2024年度『卒業制作』①

こんにちは。文芸研究同好会です。

今回は卒業する部員が書いた作品を公開します。とても長いので前編のみここでは公開します。後編は②で。少し手違いがありまして、①と②の投稿順序が逆になっています。

さて、今作は魔法少女×妖怪の不思議な世界。この世界で何が起こっているのか。それはどうか、あなたの目でお確かめください。

以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。

※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。



『救えない世界』①   月夜


 急募。空からぬいぐるみが降ってきた時の対処法について。……答え。持ち帰りましょう。

 うん、そうだよな。そう、だよな。

 小さくため息をついて目の前にいるぬいぐるみを拾い上げる。綿と糸と布でできていると聞いたことのあるぬいぐるみだが、思っていたよりも重い。大きさのせいか、はたまたぬいぐるみとはこれ程の重さなのだろうか。

 分からないがとりあえず……。

「なに、あれ……」

 視線の先にはぬいぐるみを追ってきたらしい上半身は女性、下半身は蜘蛛な化け物。それも三体。嫌な予感しかしない。

 顔を見合わせた彼女らは小さく頷きあった後、勢いよく俺のところへと駆けてきた。

「ま、じかっ」

 仕方なく壁を駆け上がって逃げる。もしかして、良くないもの?ただのぬいぐるみじゃない?

 そんなことを考えても蜘蛛の化け物は追いかけてくる。しかし、俺のように屋根を駆けることはしない。というかできないようだ。ということは、あの化け物は蜘蛛のようで蜘蛛じゃないのかもしれない。

「わっかんない、分かんない」

 化け物たちの視界に入らないところでサッと屈む。この場所は下からは壁があって見えないはずだ。

「なあ、起きろって」

 ぬいぐるみを揺さぶったらパチリと目を開けた。ぬいぐるみは自身を見た後、ゆっくりと俺を見て目を丸くした。

「え、なん、きみ、」

「俺のことは後。化け物に追われる心当たりは?」

 ぬいぐるみはハッとした後、小さく頷いた。チッと小さく舌打ちをする。というかここまでがっつり関わってしまったら今さら見捨てることはできない。それこそルール違反だ。

「今回だけだから」

 ぬいぐるみを一度屋上の床に置き、目を閉じる。ざわりと風が吹いた後、ゆっくりと目を開けた。これまで短く黒かった髪が一気に白く長くなった。ぬいぐるみの口がぱっかりと開いている。目の前で姿が変わったらそんな反応になるだろう。

「え、どういう、」

「話は後。倒せば良い?」

「う、うん……」

 袖口から出した黒い狐面を右こめかみにあてて紫の組紐を結んで顔を少し隠す。こんな昼間にこんな格好をするとは思ってもいなかった。

「僕も、行く」

「……分かった」

 ぬいぐるみを抱き上げ、小さな白い狐面を渡す。ぬいぐるみはそれを受け取り、俺と同じように面をつけた。それだけでぬいぐるみの服が俺と同じになった。白い上着と黒の袴。俺とは色違いだ。

「離れないで」

 ぬいぐるみを肩に乗せて立ち上がる。少し先に化け物がおり、それに向けて人差し指と中指をぴったりくっつけて指差す。

「燃えろ」

 ゴオッと音がして蜘蛛が燃えた。壁を越えフェンスを越えて他の化け物を探す。もう一匹はすぐ見付かったが、最後の一匹だけはどこにも見当たらなかった。

「いない……?」

「……いるよ」

「は?」

 ぬいぐるみを見た次の瞬間、何かに足をとられてすっ転んだ。振り返った先、そこに化け物がいて俺の上にのしかかっていた。細かな毛の生えた足が両手両足を床に押し付ける。

 化け物はギャアギャアと何かを言っていたが俺には分からない。大抵の言葉なら分かるのに分からないということは、言語が俺の知り合いとは異なっているのだろう。

「ひぃっ」

「……目閉じて」

「な、なんでっ?」

「見たいなら良い」

 押さえつけられていた左手を動かす。ちょっと重いけど動かせないことはない。というか、拘束が緩い。ただの人間と思っているのだろう。

「よいしょっと」

 ザクッと首を斬り落とす。拘束から逃れ、ぬいぐるみと共にその場を離れる。返り血なんて一滴も浴びていない。

 チラリと化け物を見たらピクリとも動かなくなっていた。倒した、ということで良いだろう。

「……家、来る?」

 小さく震えているぬいぐるみに問うと、ぬいぐるみは小さく頷いた。


 丸いちゃぶ台の上にぬいぐるみを置いてその対面側に座る。

「……助けてくれてありがとう」

「いーえ」

 ぬいぐるみはぺこっと頭を下げた。意外と礼儀正しい。こうして見ると最近流行りの『AI』が埋め込まれているわけではないことが分かる。

「僕は小町」

「……ヨミ」

「ヨミ?」

「そう。ついさっきの、何?」

「……あの、あんまり口外しないでほしいんだけど」

 こくんと頷くと小町は目線をそらしながら話した。

「あれは人間の負の感情から生まれた怪人なんだ。僕は少し前まで『魔法少女』をしていて、それと闘う力があった。でも、サポート役の裏切りにあって、こんな姿に変えられたの」

 聞いたことがある。『魔法少女』とは、怪人に対抗する力を持つ者のことらしい。日曜日にとあるテレビ局でやっているアニメのようなことが、数年前から現実におこっている。人間を襲って不安にさせたり恐怖を与えることで怪人は力を増すらしい。それに対抗できるのが『魔法少女』で、彼女らの活躍は時にテレビで取り上げられるほどだった。

 俺は昼の時間にあまり動かないので、その存在を知識としてしか知らなかった。実物を見るのは初めてだ。

「なんで追われてた?」

「ぬいぐるみ化すると動けないんだって。でも僕は動けた。だから逃がしたくなかったんだと思う」

 小町はうつむく。そうされると俺からはつむじしか見えない。表情が見えないから何を思っているかは分からない。けれど、行く場所がないことやこれからどう動こうか考えていることは分かった。

「……匿う」

「良いの?」

「良い」

 俺は怪人を倒すことはできても、こういう人間たちの問題に深く関わってはいけない。そういう決まりだからだ。まあ、例外はあるけれど、その条件はまだ満たしていない。だから小町を家の中に置くことしかできない。

「家から出ないで」

「うん、それはもちろん」

 俺は立ち上がり、ベッドに横になる。まだ外は明るい。けれど疲れたし今は仮眠をしていた方が良い。ふと小町の方を見ると、彼はじっと俺を見ていた。

「……寝るけど」

「うん」

「……いっしょに寝る?」

 すると小町は驚いた顔をした後、笑って頷いた。ちゃぶ台からベッドに飛び乗ろうとしていたが難しかったようで床に敷いた毛足の長いカーペットに吸い込まれていった。

 ジタバタと暴れてカーペットに立つとベッドをのぼり始めた。しかしうまくいかなくて何度も落ちていた。五回落ちたところで俺は諦めて身体を起こした。

「ほら」

 ちょっと身体を折りたたんで手を床ギリギリまで差し出すと小町はぴょんとそれに飛び乗った。

「ありがとう」

「いーえ」

 身体を起こした後は小町をベッドに無事着地させて枕に頭を乗せた。目を閉じればどろっとした疲労感が身体を襲う。やはり昼間に外出なんてするもんじゃない。おかげでいつもよりも長く寝ないといけない。

「あ、ふ……」

 欠伸を噛み殺して心臓を守るように丸くなる。大丈夫、ここに怖いものはない。そう言い聞かせて、意識がゆっくりと落ちていくのに身を任せた。

 ぼんやりと発光するその人物をじっと見る。誰なのかはもう分かっている。そもそも、こうして夢に現れるしか言葉を交わす術がない相手は俺が知る限り少ない。

 この周囲には何もない。どこまでも広い白一色の空間。壁も障子も扉もない。こんな孤独な空間にひとりだとしたら俺は十分もいられない。

「なに」

「貴方はもう、深く関わりすぎた」

 何に、なんて聞かなくても分かった。小町のことだろう。俺もやりすぎたとは思っていた。けれど例外にはならないだろうと高を括りすぎていたらしい。

「そうかもね」

「なのでトコトン関わりなさい」

「命令?」

「ええ」

 俺はため息をついた後、恭しく頭を下げた。あくまで上品に見えるように頑張った。俺は元々、粗雑なのだ。

「承りました」

「ヨミ」

 俺の返事をうけてその人物はどこか寂しそうな声を出した。顔が見えなくても、何を考えているかは分かる。

「大丈夫、だいじょうぶ」

 その人物は俺に近付こうとした。けれど、俺はそれを拒否する。数歩さがってさらに距離をとる。それだけで相手は察したらしい。何百年をこえる付き合いだからだろう。

「……いつも見守っているから」

「時々で良い」

「そうはいかないの」

 強大な力を持つから、か。好きで持ったわけじゃないのに、なんて言ったってこの人物以外には通じない。この人物が担当な俺はまだマシな方だと改めて痛感させられる。

「気を付けて」

「……はい」

 俺は振り返らずにその場を去った。

 ゆっくりと目を開ける。ベッドサイドに置いていた時計を見るともう夕方の六時だった。今は冬。この時間には外はもう、真っ暗だ。

 ベッドからぬけ出すとカーテンを閉め、鍵の確認をした後、机の上に置いたままにしていた黒の狐面をとった。

「ヨミ?」

「小町」

 振り返れば小町が身体を起こしていた。普通の人間と同じように目をこすり、眠そうに欠伸を噛み殺す。そうしていればぬいぐるみとは思えない。

「来る?」

「どこ行くの」

「……散歩」

 狐面で顔を隠すようにして組紐を結ぶ。小町はぼんやりとしていたが、ベッドからおりて俺の足元までやって来た。

「行く」

「分かった」

 先ほどと同じように白い狐面を渡せば少しもたつきながらも組紐を結んでつけた。それだけで先ほどと同じ格好になる。小町を抱き上げ、じっとそのオレンジがかった黄色の目を見る。俺の視線に気付いた小町は俺を見た。

「小町、出発前に約束。俺をヨミと呼ぶこと」

「うん」

「俺に声をかけたやつとは良いと言うまで話さないこと」

「うん」

「聞きたいことは帰ってから聞くからまとめとくこと」

「うん」

「最後に。絶対に離れないこと」

 ぜんぶ聞いた小町は大きく頷いた。俺はそれを見た後、ゆっくりと玄関の扉を開けた。ヒュウ、と身体を凍らせるような風が吹いた。

 カチャリと鍵をかけて歩き出す。カランカラン、とはいている下駄の音がする。正直、冬に下駄なんて寒くてしかたない。けれど、これでスニーカーだと格好がつかないと言われて渋々はいている。スニーカー、便利なんだけどな。

 ゆらゆらと暗い街を照らす提灯の光。俺の持つ提灯は普通の赤いやつではない。江戸時代に流行っていた百物語で使われていた青い提灯だ。今どき提灯を持つ者は少ない。俺だって違うのが良い。というか持ちたくない。けれどこれが分かりやすいからって言われて持っている。

「おや、ヨミ様」

「おそよう」

「おそようございます」

 コートを着た美しい女性が声をかけてくる。彼女も知り合いだ。にっこりと笑う彼女の正体なんて人間は知らない方が良い。鬼だなんて知ったら卒倒してしまうだろう。

「そちらは?」

「彼の紹介もしたい。いつものとこ?」

「ええ」

 ゆらゆらと揺れる袖を見ながら小町に耳打ちする。見た目に惑わされないで、と。小町は不思議そうに首を傾げていた。

「よお、おそよう」

「おそよう。もうそろってるね」

「おうよ」

 いつもの廃墟には既に昔から仲の良いメンバーがそろっていた。鬼、狐、野猪、天狗、精。それぞれ種族も寿命も違うけれど、代々俺を護る家に生まれている。

「集まってくれてありがとう」

「なあに、そろそろ集まり時だっただろ」

 大柄な男の姿をした彼は野猪だ。豪快に笑う彼は俺の肩を叩いた。

「ふふふ、楽しみだったものね」

 コートを着た美女は鬼。穏やかで優しげな見た目とは裏腹にとんでもない怪力の持ち主で怒らせると怖いタイプだ。

「それよりはやく話してよ〜!気になるじゃん!」

 九十センチほどの大きさの彼女は無機物が心を持って生まれる精。テンションが高いが、今の俺はそのテンションについていけそうもない。

「ヨミ様」

 大きな葉をうちわのようにしてあおぐ男は天狗。彼は東京の高尾山に住み、周辺の人間の生活を見守っている。

 その隣でじっとしている幼い少女は狐だ。かわいらしい顔立ちだがムッとした顔をしているのでなんとも言えない。

「うん」

 俺はぐるりと周囲を見る。この周辺に人間の気配も不審者の気配もない。それならば話しても大丈夫だろう。

「神から依頼された。……怪人を倒す」

 その場が一瞬だけ静まった後、一気に嬉しそうな声が上がった。

「やっとか!」

「えへへぇ、頑張っちゃうよ〜!」

「珍しいの。言われてもやりたがらないのがヨミ様なのに」

「そのぬいぐるみが関係しているのでしょう?」

「……うん。彼は元魔法少女」

 俺は小町の頭を撫でた。小町が俺を見上げる。小さく頷くと小町は彼らをじっと見た。おずおずと口を開いた。

「小町です。ヨミの家でお世話になっています」

 その瞬間、んぎゅ、と彼らが酸っぱい梅干しでも口にしたような顔をした。

「う、」

「う?」

「うらやましいっ!」

 野猪と鬼を中心に小町の肩を掴んでぎりぎりと締め上げる。小町が小さく悲鳴を上げた。顔をつめ、怒涛の勢いで小町に様々なことを問いかけている。俺は小町を取り返すと奪われないように抱きしめた。

「い〜ない〜な!」

「ヨミ様を呼び捨てにできるなんて」

「ヨミ様が庇護すると決めたなんて」

 小町は不安げな目で俺を見てきた。俺はそんな彼らを見てドン引きしながら数歩さがった。

「ヨミの親衛隊?」

「近い。護衛隊」

「そんなにすごいの、ヨミ?」

「伝説的ですよ」

「……まさか」

 ちょっと手を貸しただけだ。

「陰陽師を説得したり」

「暴れる大きな鬼を配下にしたり」

「生きやすいよう知恵を与えたり」

「ヨミ様の功績は様々だよ!」

「……だって」

「うーん、忘れたい過去」

 俺はそっぽ向く。正直、巻き込まれてやったことが多かった。

「まあ、落ち着こうか。怪人を倒すって言っても難しいんじゃなかったかえ?」

 狐がそう言って俺を見た。

「本来の姿を見せないで怪人を少しずつ倒す」

「オッケー!」

「んで?俺たちは?」

「怪人と魔法少女について知りたい」

「情報収集ですか」

「そう。とりあえず三日。集められるだけ集めて」

「はっ」

「ヨミ様の仰せのままに」

 彼らはそろってきれいな一礼をした。

「じゃあ解散。次回は三日後」

「見回りもしないので?」

「しばらく昼に活動する。俺も怪人について調べる」

 すると狐が涙ぐんだ。狐とは護衛隊の中でも付き合いが一番長い。狐はもとから非常に長生きな種族で、俺の護衛隊の狐は一度も変わっていない。

「そうですか」

「うん」

 彼らは俺の終わりの言葉を聞くとそれぞれが全国にいる同種の仲間へと連絡をとった。それを横目に見ながら俺はカランカランと下駄の音を鳴らして家に向かって歩き出した。

 家に帰ると狐面を外す。それだけで和装が消える。首元がもたついたパーカーにジーンズ。いつも通りの服装だ。

「小町。外して良い」

 声をかければ狐面を外して顔を見せた。ベッドに小町を座らせて狐面をしまう。

「聞きたいことはある?」

「……さっきの人たちは?」

 小町は真っすぐ俺を見て聞いた。たしかに護衛隊の彼らは性別も年齢(見た目だけでの判断だが)もバラバラだったが、ただの人間に見えただろう。江戸時代、いや、種族によっては平安時代以前から人間の姿をとって人間たちにまぎれて生きてきた。

「聞いて後悔しない?」

「しない」

「……そう。じゃあ言うけど。彼らは人ならざる者だ、一般的な言い方をすれば」

「人ならざる者?」

「人じゃない者ってこと」

「妖怪とかってこと?」

 俺は頷いた。小町の座るベッドに座って向き合う。ちゃんと説明しないといけないと思った。

「今日、いたのは鬼と狐、天狗、精、野猪」

「野猪?」

「どんな動物かは不明。俺も知らない。一般的には狸とか猪とかって言われてる」

「ヨミはどんな妖怪なの?」

 顔に動揺は出さなかったと信じたい。けれど、ドクドクと心臓が煩い。耳元で叫んでいるようだった。

「……たいしたやつじゃない」

「そっかあ」

 小町はそれ以上深く追及してこなかった。それに俺は安堵した。小町にこれ以上深く追及されたらこたえられないところだった。

「ヨミは怪人と闘うの?」

「そのつもり」

 それを聞いた小町はぴょんとベッドから降りて玄関へと向かう。俺はそれを追いかけて抱き上げた。

「どこ行く?」

「家。怪人対策ノートがある」

「……明日で良い?ねむ、い」

 あふ、と欠伸を隠さずにすれば、小町は時計を見た。指し示している時間は午後八時。寝るにはずいぶん早い時間かもしれない。けれど、もう俺は眠くてたまらないのだ。

「うん、明日行こう」

「そ」

 小町を抱いたままベッドに背を預け、ふわふわの布団を身体にかけて目を閉じる。

「おやすみ、ヨミ」

「お休み、小町」


 翌朝九時ぐらいに目が覚めた。十二時間ほど眠っていたことに驚いたが、昨日は昼間にも活動したせいで疲れていたのだろう。

 それよりも小町が俺のそばにいたことに驚いた。昨日は俺にとっても濃密な一日だったが、小町にとっても同様だったのかもしれない。

 俺は小町を起こさないように気を付けてベッドから出ると顔を洗ってキッチンへと足を向けた。さすがに何か食べないと日中を乗り越えられそうもない。

 冷蔵庫から卵とベーコンを出すと卵はボウルの端で数回ノックした後に割り、コンロに火をつけてフライパンを乗せる。フライパンが熱されたタイミングで油をしいてボウルの卵をかき混ぜて流しこむ。ぐちゃぐちゃと菜箸でかき混ぜてスクランブルエッグとやらを作ると、それを皿に盛り付けて今度はベーコンをいれた。

「ヨミ?」

「小町」

 弱火にして振り返ると小町が身体を起こしているところだった。どう挨拶したものかと戸惑っていたら、小町は俺を見て目を細めた。

「おはよう」

 俺もそれにおはよう、と返した。

「朝ごはん?」

「そ」

 決して上手とは言えない俺の手作り料理。小町はそれを見て目を輝かせた。

「はやく食べよ」

「ん」

 食パンにジャムとマーガリンを塗る。小町は食パンを一枚も食べられないだろうからこれで十分だ。焼き上がったベーコンをスクランブルエッグの乗った皿に乗せて、ちゃぶ台に持っていく。小町もいそいそとベッドから落ちていた。

「小町の家ってどこ?」

「日暮里の方だよ。実家暮らしだから両親がいるかも」

「……友だちで通すか」

「そうだね」

 小町をちゃぶ台の上に乗せて手を合わせる。頂きます、と口にして小町用に用意した小さな皿にスクランブルエッグと小さく切ったベーコン、パンを少量乗せた。

「どうやって行くの?」

「電車」

 小町は意外そうな顔をした。昨日、化け物を相手にしていた時に異常な身体能力を見せたせいだろう。さすがに真っ昼間は例外がない限り使わないんだけど。

「行き方分かる?」

「乗換え地点だから知ってる」

「そうなんだ」

「小町」

「うん」

「人間に戻ったら何したい?」

 小町はピクリと動きを止めた。その目が俺を見る。

「どうして?」

「……気が向いた」

 小町はしばらく沈黙した後、寂しそうに笑った。

「魔法少女に戻るよ」

「なんで」

「僕の使命は終わってないからね」

「使命?」

「人間を怪人から守ること」

 その言葉になんとも言えない感情が胸を満たした。きっと小町は知らない。魔法少女は替えがきくことを。

 数年前、知り合いがテレビに出たからその番組を観ようと集まったことがあった。その番組の前にやっていたニュース番組で魔法少女が特集されていた。そこで取り上げられていた魔法少女を、俺は何故か覚えていた。綺麗な黒髪に青い目の印象的な魔法少女だった。名前は若葉。その数日後、若葉の名前はニュースや新聞で取り上げられることがなくなった。若葉のそばにいた、よく分からないかわいいキャラクターは別の魔法少女についており、世間で若葉という魔法少女はなかったことにされた。

「知ってるよ」

「え?」

「魔法少女は消耗品だってこと」

 俺は表情を崩さなかっただろうか。思わず息を飲んでしまった。だって小町は知らないと思っていた。

「サポート役がね、先代の魔法少女について教えてくれたの」

 小町は真っすぐ俺を見て言った。どこまでも澄んだ目は、穢い世界を知ってなお輝く、宝石のようだった。

「すごい魔法少女だったって。でも、怪人の親玉には敵わなかったって」

 俺は一度も見たことがない怪人の親玉。それが倒されない限り、怪人は増えるし人間は餌にされる。

「僕にできることはやろうって決めたの。だって、僕の平和な日々は魔法少女たちのおかげだったから」

「……そんなの、」

「うん、僕が勝手に恩義を感じているだけだよ。でも、それでも良いんだ」

 綿と糸と布。子どもたちに愛されるためだけに生まれたようなぬいぐるみ。小町の身体はそれでしかない。けれどその後ろに、しっかりと人間の小町の姿が重なって見えた。

「僕が繋ぐって決めたから」

 あぁ、眩しい。なんて眩しいんだろう。いつの時代も、こうして何かに燃える人間は俺が触れることを躊躇うほどに眩しく、そして……、脆い。

「……そっか。俺も手を貸すよ」

「ありがとう、ヨミ」

 そう言って笑った小町を見ながら、俺は食パンにかぶりついた。口の中で人工的な甘さが舌にまとわりついた。それをさも美味しいもののように飲み込んでお茶で胃まで流しこんだ。

 日暮里駅から十数分。俺は小町が描いた地図通りに歩いて小町の実家に辿り着いた。

「ここだよ」

 背負ってきたリュックをお腹側にすると、大きなチャックのところから顔を出していた小町が小声でそう言った。

「ありがと」

 俺はそう言ってチャックをしめる。ここからは小町の存在に気付かれてはいけない。震える手でチャイムを押すと女性が出てきた。小町によく似た目の色に、親子だと一目で分かった。

「どなた?」

「小町くんの友だちのヨミと言います。小町くんがちょっと体調を崩しているのでかわりに必要なものを取りに来ました」

 俺史上初めての長台詞だった。なんとか噛まなかったけれど舌がつらい。

「まあ。小町の母です。ご丁寧にどうも。小町は大丈夫なの?」

「ええ。薬を飲んで落ち着いています。お部屋にあがっても?」

 家の中をさすと小町の母は頷いた。ずいぶん警戒心の薄い親だ。しかし、ここで疑われないことはありがたかった。

「小町の部屋は奥です」

「ありがとうございます」

 靴をぬいであがった後、小町の部屋に行くと扉を閉めた。母親の気配が離れたことを確認すると、小町に言われた通りに本棚の本を取り出す。この本棚の本は手前と奥の二段構えになっており、奥にノートが隠されていた。それを取ると手早くリュックにしまった。すると床に置いたリュックが小さく揺れ、ノートが正解だと伝えてくる。

 リュックを背負って立ち上がろうとして俺は一度動きを止める。窓際の机、そこにおさまる教科書やノートたち。本棚には本が収納され、少し開いたクローゼットから服がはみ出している。生活感のある部屋だった。つい先刻まで小町がいたと言われても納得してしまうほどの。

 俺はそれを目に焼き付けて、踵を返した。部屋を出て帰ろうとした時に呼び止めてきた彼の母親には、小町はしばらく俺の家に泊まることを伝えた。小町の母親はご迷惑をおかけします、と言っていたが、俺はご丁寧にありがとうございます、とだけ返した。

 行きと同じ道を通って日暮里駅に戻ると黄緑色のラインが引かれた電車に乗った。この時間、俺が乗りたい水色のラインの電車は快速運転で日暮里駅にはとまらない。面倒だが二駅先まで行かないと乗れないのだ。

 二駅先で乗換えをして家のある方へと向かう水色のラインの電車に乗った。ぼんやりと窓の外の景色を眺めていたらリュックがもぞもぞと動いた。リュックのチャックを開けると小町が何か言いたげにこちらを見ていた。

 困っていると小町は両手を上に伸ばした。ゆっくりとリュックから出すと嬉しそうに少しだけ表情を変えた。周囲に人は少ないけれど、いないわけではない。動くぬいぐるみはまだ珍しいだろうし、目立つことは避けたかった。

 俺はそっとリュックのチャックをしめて小町を抱え直した。俺の胸の前をすっぽりと隠してしまうほどの大きさの小町は、普通のぬいぐるみに比べても大きいと言えるだろう。

「窮屈だった?」

 虫の羽音ほど小さな声で聞くと小町は少しだけ口を開けた。どうやら違うらしい。

「景色見たかった?」

 すると口をきゅっと結んだ。肯定だ。ならば、ということで窓の外が見えるようにして小町を抱え直す。窓の外を流れていく景色は、いたって普通のもの。人間の営みの一端だ。

「……次で降りる」

 景色だけを眺めていたら最寄り駅に着いてしまった。開くドアに近付いて待っているとどこからか悲鳴が聞こえてきた。小町を見れば小さく頷いていた。面倒だが、魔法少女の出番らしい。

 ドアが開く。俺は階段を駆け上がり、改札をぬけると悲鳴のした方へと駆け出す。

「怪人?」

「そうだね」

 さすが怪人。昼間に現れるのが普通とは聞いていたが、まさか今だとは。せめてもう少し夕暮れ近くが良いんだけど。

「そこまで強力な怪人じゃないっぽいけど、用心して」

「分かった」

 リュックから狐面を出すとそれで顔を半分ほど隠すようにつける。あっという間に夜の格好になる。小町の分もつけてやれば格好が変わった。

「飛ばす」

「うん」

 小町が胸にしがみつく。俺は更に加速して高い街灯の上に着地した。声が聞こえた場所に到着したのだ。

 そこでは猪のような形の怪人が三体、巨人兵のような怪人が二体いた。彼らの近くには人間が複数人倒れており、迂闊に攻撃はできない。

 そう、普通ならば。

「貫け」

 俺は普通ではないし、魔法少女でもない。ただの妖怪だ。

 一瞬で猪三体に見えない矢が当たり、彼らは倒れた。しかし巨人兵には効かなかったようだ。これには直接手を下すしかなく、地面に着地した。突如として現れた俺たちに他の人たちは驚いていた。逃げるでもない俺たちは異様だろう。なにせ魔法少女らしからぬ和装だし、顔を隠しているのも不審感しかないだろう。

「どうするの?」

「砕く」

「いやいやいや」

 小町とそんなことを話しながら巨人兵へと向かっていく。周囲の人間が動きを止め俺たちに注目が集まる。巨人兵を見ても臆することがないからか、はたまた、無謀と思われているか。

「小町、頭の上に乗れる?」

「うん」

「支えられないからそこ乗って」

「……振り落とさない?」

「善処する」

 できるとは言わない。頑張るけど落ちる可能性はある。ただ、俺の腕の中にいるよりは安全だし、落ちないと思う。

「そんじゃ」

 巨人兵の目の前。小町が頭上に移動し、髪をぎゅんと掴んだのが分かる。巨人兵が腕を振りかぶった瞬間、思いっきり胴体を殴った。ボコッだかドゴォッだかよく分からないが、すごく大きな音を立てて殴った箇所からあっという間にヒビが入って、巨人兵は砕けていった。

「もう一体」

 真後ろにいた巨人兵に左脚で遠心力も利用して回し蹴り。巨人兵は人間で言うところの脇腹辺りからあっという間に砕けていった。

「終わり」

 もはやただの猪の丸焼きと砕けた石ころしかない場所を眺めてそう言った。これで怪人は倒した。

「ヨミ。あの人を助けて」

 さて帰ろうかと思ったら小町に呼び止められた。小町の指す方を見れば、女性がうずくまっていた。

「立てる?」

 近付いて出来るだけ優しく声をかけた。女性は俺を見た後、小町を見た。そして、俺の手をとって立った。

「立てるなら大丈夫か」

「それじゃあ帰ろう」

 女性が立ったのを見た後、周囲を確認すれば怪我人もいないようだった。小さく息を吐いて街灯の上や五階建てほどのビルの屋上を駆けながら狐面を外した。服が戻り、小町の分も外してリュックにしまった。それからゆっくりと家への帰路に足を向けた。

 家に帰ると小町に頼まれてテレビをつけると俺たちのことが報道されていた。たった十数分前の出来事なのに、もうメディアが報道するなんて。情報の行き交う速度が異常にはやい社会だ。

 まあ、報道される理由も分かる。これまでの魔法少女と違って名乗ることもせず、また、『ゴシックロリータ』というフリフリも着ておらず、詠唱もなしに魔法を使ってみせたからだ。

「やっぱ話題になるよねぇ」

「そう?」

 報道では新しい魔法少女かと言われていたが、そもそも俺は魔法少女じゃないし魔法も使っていない。あれは妖術の一部だし、巨人兵に関してはもはや武術だろう。それに俺の性別は男である。どんなに中性的に見ようとしても骨格は男だし、声もどちらかと言われれば低い方だ。『少女』に間違うなんて失礼だ。

「怪人はどうだった?」

「……まあまあ。あれは弱い」

「そうだね。そこまで強くない怪人だね」

 小町は頷くとテレビの電源を消した。他に何か見ると思っていたため、その行動に驚いた。その後、小町はよじよじとなんとかベッドをのぼるとぽすぽすとベッドを叩いた。俺がぼうっとそれを見ていたら小町は不満そうな顔をした。

「なに」

「寝るでしょ」

「……なんで分かるの」

「なんとなくだね」

 小町の言葉に限界だったのか、ふらふらとベッドに横になる。眠気が強く、もはや寝るしかない。けれど何故か目を閉じることを身体が拒んでいた。

「大丈夫。僕はここにいるから」

「うん」

 少し強引に目を閉じるといつも通り視界は真っ暗になり、自分の呼吸音と小町が触れてくれる目元の温もりだけが感じられる。ほう、と息を吐くと強張っていた肩の力が徐々にぬけていく。

 深呼吸が続き、ゆっくりと意識が落ちていく。今日は見回りに行かなくて良い日なのでもうこのまま寝てしまおう。

 お休み、と小町の優しい声が聞こえた気がする。けれどそれに俺は何も返せなかった。


 初めて怪人を倒してから二日が経った。護衛隊との約束の三日が経ったので、その日の夜中にこの前と同じ格好をして、この前とは別の廃墟に向かった。いくつか知っている廃墟だが、やはり都心に多い。持ち主の死亡後、相続人が不明のまま放置されることも多々あるからか。便利だから俺たちはいっこうに構わないが。

 そこに行くと野猪以外は全員がそろっていた。野猪は少し馬鹿だけど時間に遅れるような奴ではない。珍しいこともあるものだ。

「野猪は?」

「今日は欠席すると連絡が」

 俺は頷くと腐食して倒れた柱の上にあぐらをかくようにして座ると小町を膝の上に置いた。小町の定位置だ。これなら小町の表情も見えるだろう。

「情報は」

「まずは関東からですね。この周辺はまだ弱い怪人しか出ていないように見せて数体だが強い怪人が目撃されています」

「九州の方は特に何もなし〜。強い怪人はあんまりいないっぽい〜」

「関西はほどほどね。強いのも一定数確認されているわ」

 全国の情報を聞きながら頭の中の地図帳をめくる。うーん、関東と関西に強いのが集中しているけど、それは人口数に比例しているのだろうか。

「倒した怪人数は」

「関西がダントツで多く、三十七体じゃ」

「次点が関東で三十二体です」

 全部合わせても百いかないほどだった。ここ数日のニュースで確認した通りだった。俺は頷いた後、小町を見た。まあ、俺からは頭頂部しか見えないけれど。

「小町。何か気になることはある?」

「怪人の姿はどうだった?」

「ノートの通り動物系が多かったよ」

 初討伐の日、家で眠りから覚めた俺は小町のノートの情報を他にも共有した。弱点や小町が対峙して気付いたことが書かれており、とても精密らしく重宝されていた。俺は一度も見たことがないが。そんなので良いのかと小町にも言われたが、大抵の物質は燃やせば消える。燃やしても消えなければ砕けば良い。なんて言えば物騒だと言って苦笑いを浮かべていた。

「テレビでも報道され始めたから、そろそろ中位怪人が出てくると思う」

 小町の言葉に中位怪人を思い浮かべる。小町が見返しているのをチラッと見た限りでは、植物や動物と人のキメラ系が増えるらしい。まあ、それも燃やせば良いと思うのだが。

「中位になると知恵をつけてくる。これまでの怪人は知能が低かったおかげで短時間に大量に討伐できたと思うけれど、今後は難しくなると思う」

「怪我をしたら深追いせずに」

「ヨミ様はお優しいですね」

「そうそう!もっと壊れるまでやれって言っても平気なんだよっ?」

 精が不安そうな顔で俺を見上げてくる。けれど俺はもう、俺のせいで誰かに傷付いてほしくない。言ってしまえば俺のエゴだ。

「妖怪って丈夫なの?」

「人間よりは丈夫じゃよ、小町様」

 その言葉に小町はむず痒そうな顔をした。それは敬称によるものだろう。小町は俺の膝の上からどくと、むんっと不満そうな顔をした。

「小町で良いよ。僕は敬われるような存在ではないし」

「そういうわけにはいかないのよ」

 鬼はそう言って小町に目線を合わせた。着ていた美しいワンピースの裾が床につく。汚れることすら厭わず、そうすることがさも当前といった態度は女性という性別を差し引いても惚れ惚れするものだった。まるで忠誠を誓う騎士のようだ。

「ヨミ様が保護されると決めたお方は貴方で二人目なの。私たちからすれば、ヨミ様と同等、もしくはほんの少し下の扱いになるの」

「どういう……?」

 俺が守護すると決めたのは、たしかに小町で二人目だ。妖怪という種族を除けばの話ではあるが。一人はずっと前に俺を救ってくれた恩人の子孫。これは結構長く守護しているが、この前の世界大戦のせいで行方不明となっている。

 そして二人目が小町だ。元魔法少女の青年。妖怪でもない上に、恩義を感じているわけではないのでよけい珍しいのだろう。そう、珍しいのだ。

「珍しいってこと」

 出た結論を簡潔に俺は答えた。これまでの俺のことを話したところで小町が理解できるとは思えなかった。頭のおかしい人と思われるならまだしも、軽蔑されたらやっていられない。あとは、長い話をしないといけないのが面倒だった。

「まあ、それもありますけど」

「ヨミ様が友だちや守るべきものと思っている方だよ〜」

 精はそう言うと狐を見た。狐は小さく頷いた。狐は俺の事情に詳しい。俺がこうなった理由も知っていれば、そこに至るまでの葛藤も知っている。だから何も言わずに頷くだけ。

「でも、様付けは距離を感じるよ。せめて『さん』とかにしない?」

「え〜、でも〜」

「良いでしょ。小町のお願いだ」

 俺が言うと鬼と精が顔を見合わせて頷いた。

「まあ、良いかしら」

「じゃあ小町さんって呼ぶねっ」

「うん、ありがとう!」

 小町はにこにこと笑って頷いた。それを見た天狗がさりげなく俺に近付いて体調には気を付けてください、と言った。天狗の家との付き合いは都が江戸になってから百年後ぐらいからなので三百年程度だ。

 彼に関しては四代目で、俺の護衛隊になったのは十年程前のことだろう。しかし彼は非常に目が良く、隠し事を簡単に暴くことができた。きっと、俺がちょっと無理をしていることなんてお見通しなんだろう。

「分かってる」

 そう返せば天狗は不安そうな顔をした。俺が言うことを聞かないと思っている顔だ。まあ、前例が多すぎるから信じてもらえないのも納得だが。

「今、倒れるわけにはいかないから」

 そう言えば天狗は目を丸くした後、目を細めて笑った。それがまるで成長を喜ぶ親のようだった。

「なに」

「いえ。嬉しいです」

「はあ?どういう、」

「さて。そろそろ帰った方が良いじゃろ。小町さんも眠そうだしのう」

 見れば小町が船を漕ぎ始めていた。今日は集まりがあるからと言って昼過ぎまで寝ていたのにもう眠いのか。俺は小町を抱き上げると狐面をつけ直した。

「じゃあ、帰る。犠牲なしで頼む」

「もちろん」

「お休みなさい、ヨミ様」

「お休み」

 ゆらゆらと提灯の青い光が揺れる。街は完全に眠りにつき、あちこちで同類たちがうごめくひそやかな息遣いが聞こえる。ひそひそと話す声も聞こえるが、誰も俺に話しかけることはない。せいぜい噂話をする程度の力しかない。

 家に着いた俺は眠った小町をベッドに乗せ、狐面を外した。天井を見ると真っ白で面白みも何もない普段通りの天井が見えた。そこにじわりと天狗の顔が滲んで見えた。

「分かってる」

 無理はしない。そう決めたから。

 俺はもぞもぞと動いて布団をかけた。柔らかな羽毛布団は俺の体温を感じたせいか、じわじわと温かくなる。目を閉じれば、小町からお陽さまの香りがした。そう言えば、ここ数日の自分からも同じ香りがする。微睡みの中でふと、そんなことを感じた。


「小町」

「うん」

「本当にこっち?」

「そう」

「目の前にあんの、山なんだけど」

 今、俺の目の前にはそれほど高くない山がある。埼玉県にあるこの山は、初心者向けらしい。しかし、俺には初心者向けには見えないのが現状だ。

 なぜ俺たちがこの山の入り口にいるかというと、ある依頼が関係していた。数日前からこの山に怪人が住み着いたらしく、俺が退治することになった。別に人間の被害はあまりないが、妖怪内でかなりの被害が出ているらしい、主に食料面で。

「天狗でも良くない?」

「用事があるんだから仕方ないでしょ」

 そもそもが天狗に来た依頼らしい。しかし、天狗は別の山の天狗からの救援要請に二日前から行っており、対処できるのが俺だけだった。狐に言ったら山に気分転換に行くのだと思えば良いじゃろなんて言われた。

 たしかに最近はお陽さまの香りが自分からするぐらい昼間に染まってきた俺だけど、夜が生きやすいのは変わらない。本当だったら家でゴロゴロ寝ていたかった。

 そんなことを思いながら歩いていたら山の頂上付近の展望台に着いた。しかし、頂上と依頼場所はもう少し先だった。息をきらしながら欄干に両腕を乗せてもたれかかっていると小町が頭をぺしぺしと叩いた。ぬいぐるみの手は綿と布でできているので全く痛くはなかったが。

「少し休憩しようか」

 小町はそう言ってベンチに置いていたリュックに向かう。今日のことを話したら鬼がお弁当を作ってくれた。リュックにはそれが入っている。

「何がはいってるかなぁ。ねぇ、ヨミ」

「おにぎりだろ」

 あの鬼は肉の調理だけはとんでもなく上手だが、他はからっきしだ。元々そういう家系らしい。きっとそれは、ずっと昔は人間の肉を食べていたからだろう。魚にはあまり馴染みがないこともそれが原因だと思う。

「あ、卵焼きだ」

「え?」

 慌ててお弁当を覗くとたしかに卵焼きが入っていた。その隣にはウインナーも行儀良く鎮座している。これをあの鬼が作ったのかと疑うほどだった。

「上手だねぇ」

「そう、だな」

 しかしよく見ればお弁当のおかずにお魚はなかった。お魚以外を使っているのを見ると本当に鬼が作ったのだと実感が持てた。

「ね、ピクニックみたいだね」

 小町はのほほんとのんきに笑う。俺はそうだな、としか返せなかった。

「いただきっ」

「あ、おい」

 小町は卵焼きを食べると目を輝かせた。うまっ、と口にする様は本当に人間みたいだ。

「ヨミも食べてみてよ」

「後で」

「えー」

 つまらなそうに頬を膨らませて小町は目を細める。その様子が精と重なった。嫌な予感がしてお弁当の蓋をしようとしたところ、小町の方が動きがはやかった。

 シュバッと卵焼きを手にとると俺の口に放り込んだ。あっという間の出来事だった。柔らかな卵焼きに歯を入れ、舌で転がす。ちょっとしょっぱめの味付けは、懐かしさよりも新鮮さが勝った。

 もごもごと口を動かしていたら小町と目が合った。文句を言おうと口を開いた。

「これで共犯だね」

 まさに小悪魔。俺は小さなおにぎりを小町の口に押しつけてため息をついた。

 その後、頂上に辿り着いた時には登山を開始してから四時間が経っていた。展望台からは三十分。小町を抱っこして歩くのは疲れたが、だからと言って小町に地面を歩けとは言えなかった。

 誰もいない頂上でレジャーシートを広げ、そこに座って残しておいたお弁当を食べる。それはなんと平和な光景だろう。でも俺たちの目的はピクニックではない。

「出るかなぁ」

「出てくれないと困る」

「あっ」

 おにぎりを食べていた小町が小さく声を上げた。俺は狐面をつけると小町の分も組紐を結んであげた。見慣れた和装に俺は唇だけで笑った。ぶわりと風が吹いてそこに木の形をした怪人五体と下半身は根っこ、上半身は女性のような怪人がいた。

「燃やすのは駄目だよ」

「もちろん」

 この山には様々な妖怪がいる。彼らの眠っている時間である今、この山で火事がおこると逃げられない。火や雷は絶対に使用してはいけない。妖怪を守護する俺が彼らを危険にさらすわけにはいかない。

「ウワさノ魔法ショウじょ」

 ギギギと機械音のような声が聞こえた。よく分からない女性の怪人の声のようだ。とするとその怪人は中位怪人のようだ。

「ヨミ」

 小町がひょいと肩に乗る。見ればお弁当の蓋はしめられ、ゴムで蓋が開かないようになっていた。多分、怪人を倒したら食べるつもりなのだろう。小町の期待にこたえるためにも、さっさと終わらせようか。

 ヴンと重い音が空気を震わせて長い刀がその姿を見せた。俺の愛刀だ。付き合いはとても長く、俺の手によく馴染む感じがある。これまで数多の妖怪の血を吸ったせいで妖刀とも噂されていることを俺は知っている。

 数秒の睨み合いの後、俺は地を蹴り木の形をした怪人に向かっていく。一気に距離を詰め刀を振れば動きの遅かった三体に命中したが素早かった二体は逃してしまった。着地した俺の足元の地からボコッと顔を出した彼らの出した木の根を右へ左へとかわし、再び距離を詰める。しかし、あと一歩のところで足を取られて転んだ。中位怪人が出したものらしく、かなり締め上げてくる。血流が悪くなるのが感じられた。

「ヨミッ」

「枯れろ」

 根は俺の言葉に呼応して一気に茶色い砂のようになって地に落ちていく。瞬時に脱した俺が距離を詰めて動きが止まっていた木の怪人を斬り伏せ、女性の怪人と向き合う。怒っているのか、顔を真っ赤にして何やら喋っていた。

「ヨミ、気を付けて」

「ん?」

「あの中位怪人、仲間を増やすタイプだよ」

「は?どうやって……」

 中位怪人が足元の根を俺の方へと向ける。それを飛んでかわすと根はそのまま後ろにあった木へと突き刺さった。するとその木は先ほど倒した怪人へと姿を変えた。根から何かを注入するタイプか。

 俺は中位怪人をキッと睨む。中位怪人は一切気にすることなく、俺へと根を伸ばしてくる。根をかわせば木が怪人になるし、かわさなければ斬るしか方法はない。

「弱点は?」

「燃やすのが一番お手軽だけど」

「やっぱ叩くしかないか」

 俺は大きなため息をつくと小町を頭上に乗せた。つかまってて、と小声でささやけば髪がきゅっと掴まれる感覚があった。ぬいぐるみの握力はどれ程だろう。分からないけれど信じても良いはずだ。

 ペロリと唇を舐める。久し振りにこの刀の力を使う時が来た。刀を人差し指で撫でると薄皮が切れた。そこから血が流れるが、これはたいした怪我ではない。刀はその血を吸って禍々しくも美しく色付き、俺の身体を乗っ取る。

 俺がやるよりもずっと刀の使い方が上手いので強敵や面倒な時、相手を刀に喰わせる時は乗っ取りを許可していた。その合図が人差し指の薄皮を自らの意思で切り、刀にその血を吸わせることだった。ずいぶん面倒な発動条件だが、その方が誤作動をおこさなくて良い。

 俺を乗っ取った刀は相手を喰って良いという許可をもらえたことが嬉しかったのか、はたまたしばらく喰っていなかったからか、ずいぶんと楽しそうな様子だった。

「ヨミ……?」

 動きを止めた俺を小町が呼ぶ。刀を手で持っていてもいっこうに振る素振りを見せない。中位怪人はそれを好機と思ったのだろう。増やした下位怪人と共に根で俺を捕らえようとする。

「ヨミ!」

 だいじょうぶ、なんて小さく口にして刀は向かってきた根を全て斬り、その力を吸収してしまった。聞くに堪えない不協和音の悲鳴を聞きながらも刀は楽しそうに笑う。それに合わせて俺も笑った。目にも止まらぬ速さで糸をいくつかの針穴に通すように怪人を斬り伏せていく。

 次々と倒れ伏していく下位怪人を見て恐れをなしたらしい中位怪人は逃げようとしたが、背を向けた時点で勝ち目はない。刀は自身を中位怪人に突き立てるとその力を全て吸い尽くした。

 ずるりと中位怪人だったモノが地に落ちる。倒れ伏した下位怪人にはたいした力がないのか、刀は全く興味を示さなかった。何を基準にするのか知らないが、美味しくないのかもしれない。

 ふっと身体が重くなり、刀は乗っ取りをやめたようだった。お腹いっぱいになったのか、はたまた餌がないことを感知したのか、戻りたそうにしていた。たぶん、休みたいというのもあるのだろう。

 ゆっくりと刀を戻すと頭上にいた小町の脇腹辺りを掴んでおろす。小町は驚いた顔をしていた。俺の動きが変わったことや武器について思うことがあったのだろう。

「ヨミ……、どういうこと……?」

「え?……あー、後で」

「そんなことよりお弁当食べよ」

「っ、うん!」

 お弁当箱のところに戻るとお弁当箱はひっくり返っていたが、中身はこぼれていなかった。ゴムでとめていたおかげだ。

「ヨミ」

「ん」

「ありがとう」

「いーえ」

 何に対してのお礼だろう。分からなかったけれど、受け取ることにした。

「小町」

「うん?」

 おにぎりを食べる小町の頬についた米を指でとって小さくありがとう、と言った。俺を外に連れ出してくれたこと、感謝してるよって気持ちをこめて。

「ふふっ、うん」


 まぶたの裏に小さな少女がいる。記憶の底にいる少女だ。どんな子かと言われれば、答えるのは難しい。けれど、悲しそうな顔をしてジメジメと泣いていたのが気に食わなかったんだろう。

 俺はその子の頬を両手ではさんでこちらを向かせた。大きなまあるい青い目に俺がうつっていた。その顔は泣きそうに歪められていた。

「泣きそうなの」

 高い声で語尾が上がる。それは問いだったのだろう。でも俺は気付かなかった。

「お前こそ泣きそう」

 少女はポカンと口を開けた後、おまえじゃないもん、と不満げに言った。

「わかばだもん」

 かわいらしい顔を歪めて名前を口にした少女は、目を伏せた。なにが理由かは分からない。けれど、やっぱり俺はそんな風に諦めたような顔が嫌いで。

「言いたいことは言え。言わないと何も言えなくなる」

 少女はまた口を開けた。まあるい青い目を更に丸くして、驚いたような顔をしていた。今思えばこの年頃の少女に言うには難しいことだった。理解なんてちっともしていない。でもやっぱり、俺はそれに気付かなかった。

 口を開ける理由をお腹が空いたからだと思ってポケットを右手であさった。するとキャンディが出てきた。オレンジがパッケージに描かれたそのキャンディの袋を破り、小さな口に入れる。

 少女は目を丸くした後、ふにゃりと笑った。俺はそれを見て、笑えるじゃんと思ったことをよく覚えている。その黒い頭をひと撫でして俺はそこを立ち去った。

 小町と会う十五年ほど前の話である。


 天狗に依頼された山の怪人を退治をしてから一ヶ月が経った。相変わらず怪人は現れるし、それを退治するために昼間に活動をしていた俺は、遂に身体を壊した。

 一週間前から喉がゴロゴロしていたし、頭は割れんばかりに痛かった。喉が痛いせいで食事はまともに食べられなかった。おかゆや流動食も試したが、喉が痛いことにかわりはなく、ジュースぐらいしか口にしていなかった。しかしせめて小町の分だけでも食事を、と思って頑張って作っていたが、遂に鼻が食事の匂いを拒否した。

 ぶっ倒れた俺に小町は助けを呼ぼうとスマートフォンをぺしぺしとその綿だらけの手で叩いたらしく、それが奇跡的に野猪に繋がったらしい。野猪は飛んで来て俺を家に運んでくれた。

 野猪の家は短命故に薬師をしていた。薬の力で少しでも寿命を伸ばそうとしているところが健気すぎる。

「無茶すんなって天狗の旦那に言われただろ」

「めんぼくない」

 熱でも出てきたのか、頭がぼんやりとする。それにしても繋がったのが野猪で本当に良かった。馬鹿で単純でも彼は一番腕の良い薬師だ。

「小町さんがいなけりゃ死んでたぞ」

「ん」

 そうだろうなとは思う。もちろん、簡単に死ぬような身体ではないが、危険な状態だったのは自分でも分かる。小町は泣き疲れて寝ているが、俺が意識を取り戻すまで三日ほどずっと泣いていたと言う。これは小町からの小言を覚悟した方が良いかもしれない。

「ホントに、危なかったんだからな」

 野猪はそう言って頬を緩めて俺の髪を撫でた。汗もかいてペッタリと額にはりついた髪を触って何が楽しいんだ。

「わかってる」

 ズキリと頭が締め付けられる。俺はため息をついて目を閉じた。こんな時に考え事をしても無駄だ。全部がぜんぶ、悪いことのように感じてしまうから。

 真っ黒に塗り潰された視界の中、小町の泣き顔と十五年ほど前に出会った少女の顔が重なった。顔の造りは全く似ていない。けれど、どこかが確実に似ている。それが何かは分からなかった。

「今は寝とけ。大丈夫。俺が見とくよ」

 野猪の声が子守唄に聞こえるなんて末期かもしれない。けれど、俺はその声に導かれるままに意識を落とした。

 次に目覚めた時には、陽は完全に落ちていた。あれからどれくらい経ったのかは不明だ。しかし、腕に刺さった点滴の針や時計のカチコチと鳴る音が、俺の生存確認のようだった。

 頭痛や熱は治まったようだが、喉は相変わらずゴロゴロしている。小さく咳をもらした。これは本格的に医者に診てもらった方が良いかもしれない。腕をかけ布団から出すとチーンとベルが鳴った。

 しばらくすると野猪がやって来た。その隣には、あまり会いたくない医者がいた。野猪よりも小さな身体に大きな赤い目と目元の泣きぼくろ。髪は長く、後ろで雑に結ばれている。あちこちがはねているが、白衣を着ているせいでそれも個性と認められている気がしてならない。

「もう、そんな風になるぐらいだったら僕のところに来てって言ってるでしょ!」

 声は甘ったるく起き上がろうとする俺を押しとどめる力の強い腕。なぜ、野猪は竜神を連れているのだろう。

「悪い。でも、ヨミ様が倒れたって結構話題だぞ」

「なん、でだ」

「鬼と精が家に行ったらいなかったって俺んとこ駆け付けたんだよ」

 野猪は申し訳なさそうに言った。

「まあ僕が来たからには安心してね!」

 赤い目に好奇心の三文字が浮かび、ベシベシとウロコのついた尾が床に叩きつけられる。変身がとけているのは興奮している証拠だ。

「おてやわらかに」

 どれだけ嫌いでも腕だけはたしかだ。抵抗するだけ長引くならさっさと終えておきたい。

「うん、すぐやるよ!」

 よいしょ、とベッドに腰かけると額へと手を伸ばして熱をはかり、その手を頬、首筋へと滑らせる。ちょっと生ぬるい手だ。

「うん、熱はないみたい!野猪の薬のおかげだね!」

「効いて良かったなあ」

 次に着ていた寝間着のボタンを外して胸元をはだけさせた後、そこに耳を当てた。生ぬるい体温に思わず息を飲んだ。その反応を見た竜神が冷たいねーごめんねー、と幼子でもあやすように言った。

「異常なしっと!うーん、喉がゴロゴロするんだよね?」

「ああ」

「うん、ちょっと起こすね!口開けて、あーん!」

「あー」

 素直に口を開けると竜神はじいっと開けた口を見た後、腫れてるね!と何でもないように言った。こんな状況でなければ天気を聞かれた時のようだ。

「こりゃ痛いわけだよ!逆によく飲んだりできてたね?しばらくは点滴かなあ!」

「じゃあその成分について話し合うか」

「うん!それじゃあヨミ様!大人しくしててね!」

 竜神は野猪を連れてバタバタと部屋を出ていった。別にベッドのそばで話してくれても構わなかったのに。急に部屋が静かになって何もすることがなくなった俺はゆっくりと布団へと戻った。柔らかな布団が背に当たる。この感触も久しぶりだ。

 お陽さまの香りのしない布団は安心する。自身にこびりついたお陽さまの香りに違和感を感じなくなったことに、今更だけど気付いた。

「ごめん小町」

 目を閉じて深く呼吸をする。

 俺はやっぱり、関わるべきではなかったんだと思う。

 ゆっくりと意識が浮上する。枕元に小町がいた。パチリと目が合う。

「ヨミ」

「ん」

 その小さな手がぽすっと俺の頬へと触れる。じんわりと広がる温もりに、小さく息が漏れた。

「心配、したんだから」

「ん。ごめん」

「もう起きないかと思った」

「俺も」

 こんなに寝たのはどれくらいぶりだろう。身体はまだ睡眠を欲しているが、そろそろ一度ぐらい起きた方が良いだろう。ゆっくりと身体を起こすと小町がすかさずクッションをたくさん挟み込んでくれた。そのおかげで多少は楽だ。

「ありがと」

「ううん!」

 掛け布団を腰の位置に合わせ、まっすぐに小町を見る。小町がハッと息を飲んだ。俺は首を傾げる。何かあっただろうか。

「ヨミ……、ごめん」

「どうした?」

 小町は俺の手をそっと握った。柔らかな綿の感触がした。

「僕のせいだよね?ヨミが倒れた後、野猪に聞いたの」

 ——妖怪は、夜に動くのが普通で昼に動くことはあまりないって。

 あの馬鹿。勝手に話したな。

「ヨミだって例外じゃないって。もしかしたら、ヨミの方が昼に行動なんてできないかもしれない、って」

 たしかに俺は昼間には動けない。これは『こう』なる前から変わらない。しかし、よく勘違いされることが多いが、俺は別に夜にしか動けないわけではない。昼間は妖怪の姿(和装)で動くことが自殺行為なだけで、人間姿(洋装)ならば多少は動ける。それでも一週間に三回ほどが限度ではあるが。

「小町」

 どこから溢れたのか分からないが、大きな目には涙が浮かんでいた。ぬいぐるみなのにどうして涙が浮かんでいるのだろう。本当に不思議だ。

「たしかに俺は昼間にはあまり動けない」

「うん」

「でも、和装じゃなければ少しは耐えられるんだ」

「狐面をつけなければ良いの?」

「まあ、ぶっちゃけ。でも毎日は出られない」

 毎日は無理なのにこの一ヶ月、外に毎日出た理由は。

「小町の望みを早く叶えたかった」

「そんなに焦らなくても」

「言っただろ。これは俺のためなんだ」

 そう言うと、小町は一瞬だけ悲しそうな顔をした。俺の言葉に傷付いたのが分かった。けれど、俺は言葉を取り消さなかった。

「そっか。……僕、ちょっと外の空気を吸ってくるね」

 部屋を出ていく小町の背は寂しそうだった。けれど俺はそれを黙って見送った。

「……ねむ」

 欠伸がもれる。目尻に浮かんだ涙を拭い、背と壁の間に挟まれたクッションをなかばテキトーにその辺に放り投げる。ゆっくりと背を布団に預けると目を閉じた。

 どうしてこんなに眠いのだろう。やはりまだ体力が戻っていないのだろうか。いや、少なくとも三日は経っているだろうし、その間ほとんど眠っていたはずだ。普段ならばとっくに回復している。じゃあ、どうして?

 考えようとしても頭が回らない。意識しなくても呼吸が深くなって思考がボロボロと溶けていく。こんなに眠いのは初めてのことできっと戸惑っているだけだ。きっと、そう、だ。


 パチリと目を開けるとそこは野原だった。辺りは真っ暗。空を見れば今ではほとんど見えない小さな星たちの光まで見えた。視線をまっすぐ前に戻す。遠くに見える黒い物体はほとんど見えないが、輪郭だけでなんとなく想像ができる。

「なんで、ココに」

 見覚えしかない景色。そう、こんな風に月が雲に隠された夜だった。風が吹き、ふわりと草の香りを運んでくる。手を見ると今よりも小さくてふよふよしていて、幼い。まとっている服も、『あの時』と変わらない。これは、もしかして——。

「『日見』?」

 小さな声に振り返ると『アイツ』がいた。夜に溶けるような黒い服と濃い紫の帯。髪にさした簪に使われた月と星の飾りが揺れる。長い丈の裾が足元の草たちと触れて小さく音を立てる。どうしたの、と聞いてくるその顔は心底不思議そうだった。

「日見……」

 思わずそう言えば、俺の服を着た日見は顔をしかめた。俺のやりそうな顔だった。

「違うだろ、『日見』」

 その言葉にバッと自分の服を見れば、彼のまとう服とは正反対な白の衣と太陽のような美しいオレンジの帯。これは日見がいつも着ていたものだ。丈は短く、動きやすさを重視した服。

「あは、そうだね、『夜見』」

 絞り出すように声を出した。俺の格好をした日見は少しだけ笑った。白い髪がふわりと揺れた。俺のフリをした日見がボソボソと言葉を口にする。

「珍しいな、『日見』が夜に散歩したいなんて」

「そうかな?良いでしょ、たまには」

 ここまできたら俺はもう、なぞるしかできない。口にした言葉は少しも覚えていないのに、口から勝手に言葉が飛び出していく。

「夜も綺麗だね」

「だろ?」

 すべて分かった上で日見を見ると、覚悟の決まった目をしていた。そうやって俺を守ろうとしてくれた。なのに、俺は日見に何をしてあげたんだろう。

「今度、『夜見』に昼を案内してあげるよ」

 どうして気付かなかったんだろう。日見はなぜこの日、俺と服を替えたのか。それは、人間が俺を恐れたから。夜の住人たちと手を組んで自分たちを殺しにくると恐れたから。俺はそんなこと、少しも企んでいないのに。

 風が、ひときわ強く吹いた。思わず目をつぶった。目を開けた俺の視界は変わっていた。

 赤い血の花が舞う。

 刺された『夜見』はどこか満足げに笑って目を閉じて重力に従って身体を倒していく。伸ばした手は空を切った。

 その途端、すべての音が消えた。『夜見』を刺した人間が何かを言っている。唇の動きを見れば言葉は分かったかもしれない。けれど俺は見なかった。そんな余裕はなかった。とにかく逃げないといけないと思った。刺された『夜見』が『日見』だとバレる前に。

 踵を返して走る。もうあの村には戻れない。俺の居場所はない。あるのは『日見』の居場所だ。俺は『日見』にはなれないし、また殺されてしまう。

 どうしてこうなったんだろう。俺が、妖怪に近かったから?人間を守っていると知られていなかったから?俺が、悪いから?

 俺が生きるよりも日見が生きるべきだった。俺は刺されたって構わなかったのになんで庇ったんだろう。日見が生きて、俺が死ねば。世界はもっと、良くなっていたんじゃ。なのに、なんで。

 あの時と同じように涙が溢れて頬を滑って落ちていく。俺には泣く価値だってないのに。目元はとにかく熱いし、胸を埋め尽くす死にたいほどの黒い気持ち。あぁ、もう。

「さいっ、あく」

 ゆっくりと月が雲のすき間から顔を出し、どんどん姿を消していく。ずっと遠くの山の向こうが明るくなっていく。

 ああ、夜が明ける。日見の企みがすべて明らかになる、そんな朝が始まったのだ。

『苦しいね?』

 気付けば周囲は黒く塗りつぶされていた。闇ばかりのその世界では、輪郭すら掴めない。そんな中響いたその声はさも同情するように沈んでいた。

「分かるかよ」

『分かるよ。誰かの犠牲の上に立つ苦しみが』

 いぜん姿の見えない声の主を不気味に思う。俺の苦しみが分かるという言葉でさえ信じられない。

『きみはよく頑張った。だからもう、』

 ——頑張らなくても良いんだよ。

 その言葉はじんわりと心に溶けていった。もしかしたら、俺はその言葉がずっと欲しかったのかもしれない。

 ずっと頑張らないといけなかった。生かされた俺にできることを考えて、せめて人間と共存しようとした。千年の間にそれは叶っても、今度は人間が争い始めた。俺たちが脅威だったから人間同士の争いはなかった。そのことに気付いても手遅れだった。

 次の千年の間に人間はどんどん進歩し、争いを繰り返しながら俺たちを置いていった。今では俺たちを信じる者だってほとんどいない。それで良かった。そうなれば、死ねると思った。日見のところへ逝きたかった。もう、疲れてしまったから。

『ほら楽になろう』

 いつの間にか目の前に絞首台があった。これで首をくくれば死ねる。苦しいものから逃げられる。ひたひたとそれに近付いて縄に手をかける。首を輪の中に入れて目を閉じた。

 これでぜんぶぜんぶ終わる。俺という存在が消えて世界は混乱するだろうか。否。俺がいない方が世界だって回るだろう。護衛隊も好きなことができる。小町だってもっと昼に活動できる人間と組める。それがお互いにとっての幸せで——。

「馬鹿言わないで!」

 キンッと響く声に驚いて目を開ければ小町がいた。けれどその姿は見慣れたぬいぐるみ姿ではなかった。とびきり綺麗でかわいい青年の姿。長い手足、ふわりと舞う髪、丸く大きなタレ目と小さな口。薄紫色の狩衣のような上衣に『パニエ』の広がる膝上のスカートに淡い水色のブーツ。何度かテレビで見た『魔法少女』の姿だった。

 けれど、記事などで見た『魔法少女小町』ではない。『魔法少女小町』は、もっと髪が長かったはずだ。

「こま、ち?」

 まっすぐに俺を見るオレンジよりも黄色の強い目が、ふんわりと溶ける。まるでもう大丈夫と言うように。それがどこか安心できて、肩の力がふっとぬける。

「僕の大切な人をこんな暗い牢に閉じ込めないで」

 その言葉を言われる資格なんて、俺にはないのに。目を伏せたその一瞬の間にふわりと香る藤の香り。気付けば小町がそっと俺の手を握っていた。

「大丈夫だよ、ヨミ。もう帰ろう」

「帰る?どこに?」

「みんなのところだよ」

 みんな?それは、鬼とか狐とか野猪とか天狗とか精の、とこ?本当に帰れる?俺の帰る場所は、ある?

「帰れる?」

「当たり前でしょ!帰れるよ」

 俺は縄の輪から首を外した。そっと、小町の手を握り返す。小町が笑った。そのまま駆け出す小町の背を見る。ぬいぐるみ姿では見れなかったものだ。

「ありがとう」

「んふふ!どーいたしまして!」

 闇の中だと思っていたこの場所は、実は広い野だった。何もない広い野。いや、あちこちで花が咲いていて自由に風に揺れていた。なんだ、ひとりじゃなかったんだ。

 小町の背の背景にどこまでも青い空があって、俺は足を動かしながらまた、笑った。

「どうしたの?」

「ううん。来てくれてありがとう」

 小町はまた笑っただろうか。どこか弾んだ足取りで駆けていく小町に手を引かれて、俺たちは光に包まれていった。


 目を開けるとぬいぐるみ姿の小町が俺と手を繋いでいた。綿の詰まった手は柔らかく人間の手とは違った。

「小町……」

 本当に迎えに来てくれたのだろうか。

 あの暗い世界は夢だと今では分かっている。けれど、あの時は現実だと思っていた。『日見』を喪ったあの時を繰り返すだなんてひどい悪夢だ。

 ぴくりと小町が動き、ゆっくりと目を開ける。その目に俺が映り、俺は小さく笑いかける。

「おはよ、小町」

 俺がそうしてもらった時、安心したから。小町はじっと俺を見た後、ふにゃんと笑った。

「お帰り、ヨミぃ」

 とろんとした目は俺を見ていない。寝ぼけているのだろうか。俺はぎゅっと小町の手を握った。

「うん、ただいま」

「……うん!」

 右手を伸ばしてその頬を撫でればくふくふと笑い声がもれた。やっぱりかわいい。

「俺、なんかヤバかった?」

「そうだよ!もう、いつの間に『夢魔』なんて近付けたの!」

「『夢魔』?」

「そう!悪夢を見せる怪人の一種だよ!」

「小町さん。それについてはこっちで調べるので」

 その声のした方を見るとそこに天狗がいた。パッと見ただけで怒っているのが分かる。天狗の忠告を聞かないで倒れたからか、はたまた、勝手に危険に巻き込まれていたからか。

「ごめん」

 そう言えば天狗は目を丸くした後、ふんっとそっぽ向いてしまった。

「ヨミ様は『ごめん』と言えば解決するとお思いですか」

「そうじゃないけど」

 怒りを回避するために言ったことは事実だ。けれど、天狗に対して申し訳ないとも思っているわけで。

「はあ。ヨミ様はそういう人ですし」

 天狗は勝手に納得したようだった。

「天狗さん。今回はヨミが悪いんじゃないから」

 ——怒らないであげて。

 今回は、と強調した小町を見る。まるで今回のこと以外は俺が悪いと言いたげな顔をしていた。天狗も同意するように頷いているし、俺はトラブルメーカーか。そんなことないはずだけど。

「俺に教えてくれたって良いだろ」

「おや、興味がおありで?」

「天狗」

 いさめるように言うと天狗は小さく咳払いをした。

「ヨミ様の体調不良の原因は昼間に無理をしたことでしょう。その弱っている隙を狙って『夢魔』がヨミ様を悪夢へと誘い出したのです」

 つまり、弱っている時に別のウイルスが来たということか。

「『夢魔』の影響でヨミ様は更に一週間眠っておりました」

「なんで起きれたんだ?」

「僕がヨミの夢の中に入って起こしたの」

 小町は申し訳なさそうな顔をしていた。それは夢を見てしまったせいだろうか。そうだとしても俺はそのおかげで助かったも同然だ。

「ごめん。嫌なもの見せた」

「う、ううん!ヨミが、関わらないようにしていた理由が分かったよ」

 まさかそんな風に思われていたとは。いや、たしかに深く関わろうとしなかった。面倒だからというのもあったが、たぶん心のどこかで恐れていたのだ。深く関わった相手が死ぬことを。

「ヨミは、僕を遠ざけようとしたんだね」

「そんなこと」

「ないって言える?」

 思わず言葉を飲んだ。たしかに言えない。遠ざけようとしたのは本当だ。けれどそれは——。

「ヨミは優しいよ」

「優しくない」

「そんなことないよ。ヨミはできないことはできないと言う。期待させないんだ」

 俺は恥ずかしくなって布団の中に逃げる。頭から掛け布団をかぶったせいで布団の中はあつかった。

「僕はヨミと一緒に闘いたい」

 ——ヨミが、僕を拾ってくれたから。

「そんなヨミ様だからこそ我々も信じているんです。そして、守りたいとも」

「俺は男で、少なくとも天狗よりも長生きだぞ」

「ええ、存じてます」

「ヨミってちょっと危ういよね」

「は?」

 ガバッと布団をはねのけて小町を見る。小町はにこにこと笑っていた。

「優しくないって言いながら僕みたいな怪しい者を拾うし、おまけに協力までしてくれた」

「ええ。先祖たちも何度も助けられています」

「それは——」

「ヨミ様は無視することもできたんですよ」

 天狗はまるで全て見てきたような目をして俺を見た。俺の半分も生きていない子どもに何が分かるのだろう。

「大事な方を亡くされた後、全てを放り投げて逃げることもできました。関わらないこともできました。けれどヨミ様はそうはしなかった」

 天狗は目を閉じる。優しく言葉を選びながら話す天狗は、しっかりと俺に伝えようとしているようだった。

「それはヨミ様の優しさです」

 天狗は知っているのだろうか。あれから恩人に救われた俺が、妖怪たちまで亡くしたくないと思っていたことを。いつの間にか大切になっていたことを。

「自分のためかもしれません。けれど、その『エゴ』に小町さんも私たちも救われて、守られてきたんですよ」

「だから、今度は僕たちの番だよ」

 ぎゅっと小町が手を握ってくる。にこっと笑う顔は、今日だけで何度見たことだろう。

「ヨミのできない、苦手なことは僕たちがやる。独りで突っ走らなくても良いんだよ」

「なんのための護衛隊だと思っているんですか。ヨミ様のために働きたい変わった妖怪なんですよ」

 ふ、と息が漏れた。突っ走って、倒れて、心配かけて。そうやって抱え込むことは良くないことだったようだ。少なくとも俺の周囲の変わった奴らは、もっと頼って良いと言った。ならば。

「天狗」

「はい」

「任せても良いか」

 もう少し、楽になるまで。甘えても許されるのだろうか。

「はい!ヨミ様がよくなってもずっと」

 心底嬉しそうに天狗が笑った。ほんと、変な奴。


②へつづく

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