【小説】8月お題『呪い』

こんにちは。文芸研究同好会です。

全員共通のテーマで作品を書くお題企画の8月分です。

8月のお題は、『呪い』でした。

以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。

※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。



夜の箱の中で/月夜


 月光に照らされた道をひょこひょこと歩く青年がいた。広い道の中央、所謂車道を歩く青年は抜けるような白い肌と真っ赤な目と闇のような黒髪を持っていた。日光の下で見れば、誰もが振り返る美貌だと言うのに、今が丑三つ時だからか、青年の姿を見る者はいなかった。

「どうしましょう、迷子です……」

 二日前にこの地域に越してきたばかりの彼は困ったように眉を寄せた。昨日は一日中荷解きをしていたせいで、今日が初めての外出であった。そのせいか、いや、単に興味のおもむくままに歩を進めたことが悪かったのだろう。彼は見事に迷子になっていた。家に帰ろうにも現在地すら把握できていない彼には、帰り道すら分からなかった。だってどこまでも広がる田畑に全く見覚えはないのだから。

「うーん、誰かに聞くにしても」

  ——こんな時間に起きているヒトは、いないでしょう。

 彼は腕時計を見た。日の出までまだ数時間ある。かと言って日の出まで待ってしまえば、彼の命に関わる事態だった。彼は日光の下では生きていけなかった。ひょこひょこと酔っ払いのように揺れて歩きながら、ぐるぐると同じような景色を眺めていた。

 このまま死を覚悟した方が良いかも、と思ったとき、ふと、彼の耳が弱々しい声を拾った。小さな小さな歌声だ。常人ならば聞き逃してしまうほどの掠れた小さな声。青年は導かれるように歩を進める。

 そして、見付けた。

 竹林の中の立派な家屋の縁側に青年が腰かけていた。

 日焼けしていない白い肌は白を通り越して薄く血管が見えて青く、皮と骨しかないような細い腕や体躯は目に鮮やかな赤と黄色の子ども向けであろう着物に隠されている。肩にかかる細い黒髪は傷んでおらず、ゆらゆらと風になびき、晴れ渡った青空の目が沈黙の月光を取り込んで、まるで泣いているかのように見えた。小さな唇が紡ぐ歌は、細く弱く、そして脆かった。ポキリと折れてしまいそうなほどだった。

 彼は息を飲んだ。ふわりと彼の鼻をくすぐった香りは、不健康そのものだった。目をはなせば死んでしまう赤子のようで、彼は思わず駆け寄った。

 危険だ。このヒトを寝かせないといけない。それだけが彼の胸を占めた。いや、彼には別にそんな使命はなかった。けれどふうっと息を吹きかけてしまえば死んでしまうような、そんな儚さが青年にはあった。ぎいっと青年の手首を掴んだ彼を、青年はパチクリとした大きな目で見た。それが驚愕に彩られ、ほんの少しの期待が滲んでいくのを彼は黙って見ていた。

「てんしさま?」

 声変わりを終えた青年の声。そのわりには細く脆く、ひょぉひょぉ鳴く風のようにも甘くささやく女のようにも聞こえた。

「ぼくは天使じゃないですよ」

 彼は静かに答えた。アルトの声は彼と言うよりは彼女に近かった。青年は静かに目を伏せて、それから残念そうな顔をした。しかし、すぐにまた彼を見た。

「じゃあ、しにがみ?」

「いいえ。死神でもありません」

「じゃあ、あなたはヒト?」

「……ええ、そうです」

 彼は青年の問いに思わず嘘をついた。青年が彼をヒトと思いたかったように見えたから。それと同時に、自分がどうしようもない化け物の血を持つ存在であることを忘れたかったから。

 パアッと青年は分かりやすく顔を輝かせた。桃のように滑らかな頬がゆっくりと熟していく。

「ぼく、僕……!初めて会えた……!」

 ——僕の声を聞いても、起きているヒトに。

 青年の言葉を聞いて彼は激しく後悔した。自分は夜を生きる化け物で、青年の望むヒトではなかった。それどころか、青年のようなヒトを食べてしまう種族に分類される者だった。それでも嘘をついたことに罪悪感はわかなかった。青年はしばらくはしゃいでいた後、ぱたりと手をおろした。コツンと手と床が触れて音が鳴った。その音で彼は青年に意識を向ける。

「僕、弱竹春当です。あなたは?」

「なごみ、です」

 彼は思わず返事をした。ここでは嘘をつかなかった。嘘をつくメリットがなかったから。

「なごみさん。……ふふっ、うれしい」

 ふんわりとホットケーキが膨らむように春当は笑った。着物を着た細い肩が揺れる。

「ねぇ、なごみさん。明日も会える?」

「……はい」

 春当はなごみの返事をとても喜んだ。そして、小指を差し出した。なごみが戸惑っていると春当は着物の袖で隠れていた手を出して、なごみの小指を立たせると自身の小指と絡めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます」

 楽しげな掠れた声で歌う。無垢な声の響きの割に歌っている歌の内容は怖かった。指切った、と絡めていた小指をはなす。そして満足そうな顔でなごみを見た。

「また明日」

「は、はい、また明日……」

 なごみは去ろうとして思い出す。自分はどうしてここに来たのか。それは迷子だからだ。

「あのう、つかぬことを伺いますが、ここはどこですか?」

「え、なごみさん、迷子?」

 月夜野家が越してきた町は村と言っても差し支えがないような場所だった。周囲は田畑と竹林。地域のヒトの就寝や終電は早く、朝日が出ると同時にほとんどのヒトが起きる。そんな規則正しい場所を選んだ理由は、長男でもある和心が吸血鬼の特性を持つからである。

 夕方、大学から帰ってきた姉の大和とクラブ活動を終えた妹の心愛が和心の部屋に入ってくる。和心の部屋には窓がない上に、三方向が襖になっていた。日光の入らない家の中央の部屋を和心は与えられていた。それは単なる特別扱いではない。和心が生きるために必要なことだった。

「おかえりなさい、大和姉さん、それに心愛」

「ただいま、なご兄!」

「ただいま。そういえば和心、昨日の散歩はどうだったの?」

「うーん、ヒトと仲良くなりました」

「ヒトと⁉すごい!」

「というより起きているヒトがいたんだね」

 茶色の髪を揺らして大和が言う。クールな見た目だが、一度懐に入れた者にはトコトン甘い。一方、心愛はショートカットの黒髪を揺らして笑う。元気っ娘な印象だ。このどちらも和心とは違う。吸血鬼ではなくヒトの血が強く、日光なんてへっちゃらなのだ。だから月夜野家は姉妹二人と言われている。

「ねぇ、どんなヒト?」

「うーんっと、えっと」

 ホットケーキみたいに笑った春当を思い浮かべる。不健康そのものだったが、きっとちゃんと健康になれば美味しい血を持っているだろう。いや、そんな吸血鬼ちっくな答えじゃなくて。もっとずっと普通の感性で見た春当の印象を——。

「かぐや姫みたい、でした」

 ぽつりとこぼれた言葉に和心は納得する。どこか古い時代を想起させるような服装と病気ではないかと疑うほどほっそい身体。今にも消えてしまいそうな横顔は、月に帰る運命を持つかぐや姫のようで——。

「へぇ〜」

 大和はふっと笑う。吸血鬼とかぐや姫だなんて変な組み合わせだ。それでも和心とならば似合うんだろう、と思えてしまうのは、大和にとって和心が弟だからか。

「夕食にするよ~?」

「はーい」

 母の声に急かされ、三人はリビングに向かった。

 ヒトの家族にとっての夕食、和心にとっての朝食を口にした後、和心は外出の準備を始めた。腹ごなしに出かけるのだ。そこへ寝る準備の完了した母がやって来る。眠そうな目をしている。時刻は十時。早い就寝時間だ。以前よりも起きていられなくなったのか、この町に越してきてからはずっとこの生活だった。

「お休みなさい。今日も行くの?」

「はい。春当くんと約束しましたので」

「気をつけてね。戸締まりはいつもの通りに」

「分かっています。お休みなさい、お母さん」

 闇のように黒い髪に合わせたカジュアルな服をまとった和心はポケットに心愛が書いてくれた地図を入れてそっと二階から地上に降り立った。窓に意思があるように閉まるのを確認してからそっと歩き出した。

 今日は月が隠れてしまっていた。きっと真ん丸ではないからだろう。昨日の満月はとても大きくて綺麗だった。だからこそ、少し欠けた姿を見せることを恥ずかしがっているのだろう。

 家の庭を抜けて、敷地外に出る。昨夜は同じに見えた暗闇の先に微かに剥げた遊具が見えた。その方向は駅だ。つまり、春当の家と逆方向。和心は反対に足を向けた。昨日のうちに春当の家と自分の家の場所と道は把握していた。和心はふわふわと踊るように歩いて春当の家まで行った。

 意外なことに、春当の家と和心の家は一直線だった。もちろん道はカーブしているため、いくつか曲がらないといけないが、そんなことはたいした労力ではない。大きくそれた直線に戻れるよう何回か曲がれば、『弱竹』と書かれた札が見える。高い塀に囲まれ、庭を喰い殺そうとばかりに広がる竹林を見て、間違いないと確信する。ひょいと塀を越えて中に入った。昨夜は壊れた塀の一部から入ったが、そこまでの行き方を忘れてしまったので、今夜はそれも確認しようと決めていた。

 竹林の中、昨日と同じ縁側に春当はいた。昨日と同じ赤と黄色の着物の袖をくるくるさせて遊んでいた春当は和心に気付くと小さく笑い声を漏らして手を振った。ニンジンを見付けたうさぎみたいだった。

「来てくれたんだね」

「約束しましたので」

 ——嘘をついたら針千本飲まないといけないのでしょう?

 和心が聞けば、春当は目を団子のように丸くした後、吹き出した。肩が楽しそうに上下する。けれどその声はひどく掠れていた。

「あれは比喩だよ。本当に飲まないといけない、わけじゃないから」

「そうなんですか?」

 和心はそう言いながら縁側に腰掛けた。そうすることでより近くで春当を見れた。晴れ渡った青空の目は、やはり和心にとっては身近なものではなかった。しかし、近付いたことで分かったこともある。やはり春当は折れそうなほど細い。食べ終えた骨付きチキンのようで和心は心配していたのだ。こっそり戸棚からキャラメルを持ってきて良かった。

「食べますか、キャラメル」

「い、良いの?」

 ポケットからキャラメルを出せば春当はおずおずと受け取った。銀色の包装紙をといて、四角いキャラメルを口にした。

「甘い」

 ころころと口の中で転がしてなめる春当を見ながら和心は空を見上げた。変わらず曇天。雨が降っていないことだけが幸いした。雨が降ったら散歩に行くことはしないから。

「なごみさんは、昨日、帰れた?」

「ええ。ちゃんと帰れました。ありがとうございます」

「えへへ、良かった。今日は迷わなかった?」

「ええ。妹が地図を書いてくれたので」

 春当が不思議そうな顔をする。そういえば昨夜、二人は会ったばかりだった。それに昨日はたいした話はしていなかった。話したことと言えば和心がヒトだと嘘をついたこと、春当がヒトを眠らせてしまうこと。そして、和心が迷子だということ。それだけだった。

「あぁ、ぼく、妹と姉がいるんです」

「そうなんだ」

 青白い顔にさっと桃色がさした。どうやら春当にも兄妹がいるらしい。

「春当くんは?」

「僕には兄がいるよ」

 和心の言葉に食いつくように答えた春当はすぐに顔を林檎にしたけれど、和心は気にしなかった。

「どんなお兄さんですか?」

「優しいよ、すっごく。父さんたちにバレないように防音室の扉を開けてくれるんだ」

 ——だから出られるの。

 和心は春当にバレないようにため息をついた。

「なごみさんの妹さんは?」

「ぼくの、ですか?……ぼくに色々と教えてくれるんです。キャラメルもおやつにって言っていました」

 心愛は戸棚にあるんだよ、と弾んだ声で教えてくれた。それがとても嬉しくて、和心はキャラメルの箱から二個取り出してポケットに忍ばせたのだ。どちらも春当にあげるつもりで。ポケットからもう一個取り出すと、春当の手に握らせた。ぎゅっと手を重ねる。

「良いですか。お腹が空いたら食べてください」

「今じゃないの?」

「はい。今ではなく、日中です。春当くんがいつもいる部屋で、お腹空いたなって思ったら食べてください」

 再三そう言えば、春当は神妙な顔でうなずいた。それを大きな袖の中に隠した。落とさなければ良いと和心は思った。不意に風が、強く吹いた。雲の切れ目から恥ずかしがり屋な月が顔を出していた。ほんの少しだけ欠けた月は、それでも雲のカーテンを離さない。

「どうして和心さんは、僕に優しくしてくれるの?」

 ふと春当はそう言った。和心が春当を見れば春当は真剣な顔をしていた。それを見て、きっと家族は春当を疎んでいるのだろうと感じた。和心も自分が他と違うと知った幼少期、家族はかわいそうだから優しくしてくれると思っていた。あれもこれも、父母や姉がやってくれる理由は、和心が怖いから。

 けれど違った。彼らは家族だからと言って和心を『ちゃんと』家族として扱ってくれた。それが春当にはないのだろう。彼が優しいと評した兄でさえ、本心では春当のことを嫌っているかもしれない。そう思えば、春当がひどく孤独な人に感じられて胸が痛んだ。

「春当くんは友だちですから」

 心愛が、友だちができたと笑っていたことを思い出していたら、そんな言葉が口をついて出た。春当は初めて聞いたらしい『友だち』の言葉に不思議そうな顔をしていた。

「仲が良いってことです」

「それって当麻兄とどう違うの?」

 当麻兄。それが春当の兄の名前だろうか。和心は深く考えずに春当を抱き寄せた。折れそうなほど細い身体を壊さないよう気をつけた。すうっと吸い込んだ春当の不健康そうなにおいには竹の匂いが混ざっていた。長く竹林に囲まれて生きていればそうなるのだろう。

「家族以外で優しくしたい、一緒にいたいって思う相手のことです」

 それが『友だち』なのか、和心にも自信がなかった。けれど、心愛の話を聞く限りはそういう相手らしい。

 本音を言えば。和心だって友だちは初めてだった。けれど、ずっと憧れてはいた。心愛や大和が『友だちが』と言うたび、自分にもいつかできると叶わない願いを抱きながら。

「え、へへ。嬉しい」

 春当がそっと和心の背へと手を伸ばす。するりと撫でる手付きはまだまだ不格好だ。けれど、和心の心を満たすものがあった。

「友だちって何をするの?」

「えっと、」

 和心は必死に心愛が教えてくれたことを思い出す。友だちとどこに行く、何を見る、あれをする。けれど、そのどれもが太陽があるときにすることばかりだった。それに、春当の格好では難しいだろう。

「おしゃべりをしたり、遊んだり、ですかね」

「じゃあ大丈夫だね」

 春当は和心の背へと伸ばした手をぶらんとおろす。和心もそっと身体をはなせば、春当がにこっと笑った。

「僕、なごみさんと『友だち』になれて嬉しい」

「ぼくもです」

 少し赤い頬を隠して和心は肯定した。春当がやはり嬉しそうに笑った。

 和心の一日は夜明けとともに終わり、日が沈んでから始まる。家族は日中、和心が部屋を出なくても良いようにトイレも小さな冷蔵庫もお菓子もお皿も給湯室のようなスペースも造った。完全な昼夜逆転生活だ。しかし、家族はそれを受け入れたし、むしろ率先して和心を甘えさせた。ヒトと違うからと恐れる必要はないと分かっていたからだ。和心はヒトと同じ、いや、それ以上に優しくてかわいい家族なのだから。

 その結果、駄目になる前に自立しなくちゃいけないと思った和心はどんな相手とも上手く関わるために敬語(大和と心愛の教科書にあった丁寧語)をマスターし、穏やかな顔をすることを徹底していた。

「おはようございます、お母さん」

「うん、おはよう」

 おはようと言うような時間ではないことは分かっていた。けれど、起きたらおはようなのだから仕方ない。

「あっ!和心、おはよう!」

「大和姉さん、おはようございます」

 大和が部屋に入ってくる。少し疲れた顔をしているのは、今日が金曜日だからだろうか。

「今日はどうする?」

「春当くんに会いに行きます」

「まあ。和心は春当くんと友だちになったの?」

「はい、ぼくの友だちです」

 和心の言葉に大和も母も息を飲んだ。それから嬉しそうに二人は笑った。ずっと孤独な夜を生きてきた和心にとっての初めての『友だち』。二人は歓喜した。できることならば自分たちも会ってみたい。

「ただいまー」

「お父さん、お帰りなさい」

 部屋に現れた父は敷き布団の上に座る和心を見た後、その闇のような黒髪を撫でた。父の髪色は吸血鬼の曾祖父譲りの漆黒だった。ただし目の色は遺伝しなかったようで、この国のヒトらしい黒だった。

「そろそろ夕食にしましょう」

 和心は母の言葉にうなずくと父も大和も母も部屋から追い出すと着替えた。さすがに寝間着のままではいられないからだ。部屋を出てリビングに行けば、カーテンが閉められていた。きっとまだ太陽が出ているのだろう。和心は細やかな配慮を感じながら椅子に座った。

「なご兄、おはよう」

「おはようございます、心愛。今日の学校はどうでしたか?」

「うん!あのね、莉愛ちゃんと『友だち』になったの」

 心愛はそう言って右斜め前の席の莉愛ちゃんについて話し始めた。綿あめみたいな子らしく、心愛は明日、早速遊びに行くらしい。

「そっか、休日だもんね」

「やま姉の大学は土曜日もあるもんね」

 心愛の言葉に大和はうなずいた。大学まで片道二時間はかかる。大きな駅までは車とは言え、どこかのテレビ局でやっている遠距離通学に出られるほどの通学時間だろう。当人はあまり気にしていないようだが、土曜日まで講義があるとつらいらしい。

「あ、ヤバ。課題やらなくちゃ。ごちそうさま。私、しばらく部屋にこもるね」

 大和はそう言って皿を持って台所に消えた。

「和心も早く食べちゃいなさい。色々なところを見たいって言っていたでしょう?」

「まだ涼しいから良いけれど、もう少ししたら暑くなるから気を付けて」

「はい。それじゃあぼくも行きますね」

「なご兄、いつの間に!」

 心愛が驚く中、和心は食器を持って台所のシンクまで歩いた。食器を置いて、玄関に向かう。

「気を付けて」

「はい」

「いつものところを開けておくから」

「分かりました。行ってきます」

「行ってらっしゃい、なご兄!」

 ヒラヒラと心愛が手を振る。パッとリビングに戻っていったからきっとまだ食べている途中なのだろう。和心は微笑ましく思いながら静かに外に出た。

 静かな世界はヒトもヒトでない者も受け入れてくれる。和心は夜しか外に出たことがないから分からないが、夜という時間が好きだった。家の敷地から出ると静かに春当の家に向かった。しかし聞こえる声は春当のものではない。腕時計を見れば、普段よりも少し時間が早かった。珍しく今日は早い夕食だったようだ。

「駅の方に行ってみましょうか」

 この地域のヒトが眠る時間まで待ってみよう。和心はそう思いながら駅に向かって歩みを進めた。春当の家に向かうときと同じような田畑を眺めながら、心愛にもらった地図を頭の中に広げる。もう少し行けば八百屋、そのまま直進すれば郵便局、左折すれは公園、右折すれば駅。

 どこに行ってみようか。郵便局はもう閉まっている時間だろう。けれどポストはあるみたいだし、ヒトは来るはずだ。駅は終電の時間まであと少しあるため確実にヒトがいる。それならば、公園がひとりになれるだろう。八百屋のところを左折して、和心は公園に向かった。公園の遊具は少し錆びていた。それだけ長い時間、ここにあるということだろう。和心はその中の一つ、シーソーに腰掛けた。ガクンッと音を立てて軋みながら沈む。どうしようもなく独りなのだと自覚した。本来は二人で乗って遊ぶシーソーに独りで乗るとこれほど寂しいものだったのか。和心はそれを初めて知った。

 不意にキィッと音を立てて和心が乗っていた方が上がる。驚いてしがみつくと同時に見た反対側には若い男が座っていた。年齢は大和と大差ないように見えた。近くにはリュックが放置されている。ぼんやりとした光で見るその人物は春当と同じ青空色の目をしていた。戸惑っていると沈んだ男が地面を思いっきり蹴った。すると和心の側が今度は沈んだ。と言ってもたいした沈み具合ではなく、結局男がまた沈んだ。けれど、男は諦めないでまた同じことをした。結果は同じ。けれど、この上下する動きがとても楽しくて和心は笑った。

 すると男も笑った。沈む度に地面を蹴るなんて面倒で疲れることだと言うのに、彼は笑ったのだ。その感情がなんなのか、和心には分からなかった。しばらくそれを楽しんでいたら、男がシーソーをおりた。急にガコンッと沈んで和心は驚いたが、それよりも驚いたのが、男が和心のすぐ近くにいたことだった。

「何歳?」

 ちょっとばかしぶっきらぼうな言い方。けれど和心は嫌じゃなかった。

「十七です」

 男は驚いた顔をした後、家はどこだ、と聞いた。

「えっと、」

 知らない人に教えてはいけないと母に言われていた。遅い時間に未成年が外にいると補導されるのだそうだ。しかし、和心は補導がなにか分からなかった。知っていることは『補導される=悪い子』ということだった。

「補導、します?」

「いやしない。俺にはそこまでの権限がない」

「じゃあ、どうしてですか?」

「送る。早く帰らないとその辺で眠ることになるから」

「その辺で眠ることになる……?」

 和心はよく分からず目を丸くする。だって、和心にとっては夜こそ生きる世界だと言うのに、どうして眠らされるんだろう。和心にはそれが分からなかった。

「良いから。家、どっち?」

「え、本当に行くんですか?」

「そりゃそうだろ。ほら、早く。俺の家の方で良いか?」

「家の方……?」

 ぐいっと腕を引かれて立ち上がる。男はため息をつきながら言った。

「竹林の方」

 和心はそれだけで分かった。この男は、春当の兄だ。あの春当の兄だ。

 和心はぶんっと腕を振った。反動で男の手がはなれる。

「どうした?」

「ぼく、反対方向なんです」

「だったら送、」

「大丈夫です。帰れます。ありがとうございました」

 それだけ言って駆け出した。和心にとっては一秒だって男と一緒にいたくはなかった。だって。春当はあんなに不健康そうなにおいだったのに、あの男は少し薄い竹林と濃い健康的なにおいをさせていたから。それがなんだと言うかもしれない。けれど、和心にとっては苦しいものだった。あれほどヒトを憎いと思ったことはなかった。あれほど血を吸ってやろうと思ったことはなかった。けれどけれどけれど。それをやってしまえば、自分は家族に迷惑をかけることになる。それが分かっていて、やらなかった。牙が疼くってこんな感じでしょうか、なんてよく分からないことを考えながら。

 だから和心は知らない。男が追いかけようとして携帯電話の着信音に止められたことを。

「……分かってる。俺が絶対に探し出す」

 ——吸血鬼を。

 それから和心は部屋に引きこもった。幸いなことにここ数日ほど暑くなってきたようで、両親も大和も心愛も和心が散歩をしないことを喜んでいた。

「今夜は雨ね」

 どよよんと曇っている空を見て大和は言った。和心はそっと窓に近付いて外を見る。時刻はもう夕方。家族の夕食兼和心の朝ごはんを食べるためにリビングに向かっているところだった。

 ふと、あの日以降春当の家を訪れていないことを和心は思い出した。和心はちょっと早い夏バテをしていたし、そのせいか家から出る気力すらなかった。つまり、散歩にでかけていない。しかし、和心はそれを春当に伝える術を何ひとつ持っていなかった。もし、春当がずっとあの縁側で和心のことを待っていたら?小さな掠れた声で和心の名を呼びながら歌っていたら?それだけで和心はたまらなく愛しいと思った。同時に自分と春当を馬鹿だとも思った。

 和心は勢いよく窓を開けて外へ飛び出した。大和が何かを叫ぶ声が聞こえる。しかし、和心は急いでいた。内容なんて頭に入らなかった。傘も何も持たず、全力で駆け抜けた。春当の家の前、和心は馬鹿でしょ、なんて自分を罵っていた。傘もないため、もし太陽が出たらすぐに灰になる自信しかない。ゼーハーと息を整えながら壊れていた塀の一部へと近付く。するりとそれを越えて中に入れば、懐かしい竹の薫りが肺を満たした。まだ少しどころかかなり早いため、いつもの縁側に春当はいない。きっとまだ部屋から出られてすらいないだろう。

 和心はそっとその場にしゃがんだ。深く息を吸って吐けば、少し落ち着いてきた。それと同時に頭も冷えてきた。竹林の中は日陰でヒトが通らなかった。おまけに涼しいので、和心は充分クールダウンができた。

 ふと聞き覚えのある声が聞こえて和心は顔を上げた。

「お前が目撃した青年は移住届になかった」

「じゃあやっぱり隠さないといけない子ってことか」

「ああ。ぜひとも家に連れて来てくれ」

「分かった」

 片方の男はこの前、公園で出会った男だった。やはり春当の関係者だった。彼の前にいる男性は見た目のことも踏まえて父親だろうか。

「それより、おじい様は?」

「まだ恐れているよ。春当のおかげで安眠できるというのに」

「……未だにアレが来るのか?」

「そうみたいだね」

 男はため息をつく。ふと、男が竹林の方を見た。和心はぎゅっと身を縮こまらせた。顔を伏せて必死に存在感を消す。

「どうした?」

「いや。俺の見間違いだ」

 男たちはそのまま廊下を歩いていった。その足音が聞こえなくなるまで顔を伏せたまま黙っていた。なにも分からないけれど、きっと見つかってはいけない。そう思った。和心の第六感が告げていた。

 それからそのまま竹林に潜むこと二時間と少し。お腹がくうっと鳴いた。そう言えば、夕食を食べようと呼びに来てくれた大和に事情も話さず飛び出したことを思い出した。きっと今頃怒っているだろう。けれど和心はまだ、帰るわけにはいかなかった。しっかりと春当に伝えるのだ。ここ数日ほど会えなかったのは、自分が体調を崩していたからだ、と。

 不意にポツ、と頬を濡らす雫が垂れてきた。和心は顔を上げる。パラパラと曇天から雨が降っていた。それを防ぐ術さえ持たない和心はそこに体育座りをしたまま、目を閉じた。髪を伝い、頬を流れる雫にまじって、しょっぱいものが落ちてくる。そこでハッとする。自分の目元をなぞった和心は、泣いていることを自覚した。どうして泣いているかは分からない。けれど、胸が痛くて、勝手に喉が震えた。目頭は熱いし、肩は震える。どうしてなのかは分からないが、戸惑っている間にも涙は流れ続けるものだから和心にはどうしようもできなかった。

「なごみさん?」

 急に雨が途切れたと思って頭上を見れば、傘を持った春当がいた。赤と黄色の着物の裾が濡れていた。

「はる、とくん」

 呼んだ声は震えていた。それを春当はどう解釈したのか、和心の手を引いて縁側に向かった。傘から滑り落ちた雨が和心の頭にかかる。それは髪を伝い頬を滑った。

「どうしたの、こんなに濡れて。あぁ、タオルを取ってこなくちゃ」

「大丈夫です、ぼくなら」

「そんなことはないから!絶対に風邪ひいちゃうからね!」

「そんなこと、ないですよ」

 和心はポケットからハンカチを出して髪を拭う。しかし小さなハンカチでは拭っても拭っても足りない。それ以外に拭けるものを持たない和心にはどうしようもできなかったけれど、春当がバサッと着ていた着物を脱いで和心に被せた。

「春当くん?」

「なごみさん、それで暖をとっていて。すぐ戻ってくるから」

 着物を脱いだ春当はパタパタと駆けて行く。その予想通り白い背を見送って和心は小さくくしゃみをした。肩にかけられた着物にくるまれば、竹の薫りにまじって春当の少し不健康な香りがした。それにどこか安心した和心は自分に嫌気が差した。彼の健康を願っているのに不健康な香りに安心するなんて。なんとなく罪悪感で胸が押し潰されそうだった。

「なごみさんっ」

 パタパタと春当が戻ってくる。その手には大きなバスタオルと着物ではない普通の服があった。

「はい、これ」

「ありがとうございます」

 バスタオルを受け取って髪に当てる。じゅわりと水分が吸われていく。顔を押し付ければ、雨も涙も吸い取られていった。

「びっくりしたよ、もう。なごみさん、あんなところで何をしていたの?」

「春当くんのことを、待っていました」

「えっ?ほんとう?嬉しい」

 ぽっと頬を赤らめた春当はチョコレートのように笑った。それから和心に被せたいつもの赤と黄の着物をまとう。かわりに持ってきた服を和心に手渡した。

「ぼくは大丈夫ですよ」

「いやいや。ちゃんと着替えて」

「どうせこのあと帰るだけですし」

「それでもだよ」

「春当くんこそ着替えた方が良いと思います」

「僕はこれ以外着ちゃ駄目だから」

 春当はそう言って手早く帯をした。手慣れている。和装しか許されていないからだろうか無駄がなく、熟練の手付きと言われても納得できそうだった。

「でも、」

「家に帰ったらそれを洗って、また別の日に返しに来れば良いから」

 ——それに、なごみさんにまた会う約束になるでしょ?

 春当はいたずらっ子のように笑った。それはまるで、和心にだけ気を許しているかのようで和心はとても嬉しくなった。

「——ありがとうございます」

 和心は服を受け取るといそいそと着替えた。和心には少し大きかったけれど余った部分もそれほど気にならない長さだった。小さいと思っていた春当は和心よりも大きいらしい。

「洗ったら返しに来ますね」

「いつでも良いよ」

 春当はようやく縁側に座った。少し湿っているであろう着物を着たままぼんやりと竹林に目を向ける。サアサアと雨の音がする。しかしそれも僅かな音だった。

「ねぇ、なごみさん。どうして数日来なかったの?」

「実は、体調を崩していまして。ほら、最近暑くなってきたでしょう?ぼく、暑さに弱くて家で寝てばかりいました」

「そんなっ。じゃあ、もしかして今も無理している?それなら早く帰った方が……」

「それで、春当くんに連絡する術を持っていないことを思い出したんです。もしぼくのことを待っていたら、と思うと申し訳なくて」

「ふふ、僕は大丈夫だよ。なごみさんがいた方が楽しいけれど、そうじゃなければ歌うだけだし」

 春当はそう言って小さな声で歌い出した。少し掠れた風とも女ともとらえられる声で弱く弱く歌う。しかしその声はとても綺麗で、和心は春当が歌う歌が大好きになった。しばらく歌って満足したのか、春当は和心を見る。雨は少し弱くなってきていた。

「とっても上手でした」

「やだな、お世辞なんか言って」

「お世辞じゃないですよ」

「そう?じゃあ、ありがとう」

 春当はそれから少し笑って、竹林をもう一度見た。

「こんな雨の日は、いつもより少し静かで歌っていないと寂しくて」

 雨は竹に当たって楽しそうに歌うくせにそれは竹林内のことで家屋までは届かない。閉じられた箱の中の音楽会だ。

「だから、今日が雨で良かったかも」

「え?」

「なごみさんにも会えたし」

 にっこりと春当は笑った。和心は少し赤くなってそうですか、と返した。

「ねぇ、なごみさん。明日も会える?」

 翌日の夜。和心は再び春当の家に来ていた。もはや慣れたことのように壊れた場所から入ると縁側に向かった。縁側には春当が座っていた。和心に気付くと手を振った。

「こんばんは」

「こんばんは」

 前日の雨など嘘のように晴れて月と星が支配する世界に二人ぼっち。狭い狭い箱庭の中、和心は春当の隣に座った。

「今日は星の観察をしよう」

 そう言った春当の手には心愛も持っている星座の書かれた板のような物があった。

「あれは何かなぁ。えっと、季節と時間を合わせてっと」

 春当は時間などを合わせてそれを空に掲げた。そして名前が分かったのか、楽しそうに和心に教えてくれた。その板のような物を見れば、星座の形も書かれていた。一部の星しか見えないが、昔のヒトは全て見えたのかと思うと昔のヒトはすごいな、と尊敬の気持ちが湧いてくる。

「なごみさん、見える?」

「はい、見えますよ」

「そうそう。それとあっちを繋いで」

「大三角ですね」

「そう!」

 二人で星を見つけては何の星座の一部かを見比べることはとても楽しかった。和心が前に住んでいた街よりも人工的な光が少ないため、星も多く見られた。和心も知らない星を春当は教えてくれた。やがて、見える星全てが分かると今度は自分たちで星を繋いで形を作り出した。

「あれは砂時計で」

「こっちは傘みたいですね」

「ほんとだ!なごみさん、上手だねぇ」

 にこにこと笑って春当は和心がテキトーに書いた傘座を見る。あっちこっちに二人だけの星座が出来上がると二人でまたくふくふと笑った。いつの間にか星を見るために縁側にごろりと横になっていた。お互いの顔は見えない。けれどそれでも二人は困らなかった。

「あのね、なごみさん。僕の声ね、呪いなんだって」

 だから春当は爆弾すら投下できたのだ。もしこれが、普段通り向かい合って互いの顔を見ながらであれば、春当は気付けたかもしれない。

「僕の呪いはね、ヒトじゃない者が僕の声を気に入ってかけたんだって」

「ヒトは聞くことができないようにって、ですか?」

「うん、そう。その後ね、おじいちゃんが壊れちゃったんだ」

 春当はなんてことのないように話す。しかし、そのときのショックはまだ残っているらしい。声が、少しだけ震えていた。

「おじいちゃん、僕のことを閉じ込めたんだ。ヒトじゃない者が、いつか僕を連れて行っちゃうんじゃないかって思って」

 きっとそれまで春当は愛されていた。いや、そうなってからも大切な孫として愛されたのだろう。けれど、ヒトじゃない者から春当を隠すことは怒りに繋がってしまうだろう。

「おじいちゃん、それ以来夢見が悪くなっちゃって。ヒトじゃない者が夢に出てくるんだって」

 和心はそっと胸をおさえた。

「僕が夜だけ部屋から出られるのはね、おじいちゃんの安眠のためなの。おじいちゃん、僕が喋っている間はヒトじゃない者が僕の方に行くって言ってた」

「日中は平気なんですか?」

「うん、そう」

「ちなみに呪いをかけたヒトじゃない者ってなんですか?」

「うーん、僕も詳しくないから分からないや。けれど、当麻兄も父さんも吸血鬼を探しているみたい」

——吸血鬼って物知りらしいよ。あ、でも血を吸うんだって。なごみさんも気をつけてね。

 そのとき和心は春当の言葉を聞いているようで聞いていなかった。吸血鬼。その言葉が頭を埋め尽くした。もし和心自身が吸血鬼だと知られたら、春当は和心の『友だち』をやめてしまうのではないか。

 分からない。いや、分かりたくない。

 そもそもの罪はこちらにある。ヒトじゃない存在なのにヒトだと嘘をついたこと。それが和心の罪であり罰だ。ふと、空が白み始めていた。今日はここまでだ。和心も春当も今よりも狭い箱に帰らねばならない時間だ。

「春当くん」

「うん?なあに?」

 真っ直ぐな目に和心は何も言えなかった。かわりに、少し出かける用事があるのでしばらく来れません、と言った。もちろん嘘だ。和心は出かけることすら難しい。うまく太陽を避けて旅をすることは容易ではない。しかし、春当は和心のそれを知らないので、普通に出かけるのだと思っただろう。楽しんできてね、とまるで旅行にでも出かけるかのようにとらえて笑った。

「どれくらいで帰ってくる?」

「十日ぐらいだと思います」

「そっかぁ。そんなに長く……」

「用事が終われば早く帰ってきますから」

「……っ!うん、楽しみに待ってる!」

 春当はパアッと顔を輝かせると星座の板を持って立ち上がる。初めて会ったときよりもふっくらしていた。和心は少しずつ春当が健康になっていくことを密かに喜んでいた。しばらく会えないけれど大丈夫だろうと和心は思った。

「これ、あげます。おやつにどうぞ」

「わぁ、キャラメル!ありがとう」

 ころんっと手のひらに転がったキャラメル三個に春当は頬をほころばせる。そしてそれを大切そうにしまった。

「それじゃあ、なごみさん。気を付けて」

「はい。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 太陽が、ほんの少しだけ顔を出していた。和心は日陰を選んで家に帰った。そして、スーツケースに山ほどノートとペンと下着を入れるとメモに曾祖父の家まで行きたいです、チケットの手配をお願いします、と書いて部屋の扉の外に貼った。

 敷布団に身を預け、チリチリと痛む手首を見た。真っ赤になったそれは太陽に対するアレルギーのようなものだ。赤ん坊の頃はすぐ灰になっていた身体も、多少の耐性はできたものの、アレルギーのような症状が出るため、未だに禁止されていた。冷蔵庫までゴロゴロと転がると中からお茶を取り出す。それを飲んで、ペットボトルを手首に当てた。ヒヤリと冷たくて気持ちが良かった。和心は目を閉じる。それからゆっくり起き上がるとまた敷布団まで戻り、今度こそ眠ろうとゆっくり深呼吸をした。

 それからが大変だった。和心がどうして曾祖父の家に行きたいのか説明を求められ、どれくらいで帰ってくるのかをしつこく聞かれた。特に大和は和心と一緒に行くと聞かなかったが、大学の単位やテストの関係で断念することになった。また、曾祖父に連絡したところ、迎えを呼ぶから夜の空港で、と連絡が来た。

 言われた通りの日時に夜の空港で待っていれば、曾祖父の使い魔のインクルがやって来た。ピシッとしたスーツのイメージが強かったが、この国に合わせたのか少しだけラフな格好をしていた。

「和心さん、こんばんは」

「こんばんは、インクルさん」

 インクルはにこやかに笑うと和心の手からスーツケースを奪った。あまりにも手慣れたもので和心はこれが大人の余裕か、と感心していた。

「ささ、行きますよ」

「はぁい」

 インクルといると兄弟のように見られるため、周囲も二人に注目することはなかった。さっさと手続きを終わらせて真っ暗な滑走路を眺められるラウンジまで来た。

「ヴァンプさんも楽しみにしていますよ」

「曾祖父さんも?」

 最後に会ったのはいつだろう。和心がまだ小さいときらしく、和心の記憶にはあまりなかった。けれど、自分と同じように夜を生きる曾祖父は、和心にとって先生のようなものであった。ヴァンプの知恵を借りて今まで生きてきたと言っても過言ではない。

「ええ。どんな子になったかと考えては笑っております」

「うわぁ、そうなんですか?」

「そうですとも。和心さんからの訪問依頼は初めてですし、なにやら準備を張り切っていましたよ」

 百歳を超えるのに見た目だけは若い曾祖父のはしゃぎっぷりが目に浮かぶようだ。和心は苦笑いを浮かべた。

「それと、準備はできているとのことです」

 インクルの言葉に和心は表情を引き締めた。和心は今回の曾祖父の家に行くことを調査だと伝えていた。『友だち』が呪いをかけられていて、それを解いて太陽の下に返したい。そのために曾祖父の知恵を借りたい。それを伝えれば、和心の家族は反対しなかった。むしろ、和心にそんな『友だち』ができたことを喜び、紹介してくれと頼んだ。それに対して呪いさえ解ければ会わせられます、とだけ答えておいた。それならばなおのこと行っておいでと背を押された。大和も心愛も寂しそうな顔をしていたのでなるべく早く終えて帰りたいと思った。もちろん、春当のためにも。

 チケットをかざし、ゲートを通って飛行機に乗り込んだ。チケットの指定する席は比較的後ろだった。和心が高い席では萎縮してしまうためだった。

「ごめんなさい、インクルさん」

「いえ。私の役目はヴァンプさんのところまで和心さんを届けることですし。高い席では落ち着かないのであればそれで良いですよ」

 和心はシュンとした。インクルには窓側に座ってもらっているし、和心のためにと緊急用のポンチョも準備されていた。全ては和心のため!といった準備はインクルの心遣いだとしても申し訳なさが勝ってしまった。

 ポンッと音がしてランプがついた。シートベルトをとめることを促すランプだった。飛行機がゆっくりと動き出す。

「さあ、飛びますよ。飛行機は初めてですか?」

「赤ん坊の頃に一度。でも覚えていません」

「でしたらちょっと怖いかもしれませんね。どうぞ、私の手をお掴みください。なにかあっても私が守りますので」

 和心はガタガタと揺れる飛行機に驚いてインクルの手を掴んだ。インクルはくすくすと笑っていた。これだけじゃないと言うことだろう。そしてその通りに離陸のために加速し、少し浮いた飛行機に悲鳴をあげかけてしまった。インクルがなだめてくれたが、和心はこれを一人で体験しようとしていた過去の自分を罵った。絶対に一人では無理だと思った。インクルが迎えに来てくれて本当に良かった。インクルは和心の心を知ってか知らずか機内食に目を輝かせていた。和心とは別の物を選び、一口ください、とねだっていた。

 さて、機内の時間は思ったよりも長かった。いくら映像が見れると言っても映画は物によっては難しくて国民的人気アニメの映画を三本見るだけにした。よく分からない言語を話すかわいい生き物のハチャメチャな映画、探偵が活躍するアニメ映画、そしてロボットと人間の冒険。どれも面白かったが、途中から疲れて眠ってしまった。結局、着陸十五分前にインクルに起こされたが、そのときには映画は終わっていたし、なんだったら画面が暗くなっていた。

「もうそろそろ着陸です」

「ありがとう、ございます……」

 インクルに言われて和心はシートベルトの確認をした。そこへポンッと音がしてオレンジ色のランプがつく。シートベルトの着用を促すランプだ。

「間もなく着陸いたします」

 キャビンアテンドの声に和心は肩を跳ねさせた。それを見てインクルが小さく笑う。

「着陸、は離陸より怖くないですか?」

「私は浮遊感に慣れているので着陸の衝撃が怖いですが」

「しょ、衝撃⁉」

 和心は顔を真っ青にさせる。それを見てインクルはまた笑った。それから手を差し出す。

「握りますか?」

「ぜひお願いします!」

 ぎゅうっと痛いくらいにインクルの手を握る和心を見てインクルは思い出す。かつてヴァンプと共に会いに行った和心はまだまだ幼くまろく、ふにゃりと笑う愛らしい子だった。小さな手でぎゅうっと握っても痛くはなかった。それが今では痛いくらいに握れるようになった。子どもの成長は早いな、インクルは思った。

 それからガシャッと音を立てて着陸した。和心はしばらく動けなかったのでインクルは落ち着くまで待っていた。なんとか動けるようになった和心と共に飛行機をおりて諸々の手続きを終えた後、ようやく二人は空港の外に出れた。外は少し涼しかった。夜に出発したのにまだ夜だった。インクルは気にせずにバスに乗った。和心も追いかける。

「ヴァンプさんが近くまで迎えに来てくれるそうですよ」

「曾祖父さんが?」

 バスが発車した。自国とは違ってちょっと急発進気味だ。

「あはは、びっくりしましたか?」

「お、驚きました」

「大丈夫です。安全運転ですよ」

 インクルはにっこりと笑ってそう言った。

「というより、ぼくお金ないです」

「あぁ、大丈夫です。ヴァンプさんからもらっています」

「え⁉」

「そりゃ必要だろと言っていましたよ」

 ——けっこうもらったのでお土産にしましょうか?

「いえいえ!インクルさんが持っていてください!」

 するとインクルはまた笑った。ちゃんと返しますよ、ヴァンプさんに、と言うからきっとはじめからそのつもりだったのだろう。手のひらの上で遊ばれた気分だ。

「あ、もう少しで待ち合わせ場所です」

 インクルはそう言うと立ち上がって降りる準備を始めた。和心も慌てて立ち上がる。窓の外には湖が広がっていた。

「え、ここですか?」

「はい。大丈夫です。もう、すぐそこなので」

「すぐそこって……」

 バスが停まった。湖の近くのボート乗り場だった。インクルはさっさとお金を払って降りてしまう。和心は一人取り残されることと天秤にかけてバスを降りた。

「こっちです」

 インクルは霧が満たす湖へと向かっていく。和心が追いかけると満足そうな顔をした。

「えっと、曾祖父さんはどこに……」

「やあ、和心!会いたかったよ!」

 暗闇からガバッとヴァンプが現れた。和心は驚いたが驚いたままにヴァンプが抱きついてきたので倒れることはなかった。

「曾祖父さん」

「ささ、ここからは飛んでいかないといけないからね」

 よいしょっというかけ声と共に和心は抱えられる。

「しっかり捕まっていてね」

「は、はい」

「インクル、霧を」

「はい、かしこまりました」

 ヴァンプはそのまま凧のように飛んだ。和心はぎゅうっとその肩にしがみついた。

「ハハハッ!ほら、見てみろ、和心!」

「な、何をですかっ?」

「もうすぐ見えるぞ。アレが俺の城だ」

 そう言われてなんとか見えた先にはたしかに城が建っていた。湖に浮かぶそれは、まさに城。どこかの映画で舞台に使ったと言われても納得のものだった。

「今はあそこに俺とインクルしか住んでいない」

 曾祖母はただのヒトだった。永遠にも近しい寿命を持つヴァンプは彼女に置いていかれたのだ。

「そういえばインクルさんは、何歳なんですか?」

「まあそれなりの年齢でございます」

「アッハハ!百は超えたよなぁ?」

「ええ、そうですね」

「ひゃ、百っ?」

 戸惑っているうちに城に辿り着いた。ヴァンプはそっと着地すると和心をおろした。重くなったなぁ、と楽しげに言うからやはり愛されているな、と和心は実感した。

「さあ行こう」

 目安の十日が経っても和心は帰らなかった。じっと待っていたのは和心の家族だけではなかった。あの小さな箱庭の中のお姫さまもだ。かのお姫さまは和心が無事であることを願って毎夜歌った。どこにいるかも分からない自分の『友だち』が、どうか健やかであることを願って。

 そんな風に過ごしていたある日の夜、いつものように歌おうと出た縁側には先客がいた。今まで一度も見たことがないその男性は、とてもダンディで、なでつけた金色の髪と血のような真っ赤な目が印象的な男だった。

「こんばんは」

「こんばんは?」

 戸惑いながらも春当が挨拶を返せば男がくすくすと笑う。その顔がどこか和心に似ていたので、春当は彼の隣に腰かけた。

「春当くんかな?」

「え、うん」

「そう。良かった。俺はヴァンプ。よろしく」

「よろしく、お願いします」

 春当の言葉にヴァンプと名乗った男は頭を撫でた。春当は困ったように笑うだけで何も言わなかった。

「春当くんは、それが呪いだと分かっているのか?」

「うん。おじいちゃんがそう言っていたし」

「そうかい」

 ヴァンプはふっと笑った。どこか不敵な笑みだった。

「呪いの解き方を教えようか?」

「え、良いの?」

 春当はパアッと顔を輝かせた。それに対してヴァンプはころころと笑う。その目には慈愛が浮かんでいた。

「もちろん。さ、おいで」

 そう言ってヴァンプは春当の手を引いて壊れた塀の一部から外に出た。その瞬間、バチィッと大きな音がする。音のした方を見ようとしたが、誰かに優しく抱き込まれる。ふわっと香ったその匂いは、懐かしいものだった。

「なごみ、さん?」

「そうです。良いですか、春当くん。絶対にこちらを見てはいけません。目を閉じて、十秒数えてください」

「じゅ、十秒で良いの?」

「はい」

 和心の声と重なってナニカの声が聞こえる。悲鳴のようにも聞こえたが、春当は気にせず目を閉じてゆっくり十秒数えた。

 いち、にぃ、と数え出す。何も見えないけれど、脳を貫くような奇声が聞こえる。その間に微かに和心とヴァンプの声もある。けれどこちらははっきりしない。

 さん、しぃ、ご。

 やめろ、とヴァンプの叫ぶ声が聞こえる。奇声はさらに大きくなった。

「ぼくがやるしかないんですよ」

 くいっと顎を持ち上げられる。上を向かされているような気がした。けれど春当にはよく分からなかった。小さくごめんなさい、と声が聞こえたような気がした。

 じゅう、と唇が動いた瞬間、それが重なる。ふわりと甘くて柔らかなそれは、春当の心を満たした。しかしそれも一瞬のことだった。春当が目を開ければ、はくはくと口を動かす和心がいた。しかし、音はない。春当が戸惑っているとヒラリとヴァンプが現れた。そして和心に何かを言った。和心はハッとするとワタワタとスケッチブックを取り出した。

 ペラリとめくった先に、黒いペンで太く綺麗な字が書かれていた。それによると春当の声を元に戻すために和心が声を差し出したとのことだった。

「どう、して」

「和心は春当くんを太陽の下に出してあげたかったんだってさ」

 パッと和心を見れば顔を赤くしてヴァンプに抗議している。しかし説得力はない。ポカポカとヴァンプを叩く手をかっさらって春当は笑う。

「ありがとう、和心さん」

「っ!」

 それから、大切にその手を自身の胸元に当てる。

「僕、もらってばっかだね」

 和心はぶんぶんと頭を左右に振る。ペラリとめくったスケッチブックには『ぼくは何もあげられていないです』と書かれていた。

 そんなことはない。春当がそう言おうとした瞬間、スケッチブックがめくられる。

 ——ぼくは吸血鬼です。

 たった一言。しかし、和心は書くかどうするか散々迷ったのだろう、そこだけ少し紙がよれていた。春当はじっとその文字を見た後、和心を見た。和心はペラリとめくる。

『ぼくは春当くんを騙していました。ヒトじゃないのにヒトだと嘘をついていました』

『ぼくは君を騙していました』

 それがまるで罪かのように和心は吐き出す。声もないのに、今、和心が普段よりも語気を上げていることが分かった。

『失望したでしょう。ぼくはそんな化け物です』

「化け物じゃないよ」

 もう、我慢できなかった。春当にとって和心は、毎夜会いに来てくれる優しい人だった。その正体が吸血鬼だろうが、なんだろうが、春当にとってそれは些細なことだった。そりゃ、はじめは自分の声を聞いても眠らないヒトだと思ってはいたが、そこで嘘をつかれたからって失望はしない。だって、春当にとって和心は——。

「初めての『友だち』だもの」

 びくりと和心は肩を跳ねさせた。しかし、春当は和心が逃げるより先に手を掴んで離さなかった。

「ねぇ、和心さん」

 和心は困ったような顔をして春当を見た。

「僕、和心さんのこと、もっと知りたい」

 ——吸血鬼だってこと以外も。

 和心が目を見開く中、春当はふわりと笑う。その笑顔は初めて会ったときと同じホットケーキのようなふんわりとした笑みだった。

「僕とまだ、『友だち』でいてくれますか?」

 それから忙しい夜明けがやって来た。ヴァンプは朝が来る前にとっとと帰ってしまったが、和心は違った。久々の春当をたっぷりチャージして、今夜、日が沈んだら、とだけ唇の動きだけで言って帰っていった。和心が帰れば、当麻が起きてきた。そして、春当を見ると驚いたが部屋に戻るよう言った。

「もう大丈夫なんだって」

 当麻はとても驚いていた。しかし、春当の声を聞いても眠くならないことに気付くと春当を抱き上げてくるくると回った。その顔は満面の笑みだった。それから家の人が起きるたび驚かれたり喜ばれたりを繰り返した。しかし、いつまで経っても祖父だけは起きてこなかった。そこで春当が当麻と様子を見に行けば祖父はもう、死んでいた。

すぐ医者を呼んで調べてもらったら死後十五年と判明した。その時期と春当が呪われた時期は合致するらしく、死んだ祖父が独りは寂しいと孫の春当を巻き込んだのだろうと結論づけられた。そしてそれを監視するためにヒトに化けて出ていたのではないか、と。

 春当はたくさんのことを話した。その中で、毎夜会いに来てくれた和心のことを言えば、当麻が苦い顔をしていた。今夜も来ることを告げれば、どこか張り切っていた。そしてその日の夜、和心はやって来た。しかしひとりではなかった。和心の両親と大和、心愛と共にやって来た。

「こんばんは」

 和心の父がそう言って挨拶をした。当麻は毒気を抜かれたのか、ぽかんとしていた。

「こんばんは。えっと、和心さんのお父さんで合ってます?」

「あら。じゃあ、貴方が春当くん?」

 そう言ったのは大和だった。春当はこくこくとうなずく。大和はパアッと顔を輝かせると春当の手をとってぶんぶんと上下に振った。

「初めまして。私は大和!」

「あ、和心さんのお姉さん」

「え、知っているの?あ、和心でしょう?」

 大和は和心を振り返る。和心は困ったように笑うだけでスケッチブックすら見せなかった。

「初めまして。月夜野風優です。息子がお世話になっています」

 にこりと和心の父はそう言うとあがっても良いですか、と聞いた。ふと空を見れば少し明るくなっていた。

「どうぞ」

 春当はそう言って和心一家を家にあげた。彼らは意外にも靴を脱ぐこの国の文化をしっかり守ってあがった。それを思わず凝視してしまった春当に対して和心の父が笑った。

「あぁ、僕たちは普通のヒトなので。それにずっとこの国で生きていますし」

「この国の文化で育ったからね」

「あ、失礼。てっきりそうなのかと」

「まあそう思っても無理はないですし」

 和心の母もにこやかに笑う。通された部屋に和心と心愛以外は正座した。

「それで、今日は何用で?」

 春当の父の言葉にピリッとした空気が漂う。しかしその空気を壊したのは和心だった。スケッチブックを開くと書いておいた文字を見せた。

『春当くんの呪いは彼の祖父がかけたものでした。それは解除され、春当くんは普通通り生活できます』

 誰かが何かを言うより早く和心がペラリと紙をめくる。

『だから春当くんを解放してください』

 春当の父は目をみはった。じっと和心を見る。和心は、あ、と口を動かすとスケッチブックをすごい勢いでめくってある場所を見せてくれた。

『ぼくは解除のために声を差し出しました。なので喋れないんです』

「きみは、どうして——」

 当麻が心底分からないと言いたげな顔をした。すると和心はなんてことないようにスケッチブックをめくった。

『友だちだからです』

 その言葉は、昨夜春当が和心に投げたものだった。今、ここで和心から返すということは、和心は春当の『友だち』であることを受け入れたということだ。

「友だちだからってそこまでするか、普通……!」

「当麻兄。僕の初めての『友だち』なんだ」

「……そうか。和心くん、と言ったね?」

 春当の父の言葉に和心はうなずいた。春当の父は目元を緩めた。

「春当の『友だち』になってくれてありがとう。これからもよろしく頼む」

 和心はこくんとうなずいた。それに異を唱えたのは意外にも当麻だった。

「俺はやだよ、父さん!だって、春当の『友だち』と言えどヒトじゃないかもしれないだろ」

『おっしゃる通り、ぼくはヒトじゃないです。でも、春当くんはそんなぼくが良いと言ってくれたんです。友だちにヒトじゃないといけないというルールはないはずですよ』

 当麻の言葉すら予想していた和心は素早くスケッチブックを見せた。

「ヒトだとかヒトじゃないとか、気にしすぎじゃないの?なご兄は優しいし、ヒトより色々と考えているよ。あなたが言うほどヒトがえらいの?」

「それはっ!」

「当麻。彼は春当に危害を加えようと思えばいつでもできたのにやらなかった。それが答えだろう?」

 当麻がシュンとして座り直す。心愛はふんっと鼻をならした。

「ヒトじゃないっていうだけで差別しないでくれる?私、そういうのよくないと思う!」

「こら、心愛。言いすぎ」

 和心の母がなだめる。心愛はぷいっとそっぽを向いてしまった。

「和心くんの声はもう戻らないんですか?」

『曾祖父さんがもう戻らないだろうって言っていました』

「そうですか……」

『でも、不便じゃないので。どうせぼくは夜しか生きられないのでお気になさらず』

 和心はスケッチブックを見せるとそのまま立ち上がった。どうやらもう帰るらしい。見れば大和も心愛も立ち上がっていた。

「和心さん」

 パッと和心が振り返る。春当は和心の小指と自身の小指を絡めるとあの時と同じ歌を歌った。

 指切った、と弾んだ声で歌うのを黙って見ていた和心に向けて春当は笑う。あの時と同じ、柔らかな笑みだった。

「また明日ね」

 それに対して和心はそっと笑う。もう大和も心愛も帰る準備ができていた。その背を追いかけようとして和心が一歩踏み出す前、春当が思い出したように言った。

「そういえば、和心さんの家ってどこだっけ?」

 ふっ、と和心が笑う。あの時とほとんど同じなのに言った人が違う。和心は振り返ってポケットから紙を出して春当に握らせた。それすらも予想していたようだった。

『迷わず来れますように』

 その唇がそう紡ぐ。春当はうなずいた。それを見て和心はうなずき返すと今度こそ家族を追いかけた。

 春当の呪いは解かれた。けれど、春当は太陽の下に戻らなかった。かれこれ昼夜逆転生活を十五年も続けたのだ。染み付いたものは残念ながら取れなかった。それに、春当は和心に会いたいがために昼夜逆転生活を続けることを決めた。和心はそれを悪いこととは言えなかった。

「和心さん、こんばんは!」

「こんばんは、春当くん」

 今宵も二人は散歩に出かける。手を取り合って山のようにある『初めて』に触れるために。

 そんな二人をいつだって『夜』という箱が見守っているのだった。



その花の名に代わる呪い/空色さくらもち



「…もっ、もえろ!!!!」


青々とした芝生の中から濃い茶色の根っこがビキビキと筋状に浮かび上がり、そのまま上へ横へと歪な形に伸びていく木の枝。

そこに震える指先を向け、呪文を唱える。


…が、何も起こらないまま木は一層ヘンテコな形に巨大化していく。


「ふえぇ!?…さらにおっきくなって…っ」


やっぱり炎はまだ使えないのかな…いっぱい練習したのに…。

どうしよう、このままじゃどんどん木がおっきくなっていく。


熱すら持つ様子のない指先に挫折しそうになったけれど、ただ絶望したってここには私しかいない。どうにか出来るのはわたししかいないんだ。

炎はムリでも小さな火なら……よし、もう一度やってみよう。気を取り直して数十回目の唱文をする。


「……っ、お、おねがい、もえ……っきゃぁ!?」


すると人差し指にポッとささやかながら火が灯り、呪文もあと少しで唱え終わるという時に、枝の一本がわたしの方へ伸びてきて、まるで生き物の腕のようにうねりながら絡まりついてきた。


「えっ…え、なに、」


身を捩って振り払おうとしても枝はぎゅうっとより一層絡まってくるだけで離れそうにない。せっかく付いた炎も、体ごと枝に持ち上げられた衝動で消えてしまったようだ。


こうなったら護身用のナイフで傷をつけて逃げだそう、ここからだと着地するにはちょっと高いけど…いざとなったら箒呼び出せばきっと大丈夫。


何とかもがいて自由に動かせる左手で、右腰のベルトに着いているナイフを取り出そうとしていると、枝にはそれが分かったのかわっさわっさと枝を揺らす。


「あっナイフが!」


ベルトに軽く刺していただけのナイフは簡単に宙へ放り出され、もういよいよ抗うすべがなくなった。炎魔法だって今使って成功してもわたしごともえかねないし…。


そう思考している間にも、いつの間にか複数に枝分かれしていた数本がしゅるりと手足を固定するように絡まってくる。


「わっ…何」


この枝…やっぱり自我がある…?だってさっきからまるでわたしが見えているみたい。


しゅる…しゅるる…


あっという間にローブと帽子を奪い取られ地面へと落ちていった。スースーと冷たい風が、露になった網状のゴスロリの背中を撫でて寒気がする。


もがこうとしても、後ろから体に巻き付く枝に腹部を締め付けられて苦しさが増す。もうどうしたらいいの。


「…っわわ…!?」


とつぜん枝の先に葉が生い始める。葉をつける度にどこかわたしの体から力が抜けていくような、そんな感覚がした。もしかしてわたしを養分にして……?


まったく、我が子ながらなんて悪い子なの。しわくちゃの木目だらけでどこが顔かも分からないその物体を睨む。それでも当然枝の動きが止まることはなく、いまだにわさわさと緑が増えていく。


「なっ、こら、もう…っ」


ただでさえ強力な魔法は使えないというのに、魔力まで吸い続けられたらこの姿の維持すら…!


せめて枝からは逃げ出そうともがいても空しく、枝はビクともしない。


もう、もうだめ…このままじゃ服が…!

これからわたしが作り出したモンスターに食べられちゃうんだ。

そんなのいやなのに。


「……っどか、たす、けて」


もうダメだとどうしようも無い絶望の中、ふと浮かんだのは同じ魔法少女で親友のまどかの顔。


そうだ、まどかならきっと……ってまどかにはここに内緒で来ていたんだった…。こんな奥地にある丘にいるだなんていくらまどかでもわかりはしないはず。


微かな希望も消え、ついにダランと脱力した足元を見て、あぁもうだめなんだと諦めかけたその時。





「______枯渇せよ。」



辺りに凛とした声が響いた。


その言葉が聞こえると枝はさっきまでキッツキツに絡まっていたのが嘘のように、ぱらぱらと朽ちて遥か下へ落ちていく。


……っこの声は、


「さくらこちゃん!」


さっきよりも柔らかく特徴のある高い声がギュンと近づいて、宙に投げ出されたわたしの体は一瞬でそっと受け止められた。


呪いが使えて、声がすごく高くて、わたしを『さくらこちゃん』と呼ぶのは、わたしの知ってるかぎり一人しかいない。


「〜〜っまどか!」


この声はたったいま、無いに決まっていると希望を捨てていた、まどかの声だ。


「っとと…、さくらこちゃんきゃーっち♡」


わたしを乗せた反動で少し落下してから安定した箒の上、まどかにお姫様抱っこをされたままにっこりと見下ろされる。


「あ…ありがとう、まどか」

「ふふっ、まにあってよかったの」


そう本当に安心したように言うとそのまま顔を前方に向けてしまう。


わたしを降ろすつもりはないみたいで、所々破れてしまっていた服の上から、ふわりとまどかのまっ白なローブが被せられる。


「そういえばどうしてここがわかったの?」

「ふふん。これくらい余裕なの。だってさくらこちゃん、さっき呼んでくれたでしょ?まどかのこと」

「えぁっ、まさかそれだけ?!」

「ん〜?ふふっ」


どうでしょう〜、と笑うまどかはきっとこれ以上聞いても本当のことは言ってくれない。


もう…またハトとか蝶でも飛ばしたのかと辺りを見回すけれど、今のところいないみたいだ。まどかはわたしが違う子と出掛けると、よくこの呪いを動物たちにかけてわたしをつけさせていたから。


「…あ、まどか。もう降ろしていいよ。おもたいでしょ」

「ぜんぜん!さくらこちゃん軽いもん。いいよ、このまままどかのおうち帰ろう?」

「えっ、まどかの?」

「さくらこちゃんのおうちでもいいけど」

「そ、そうじゃなくって、わたしこれからやらないといけないことがあるから帰るわけには」


いかないの、そう言いきる前に、風を切る音がピタッと止まった。

まどか…?急にどうしたんだろう。


箒は止まっているのに、まどかの顔は真っ直ぐ前に向けられたままで、腕に抱えられているわたしからじゃ表情がよく見えない。

もしかして今なにか地雷を踏んじゃった…?


「やること……それってまどかには言えないこと?」

「え?」

「こんなところにナイショでくるなんて、これまで無かったのに」

「ま、まどか……?」


何やらブツブツ呟くまどかからは、さっきまでのふわふわとしたふんいきではなく、どこかもやっとした暗いオーラを感じる。


「…まどか、これでも今日のことおこってるんだからねっ。いつも通りお昼食べようとクラス行ったらさくらこちゃんおやすみって言われるし、わたしはそんなこと聞いてないのにそのクラスメイトの男の子は知ってるし、しんぱいでウグイスに呪いかけて捜させてたらなんか自分の生み出した化け物にバックハグされてるし、わたしですらしたことないのにバックハグされてるしっ!!……とにかく、おこってるんだから」


そう畳みかけるように早口に文句を言ってから、ちいさい口をぷくぅとふくらませてまどかは怒ってます感をあらわにする。

よく分からないけどあれはバックハグの部類に入るのかな…?


「まどか………やっぱり、後つけさせてたの」

「あっ」


まどかはしまったと口元を覆う。

もう…通りでタイミングがいいと思ったの。


「心配させてごめんね。でもどうしてもまどかにはぜんぶ終わってから言いたくて」


――花祭りのこと。


花祭りはこの地域の伝統のお祭りで、桜の木を魔法で咲かせてその美しさを競う。毎年いろんな魔法使いたちが参加して、それぞれの得意魔法で桜を咲かせるから毎回盛り上がるんだ。


見事一位を取ったらご褒美に、一晩だけその桜の木の上でおめかしをして好きな子とお月見ができる。なんでも食べほうだいだし、衣装もとってもかわいいの。


何より、このお祭りで咲かせた桜の上で過ごしたふたりは末永く結ばれる、そんなジンクスがある。だからもし優勝したらまどかと一緒にお月見したいし、誘うならやっぱりサプライズがいいなぁって。それに、今回助けて貰って改めて思った。わたし、もっと強くなりたい。まどかが心配になって呪いを飛ばさなくてもいいように……とは言っても、まどかならわたしがどれだけ強くなっても呪い飛ばしてきそうだけど。でも、当のまどかを心配させてしまうくらいなら、ちゃんと言っておいたほうがいい気がする。


「…あのね、わたし、花祭りに出てみようかなって」

「っ!?どうして」


バッとわたしを見たまどかの顔は、予想通りかなり驚いたように目を見開いていた。


まどかは魔法試験もいつも高得点だし、なによりあの呪いが使えるから一位だって取れるかもしれないけれど。毎年お祭りは一緒に見るのに、どうしてか参加者としては出たがらないし、わたしが出ようとするのも嫌がる。


桜もこのお祭りも好きなのに、どうしてだろうとずっと思ってた。


「……まどか?」

「いままで出る気なんてないって言ってたの…」

「えっと…何となく、出てみようかなって」

「なっ、何となくって……優勝したら夜伽だよ…?一晩中、ふたりっきりで木の上なんだよ……?」

「ふふ、きっと優勝はないよ、例年通り強い魔法使いも沢山参加するから。それに夜伽って…ただお月見するだけなの」


やっぱり優勝…はまだできなさそうだけど、大丈夫。時間ならたっぷりある。それにもし優勝できたらその相手にはまどかを誘うもの。


「…分かってないよ、さくらこちゃんは。だれの手にも届かない桜の木の上、今度はわたしも助けに行けないほど高い高いところでふたりっきり……だめ、そんなの絶対だめなの」


まどかは何やらボソボソと呟いて、「ぜぇぇったいだめ!」とそっぽを向いてしまう。


わたしが祭りに出ることがそんなに嫌なの…?

優勝出来ないから?心配だから?それでもやっぱり、諦めたくなくて「だめかな、まどか」と普段はしないような猫なで声を出してみる。こういうのするのは気が引けるけど…手段選んではいられない。


「っう〜〜〜〜〜………………わ、わかったの…」


なんて単純なのだろう、さっき木の化け物を滅ぼしたときとはまるで別人みたい。「ずるいよぉ」と顔を耳まで赤く染めて目をそらすまどかに思わず、ふふっと笑みが零れる。


「…でも、次なにかあったら一番にまどかの名前を呼んでね」


なんだかんだまどかは、巻き込まれ体質のわたしのことをいつも守ってくれる。きっと花祭りのことだってわたしのことを心配してくれてのことだったんだ。そんな親友の優しさに、笑ってしまったのを少し申し訳なく思っていると


「さくらこちゃんに悪いことするやつはみ〜〜んな、まどかが呪言でやっつけたげるから」


うーん…………どうしてだろう、まどかが言うとすこし寒気がするのは。本気でやりそう、というかわたしに近づいただけで呪い殺しそうなところがある。


さっき木の化け物に「死ね」じゃなくて「枯渇しろ」と唱えたまどかを思いだす。そういえば前にクラゲの化け物に襲われたときは「放電」だった。…うん、おおいにありえるの。まどかならやる。


「あ、ありがとう…でもまどかは少し私のことに過敏に反応しすぎだよ」

「ちーっとも過敏じゃないよっ!さくらこちゃんが鈍感すぎるの」

「そうかなぁ…」

「とにかく今日はまどかのおうちに帰ろう、あちこち汚れちゃってるよ」

「うん、そうだね」


本当は落としたローブや帽子も拾いにもどりたかったけれど、なぜか「帰ろう」と言ったまどかの声色がまるで「行かないで」と言っているようで、それ以上はなにも言い出せなかった。




それから泣く子も黙る猛特訓が始まったのは、その翌日のこと。『まどかが花祭りに出るらしい』と学校中で大騒ぎになってからだ。


あれだけ花祭りに出るのを嫌がってたまどかの、一晩での心変わりに少し驚いたけれど、呪いが使えるまどかならきっと一位だって狙えるはずだ。そんなまどかが出るなら心強いに決まっている。はやく一緒に練習したいな。俄然やる気が出てきた。


だから早くまどかと花祭りの話がしたかったのに、まどかはその日どころか花祭りまでの一ヶ月間を丸々、学校を休んだ。


まどかの家に行ってもCLOSEの看板がかけられているだけ。二人でよく行った広場にも、放課後に寄るのが日課だったお気に入りのスイーツやさんにもいなかった。


「特訓なら誘ってくれたらいいのになぁ」


それほど真剣ってことなのかな。確かに呪いを使うには精神統一が肝だって言っていたし、わたしがいたら邪魔になるのかもしれない。


これはワガママだって分かってはいるけれど、でもやっぱり出来ることなら二人で頑張りたかった。まどかと初めて一緒に出られるお祭りだから。


「ん〜〜〜〜っ」


色んな邪念を払うように、ひたすら指先を土に向けて頭の中で成長魔法の呪文を唱え続ける。土に埋まっている種は一向に芽吹く様子はない。


「はぁ…っはぁ、」


やっぱりだめかぁ。朝からずっと魔法を唱えていたから体力はもうほぼ限界に近かった。


「そんなんじゃ咲かせるどころか芽吹くのも無理じゃよ」


そう言ってヨボヨボの体を揺らしながら話しかけてきたのは、枝のように細い体に真っ白な髪のおじいさん。髪、まどかと同じ色だ。学校の先生にもこんな人いなかった気がする。


「…あの?」

「あぁ、わし?わしは〜…まぁ長くなるから詳しいことは省くけれどとにかく凄い魔法使いのおじいさんじゃよ」


おじさんは慌てたようにキョロキョロと目を泳がして、次々と喋り出す。おじさんいわく、今では審査員側を持っているけれど、昔は花祭りで何度も優勝していた人…らしい。らしい、っていうのはその今にもぽっきり逝ってしまいそうな見た目からはそんな過去は想像もつかないからで。


「…ゴホン。とにかく!注意散漫、他の何かに気を取られていたら開くものも開かない…じゃよ」


ヘンテコな語尾はともかく、いつから見ていたのだろうか、本当にその通りで。でもまどかのことを考えるのをやめようと思えば思うほど、昨日「帰ろう」と言ったまどかの横顔が脳裏に過ぎるの。


「まずはなんの魔法で咲かせるか、それを決めなくてはならん」

「なんの、魔法で……」

「こうして会えたのも何かの縁、今なら特別に何でも教えてやろうぞ?」


何でも、おじさんはそう言った。そんなに凄い人に教えて貰えるなら一位だって狙えるかもしれない。


「本当に何でも…?」

「もちろんじゃ」

「じゃあ……呪言、呪いの使い方を教えてほしいの」

「呪言を?」


まどかの得意としている呪い。


わたしはいつもそれに守られてきた。

……まぁほとんど監視みたいな使い方だけれど。


まどかが呪いをかけた動物たちは自由に操れて、あんな大木すらも一瞬で灰にしてしまう。そんなまどかの呪いをかける姿を一番近くで見てきて、カッコイイと思うと同時に怖いとも思った。


誰よりも近くにいたはずのまどかが、少し遠い存在に見えてしまう。それがとても怖い。だから、もしわたしにも呪いの才能があるなら、使えるように頑張ってみたいの。助けて貰ってばかりの親友から、もっと近くに行きたいの。


「やっぱりだめ、かな」

「…いや、出来るさ。わしに任せるん…じゃ!」


それまで呆けていたおじいさんが食い気味に手を握ってくる。


「なんと言ってもわしは凄いおじさんじゃからな」

「…ふ、そうだね」



「__っ開花!」


辺り一面が芝で覆われた高い高い丘、壁もなく反響なんてするはずの無いのにグワングワンと響く自分の声。内蔵の奥の方から何かが込み上げてくる感覚。指先がボッと熱くなって、光を放った。今までで一番の手応え。隣には真剣な目をして満足気に頷くおじいさんがいる。


閃光を浴びる土の中からは何かがニョキニョキと這い出てきた。


「やっ、やったわ…!」


何百回目かの詠唱。

何百回目かのおじいさんの「違うわい!」という怒号。

その全てがついに報われたとおもった。


呪いの習得がどれほど大変か覚悟はしていたけれど、自分がこんなにも呪いの才が無いとは思わなかった。やっと咲かせることが出来る。やっと「うつくしさ」を追求する段階にはいれる。


感動している間にもすくすく育っていく木。

これは、これは…!と期待が高まる。


緑色の葉がわさぁっと広がり、その中心にもりもりと実が実って。

そう、これはまさしく桜!


……さく、ら…?


桜かな…これ………


「うん。どう見てもバナナじゃな」

「うぅ……どうして…」


そう。呪いがかけられたからといってそこから桜が咲くとは限らない。


素人が卵焼きを作ろうとしてスクランブルエッグが出来上がるのと同じで魔力の量や要領を間違えると、こうなる。


「今度こそ上手くいったと思ったんだけど」

「まだまだ。あと一ヶ月あるんじゃから。焦りが一番の失敗への近道じゃよ」

「…うん、もっと頑張らないとね」


だってまどかとお月見、したいから。





つい三日前までは真緑だった丘の上も、すっかりカラフルなレジャーシートや飾り付けで華やいでいる。


いよいよ、花祭り本番。


早起きをして朝一番に着いてからずっと探していたけれどまどかの姿はどこにも見当たらないまま、とうとう試合開始10分前の合図が鳴った。味のある木彫りや金銀の豪華な杖を手にした魔法使い達がそれぞれ自分の位置につく。


「まどか……」


本当にこの人混みのどこかにいるのだろうか。


「…あいたいの」


こんなこと言ったら「寂しかったの?さくらこちゃん」なんて笑うかもしれないけど。当たり前だよ。だってどこに行くにもずっと一緒だったのに、もう一ヶ月も会っていない。探しても探してもそこにはまどかはいなくって。いつもならすぐ見つけられるのに、見つけてくれるのに。こんなの寂しいに決まってるの。


……でも、


『全力を出し切って来るんじゃよ』


優しい笑顔で見送ってくれたおじいさんのおかげで少し前を向けた。



今日までの一ヶ月、ずっと勝てっこないってどこかで思ってた。だけどね、まどか。わたし、やっぱりどうしても勝ちたいよ。勝ってまどかにお月見しようって誘うんだから。

そのために頑張ってきたんだもん。


ギュッと手を握りしめる。……うん、なんだか出来る気がしてきた。




ピーーッ


開会の誓言の終わりと同時に綺麗な笛の音色が花祭り開始を告げた。






「開花!」


種の埋まってる地面に向かって指を突き出すと、モゴ…と微妙に土が盛り上がった。


よしっもう一度!大丈夫。練習どおりやればきっと。


「っ開花ぁ!」


今度は双葉がぴろっと土から出てきた。順調に行ってることが嬉しくなって、どんどん詠唱を重ねていく。


そうして木がやっと自分の背丈を越した、その時。



「ぎゃああああ!!!」


遠くから魔法使いの悲鳴が聞こえた。一人だけではなく、立て続けに何人もの魔法使いが絶叫している。


…始まったのだ。花祭りでは相手に魔法をかけて妨害することも正式なルールで認められている。だから終盤ではこうして自分の木を育てるためだけではなく、相手を攻撃したり、攻撃から守ったりするための魔力も残しておく必要もあるのだけど……今年は例年より荒れているみたい。


実際に攻撃されているのはトップクラスに魔法が使える人ばかりで、幸い私のコートからはかなり遠い。祭りで賑わう人混みの向こう側、よくは見えないけれどどうやら攻撃しているのは一人…?


攻撃された木が次々に朽ちていくのが見えて、その小さな体がだんだん近づいてきているのがわかった。


「まっ、まずいこっちに来てる」


多くの魔法使い達を掻き分けて、掻き分けて、ようやくその姿がはっきり見えた。


全身真っ黒のゴスロリ衣装、ウエストと胸元の大きなリボン、その長い髪とお揃いの白いローブをはためかせて箒を走らせていたのは_____


「……まっ、まどか!?」


見慣れたその人物に、木を守らないとと咄嗟に出た右手がピタ、と止まる。フードで顔は隠れているけれど、時折聞こえるあの声はまどかのもの。聞き間違うはずがない。


まどか……よかった、来てたんだ。

ほっと安心する。


「まど、」

「伐採」


まどかの口元がそう動くと、一本の桜がギシギシと音を立てながら倒れる。それに振り向きもせず、また新たな詠唱を続ける。


「落雷」

「退化」

「虫喰」

「焼き尽くせ」


淡々と、まるで喋るみたいに躊躇無く呪いをかけるまどかと、波のようにたちまち悲惨な姿に変えられていく桜の木々。すると防衛が間に合わなかった魔法使い達がまた絶叫をあげる。


目あわないかなって思っていると、本当にまどかがこっちを見て少し浮かれる。久しぶりに目があった、それなのにまどかの顔は無表情のままで。


「まどか?」


花祭り。それは華やかな催しの裏、上級下級関係なく魔法で力を争う祭り。自分以外は皆敵だと思え、そう何度もおじいさんに言われた言葉。


どうしてここで自分だけが特別だと、思い込んでしまったのだろう。



「……枯渇」


まどかの冷徹な声と、視線が全ての終わりを告げた。


パラパラパラ……と木の表面だったものが灰になってどんどん崩れていく。目の前を、まるで粉雪のように。風に舞う灰を少し吸ってしまったからか上手く呼吸が出来ない。


どうして……どうして…………?


今にも芽吹きそうだった木の花の名前も、まどかのその表情の理由も、何も分からない。


それなのに、今まで誰よりも一緒にいたあのまどかが自分の敵になるんだと、それだけが嫌でも分かってしまった。



…まどかがわたしを攻撃する、わたしを守ってくれていたあの呪いの力で。



あの時、木の化け物に唱えた時と全く同じの、何の感情も抱いていないような冷めた声。どうしてなの……まどかも、きっと優勝したらわたしと月を見てくれるって。始めからそう信じて疑わなかった。



『その桜の上で月見をするとその2人は末永く結ばれるんだって』

『優勝した夜伽なんだよ……?』



あの噂話が脳裏に過ぎる。

まどかは…優勝したら誰と月が見たいと思うのだろう。


わたしじゃない、誰と。


そうだ。わたしがまどかを誘いたくて頑張ったように、まどかも誰かのことを思ってあれだけ嫌がってた花祭りに出たのだ。


例えばあの子とか。あの子とか。クラスメイトや親衛隊の男の子の顔がいくつもぽんぽんと浮かぶ。想像するだけでいやなのに。


早く次の種を埋めないと終了時間になっちゃう、そう頭では理解していてもだらんと下げた腕に力が入らない。わたしが諦めたのを確認するとまどかは無表情のまま箒を旋回させて行ってしまう。その後ろ姿がまるで別人のようでさらに胸が苦しくなった。


いつもは隣にいて、暑苦しいくらい近くにいて、それが私たちの当たり前で、わたしたちの距離で。いつか置いていかれる側になるだなんて思いもしなかった。



久しぶりに会ったのに、初めて一緒に出れたお祭りなのに。



じわ、と涙が滲んで視界が滲む。まどかだってわたしと同じ目的だと思ってた。『末永く結ばれる』その相手にわたしを選んでくれるってそう思ってた。サプライズだってしたかった…。


こんな名高い魔法士の中で、呪いで優勝したよって。毎日授業終わりに特訓して頑張ったんだって。


それから、一緒にお月見しようって。

言いたかった。言いたくて頑張って来たのに、



「それなのに…っどうして、どうしてまどかがわたしの敵なの___」










「それなのに…っどうして、どうしてまどかがわたしの敵なの___」


後ろから聞こえてきたその声にびっくりして、思わず箒の柄を離しそうになる。


「さ、さくらこちゃん…?」


箒を止めて振り返ると、そこには灰やら朽ちた木片が散らばる中、華奢な肩を震わせるさくらこちゃんの姿があった。


さくらこちゃんが急に叫んだことにより辺りは一瞬シーンと静まり返る。そこでやっと我に返ったのか、今度は何やら顔を赤らめてあわあわしている。


普段は冷静なさくらこちゃんが、まどかのことでこんなにも取り乱しているのは初めて見た気がする。


「いっ、今のはちがうの!」

「えっ…ちがうの?」

「ふぇ!?ううんっちがくないんだけど、ちがうの!!」


ここからでも分かるくらい耳まで真っ赤にしてそう言うさくらこちゃんがどうにも愛おしくて、必死にガチガチに固めていた頬の筋肉が緩んでしまう。


あーぁ…上手く出来たと思ったのに。本当にさくらこちゃんには適わないなぁ。



『どうしてまどかがわたしの敵なの』か…。

ずるいよ、さくらこちゃん。


そんなこと言われたらもうさくらこちゃんに攻撃なんて出来ない。


人混みの中にさくらこちゃんの姿が見えて、呪言を使っているのを見た時は本当はすごく嬉しかった。わたしが呪言を使っているのを見て「かっこいい」なんて褒めてくれたのはさくらこちゃんただ一人だけだったから。


とても嬉しくて、尊く感じた。だからこそ余計に苦しくなった。


それが誰か他の男の子のためだと思うと、自分の心の中が醜いものであっという間に埋め尽くされた。どんな呪術を使っても感じたことの無い闇。わたし以外を思って育てた花なんて折れてしまえばいい、そんな酷いことを思った。どんな花でも、さくらこちゃんが一生懸命育てたってことには変わりないのにね。


あの時と同じ枯渇の詠唱をしたのだって、ほんの当てつけのようなものだった。さくらこちゃんが傷ついたような顔をしたのを見て、予想通りのはずなのにすごく苦しくなった。とても後悔した。



それでも、まどかは、さくらこちゃんが他の誰かと一晩も一緒になるのを許せるほど立派にはなれない。しかも『末永く結ばれる』というジンクスのあるこの場所で過ごすだなんて考えるだけではらわた煮えくり返るの。


例えばそいつの筆箱にプリンを入れてシェイクしてやりたいくらい。



……けれど、今こうして久しぶりに目が合って思い出した。やっぱりさくらこちゃんにはいっぱい笑っていてほしい。


まるで桜の花が綻んだようなその笑みが一番よく似合うから。酷いことをして、そんな顔をさせているのはわたしだけど。



もうあんな意地悪はしないから、また笑ってくれないかな。

さくらこちゃんに聞こえないような声で呟いたその時、


ニョキニョキニョキ


いつの間に魔法の種が零れ落ちていたのか、足元から生えてきた木がすくすくと育っていく。


あれ…?わたし今は呪言使ってないはず……


混乱している間にも木はすくすく育っていく。太くなった幹からいくつもの枝に分かれて、その先に濃いピンク色の蕾が出来る。


辺りに広がる甘酸っぱい香り。これは……



「ぁ、……咲いちゃった」


目の前で今にもこぼれ落ちそうなほど咲綻ぶそのピンク色に小さくため息をつく。今ので魔法の種も使い切っちゃったし、多分このままじゃあわたしは失格になる。


だってこの木は桜じゃないから。


「あれって…」




突然目の前に生えてきた木を、さくらこちゃんが驚いたように目を瞬かせて見上げる。



「桃じゃな」

「桃ですね」


審査員席からは苦笑い混じりの実況が聞こえる。


「わぁ…綺麗」


あぁ…こんな予定じゃなかったんだけどなぁ。ううん、きっと一生懸命なさくらこちゃんを蹴落とそうとした天罰なの。


それでも『天罰』と名付けるにはあまりに綺麗に咲いた桃の花に、「これが桃祭りだったら優勝ってくらいの出来なんだけどなぁ」なんて呟く。


今から変化(へんげ)の呪いをかければきっと桜の形にはなるかもしれないけど。これはこれで、このままがいいな。相変わらず綺麗に咲き続ける桃の花を見て、今日何度目かのため息が漏れる。


きっとこの花を綺麗だと褒めるさくらこちゃんは気づいていないかもしれないけれど。



桃の花言葉、それは…「私はあなたのとりこ」。まるでわたしの脳内を読み取ったみたいなの。案の定気にしていない様子のさくらこちゃんは「わっ、わたしが頑張らないと!」と再び呪言の詠唱を始めた。



「開花っ!」


何度目かの詠唱に、さっきより幾分も立派な木がしゅるしゅると真っ直ぐ天に向かって伸びていく。まだまだ未熟で葉も青々としているのに、さくらこちゃんは既に嬉しそうににこにこと笑っていて、つられて頬がゆるんだ。



あーぁ……あんな幸せそうな顔見せられちゃったらもう邪魔なんて出来ないなぁ。


桃に守衛の呪いをかけた鴉を付けて、残っている魔法士たちの木にこっそ〜〜り呪言をかけて滅ぼしていると、遠くの方で審判の終わりを告げる笛が鳴らされた。







結果から言えば、優勝に選ばれたのはわたしでもさくらこちゃんでも無かった。水の魔法を使って桜の木に虹の橋をいくつもかけてみせた湖の魔女が圧勝。これだけ名高い魔法士達が集まれば、優勝はそう容易い目標ではないと分かってはいたけれど。


わたしは優勝に興味はないし、さくらこちゃんを誘えないなら月見だってする意味が無い。だから、さくらこちゃんの貞操を守れたから今回はそれだけで充分なんだけれど。


ちら、とさくらこちゃんの方を見ると既にクラスメイトに囲まれていた。てっきり落ち込んでいるかと思ったのに、その表情は晴々としていて何やら満足気だった。にこにこと嬉しそうにクラスメイトと笑い合うさくらこちゃんを見ていると、また邪魔をしたくなってしまいそうになる。


……あの中にいるのかな、末永く一緒にいたい人が。

そう考えると寂しくてたまらなくなって、ふいにこっちを見たさくらこちゃんと目が合っても上手く笑って返せなかった。


「〜っまって、まどか!!」


目が合うと目を大きく開いて慌てて駆け寄ってくる。


「っまどか、あのね?その、まどかに話したいことが沢山あって」


そう矢継ぎ早に言葉を紡ぐ姿から楽しくてたまらないという雰囲気が滲み出ている。まるで色々な花々の綺麗な所を切り取って集めたみたいな満開の笑み。まさに万花が咲いたような。


それがあまりにまっすぐに向けられるから、その花はわたしのために咲いてくれているのだとつい自惚れてしまう。







「えぇぇ!?お月見のチケットは男女ペアチケットだったの!!?」

「だからさくらこちゃんは何も分かってないって言ったのにい」


帰ってすぐ、まどかから聞かされたその事実に体中の力がガクッと抜ける。そんなぁ…最初からまどかとお月見なんてできなかったんだ。


「早く教えてよぉ…」


むだに期待して頑張ってしまった分、行けないとなると余計にショックなの。


「……さくらこちゃんに好きな男の子がいるんだって思ったら、怖くてとても聞けなかった」

「まどか…」

「ひどいこと、いっぱいしてごめんね」


いつも天真爛漫で、反省なんて授業で大鎌を倒した時くらいしかしたところ見たことないまどかが、珍しくしょんぼりとしている。




「…でも、審査員のおじいさんに呪いかけるのはやりすぎだよ」

「わかったの……って、えっ、えぇっ!?」


しわしわに落ち込んでいた顔が、驚きでいっぱいになった。綺麗なイチゴジャム色の瞳がまんまるになっている。それがおかしくって思わず吹き出してしまう。


本当に気づいてないとでも思ったのかな、あんなバレバレな演技するひと、中々いないと思うけれど。出会った時と練習の時と喋り方違っていたもの。


「も〜…笑いすぎだよ」

「だって…ふふっ、『じゃよ』っておかしくて」

「むう…」


まどかが照れるのも珍しい。なんだか今日はレアな表情が沢山見れている気がする。それが嬉しくてつい声を出して笑ってしまう。


すると「笑いすぎなの」とほっぺたを膨らませたまどかに、頬を掴まれると視界いっぱいにまどかが映りこんだ。


……あっ、やりすぎちゃったかも。そう気づいた頃にはもうだいぶ手遅れで。


「そんなさくらこちゃんこそ、知らないおじさんに教わってまで誰とお月見、したかったんだっけ」

「〜〜っずるいまどか」


にっこりとお手本のように可愛らしく笑うまどかのその顔を見れば、そんなのとっくに気づいてるのが丸わかりだ。気づいてる上で、言わせようとするなんて意地悪なの。


「わ、かったの…言うから、手一旦はなして?」

「?」


素直に手を離して、何をされるのかわかっていなさそうな顔をするまどかの背後に回る。頭の中ではなんどもシミュレーションしたのに、いざやるとなると、心臓がバックバク鳴って壊れてしまいそうになる。恐る恐る、だけど緊張が伝わってしまわないようにまどかの薄いお腹に手を回す。目の前の肩がぴく、とびっくりしたように跳ねる。


「さ、くらこちゃん?」

「…っバックハグ、して欲しいって言ってたから。こっそり失敗した木たちで練習してたの」


恥ずかしさが勝って余計なこともいくつか口にしてしまうけれど、まどかはピシッと固まったまま動かない。


「で、できてるかな…?」

「…うんっ、うん♡かんぺきなの♡♡…ふふ、本当にしてくれるなんて思ってなかったから嬉しいの」

「大袈裟だよ、まどかは」

「んぇ?本当だよお」


まどかは本当に嬉しそうに声を弾ませる。


「あのね…お月見、ま、まどかと見たかった、の」


恥を忍んで精一杯の声を振り絞るけれど、最後の方なんて蚊の鳴く声のように小さくなってしまった。それでもきちんと聞き取ってくれたまどかは、ほっぺたをもっとたゆんたゆんに緩ませて「こんどはわたしのために、桜、咲かせてほしいな」と心底幸せそうに微笑んだ。


「さくらこちゃんの桜、とっても綺麗だったの。一番綺麗だった」

「まどかの桃もすごかったね。あの上でお月見したかったなぁ、きっと華やかになったよ」

「んへへ。さくらこちゃんそんなに月見すきだったっけ」


くすくすとおかしそうに笑う。ううん、お月見だけが好きなわけじゃないよ。まどかと見れる、それが一番大事だから。


「ね、まどか」

「うん?」

「今からでも夜伽、する?」

「……ふぇ!?」


しばらくほうけてからまたあの綺麗な瞳をうんと大きく開いて目元を同じイチゴ色に染めた。

0コメント

  • 1000 / 1000


聖徳大学 文芸研究同好会

聖徳大学 文芸研究同好会です。 当ブログでは、同好会の活動報告や部員の何気ない呟きを発信します。