【小説】7月お題『身分に差がある二人』

こんにちは。文芸研究同好会です。

全員共通のテーマで作品を書くお題企画の7月分です。

7月のお題は、『身分に差がある二人』でした。

以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。

※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。



今夜、それを捨てる/月夜


 快晴。綺麗な青空が貼り付いているような空を横目に、オレは扉をノックする。

 時刻は十時。普段よりも遅い時間ではあるが、迎えに指定された時間には寸分たりともズレていない。

「リオさま」

 中から返事がなくとも勝手に入る。すると、そこには準備を完了させたリオがいた。

 リオ・クインハルト・チーリン。この国の姫だ。

 腰までの長い綺麗な金髪と深い青の大きな瞳。美しいドレスはリオの魅力を何倍にも膨れ上がらせていた。『Silent princess』という二つ名の通り、もの静かに見える。

 しかし、本来のリオはよく笑い、ころころと感情を動かす人懐っこい性格の人物だった。

「おはよう、ミカサ」

 ミカサ。それがオレの名前だ。フルネームはミカサ・ミッシェル・ハーマーン。騎士と魔術師の家の出だ。

 リオは立ち上がるとオレの夕陽色の髪をすいた。サラサラした夕陽色の髪と黄色の目は父さん譲りだった。

「おはよ、リオ」

 オレたちは所謂幼馴染みだった。前王、ローレン・クインハルト・チーリンの希望でリオには騎士と魔術師の家の出のオレと兄、イズラが与えられた。オレたちは友だちで幼馴染みで、護衛の関係にある。

「そろそろね」

 外にはたくさんの馬車があった。そう、今日はリオが他国にお嫁に行く日なのだ。

 この国は周囲を山と海に囲まれた小さな国だ。しかし、商人たちが盛り上げてくれるおかげで、一定の生活はできている。いや、できていた。

 今から数年前、前王が病死した。その後釜として王になった彼の息子、ウェービナー・クインハルト・チーリンが国を傾けた。その結果、三年ほど前にリオの婚約が決まった。リオを捧げることで援助をもらえるらしい。

 相手は西の国の商人の家のシアン・シュレンガー・マニメッサ。十八歳とリオよりも一つ歳上だった。

「ミカサとイズラは寂しい?」

「まあ、そうだな」

 オレの後ろにいた兄のイズラはそう言って目を細めた。大柄でザ・騎士という見た目なのに魔術師の血を濃く継ぐのが兄だ。

 オレと兄は全く似ていない。灰色の髪と真っ赤な目。魔術師である母さんによく似ていた。

「ちなみに私を送った後はどうするの?」

「国に帰って騎士団に所属するかな」

「たぶん俺もそうだな」

「一緒じゃないの?」

「当たり前だろ、リオ」

「そろそろ厄介箱だろうしね」

 リオが悲しそうな顔をした。そんな顔は似合わないと思っても言えなかった。時間が差し迫っていた。

「行きましょう」

 そう言えばリオは表情を引き締めた。手を差し伸べればとってもらえる。それが嬉しくも悲しくあった。オレのポケットの中の鍵がチャリッと小さな音を立てた。


 馬車はカラカラと音を立てながら動く。中は静かだった。山道は数年前に整備されて馬車も通れるようになった。ちょっと揺れるけれどそれぐらい気にならない。

「私、話してみる」

「なにを?」

 城を出てすぐの市場を通るときは窓を開けて小さく笑いながら手を振っていたリオが決意した目でそう言った。

「ミカサとイズラを置いてもらえるように」

 兄がため息をついた。

「それはしなくて良い」

「どうして?」

 リオはことりと首をかしげた。サラサラした金髪が肩から幾房か落ちる。

「向こうもリオを守るために雇っているだろ?俺たちがいたら邪魔だって」

 ーー土地勘すらないから足手まといになるさ。

 兄はそう言って窓の外を見た。木々が所狭しとあるのを見ながらふっと目元を緩めた。

「でも、」

「良いか、リオ。俺たちは幼馴染み。表は護衛対象とその騎士」

 リオが唇を尖らせる。すねているようだ。

「家族でも何でもないんだ」

 吐き出すように言った『家族』という言葉に少し不信感が芽生える。兄はここ数年、苦いものでも吐くように『家族』と言うことが増えた。どうしてそうなのかは分からない。もしや大人になって何か価値観が変わるようなことがあったのかもしれない。全ては闇の中だ。

「じゃあ、これで縁が切れるの?」

「まあ、帰省時には会えるだろ」

 それからしばらく、沈黙が場を支配した。ガラゴロと馬車の車輪が地面と噛み合う音と小さく馬の鳴き声、窓の外の森で生きる鳥たちの声が微かに聞こえるだけで、誰も何も言わなかった。


 夕方頃、馬車はまだ山を走っていた。決してのんびり進んでいるわけではないが、まだ全道中の半分までしか来ていなかった。しかし、今日泊まる予定の貴族の家まではもう少しあった。

「これなら歩いた方が速いんじゃ」

「いやいや、馬車の方が安全だよ」

 日が暮れるということは暗くなるということ。つまり、足元が見えにくくなるということ。

「怪我をしたらダメだからな」

 兄はそう言って静かに暮れゆく陽を眺めた。その目がオレの髪色だと訴える。たしかに似ている。けれど全然違う。あんなに綺麗で寂しい存在に、オレはなれない。

 オレの二つ名は『Little star』だ。

 身長は百五十七程度。これ以上は大きくなれないらしく、騎士としてはマイナスだ。一方で小さくてすばしっこいことから、オレの戦術は隙を突いて一撃で仕留めること。もちろん隙をつくる剣術や、常人ではあり得ないほどの身体能力も素晴らしいと言われる。

 どうしてあだ名がStarか。それはオレの目の色に関係がある。

 オレの目は黄色だ。父そっくりの外見を持つオレの戦術が流れ星のように見えること、そして何よりも小さな身体で騎士を務めるという大役をこなしていること。それまでの身体の小さな人は騎士になれないという慣例を覆したことから期待の星と言われている。

 それが由来らしいと兄は言っていた。

「ねぇ、面白い話をして」

 馬車に飽きたのか、リオはそう言う。兄を見れば眠そうにあくびをしていた。話をする気はないらしい。

 オレは一つため息を吐いて小さな頃聞いた童話の語り口調を思い出す。

「昔むかしーー」


 あるところに仲のいい兄弟がいました。兄弟はお互いが友だちであり、そしてライバルでした。互いに遊んで、そして競って。毎日駆け回って過ごしていました。

 しかしあるとき、兄が呪いを受けてしまいました。それは徐々に石化する呪いで、二年で兄は完全な石像になってしまうと言われました。

 両親は悲しみました。国中の医者に診せましたが、進行を食い止めることしかできません。しかし、その治療には莫大なお金が必要で、ずっと払うことはできません。治す方法はただ一つ。願いを叶えるという魔法使いを探してお願いすることでした。

 弟は倉庫にあった古びた剣を持ち、少ない食料とお金とそれから馬を連れて屋敷を出ました。きっと魔法使いを探してお願いすると書き置きを残して。

 馬は弟を乗せて進みます。山を越え、谷を越え、橋を渡り、町を抜けました。それでも魔法使いは見付かりません。たくさんの人に聞きました。けれど誰も行方を知りません。

 一年が過ぎました。弟が持ってきた食料はとうに尽き、お金もなくなりました。生きるために、弟は森で過ごしました。水、木の実、それから薪を手に入れて細々と生きました。

 あと一年しかないと弟は焦ります。しかし、あてもなく放浪することに疲れていました。

 森から出るか出ないか考えていると大雨が森を襲いました。弟はじっと耐えて雨が止むのを待ちました。行き先がなかったのです。

 十日ほど雨は降り続けました。弟はなんとか生きていました。そこへ一人の男性が現れました。その男性は痩せ細り、今にも死んでしまいそうなほどでした。

 弟は自分の布団や食料を与え、男性の面倒をみました。しかし、男性は笑って言います。

「もう永くはない」

 弟は男性の手を握ります。大丈夫です、と声をかけました。しかし、男性は諦めたような顔をしていました。

 五日ほど経ちました。男性は弟の手を握って亡くなりました。弟は悲しみました。しかし、男性の遺体を大切に埋めました。それから毎朝、お祈りをしました。

 しばらくして、夢の中にその男性が現れました。そして弟に水晶を渡しました。弟がそれは何かとたずねると男性は答えました。

「願いを叶える魔法の水晶だ」

 しかし、こうも言っていました。

「一度目は持ち主の願いを叶える。けれどそれ以降は自分じゃない誰かの願いを叶える。そして、その対価は一度目の願い主、つまり持ち主の寿命だ。それは持ち主の寿命が尽きるまで続く」

 男性は目を細めます。それでも叶えたい願いか、と弟に目が問いかけます。弟は水晶を受け取ってうなずきました。

「そうか」

 男性は泣きそうな顔をします。けれど弟は何も言えず、夢はそこで終わってしまいました。

 目覚めた弟は早速馬に乗って家に帰りました。家にはほとんど人がいませんでした。メイドも執事もいません。なのでたやすく兄の部屋まで行けました。

 そして半分ほど石と化した兄の身体が治るよう祈りました。祈って祈って祈ってーー。その願いは叶いました。兄の石化を止めることができたのです。それだけでなく、今後、兄は病気にならない身体を手に入れました。

 弟が帰ってきたことと兄が治ったことに両親は喜びました。それから家は再び栄えました。しかし弟が外に出ることはなくなりました。

 やがて、兄はかわいらしい女性をお嫁にもらいました。そして一番はじめに地下の部屋に連れて行きました。

 そこには兄よりも歳上に見える男がいました。それなりに豪華な部屋のベッドに腰かけ、女性と兄を見て目を細めました。幼少期はさぞ美少年だったと思わせるほどでした。

「兄さん」

 その男は弟だったのです。何度も何度も願いを叶えて家は栄え、兄はかわいい女性をお嫁にもらい、もはや家の名を知らぬ者はいないほどになりました。しかし、それは全て弟のおかげだったのです。いえ、正確に言えば弟の身体に吸収された水晶のおかげでした。

「弟だ」

「やだなあ、兄さん。もう、兄弟には見えないだろう?」

 くすくすと弟は笑います。兄は弟の年齢を口にしました。まだ十代でした。しかし明らかに三十代ぐらいに見えます。

 女性は驚いてしまいました。すると弟が立ち上がります。ジャラジャラと鎖のぶつかる音がします。弟の足には鎖があり、それがベッドの柱の一つに繋がっていました。

「初めまして。そしてどうかよろしく」

 僕は座敷童です、と全く笑えない冗談を口にすると窓のない部屋に戻っていきます。

 その部屋は鳥籠だったのです。弟を繋ぐ鎖も、全ては家に縛り付けるためのものでした。

 こんな不幸なことはありません。色白でほっそりとした腕や腰、十代とは思えないほどの見た目。女性は弟をかわいそうに思いました。

 しかし、弟は笑っています。これが幸せと言いたげに頬を薄く染めています。兄も笑っています。両者が幸せそうに振る舞う中、女性は見つけました。

 弟の爪が剥がれていたのです。そしてよくよく目をこらせば鎖に小さな引っ掻き傷がありました。そして分かりました。弟はこの不幸な鳥籠の幸せを脱け出そうとすることを諦めたのだ、と。

 何度も助けを求めたでしょう。けれど出ることは叶わなかったのです。やがて弟は諦めました。この鳥籠の中で幸せになるしかないと思ったのでしょう。だから笑うのです。こんな不幸な鳥籠の中の幸せを、自分の幸せだと思い込んで。

 その後、その家は急に滅びました。あまりにも突然のことで、誰もが理由を知りませんでした。

 五年ほど前、その家の奥さまに会いました。旦那さまは亡くなっていました。奥さまは欲張りな家だったのです、と言って教えてくれました。

 だから、家が滅んだ理由にだいたいの検討がつきます。けれどそれは、奥さまとの約束で言えません。

 もし、弟が水晶を受け取らなければ。もし、兄を治してすぐに家を去っていたら。きっと違う結末が待っていたでしょう。けれど、それが幸せだったかは分かりません。最期は家族に囲まれたようなので、もしかしたら弟にとっては幸せだったのかもしれません。今となっては、もう分からないものですが。


「そのお話、昔イズラがしてくれたものね」

「そうだね」

 兄はうなずいた。ぼうっと窓の外を見ていた目がこちらを見た。

「そろそろ着くみたいだ」

 窓の向こうのちょっと離れたところにお屋敷が建っていた。

「そう言えば、この辺りは避暑地だったよね?」

「うん、そうだね」

「近くには湖もあるらしい」

 兄の言葉にリオが目を輝かせた。

「泳ぐ時間はないからな」

 兄がリオの言いそうなことを潰せば、リオが不満そうな顔をした。しかしそれも仕方ない。ただでさえ時間が押しているのだ。明日着かないと相手にも迷惑だ。

「さ、そろそろおりる準備をしよう」

「はあい」

 暗い森の中に建つそれは、どこか浮いているように見えた。


 貴族はオレたちをもてなしてくれた。料理は美味しかったし、ベッドのシーツもふかふかだった。

「それでは明日は七時にお部屋に迎えに行きます」

「その後に朝食、出発ね」

「はい」

 部屋の前でそう言えば、リオはふわりと笑った。おやすみなさい、と言ったリオが部屋の鍵をかけるまで待って、オレと兄はそれぞれ部屋に戻った。

 ラフな格好になってベッドに乗る。白いレースのカーテンの向こう、美しい月光が部屋に入ってきていた。サワサワと木々のざわめきが聞こえるけれど、それ以外は聞こえない。きっと家を提供してくれた貴族やメイドたちでさえも寝ているのだろう。

「寝れない」

 ぼんやりと眺めていたにも関わらず、眠気は来なかった。仕方なく身体を起こす。

「湖……」

 ふとキラキラと月光を反射させる湖が見えてベッドを脱け出した。そのまま部屋を出て湖に向かう。ポケットには鍵が入っていた。

 この鍵は、オレの宝箱の鍵だった。たくさんの好きなものや宝物を詰め込んだ小さなそれ。鍵は一つしかない。それを捨てようかどうか悩んでいた。

 だって結ばれない。オレとリオでは身分が違いすぎる。それにもうすぐ全然会えなくなる。開けて思い出しても辛いだけ。だから大切に持っていないで処分をしてしまいたかった。

 扉を開けた。ザワッと風が吹く。着の身着のままで出てきたせいか、少し肌寒い。ぶるりと肩を震わせたけれど、戻ろうという気にはならなかった。

 そのまま歩いて門を開けた。するりと外に出てみる。サクサクと音を立てて進めば湖が見えてきた。

「うわぁ……」

 広い。思ったよりも大きくて綺麗だった。湖ってもっと汚いと思っていた。すとんと座る。湖に手だけ晒せば、少し冷たく感じた。

「こんばんは」

 ハッとして振り返ればフードを深くかぶった男が立っていた。口元だけが見える。

「……こんばんは」

 ぎこちなく挨拶を返せば男は笑みを浮かべた。

「湖、好きですか?」

「いえ」

「ではどうして?」

「……気晴らしです」

 男はオレの隣に座った。深くかぶったフードが風で外れると美しい金髪がふわっと揺れた。その下にあるリオよりも深い青の目にハッとする。もしかしてこの人はーー。

「初めまして。俺はティナ・クインハルト・チーリン。迎えに来たよ、ミカサ」

 ティナ・クインハルト・チーリン。それは前王の弟の名前。ほとんど王族に関係がないと見なされている、皇位継承権がない行方不明の皇子。それが今、目の前にいる。彼が行方をくらましたのは、オレが生まれるより前のこと。だから、オレと面識はないはずだ。

「な、なんでオレの名前ーー」

「俺の息子だもん。分かるに決まっているじゃないか」

 オレは目を丸くする。そしてじっくり全身を見た。全く似ていない。完全に王族の見た目通りだ。

「い、いや、全く似ていないというか」

「あっはは!当たり前だ!俺から受け継いだのって力だけだからな」

「ち、力?」

「ああ。王家の力、いわゆる癒しの力だ」

 オレは息を飲んだ。それは、王族だけが持つ力だ。そして、何故かそれをオレが使えてしまう。リオよりもずっとその力が強かった。そのことがずっと不思議だった。

「オレ、は」

「ミカサ・クインハルト・チーリン」

 驚いて顔をしっかりと見れば、にっと笑った。

「お前の本名。今後そう名乗るから覚えておけ」

「ほ、本名?いや、オレは、これからも騎士でーー」

「ようやく片付いたからさ」

 オレがあまりにも不思議そうな顔をしていたせいか、ティナはそう言った後、なにも聞いていなかったのか、と口にした。

「なにを?」

「出生のこと」

 濃い青に重たい感情が見えた。

「知らない」

「じゃあ教えとく。お前はミカサ・クインハルト・チーリン。王族の一人だ」

 ティナはそう言ってオレの目を見た。濃い青はリオの目よりもずっとずっと深く、見ていれば怖くなった。


 もう二十五年ぐらい前か。俺は護衛騎士の母さんーーヴァルシュ・ミッシェルーーと結婚した。当時、母さんは妊娠してた。もちろん、俺の子どもだ。俺は出来損ないながらに母さんと子どもを守ると決めた。

 そのときに王族じゃなくなろうとしたけれど、王族に伝わる力が強かったせいで許されなかった。兄のローレンは理解してくれたけれど駄目だった。だから王族のままなんだ。

 その後、子どもが生まれた。ミカサの兄だな。その後三年ぐらい経って娘が生まれた、これは姉だな。二人とも外見は俺に似た。でも性格とかは母さん似だ。騎士としてかなり優秀だ。

 それから少しして追われることになった。理由は王族に伝わる力が強いから。この癒しの力は最強の武器なんだ。だって何でも治せる。戦士なんていくらでも作り出せる。

 だから俺は狙われた。それがきっかけ。今までは城が守ってくれた、騎士たちが俺を守ってくれていた。でも母さんと暮らし始めた俺は城にいなかった。だから自分の身は自分たちで守らないといけなくなった。

 でも、周囲にまで迷惑がかかるようになった。家の破壊とか落書きとか。耐えられなくなってそこから逃げた。人のいない森へ、山へ、そして誰も俺たちのことを知らないところへ。

 しばらく逃げる生活が続いた。それから、少しだけ落ち着いたときにミカサを授かった。俺は母さんに産まなくて良いと言った。だって、お互いの弱点になってしまうから。

 その頃にはある程度大きくなった兄たちは自力で身を守れるほどになっていた。母さんのスパルタな特訓のおかげだ。でも、今産んだら身動きが取りにくくなってしまう。だから産まなくて良いと言った。

 そしたら母さんに思いっきりぶたれた。この子は私たちを選んでくれたんだから産む必要があるって言って泣きそうな顔をしていた。頬は痛いし泣きそうな顔をさせたしで、頭はパニックだったけど、結局産むことで決着がついた。

 でも、追手は待ってくれなかった。臨月が近い頃、思い出したように追ってきた。もしこのままだったら産んでから目を離せない上に休む時間がない。おまけにせっかく生まれてくれたとしても、人質にされるかもしれない。だからミカサをどうすべきか家族で何日も話し合った。

 その結論が母さんの実家に預けることだった。ひどい親だとは分かっている。けれど、それがミカサの幸せだと二人と兄と姉で出した。

 預けるときに母さんの弟はこう言った。必ず迎えにきてくれと。それに母さんは迎えの準備が整ったら、と返した。それは追われなくなって、ミカサも大きくなって俺たちの気持ちとか、そういうものを理解できるようになったら、だった。

 それから俺たちの身を狙う人物たちの組織を潰した。俺たちが癒しの力を使えることは当事者以外は知らない状況になった。それが六年ほど前のことだ。

 ようやく片付いたと思った。そしてミカサを思い出した。迎えに行くと言ったあの時から、一度として愛しく思わなかったことはない。母さんの腕に抱かれたふさふさの夕陽色の髪、大きな星色の目。ふわふわと笑う顔を、忘れたことはない。

 どんな人に、どんな青年に、なっているだろうか。どう周囲と関わっているだろうか。友だちはいるか、頼れる人はいるか。

 そんなことが知りたくて、旅芸人を装って帰国したこともある。けれど、その時は会えなかった。落ち込んだけど、そういうこともあると言って市場で情報収集をした。

 そしたら、様々なことを知れた。リオの筆頭護衛騎士をやっていて、公務のサポートまでするって聞いた。市場の人はみんなミカサたちのことが好きだった。好意的な人ばかりだった。

 そんなある日、リオたちが視察に来ると言っていて、俺たちはこっそりそれを見ていた。金髪はあの国では目立つから、フードを深くかぶって路地から見ていた。母さんは血縁を疑われそうで部屋から見ているだけだった。不満そうだった。もっと近くで見たいのに、なんて言っていた。

 時間は十時。そこそこに賑わう市場が特に盛り上がった。そちらを見て息をのんだ。

 あの瞬間を俺はまだ覚えている。夕陽色の髪を束ね、優しく市場の人を見つめて話すミカサ。なんて優しく強く、そして美しい人に育ったんだろう。

 トナもイグルスも泣いていた。自分たちが抱っこしたあの小さなミカサが立派になっていたから当然だろう。

 トナとイグルスか?あぁ、トナが姉でイグルスが兄だ。二人とも俺に顔が似て困っている。性格は母さん似だから活発すぎて王族には見えない。

 その日、分かったんだ。ミカサはそこにいた方が良いんじゃないか。俺たちだけが一緒にいたいだけで、ミカサは望んでなんかいないんじゃないか。

 それに、ローレンがミカサとイズラによくしていることぐらい分かっていた。俺たちといるよりも、仕事をしていた方が、きっとずっと幸せだ。

 だからこのときは確認だけに留めた。トナもイグルスも母さんも納得してくれた。あの笑顔をかげらせたくない思いが強かった。

 それから二年ぐらい経って、ローレンが死んだ。病気だったみたいだ。俺は一応王族だから、葬式に呼ばれはした。でも今さら王族と関わるなんて、と思って行かなかった。

 けれど近くまでは見に行ったんだ、金髪は茶色のウイッグで隠して。そうしたら次の王にあの馬鹿息子が座ったじゃないか。

 あの馬鹿息子は、父親のローレンにちっとも似ていない。ローレンは努力家で、周囲をよく見ている。でもアイツは、自分さえ良ければそれで良いと思っている人間だ。

 途中までは城で過ごしていたが、何でも手に入る王族の立場を利用し始めたから遠くで育てることにしたんだ。それでも皇位継承権第一位なんだ。アイツが王になるのは仕方ない。

 俺は国が荒れる前にそこを出た。ミカサを連れて行くか悩んだが、その頃にはミカサもリオもあまり会えなくなっていた。

 仕事を押し付けられているんだろうと思った。でも、俺にはどうすることもできない。結局、自分がかわいくて逃げたんだ。

 ローレンが死んで、他の国は様子をうかがっていた。今に破綻すると思ったが意外と持ちこたえた。それはやっぱり、ミカサたちのおかげだろう。

 それでも資金難だった。だからリオを差し出してたくさんのお金を手に入れようとした。それが婚約だ。王族が貴族と結婚するんだ、普通の結納金では差し出せないんだ。

 結納金がどれくらいの額か分かるか?一千万だ。安いと思ったか?いや、これでもずいぶん高い。十億とかふっかけるかと思ったが、そうではないみたいだ。

 アイツからすればリオを追い出せる、お金も手に入るで良いことづくめなんだろう。だから少しお金は妥協したのかもしれない。

 未来なんか考えられない馬鹿だから、考えられなかったのかもしれない。どっちにしろ、たったそれだけでリオは生贄にされたんだ。

 だから迎えに来た。散々逃げたくせにって思うかもしれない。でも城には帰るな。俺たちが嫌なら雇われ兵士でも良いから国には帰るな。

 その方がきっと良い。ミカサ、お前が国に帰って何がおこると思う?護衛対象のいない騎士は新しく護衛対象を探すことから始める。貴族か、王族か。だとしてもミカサを雇う人は少ない。

 なぜならカースレットとトレーサが散々悪口を言っているから。自分たちの子どもが選ばれなかったことを未だに恨んでいるらしい。

 他がミカサを雇ったとしよう。けれどカースレットとトレーサはそれなりの名家出身だ。ミカサを雇い続ければ取引を切られたりする。そうなったらやっていけないから、要求は丸のみするだろう。ミカサはおはらい箱だ。

 そうやって転々とした後、きっとあの二人はミカサを雇う。そして馬車馬の如く働かされる。騎士の仕事だけじゃない。メイドとか執事の仕事も振られるだろう。休む時間なんてないも同然。それで倒れたら軟弱だ何だと言われる。

 だから戻らないでくれ。かわいい末息子が過労死なんて俺は嫌だから。

 もし、それでも戻ると言うなら止めない。それでも定期的に様子を見に行くから。それで、もしこれ以上は駄目だと思ったら強制的に連れて行く。

 ミカサ、俺たちのかわいい息子。どうか幸せになれる道を選んでくれ。俺たちはこのままリオの婚約者のところに行く。そこで最終的な答えを聞く。

 答えは三つから選べ。俺たちと行くか、国に帰るか、リオのそばにいるか。

 俺たちはミカサの幸せを願っている。

 愛している、ミカサ。


 ティナはそこまで話すと立ち上がった。サラリと金髪が揺れた。深い青や優しく細められていた。

「その鍵、良いな」

「え?」

「綺麗な鍵だ」

「……まさか。古ぼけたものだよ」

「いや、綺麗だ」

 ティナはそう言って笑った。からかっているのかと思った。しかし、どうやらそうではないらしい。

「お前がずっと大切にしていたものだろう?傷はほとんどない。それぐらい大切ってことだろう?」

 手の中の鍵を見る。そう、これはリオから初めてもらったプレゼントだった。宝箱と一緒に渡されたそれは、今はお守りとして持ち歩いているが、昔は大切すぎて宝箱にしまおうとしたぐらいだった。

 この鍵にもリオが絡んでいる。いや、オレのこれまでの人生は、全てリオが中心だった。

 友だちで幼馴染みで、そして好きな人で。姫だから守るんじゃない。オレが好きな人には笑っていてほしかったから。だから苦じゃなかった。

「またな」

 ティナはそう言って森へ消えていった。オレは呆然とそれを見送った。

 サワサワと風が思い出したかのように吹いて頬を撫でる。それにハッとする。月を見ればだいぶ傾いていた。

 先ほどのティナの言葉が思い出される。オレが王族。ならばリオとは結婚もできなければ、結ばれることすら不可能だ。身分違いじゃない。血が、繋がっているから。

 胸が抉られるほど痛い。けれど、これでようやく踏ん切りがついた。このままリオのそばにいれば、きっと大きく膨らみすぎた恋心が暴走するだろう。それだけじゃない。オレが、オレでなくなる気がした。それはリオの知るオレじゃない。

 そんな姿を見せるぐらいならば、オレはリオの前から消えよう。

 握りしめた手の中にいる鍵。これは、ない方が良い。

 オレはそれを思いっきり投げた。それは月の光に反射した後、ボチャンと湖の中に落ちた。ゆうらりと水面が揺れる。どこか他人事のように感じながらオレはそれを見ていた。月が消え入りそうになるまで、オレはじっとそれを見続けていた。


 朝、決まった時間に部屋に迎えに行き、朝食をとる。それから再び馬車に乗って揺られながら他愛もない話をした。

 そして、夕方ぐらいにようやく着いた。大きなお屋敷の前に馬車はとまり、オレのエスコートでリオが馬車をおりた。

 シアンは茶髪に緑の目の背の高い青年だった。イケメンで、にこっと笑った顔は親しみやすい。

「ようこそ、お越しくださいました。僕はシアン・シュレンガー・マニメッサです」

「ご丁寧にありがとうございます。私、リオ・クインハルト・チーリンでございます」

 リオはそう言ってドレスの裾を摘んでお辞儀した。

「護衛の方々もわざわざありがとうございます」

「いえ、仕事なので」

 その言葉にリオが顔を歪めたことに気付いたが、何も言わなかった。

「それでは今晩の準備を始めましょう」

 シアンはリオに手を差し出す。リオは恥じらうようにそっと手をとった。二人が歩き出す。オレも兄もそれを見送った。

「ミカサ」

 二人が屋敷の中に消えた後、馬車をとめに敷地に入ろうとしたら、後ろから声をかけられた。振り返らずとも分かる。

「おとう、さん」

 振り返れば金髪青の目のティナが立っていた。その後ろにはティナによく似た男女と父さんに似た女性が立っていた。

「答えは出たかな?」

「うん」

 うなずく。オレの隣で兄が息をのんだ。もしかしたら兄は知っていたのかもしれない。ふとそう思った。

「オレ、そっちに行くよ」

 答えは彼らと一緒に行く、だった。ティナが目を丸くした後、笑った。ありがとう、と口にする。

 オレは兄を見る。兄は少し寂しそうな顔をしていた。

「兄さん、今までありがとう」

「知っていたんだな」

「うん、昨日聞いた」

「そっか。……元気でな」

 兄はそう言ってオレの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。それからポケットから一枚の写真を出した。そこには赤ちゃんのオレと、まだ若い彼ら夫婦と、まだ幼い彼らが写っていた。

「持ってけ。俺のじゃないしな」

「……うん」

 それをポケットにしまう。それから、兄の肩を叩いた。兄はふっと笑った。

「行ってきます、兄さん」

「……あぁ」

 ティナたちの元へ足を進める。一歩一歩進むたび、オレを思い出たちが囲む。

 兄に憧れて剣を初めてふった日、初めてリオに会った日、誕生日会、植物迷路で遊んだこと、兄の語る冒険譚に耳を傾けたこと、護衛として仕事をした日々、市場で触れ合った人々、もったいないほど綺麗な晴れ着たち。

 その一つ一つがオレの中で再生されて、オレをまっさらにしていく。

「行こうか」

 ティナがオレの手を引く。オレは歩き出した、これまでとは違う道を。

 そんなオレの最後の願いはリオが幸せになることだった。

 それが叶ったかは分からない。



シャッフル/鱸


 長い練習のあと、新木田一夏と伊波真は駐輪場で話をしていた。頭上の白い防犯灯には蛾が纏わりついている。伊波は帰宅しようとしていたが、新木田に呼び止められ、自転車のキックスタンドを下ろした。

「まだなにか用があるの?」

「ごめん。ある。すごく大事なことなんだ」

 いつになく真剣な面持の新木田を前にして伊波も思わず態度を改める。二人は高校入学時から今に至るまでの約三ヶ月をともに過ごした。しかし伊波が新木田のこのような表情を目にしたことは一度もなかった。

「真。きみと二人になる機会があったら言おうと思っていたんだが、……私は真のことが好きだ。だから、真が嫌だと思わないなら、私と付き合ってほしい」

 新木田の声は震えていない。新木田は、伊波がこの申し出を断るはずがないと考えている。なぜならこの三ヶ月間、伊波は新木田たちを献身的にサポートしつづけていたからだ。伊波は頭上に舞う蛾を眺め、改めて新木田を見つめた。

「うん。一夏のことは、……嫌いじゃない、というか好きだけど。……付き合うのはちょっと。ごめん」

 ──そんな馬鹿な。

 承諾以外の返答を想定していなかった新木田は目を丸くした。そして絶句した。新木田は当然、伊波との関係を新たにして陽気に帰宅する計画しか立てていなかったのである。

「別に、一夏を悲しませようとか、そういうつもりはないからね」

「それなら、なぜ断るんだ」

「なんていうか。……身分が違うから」

「身分って、……今の時代、身分なんて関係ない。だいたい現代日本に身分なんて言葉は存在しない。江戸時代じゃあるまいし」

「そう言われても。なんだろう、わからないかな。一夏と俺とじゃ、生きている世界が違うんだよ」

「朝から晩まで学校という狭い世界でともに生きているじゃないか。毎日」

 新木田はあくまでも引き下がらないようだ。伊波はため息をつき、窯で燻したような夜の空を眺めた。

「じゃあ、一夏が明日の試合でホームランを打ったら付き合うことにする」

「え、いや、私はピッチャーなんだが、……条件をつけるならせめて、完封で手を打ってくれないかな」

「今の時代、ポジションなんて関係ないと思うけど」

「待ってくれないか。あの二刀流は外れ値なんだ」

 伊波はキックスタンドを上げて自転車を押す。また明日と告げ、伊波は校門のほうへ歩いていった。その後ろ姿を追うわけにもいかず、新木田は不本意な気持ちのまま一人で帰宅した。


 翌日の公式戦で新木田はあっさりとホームランを打った。おまけに完投、そして完封をやってのけた。

 ──そんな馬鹿な。

 やっぱり、生きている世界が違うじゃないか。伊波は呆気に取られた。伊波が女性選手の柵越えホームランを見るのはこれが初めてだ。伊波は新木田のこれからを考えて達成不可能な条件を提示したつもりだったが、こうも容易くやってのけるとは。

 挨拶を済ませた新木田は、真っ先に伊波のもとへ駆けた。新木田の瞳は澄んだ輝きで満ちていた。

「約束だ、真。よろしく頼むよ」

「あ、うん。わかったけど後悔しないでね」

「しない。早速だが今日はいっしょに帰ろう」

「九回投げたんだから休めばいいのに」

「二回戦は三日後だ。明日の練習も早くはない」

「はいはいはい、わかった、ストレッチしてくれば」

 新木田は嬉々とした表情で頷き、他の選手とともにストレッチを始めた。伊波は残りのプロテインドリンクを用意し終えるとそれを部員たちに渡した。

 すっかり日が暮れた帰り道、新木田の望み通り二人は並んで歩いていた。新木田は重たい道具を抱えながら、伊波は自転車を押しながら、普段と同じような内容の話をしていた。あの選手の成績がどうだとか、あの監督のここがよくないだとか、他愛もない話だ。

「真、買い食いをしよう。あそこのお店で」

「俺はいいけど。一夏、なんでもかんでも好き勝手食べるなってご両親に言われてるんじゃなかった?」

「言われてる。でも、別にいいじゃないか、せっかく真と二人で帰ってるんだから」

「いや、うん、……まあ、そう、なのかな」

 伊波は買い食いをしたくなかった。今月はただでさえ医療費が嵩んでいるから、こまごまとした出費だとしても控えたいのにな、と思った。一方で新木田は、別に両親に買い食いを咎められるくらいなんでもないことだと思っていた。あとで数分叱られることを回避するよりも、今、伊波と買い食いを経験したい。

「一品だけね」

「わかっているよ。どれにしようかな」

 二人は並んでショーケースを見つめる。新木田は食品サンプルを、伊波は値札をじっと観察した。新木田は店員に、レタスとハムのクレープを注文する。トッピングについて問われると、じゃあチーズを、と返答した。さっさと会計を済ませて伊波を待っている。

「そんなに迷うことなのか」

「迷うよ。ごめん、全部美味しそうでさ」

 最安値のクレープはホイップとバナナにチョコレートソースがかかったオーソドックスな組み合わせのものだが伊波は甘いものが得意ではなかった。新木田のように塩辛いクレープを思い切り食べたいような気もする。しかし夕飯のことを考えると、内容が重複しないようにまた献立を考え直したくなる。間食と同じものでも実害があるわけではないが。なにより小腹を満たせるようなクレープはどれも値が張る。待ちわびる新木田を横目に散々迷った末(とはいえ三分程度だが)伊波は最も安価なバナナのクレープを選んだ。

「そうか、……意外だな。真が甘いものを食べているところを見るのは初めてだ」

「まあ、学校では甘いものを食べる場面もないし」

「それもそうだ。じゃあ真は、本当は甘いものが好きなんだな」

「そういうわけでもないんだけどね」

 新木田の頭上には疑問符が浮かんでいた。

「別に俺がなにを食べてもいいでしょ」

 伊波としては、新木田のために必要な出費であることを理解し、それを最小限に抑えるため自分なりに答えを出したしたつもりだった。結果、四百円の出費に加え、不本意な味がするクレープを食した。新木田がそれで満足するなら買い食いをしてもよかったが、むしろ新木田に不信感を抱かせてしまった。

(多少高くても、数十円だ。失敗したな)

「こうやって並んで食べると更に美味しくなるな」

「あ、うん。それならよかった」

 二人は小さなイートインスペースでクレープを頬張りながら過ごした。腹を空かせた新木田よりも、伊波のほうが早く食べ終わった。伊波は幸せそうに食べる新木田を見ながら、「一夏は家に帰ってまたご飯を食べて、お風呂に入って寝るんだろうな」と思った。


 新木田は夢を見ていた。自分が愛する球団に一位指名され、一億円の契約金を受け取る夢だ。まず、育ててくれた家族にお礼をしよう。スポーツはなにかとお金がかかる。道具も、遠征費も、食費も。泥だらけの練習着を毎日洗濯してくれた母親、手に馴染むバットやグラブをいっしょに選んでくれた父親。部活動がない日にはともに旅行を楽しんだ姉と妹。今度は私が稼いだお金で皆を楽しいところに連れて行こう。家族に恩返ししたら、伊波といっしょに住むための家を買おう。のびのび過ごせる広い家だ。出かけられるように車を揃えたり、植物を育てたりしたい。もっと活躍できるようになったら、世界を平和にしたい。

 伊波は夢を見ていた。宝くじが当選し、六億円が自分のものになる夢だ(伊波は生まれてこの方宝くじを買ったことがない)。まずは施設を探そう。そして父親と別れたら、1Kの部屋を借りて引っ越そう。電子レンジと冷凍庫を買い直し、できれば、冷凍チャーハンを二袋食べたい。腹ごなしに散歩をしたら、涼しい時間帯を選んで露天風呂つきの銭湯に行きたい。六億円が尽きるまで一生そうやって過ごしたい。

「新木田。伊波。試合に行って疲れているのはわかるが、授業中は居眠りをするな。当たり前のことだぞ」

 居眠りをする二人のうち、先に目を覚ましたのは伊波だった。教員に肩を叩かれたからだ。まったく、伊波にそうするのであれば責任を持って新木田のことも肩を叩いて起こせばいいではないか。伊波は仕方なく隣に座る新木田に声をかけ、頬を突いて起こした。伊波はただ単に、投手の肩に触れる勇気がなかったのである。

「一夏。寝るなってさ。お前、九回投げたしね。まあ眠いのはわかるんだけど」

「あ、……真。授業中か、今。いや、疲れもあるけど昨晩はその、……嬉しくてなかなか寝つけなかったんだ」

「そうなんだ。買い食いくらいで」

「くらい、じゃないだろう」

 昨晩、伊波は新木田と解散したあと、帰宅して夕食を作った。そしてなんとか父親を叩き起こし、食事をとらせることに成功した。伊波の父親は寝ている。食事さえ欠かさなければ、今日だって生きている。

「真も眠っていたのか?」

 教員が遠くへ去ると、新木田は小声で伊波に問う。

「寝てたよ。ぐっすりね」

「昨晩嬉しくて眠れなかったからか?」

「まあ、そんな感じ」

 伊波が夜中に内職を進めていることは、誰にも知られてはならない。相手が新木田であっても同じだ。それはなぜか。……知られたら、監督に叱られるからだ。

 新木田は喜んだ。自分が伊波を好いているのと同じように、伊波も自分を好いている。帰り道にクレープを食べたささやかな幸せを噛み締めて、夜も眠れなくなるとは。自分が向けた分だけの愛情を、こうやって伊波は返してくれる。明後日の試合でも高いコンディションを保ち、彼女は活躍するだろう。

 伊波は喜んだ。新木田がクレープの件を喜んでいるらしいと感じ取ったからだ。自分の頭は昨晩消えた四百円のことでいっぱいだったが、あの時に抱かれたはずの不信感を、どうやら新木田本人は忘れているようだ。内職での収入はおそらくクレープの支出と合わせてプラスマイナスゼロだろうが、自分の言動が新木田のメンタルに影響しないのは助かる。素直な新木田は、気分が結果に出やすい。伊波はもし自分が監督に問い詰められたら言い逃れができないと考え、危機を回避できたことに安堵していた。


 昼休み、伊波は新木田に呼び出された。呼び出されたといっても、悩みがあるから弁当を食べながら話したいと言われただけだ。場所は屋上だ。こんなに暑いのに屋上だ。他の生徒がいないわけでもないのに屋上だ。わざわざ屋上だ。屋上だ。

 日陰は他の生徒に占領されている。どこに座っても平等に暑い。新木田と伊波はフェンスを背もたれにして座った。

「さっき、真といっしょにクレープを食べたことが嬉しくて眠れなかったと言っただろう。もし今後も真と過ごすことで眠れない日が続いたら試合に影響が出るような気がするんだが、……どうすればいいと思う」

 悩みとはそんなことか。伊波はぼんやりと頭に浮かんだいくつかの感情を掻き消しながら、最適な言葉を探した。なんとなく弁当箱を開き、今朝作った卵焼きに箸で触れる。卵は高いからもうやめるべきか──いや、今は卵のことなどどうでもいいはずだ。

「どうすればいいんだろうね。そのうち慣れるんじゃないの?」

「すぐに慣れることができればいいんだが。……去年エースだった生徒が卒業したようだから、今、先発で登板できるのは自分だけだ。自分が投げられなくなったらチームが勝てないかもしれない、……と思ってな」

 この切ない言葉を、新木田は大量の唐揚げとともに飲み込んだ。伊波は新木田の純粋な悩みに対し、人のことを心配している余裕があるのかと問いたかった。

「一夏はもうちょっと野手を信頼したら。俺も打たれたと思って振り向いたとき、なぜかそこにショートがいて驚いたことが何回も──」

 新木田は箸の先端を下唇に触れさせたまま、ぽかんとしていた。伊波は、しまった、と自分の口を押さえる。そして新木田から目をそらした。

「真、……きみ、ピッチャーだったのか? いやその前に、やっていたのか、野球。……だから今、野球部のマネージャーに? いや、違う、むしろなぜきみはマネージャーをやっているんだ?」

 誤魔化すための言葉を考えつつも、伊波はとりあえず弁当を食べ進めた。量の多い弁当ではない。しかし部活が終わるまで身体を保たせなければならない。なんとか予鈴が鳴る前にすべて食べ終えなければ。どうせ黙っているなら、食べたほうがいい。今は口にものが入っているから新木田の質問に答えられないのであって、彼女の質問を回避したいわけではない。

 怪我での引退、……は、同じピッチャー相手につき通せる嘘ではない。マネージャーをやっている以上、興味がなくなったという理由も無理があるだろう。だからと言って自分の家庭について詳しく話せば素直な新木田は悪気もなく同情し、そして、自分がなんとかせねばと余計なことを考え始めるような気がした。

「やってたよ、野球。ピッチャーだった」

 伊波はまず先程の発言の内容を認めた。

「だから今、野球部のマネージャーをやってる」

 接続詞に間違いはない。野球を嫌いになってやめたわけではないのだから、矛盾はない。

「今俺が選手じゃないのは、……」

 ここが問題なのだ。「親に反対された」なら新木田は伊波の親を説得しに訪問するかもしれない。「選手よりマネージャーをやりたかった」なら選手を志すよりも強い動機が必要になる。どうしようもないというのか。

「選手じゃないのは、お金がないから」

 伊波は新木田に真実を伝えた。

「お金がない、……のか、本当に? この学校は学費も安くはないはずだが」

「本当だよ、学費はさ、勉強頑張って特待で入学したから免除なの。でも部活にかかるお金は学費に含まれてるわけじゃないからね。いろいろ道具がなきゃできないでしょ、野球は」

 金について話をしていると、伊波は再び昨晩消えた四百円の亡霊に囚われる。内職で稼いだ分は遠征に使うつもりで貯めていた。祖父母からの仕送りでは、伊波と伊波の父親の生活を支えるだけで精一杯だ。

 新木田は意外にも、道具なら自分が貸すだとか、これからの買い食いは自分がお金を出すといったような発言はしなかった。

「そうだったのか。知らなかったよ。だから真のアドバイスは的確なんだな」

「まあ、経験者だからね」

「今晩も眠れないかもしれない」

「なんで」

「真が私と同じポジションだったのが嬉しいから」


 打撃練習中、伊波は新木田に、できれば本気で投げてくれと言われた。今まではマネージャーらしく、籠に座って軽くトスをしていただけだ。新木田に怪我をさせてはいけないという気持ちもあり、伊波はアウトコースを狙って投げた。打球は快音とともに空に打ち上がり、新木田は晴れ晴れとした表情を見せた。

 帰り道、買い食いはしなかった。新木田に気を遣われているのであれば、伊波は気分がよくない。だらだらと話をしながら帰宅するだけなら以前となにも変わらないじゃないか。

「一夏は俺と買い食いをしなくても別にいいの?」

「よくはない。真と買い食いはしたい。でも、毎日である必要はないんだ」

 新木田なりの結論を、伊波は同情であると受け取るほかない。

「俺にお金がないから我慢してるんでしょ、それ」

「真にお金がないから我慢しているよ。さっき自分でお金がないと言っていたじゃないか」

「やっぱり、身分が違うとそういう余計な苦労があるじゃん」

「食事の我慢は、さほど苦ではない。難点があるとすれば、真と時間をともにする口実が無くなることだ」

 伊波にとっては金銭的余裕の無さそのものが致命的な悪条件だった。一方で新木田は、伊波と過ごそうとするとき、買い食い以外の方法がわからないことが問題だった。

「それだけなら別に、……買い食いとかしなくても、一夏といっしょにいることは、全然、できるけどさ」

「本当か。なにをするんだ」

「なにもしなくてもよくない?」

「なにもしなくても、いっしょにいていいのか?」

 新木田は伊波のほうを見ていたばっかりに、点灯した赤信号に気がつかなかった。伊波は、横断歩道を渡ろうとする新木田の腕を掴んで止めた。

「危ないよ」

「危なかった。助けてくれてありがとう」

 新木田は笑顔で例を伝える。伊波は、いっしょにいるためになにかしなければならない関係を、付き合っていると形容するのは相応しくないと思った。

「俺といっしょにいる口実がほしいだけなら、別に買い食いじゃなくてもいいって。俺は本当になにもしなくていいけど、気になるなら、……キャッチボールくらいは付き合うし」

「そのための時間が、真にはあるのか?」

「時間があるとかないとかじゃなくて、作るものになるんじゃないの。付き合うんだったら」

「きみのように素敵な人を私は他に知らない」

「俺も一夏みたいな選手は見たことない。本当にホームランを打つとは思わなかった」

「そうしなければ付き合わないときみが言ったんだ」

「だって一夏が将来困ると思ったから」

「困らない」

「困るかもしれないでしょ。すぐ断言しないでよ」

「困らないよ。真がいてくれさえすれば、私は一生困らない」

「頑固すぎ。まだ三カ月しかいっしょにいないのに」

「でもホームランは打った」

「それはそうだけどさ」

 信号機が青く光った。新木田と伊波は対岸に向かって歩く。自然と会話は途切れてしまった。

 新木田は既に、今後について考えていた。伊波といつ、どこでキャッチボールをするのか。デートのために洋服を新調するような気持ちで、新しいグラブを買いに行きたくなった。今後も伊波とともに過ごし、生涯幸せな日々を送れると信じて疑わなかった。

 一方で伊波は昨日クレープとなった四百円について考えていた。もしあの四百円が戻ってきたら、貯金箱に入れるだろう。今後も別の方法で新木田をサポートできるのであれば、遠征費はもういらない。マネージャーをやめて、キャッチボールの専門家にでもなったほうがいいかもしれない。部活の間は自宅で内職をして、新木田が帰宅する時間になったらボールとグラブを持って外に出る。このようにして遠征費やらを節約すれば、なんとか新木田と使うためのお金を作れるかもしれない。しかし伊波が野球部のマネージャーをやめれば、新木田とともに過ごす時間は減る。時間の確保を優先すれば金が不足し、金稼ぎを優先すれば時間が不足する。せめて一人で暮らせればどんなに楽か。

 新木田は一切の問題を抱えずに、伊波はさまざまな問題に直面しながら、それぞれの速度で横断歩道を踏みしめた。

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聖徳大学 文芸研究同好会

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