前記事の続きです。
迷子列車/月夜
遊園地、ショッピングモール、プール、海、それから学園祭をやっている学校。様々な場所でその列車は現れる。魔法みたいに一瞬。すぐに忘れてしまうほどのそれを、人は迷子列車と呼ぶ。
人でごった返したショッピングモールで棒付きキャンディを咥えて浩は周囲をぐるりと見た。見ても見ても知らない人ばかり。自分の手を引いてキャンディを買ってくれた姉はどこにもいなかった。
ちょっとトイレに行ってくると言った姉を待ちきれず、なおかつ自分もトイレに行きたくなった浩はこっそりトイレに行った。そして戻ってきてじっとして待っていたが姉は来なかった。時計を見れば十五分も経っていた。
「迷子になったら迷子センターに行くこと!」
姉の言うことはもっともだったが、片手で数えるほどしか来たことのない場所を舞台にそれは無理な話だった。
甘い甘いキャンディだけが浩が独りじゃないと訴えているようで、浩はできるだけ長くキャンディをなめていようと溶かすのを我慢していた。
「おや、こんなところに乗客がいたのかい」
ふわりと柔らかな声が降ってくる。見れば柔らかな桃色の髪の少年が立っていた。大きな丸い目は髪の色よりほんのりと濃いだけで黒の車掌のような服と帽子がよく似合っていた。
「初めまして」
少年はそう言って一礼した。帽子をするりと外して胸元にあてる仕草の優雅なこと!浩はぱちくりと目を丸くした。
「迷子センターに行きたいのかい?それなら乗って。案内してあげるよ」
少年が振り返る。するとそこに列車がとまっていた。浩が図鑑でしか見たことがないような黒いSLだった。
「うん」
浩は少年の手をとった。プシュウ、と音がして扉が開く。浩と少年が乗ると列車は発車した。
そうして止まっていた時間が動き出した。
列車の中には浩より小さい子も大きい子もいた。けれど皆さまざまにすごしていた。だって中は普通の列車とは違ったのだから。
座席は窓際にソファーのようなものがあるだけで他は区切りもなければ、荷物棚もない。広い、大きなプレイルームに来たみたいだった。
あちこちで積み木や塗り絵をしている子どもだったりクッションに埋もれて眠る人がいた。
「着くまで自由にしていてね」
少年はそう言ってそこを出ていった。浩はそうっと絵本を手に取った。見たことのないものだった。
『迷子列車』。そう書かれた絵本はそれなりにぶ厚かった。気になって中を見れば柔らかな色鉛筆で絵が描かれていた。お話自体は親などとはぐれた子どもを乗せて親たちの元に帰すというシンプルな内容だった。けれど、どこか冷たいものを感じた。
車掌はにこにこ笑っているし、帰ることのできた子どもたちは嬉しそうだった。けれど、浩は車掌が本心から笑っているとは思えなかった。
いや、たぶん、ちゃんと再会できたことは喜んでいるのだ。でも、車掌の目はこうも訴えていた。僕には迎えなんてこないのに、なんて。
バタンッと音を立てて浩は絵本を閉じる。周囲の子どもたちが何事だ、というように浩を見ていたが、浩は曖昧に笑って返した。
だってこれは、この列車のことだ。車掌は浩を誘った少年だし、車内だって絵本に描かれている通りだった。
ふと車内の様子を注視すると、どこもかしこも楽しそうな反面、少しだけ寂しさを連れてきた。紺色のカーテンには子どもっぽく大きな黄色の星が描かれ、月もうさぎが跳ねているような模様になっている。ソファーにはふかふかなクマやうさぎ、猫や犬のぬいぐるみがいて、くりんっと丸い目で撫でてと訴える。積み木も塗り絵も少しだけ使われ尽くしたように見えるし、車内に流れる音楽はテーマパークのような明るさを保ちつつも、閉園が迫ってくるかのようななんとも言えない終わりを告げている。
こんなところに独り。それは寂しいだろう。
「ねぇ、こっちで遊ぼう」
女の子に手を引かれてそちらに行くと数人の子どもたちがパズルをしていた。有名テーマパークのキャラクターが描かれた千を超えるピースのパズルだった。
「全然できないの。一緒にやりましょ」
そう言って完成図を見せられる。キラキラとした夜のパレードが描かれたものだった。こんなところにも、寂しさが滲んでいた。
「マユちゃん、サチちゃん。着いたよ」
ふっと声が降ってくる。見れば車掌の少年が立っていた。マユとサチと呼ばれた少女が立ち上がる。そっくりな見た目だった。どうやら双子らしい。
「しゃしょうさん、またね」
「また、はないと良いけどね」
少年はそう言って二人と共にここを出ていった。
「パズルやりましょ」
そう言って女の子が浩の手にパズルのピースを乗せた。柄がバラバラだから、きっとこれでは完成しない。浩は既に一部出来上がっているものと見比べてピースを合わせていった。
しばらくやっていれば気付くこともあった。パズルのこと?いやいや、この列車のことだ。
窓の外の景色は大して変わらないこと。車掌がときおり、子どもを呼びに来ること。子どもはどれだけ遊んでいても車掌のところに行くこと。車掌は再会の約束をしないこと。また、はないと良いけどね、なんて言って穏やかに笑うこと。その目が少しだけ悲しそうなこと。
浩はパズルのピースを合わせる手を止めないまま静かに観察を続けた。そうしてひとり、また一人と子どもが列車を降りていった。
ついに浩は独りになった。子どもたちに誘われてやり始めたパズルはほとんど完成していた。けれど二つだけピースが足りない。浩は足りないピースを探した。
クッションの裏、ぬいぐるみの後ろ、服の中、絵本や塗り絵の間、積み木の箱の中……。どこを探しても見当たらなかった。
「どこにあるんだろう……」
「ハルくん」
パッと振り返れば車掌が立っていた。ピシッとした服は格好良いけれど、着古した雰囲気がない。まるでずっと新品のようだ。
「そろそろ着くけれど、探し物かい?」
「うん」
車掌は不思議そうな顔をした。浩の持ち物は乗る前に咥えていた棒付きキャンディだけだったからだ。それも今は舐め終わってゴミ箱に捨てられている。
「何を探しているの?」
「パズルのピース」
そうしたら車掌は目を丸くした後、くすりと笑った。どうやらどこにあるか分かっているようだ。
「知っているの?」
「まあね。僕はこの列車のことを熟知しているからね」
浩はずいっと手を出す。車掌は目を丸くした。
「なら出して。もうすぐ完成なんだ」
車掌はカーペットの上に置かれたパズルに気付くとポケットから小さなピースを二つ出して浩の手に乗せた。
「ありがとう」
「いえいえ。さ、完成させちゃおう」
浩がパズルのピースをはめると完成図の通りのパズルが出来上がった。キラキラしたそれは眩しすぎる。
「さ、行こうか」
そう言って車掌は屈んでいた体勢を戻して笑う。でもそれがすごく悲しそうに見えた。
カサッと何かが落ちる。それは砕けたビスケットだった。浩はそれをポケットにねじ込んだ。車掌は気付かなかった。
車両を出れば乗ってきた扉が見えた。丸い窓には緑がうつっていた。
「もう着くの?」
「うん、もちろん」
「へぇ」
浩はぼんやりと扉を見る。
「絵本、読んだんだね」
不意に車掌に話しかけられた。浩はうなずいた。
「どうだった?」
「車掌が寂しそうだった」
「へぇ。どうしてそう思うんだい?」
「だって、迎えなんてこないって顔してたから」
車掌は目を丸くした後、両手を肩ぐらいまで上げた。降参のポーズだ。
「よく分かったね」
「あなたも同じ顔しているし」
車掌は帽子を深く被り直した。きっと顔を見られたくないのだろう。
「そう……。そうだね。僕はたしかに寂しいよ。でもそうも言っていられないよ」
ーー帰る場所があるうちは帰らせてあげなきゃ。
車掌は笑う。浩は緩く車掌の手をとった。
「あなたにもあるでしょ?」
「ーーさあ?あるかもしれないしないかもしれない」
はぐらかしたような言葉だった。ゆっくりと列車が止まる。プシュウと小さな音がして扉がゆっくりと開いた。
「どうかもう出会わないことを」
「ん。ありがとう」
浩は扉の外に出る。プシュウと音がしたような気がした。
「心配したんだよ?!どこにいたの、もうっ……!」
それから少しして姉と再会した。あちこち探し回ったのか、髪は少し乱れていた。あんなに綺麗にセットしていたのに申し訳ない気持ちになった。
泣きそうに顔を歪めた姉に抱きしめられたことで浩は思い出す。カサッとポケットから音がしたのだ。ポケットに手を入れれば砕けたビスケットが出てきた。見覚えのないものだった。
「それは?」
姉が不思議そうな顔をした。浩にもそれは分からない。けれど、嫌悪感はなかった。ぐう、と忘れていた空腹が顔を出す。小さくお腹をおさえた。
「姉ちゃん、これ食べても良い?」
「えぇ?お腹すいたの?」
「うん」
姉は仕方ないと言って浩にビスケットを食べることを許した。浩はビスケットの袋を開けた。砕けた一部を口にする。サクッと音がした後、目の前がぼやけた。ふわふわと身体が浮いているかのような感覚。意識までもふわふわしてきた。
「は、浩っ?!」
「あぁ、食べちゃったのかい?悪い子。……でも、それは僕のためーー、かな?」
どこかで誰かの声がした。知らない声のはずだった。けれど、浩はその声を知っているような気がした。
次に気が付いたとき、浩は黒い車掌の服を着ていた。目の前には同じ服を着た少年が立っていた。淡いピンクの髪とそれより少し濃い目の色。それはカラスみたいに黒い服にとてもよく似合っていた。
「やあ。迷子列車にようこそ。これから君は僕と一緒に迷子を届ける仕事をするんだ」
くるりとまわって帽子を外して少年は一礼した。ショーでも観ているかのような軽やかな動きだった。浩は思わず拍手する。
「ふふっ、大丈夫。緊張しないで。列車でのルールがいくつかあるけど難しくないから」
「ルール?」
「そう。決して名前を教えてはいけない。食べ物をあげちゃいけない。またね、は言ってはいけない」
それはどれも簡単なルールだった。
「どうしてやっちゃだめなの?」
「名前を知られると縛られちゃうからね。それに食べ物をあげるとここに属させてしまう。帰せなくなっちゃうんだ。これは神隠しって言われている。そして、またねと言うってことは、また迷子になってね、ということだよ。できればもう誰も迷ってほしくないから言わないことにしている」
少年はそう言うとゆっくりと浩を見た。
「さあ、一緒に頑張ろう」
ゆっくりと少年は歩き出す。そのまま扉が開いた。
「迎えに行こう」
プシュウ、と音がする。人は動いていない。まるで時間が止まっているかのようだった。
そんな中、ぬいぐるみを抱っこした女の子が目をキョロキョロさせていた。きっと彼女が迷子だ。
「初めまして。君は迷子かな?」
最強について/鱸
どのタイミングで卒業するんだろう、みんな。私にはその感覚がわからない。中学校に進学すれば、それと同時に私たちの歴史は幕を閉ざすのか?
いや、違う。やめようと思わなくても、人間、自然とやらなくなるんだ。かつて全色揃えた香りつきの色ペンも、セロハンテープで重ねて補強した牛乳キャップも、金も銀も結局使っていないロケット色えんぴつも、ノートの端を派手にしてしまったデザイン定規も──ペンケースや道具箱をパンパンにしていたあれやこれは、いつの間にか生活から消えて無くなる。
気がつかないうちに起こっている自分や環境の変化を、私たちはポジティブに、成長と呼んでいる。
私は文房具屋に行こうと思って、同じクラスの仁に声をかけた。仁は座席が近いから、ちょっとしたことでも誘いやすかった。それに、仁は私の言葉を否定しないし、なにも知らない。あと、妹がいる。
駅までの道で、私は縁石や白線の上をふらふらしながら、足元に生えるたんぽぽの数を数えていた。
「文房具屋なんて、何年振りかな」
仁が腕時計を見て呟く。その台詞に、おかしなところはひとつもない。普段使いの文房具なんて、雑貨屋の片隅とか、中型スーパーの端の方とか、なんなら今どきは通販でも手に入る。痒いところでもない限り私たちは文房具屋に行かないのかもしれない。
「さて、今日はなにをしに文房具屋へ行くのかな」
仁に聞かれると同時に、信号が緑の点滅から赤に切り替わった。線の内側に居ないと車に轢かれてしまうから、代わりに私は毒の海に落ちた。結界がない場所なら、小学生以下はすぐに死ぬ。
「今日は字消しを買いに行くんだよ」
「字消し」
「うん。プラスチック字消し。知ってる?」
「知ってる。ほとんどの場合、紙面に挟まった黒鉛の粉末を剥がして絡めとるものだね」
頭上で「ぴよ」と鳥が鳴く。そして、私たちの目玉四つ、結んだ線をずっと伸ばしていったとある地点から、ぴよぴよ、と片方の鳥の囀りが聞こえてくる。
「私の場合はその例から漏れるんだけどさ」
「そういえば『それ』以外の例外ってあるのかな」
「あるよ。彫刻刀でスタンプにするとか、折ったシャー芯を先端に刺して人に貸すとか。あとは、ただ擦って見た目を綺麗にするとか」
「すごいな。字消しって名前なのに。本来の用途以外での使われ方も案外多かった」
「だからさ、白い字消しなら本当は、黒くなった細かい消しくずだけが、殉職の遺留品なんだよ」
斜め前にいる車が、先頭から隙間を詰めて一時停止していく。目の前の信号機の光は緑に変わった。私は再び、毒の海から白い陸に上がっていた。
「仁って鉛筆の削れない側に付いてるゴム字消し使ったことある?」
「やたら硬くて、文字を消すどころか、紙面で黒鉛が伸びて二次災害が発生するやつなら」
「それさ、一番、プラスチック字消しの有り難みを実感する瞬間だと思うんだけど、どうかな」
「我々は字消しによって字消しの有り難みを?」
「そうなんだよ、本当は。でも人間、絶対、二、三回くらいはゴム字消しで文字を消してみるんだよね。たしかに前はダメだったけど、ひょっとしてこの鉛筆なら反対側を使っても大丈夫なんじゃないか……なんて淡い期待を抱いてさ。で、結局、黒ずみが広がる。繰り返しダメ人間に引っかかるお節介な子みたいに」
「夜中のアイスをやめられない俺の愛妹が、それでも毎日体重計に乗るように?」
「そんなこと言ってると殴られるよ」
「アイスを買って帰らない方が殴られるんだよ」
仁はアスファルトの黒の部分を躊躇なく踏んで歩いていた。毒の海に浸かる仁には、私が数えたたんぽぽを、何本か分けてやることにする。白線を踏み外せばたんぽぽカウントが一個減る。だからなるべく、道中でたんぽぽを多く見つけて、数えておいた方がいい。
店内は棚が高く、通路が狭く、どちらかといえば歩きづらい。でも、どちらかといえばそういう方が好きだった。見通しがよく広々としていてスタイリッシュであるよりも、そういう方がときめいた。私は店主によって丁寧に陳列された字消しをただ見ていた。
「パンで字を消そうって言い出したの、誰かな」
「俺は知らない。けど多分、お金持ちの人だよ」
「逆に、食用字消しってどう思う?」
「抵抗感はある」
21世紀に字消しを食べないことは、かつての天動説みたいなものだったりしないのだろうか。字消しを食べて生活している人は、ぜひ私に教えてほしい。
仁も陳列された字消しを見ている。雑貨屋よりも圧倒的に品揃えが豊富で、もちろん多種多様だ。オーソドックスな白い直方体や多色の直方体、全身カドばかりのもの、デッサン用の練り消し、遊びたい盛りのマトリョーシカ、あまりにも精巧なミニチュア。仁は食べ物の『消しゴム』を手にとって呟く。
「WARNING: CHOKING HAZARD」
注意:誤飲の危険性。小ささのための警告なのか見た目のための警告なのか、あるいはその両方か。
「それ、思うんだけど、乳幼児の手の届かないところに字消しを置いたら、字を消すときにわざわざそこまで取りに行くってことだよね」
「そうだろうね。とすれば、幼い子どもを育てている人は、誤っても飲み込めないように、とにかく大きさに拘って字消しを買うべきなのかもしれないな」
私は深く頷いた。
「なぜか存在する特大の字消しは、そんなときに役立つよ。たかがジョークグッズだと思わず敬愛しよう」
まあ、外出時に携帯できないけれども。
「ところで、仁。こんなにたくさんの種類の字消しが陳列されてるのは、需要があるからだとしてさ。使ってる字消しが小さくなってきたなって思ったとき、ここに来て、何個買う?」
「1個か、若しくは1セット」
「私もそう。でも、じゃあ、どうしても消しバトで勝ちたいけど手持ちの字消しだけでは納得できなくなって、徹夜で魔改造したいときは?」
「試したことない字消しを全部買うしかないかな」
その返答を聞き、私は満足した。
この狭い文房具屋で、辛うじて通路を通れるような小さな籠を抱え、その中に、何種類もの字消しを投入していく。定規は結構値が張るからまた今度で。
会計は潔く。私の愛機が、家で待ってる。
「ねえ、仁。組み替えたら写真送っていい?」
「別角度から六枚、頼むよ」
私はたくさん字消しを買った。仁は『パン屋さん』の『消しゴム』を百十円で買っていた。俺もパンで字を消してみたいんだ、何事も経験だから、って。
線路の横で、黄色いたんぽぽが強く咲いている。
「仁はさ」
「うん」
「定規戦争ってなんのことだと思う?」
「なんだろう。梨田蹙の新刊かな」
「ノスタルジックな語感?」
「全く以てフューチャリスティック」
卒業以前に、やはり仁は、入学もしていない。
「じゃあ、仁のノスタルジーは?」
「反抗期前の素直な愛妹かな……」
語尾を掻き消すように、電車はホームへと滑り込んできた。私たちは黄色い線をまたいで、開いたドアから乗車する。座席、スマートフォンが4連続。読書は惜しくも2連続。それから間にひとり、空中を見つめている人。銀河鉄道の扉が、音を立てながら閉まった。
「ねえ、仁。この世にパンが無かったらどうする」
「ケーキを食べるか、字消しを使うかな」
「そうだよね。私もそうする。だって、人はパンのみにて生くるに非ず、だもんね」
自分のスカートの裾が閉まるドアに挟まっていたことに、私は今さら、気がついた。
0コメント