん」
ももが長く息を吐いた。瞳夜は肩を震わせた。気に障ることを言ってしまったかもしれない。
「ねぇ、瞳夜くん。瞳夜くんはさ、恋人ができたら旅行とかに行って思い出を作りたいって思う?」
ももから放たれた言葉は瞳夜を貫いた。
「どうして?」
「少し前に告白されたの。何度も私に恋しているって言われて。私、この足でしょう?旅行とか難しいの」
ーー男の人は恋人になったら思い出を作りたいって思うのかなって。
「……僕は、思い出を作りたいよ。でも、僕はそれが難しい。記憶がリセットされちゃうから」
ーーそれでも、写真とかに撮っておいてさ。何度でも記憶に残したいんだ。
それきり二人は沈黙した。何も言わなかった。瞳夜はまずい、と思う。これはあくまで瞳夜の答えだ。全ての男が瞳夜と同じように記憶をリセットされるわけではないため、他の人はどう感じているか分からない。
「あ、あくまで僕の場合だから!」
「……ありがとう。私、ちゃんと考えてみる」
ーーちゃんと帰ってね。瞳夜くんママが心配してたよ。
瞳夜は立ち上がる。足は自然と家に向かっていた。家のチャイムを押して少し待てば、母親が顔を出した。すぐさま瞳夜に駆け寄って抱きしめた。その身体は少し震えていた。
「……ごめんなさい」
自然とその言葉が瞳夜の口をついて出た。
「良いの、良いのよ」
母親は瞳夜をはなすと家に入るよう言った。瞳夜が恐る恐る入ると母親はくすっと笑った。
「怒ってないわよ」
瞳夜は首をすくめた。
「次は気をつければ良いのよ」
「うん……」
「さ、おやつにしましょう」
ーー今日はドーナツにしたのよ。
瞳夜は手を洗って部屋で着替えてくるとリビングに向かった。リビングでは母親がドーナツを皿に乗せていた。
「お茶にする?」
「いや、オレンジジュースにする」
そう言えば甘いの好きねぇ、なんて言われた。そうかなあ、と瞳夜は口にする。それからゆっくりとオレンジジュースを注いでドーナツを運んで、椅子に座った。
「いただきます」
手を合わせてドーナツを食べる。からっとあがったドーナツはとても美味しい。瞳夜は顔をほころばせた。
それを見ながら母親はドーナツを食べた。のんびりと過ごす午後はなかなか訪れなかった。今日ぐらいはのんびりと過ごしたって罰は当たらないはずだ。
「あっ、そうだ。明日、定期健診なんだけど、付き添い、行けなくなっちゃって……。大丈夫?」
「病院でしょ?大丈夫だよ」
「ええ。平気?」
「ん、平気だよ」
カレンダーの明日の日にちには二重丸がつけられていた。
「じゃあ、勉強してる」
ドーナツを食べ終えた瞳夜はそう言って今度はお茶と共に部屋に戻った。教科書をひらいてノートと問題集とにらめっこする。
記憶がないため、勉強についていくためには予習どころか中学時代まで復習しないといけない。中学時代はこの前、ももが遊びに来ている間にあらかたやったため、今日は今年一年の復習をする予定だった。
教科書には付箋が貼られ、アドバイスが書かれている。どれも瞳夜の字だった。
「へぇ……」
教科書でやり方を確認してから問題を解いていく。解答をとって丸付けをすれば半分ぐらい不正解だった。模範解答と見比べて計算ミスがあることに気付くと付箋で計算ミスを示した。過去にも同じ問題で同じミスをしているらしく、苦手問題だった。
そうやって問題を解き続けて二時間半。部屋が暗いことに気付いた瞳夜は顔を上げた。もうすぐ日が暮れる。身体を上に伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
電気をつけてからカーテンを閉めた。紺色の布に大きな黄色の星が点在している。小学生の瞳夜が気に入っていたカーテンだ。
「あと少しやったら」
そうしたらお風呂に入ろう。それで、病院に行く準備をしなくちゃ。初めてひとりでバスに乗る。ドキドキとワクワクが胸を満たしていた。
翌日。バスに乗って病院で降りた瞳夜は広くて綺麗な景色に目を瞬かせた。どこもかしこも掃除が行き届いていて綺麗。珍しくてキョロキョロしながら歩いていたら看護師に声をかけられた。名前を呼ばれたときは驚いて飛び上がったが、看護師はすぐに説明してくれた。
この病院で瞳夜は有名らしく、キョロキョロとしていたら声をかけて案内するように言われていたらしい。受付を済ませて座っていれば、受付時に渡された整理番号を呼ばれた。
その指示に従って診察室に入れば、バスで見た男性がいた。本田だ。
「良、哉さん」
たどたどしい呼び方になってしまった。本田は小さく笑った。座って、と椅子を示す。瞳夜は恐る恐る座った。
「よく来てくれたね。道に迷ったりしなかった?」
「へ、へーき、です」
実際は道にも迷ったし、看護師に助けてもらったのだが、あまり大きな声では言えない。本田は瞳夜の様子で分かったのか、それ以上、その話をしなかった。
そのかわりに雑談として近所の猫がかわいかった話やたんぽぽの綿毛を吹き飛ばした話を本田はした。瞳夜はおやつに食べたドーナツの話やテレビで見たドラマの話をした。軽く二十分ほど話した後、本田は言った。
「それじゃあ、健診を始めるよ」
瞳夜は本田と共に様々な場所に行った。初めて会う人ばかりのところに行くのに、ひとりになんかできないということで本田もついてきてくれたのだ。
血圧、血液検査、脳波、MRIなどを回って再び診察室に戻ってきたときには瞳夜はへとへとだった。
「お疲れ様」
「……うん」
疲れただろうから、と言って本田は瞳夜にジュースを買ってくれた。おごられるのは、と思ったが、まだ子どもなんだから甘えなさい、なんて言われれば逆らえなかった。
ベッドに座って壁に寄りかかる。本田は瞳夜の頭を撫でた。
「……うん、どれも異常なしだね」
「健康なの?」
「ふふ、そうだよ」
瞳夜はホッと息を吐いた。とりあえずは大丈夫だと言われた気分だった。
「それじゃあ今度の定期健診は三ヶ月後ぐらいかな……。梅雨の時期になれば少しは動きやすいと思うし」
「梅雨の時期に虹はかからないの?」
「うん、ほとんど晴れることがないからね」
それもそうか、と瞳夜は思う。天気雨でないと虹はかからない。
「……あのさ、瞳夜くん。こんなことを言うのは負担になっちゃうかもしれないけれどさ」
「え?いいよ、言って」
本田は少し躊躇いながら瞳夜に言った。このまま虹がかかる期間が伸びたら、瞳夜は外に出ることもできずに死んでしまう。本田はそう言ってうつむいた。
瞳夜はあぁ、そうなのか、とどこか納得していた。今も体育などではすぐに体力が切れて一時間の運動すらできない。体育の後半なんかは見学していることが常だった。
「家の中でも動けたり、疑似太陽の光を浴びたりとかすれば、少しは解消されるんだけど」
瞳夜は頭を左右にふった。そんな高いものを親にはねだれない。ほんの少ししか伸びないと思われる寿命と引き換えにはできない。
「良哉さん」
ーー僕はあと、どれくらい生きられますか?
本田は瞳夜の顔を見たのち、うなだれた。それが十年すら生きられないと言っているようだった。
「現在の、虹のかかる期間で計算して十五年。虹が合計して半年ほどかかれば十年すら……」
三十五歳にはなれない計算だった。瞳夜はふっと笑った。瞳夜には死の恐怖はなかった。
「でもね、瞳夜くん。一つだけ……、一つだけ方法があるかもしれないんだ」
本田はそう言って一枚の紙を瞳夜に差し出した。そこには住所が書いてあった。瞳夜が首をかしげれば本田は言った、地下シェルターだよ、と。
地下シェルターには疑似太陽もある。寝ているうちに雨が降り、虹は見ることもない。そこでは畑仕事だったり裁縫だったりをしたり、共に住む者たちと食卓を囲める。けれど。
「そこに行く条件として、地上のことを忘れて、地上の人と関わらないっていうのがあるんだ」
瞳夜はハッと息を飲んだ。瞳夜は母親が好きだ。セイもリミも好きだ。他にも好きなものがたくさんある。瞳夜は地上を捨てることはできない。
でも、そこに行けば瞳夜の記憶はもう途切れることはない。虹を見ることもないだろう。普通に生きられる。もしかしたら、早逝することもないかもしれない。それは、きっと魅力的だ。
「……瞳夜くんがどうしたいかは分からないけれど。でもね、おれは瞳夜くんの選択を否定しない。瞳夜くんが長生きをしたいと願うならば、君の背を押すよ」
瞳夜はしばしその紙を見ていたが、ゴミ箱の上でそれをビリビリに破いた。躊躇なく文字すら読めないように。それはヒラヒラと花びらのようになってゴミ箱の中に落ちていく。
「良哉さん……。僕はね」
ーーお母さんも良哉さんもセイもリミも、ももちゃんもいない世界でなんて生きれないんだよ。
そう言ってにっこり笑った瞳夜の目元には涙が滲んでいた。本田は思う。なんて酷なことを聞いてしまったんだろう、と。少なくとも、少し前にバスで見かけたときには記憶がリセットされていた。
それから一ヶ月も経っていない。いくら見た目は高校生でも精神や記憶は中学生ぐらいにしかなっていない子どもに、こんなことは聞くべきではなかった。けれど、それでも、本田は聞く必要があった。聞いてみてくれ、と上司に言われれば渋々やるしかなかった。
「良哉さんは、僕が選ぶと思った?」
本田はふっと笑った。こたえはとっくに決まっていた。瞳夜という人を知っていれば、自ずと分かってしまうのだった。
「いいや、思ってないさ」
だよね、と瞳夜は言った。それから立ち上がると、家でもできる運動が知りたいんだけど、と言った。本田はそういうことに詳しい医者の友人に内線で連絡をすると迎えに来てもらった。
「行っておいで」
瞳夜はうなずくとまたね、と言った。ひらひらと振られた手を本田も振り返して、静かに目を伏せた。なんとかして瞳夜に長生きしてほしいと思った。
0コメント