【小説】2月お題『バレンタイン』

こんにちは。文芸研究同好会です。

全員共通のテーマで作品を書くお題企画が息を吹き返しました。

2月のお題は『バレンタイン』です。3名の部員が参加しています。

以下に作品を公開いたしますので、ご笑覧くださいませ。

※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。


無題/月夜


 放課後になった頃、ひばり、真砂、ほたるは職員室に呼ばれた。理由は数日後に控えたバレンタインデーだった。

 職員室に入ってすぐに生徒指導の先生が手招きした。少し厳つい顔つきだが、生徒のことをよく考えている。彼は三人の顔をじっと見た後、

「お前ら、チョコレートは絶対に受け取るなよ」

 と言った。それに不満げに口を開いたのはひばりだった。

「えぇ〜?なんで受け取っちゃだめなの?」

「チョコレートは校則で持ってきちゃいけないんだ」

「勉強に必要ないからですね」

 ほたるはうんうんとうなずいた。ラムネなどは糖分補給のためと使用用途が限定されて許されているが、バレンタインに関連してチョコレートは禁止されているのだった。

「いや……、俺とひばりは分かるっすけど、ほたるはなんで……?」

「そうだよ。ほたるは女の子だよ?あげる側じゃない?」

「今は逆バレンタインが流行っているからな!」

 先生はそう言うとガバッと机に伏せた。どうやら先生はバレンタインにあまり良い思い出がないらしい。なんともかわいそうな話だ。まあ、たしかにあまりモテなさそうな顔をしている。

「とにかく、お前らはバレンタインのチョコレートを受け取ってもいけないし、渡してもいけないからな!」

 ーー話は以上!

 それだけ言われて三人は職員室をぺいっと追い出された。職員室の外でお互いの顔を見合わせて小さく吹き出す。

 そのためだけに呼ばれたのか。真砂は成績のことじゃなくて良かった、という安堵の顔をしていた。心配事が一つ消えたので少しだけ軽い足取りで校門を目指す。祐希が校門で三人のことを待っているらしい。

 その道すがら、ふとひばりが疑問を口にする。

「ねぇ、学内ではそのルールを守って外で渡すってこと、ない?」

「あぁ〜、あるかもな~」

「その時でも受け取れない?」

「まあ、そうだよね……」

 ほたるがうなずく。少しだけ心苦しそうだった。

「そうしないと不平等ってことになっちゃうからな……」

「こういうとき下駄箱がなくて良かったと思うよ~」

 ひばりはそう言って、ん~っと伸びをした。

「まあ、ロッカーに入れられたら終わりだけどな」

「それは大丈夫!入る場所がないから!」

「整理整頓しようね」

「ちゃんと整理整頓はしてある!」

 ひばりは自信たっぷりにそう言うが真砂は疑っている。ほたるに関してはきっとひばりのロッカーだからごちゃごちゃしているんだろうな、ぐらいの感覚だ。

「あっ、どうだった?」

 校門のところには祐希が立っていた。携帯電話をいじっていたが、三人の足音に気付いてパッと顔を上げた。エメラルドの目が好奇心を隠せていない。

「あぁ。バレンタインの話だった」

 真砂が簡潔に答える。祐希はやっぱりか、と言いたげな顔をした。真砂は意外そうな顔をする。

「あれ、分かってたの?」

「まあね。真砂くんだけなら成績のことだろうけど、ひばりくんも一緒だったし。ほたるちゃんが行く理由は分からなかったけど、そろそろバレンタインデーだな~って思って」

 祐希の推理に真砂は思わず拍手を送る。真砂はそこまで想定できなかった。単に成績のことで呼び出されたと思うと、お腹が痛くなった。この前のテストでかなり挽回したが、それまでの成績がやはり悪すぎるのか、と思ってビクビクしていた。まあ、真砂の成績はそこまで悪くないのだが、この四人で見れば一番下だった。

「でもそっかぁ。今年は渡せそうもないなぁ……」

 祐希が少し残念そうに言った。どうやら作って渡すつもりだったようだ。

「じゃあ、チョコレート作りする?」

 ほたるはにっこりと笑った。その笑顔がどこか小悪魔めいていた。

「え?」

「家で作って渡すぶんには良いでしょ?」

 ーーボクもあげたいんだけどああ言われちゃ渡せないじゃない?だから……、ね?

 誰が上目遣いのほたるに勝てるのだろう。真砂よりも小柄でかわいらしいほたるに見上げられれば、そのお願いを叶えねばならない気持ちになる。断るなんて選択肢は存在していなかった。

「いいぜ。いつが良い?」

「やった!じゃあ、今度の日曜日。さっそく材料買わなくちゃ」

「じゃあ、駅前のスーパーに行かなきゃだね」

「保冷バッグで溶けちゃわないかな?」

「氷をもらおうぜ。たしか無料だっただろ」

「そうだったね」

 ついさっきまでとは違って少し跳ねるようなリズムで駆けていく。楽しそうに喋る彼らはまさに青春を謳歌する学生だった。

 週末。真砂と祐希はほたるの家へとやって来た。

「いらっしゃい」

 そう言って顔を出したほたるはかわいらしいエプロンを着けていた。女の子らしいかわいらしいそれに祐希は少し頬を赤らめた。あらためて女の子なんだ、と認識した。ふわりと鼻をくすぐったチョコレートの香りに真砂と祐希は顔を見合わせて笑った。

「もうチョコは溶かしてあるよ」

 ほたるはそう言ってキッチンに戻っていく。祐希はパタパタとキッチンに向かう。一方で真砂は洗面所で手を洗ってからリビングに向かった。

「やほ、真砂」

「よう、ひばり。悪いな、復習頼んじゃって」

「んーん。俺、味見係だし全然いーよ」

 ほたると祐希がチョコレートを作っている間に真砂とひばりは高校一年生の勉強の総復習をする予定だった。その理由は真砂の不安だった。

 真砂は進級が近付くにつれて不安になった。勉強についていけるか。進級するということは、勉強が難しくなることとイコールだ。真砂は太刀打ちできるだろうか。

 そこでお菓子作りが得意でない真砂はひばりに総復習をしないか、と声をかけたのだった。ここで幼馴染みの祐希とほたるにしなかった理由は、二人がバレンタインのチョコレート作りを楽しみにしていたからだった。

 パラパラとひばりが教科書を見る。留学生のひばりは教科書の三分の一ぐらいをやっていない。それでも授業についていけるよう独学で身に着けたらしい。

 さて、さっそく問題集を開いた真砂は標準程度の問題に取り組んだ。しかし、全く覚えていない。理科は暗記だと散々言われたが、暗記に頼ると忘れてしまったときに大変だ。現に今、真砂は困っている。

「真砂、難しいなら先に覚えている細胞の組織を書いてみて」

「お、おぉ……」

 真砂はひばりに言われた通りに覚えている限りの名前を書いた。動物と植物で細胞の組織が変わる。例えば葉緑体とか、液胞とか。

「じゃあ、この中で役割を覚えているのは?」

「葉緑体だな。植物にあって光合成を担当するんだ」

「正解」

 ひばりはそう言ってから真砂が書き出した名前を追っていき、他にはどう、と聞いた。

「なんだっけ、セルロースでできているの」

「それはこれ」

 ひばりがトントンとシャープペンの尻でノートの文字を叩いた。それからひばりは真砂の曖昧な知識を訂正したり正しいものに導きながら全て説明した。

「そっか、そうだったな」

「そうそう。今なら解けるんじゃない?」

「おぉ。サンキューな」

 ちょうどそのとき、オーブンの開く音がした。ぶわりと濃いチョコレートの香りに真砂は思わず紅茶を飲んだ。

 ほたると祐希が作っていたのはガトーショコラだった。難易度が高そうだと真砂は思ったが、祐希が簡単なレシピを発見したらしい。ほたるもそれに乗っかり、今年はガトーショコラに決まったのだった。

「粗熱をとったら完成だね」

「うん!祐希くん、ありがとう」

「僕の方こそ助かっちゃった!家にはオーブンなんてないし」

「ガトーショコラ、お兄ちゃんの分も残しとく?」

「そうだね。七斗さんにも食べてほしいな」

「おー、もうできんの?」

 真砂が声をかければうん、と祐希が返事をした。真砂は問題集を閉じた。ひばりは首をかしげる。

「ガトーショコラを食べた後にやろうぜ」

「真砂がそれで良いなら俺は良いけど」

 ひばりはそう言いつつもそわそわとしている。どうやらひばりもガトーショコラを楽しみにしているらしい。

 ずいぶん色々な顔が見られるようになったものだ。はじめはどこか遠慮しているようだったのに。

 真砂は小さく笑った。

「じゃあ、飲み物淹れるか。ほたるたちは何にする?」

「紅茶で」

「種類は?」

「なんでも良いよ」

 真砂はキッチンに行くと少し背伸びして棚から茶葉を取り出した。祐希がティーカップを用意する。

 沸騰したお湯をティーポットにいれ、しばらく蒸らす。適切な蒸らし時間があるが、これは五分くらいだろうか。

 蒸らし時間の間にほたると祐希がガトーショコラを切っていく。ひばりはお皿を取り出した。そこにガトーショコラが乗せられ、余った生クリームが乗せられる。焦げ茶色のガトーショコラの上に白い雪が落ちる。うん、美味しそうだ。

「おっ、ぴったりだな」

 ティーカップに紅茶を注ぐ。ふわりと良い香りがした。鈍く銀に輝くフォークを四つ持って机まで運ぶ。それぞれが座るとひばりと真砂は感嘆の息を漏らした。

 立派なガトーショコラだ。これが簡単に作れるなんて誰が信じるだろう。

「それじゃあいただきま〜す」

 ガトーショコラにフォークが入っていく。口に含んだ四人から歓声が漏れるまであと十五秒。


『チョコレートブーケ』/空色さくらもち


「お待たせしてしまって、すみません」



約束の時間のきっちり5分前。


後ろの肩口から声をかけてきたその人は、俺よりも“ちょっとだけ“高い位置にあった腰を浅く折って申し訳なさそうな顔をする。

前情報で散々確認したものの、実際にこの目で確かめると一瞬だけ「え、男?」なんて内心驚く。脊髄反射のようなもので、すぐに冷静になって「彼女用」から「彼氏用」の表情を作り直す。とはいっても彼氏は今回が初めてだからこの顔が果たして正しいのか分からないけど。


改めてその人を見ると、毛玉の一つもないニットに、黒色のステンカラーコートを羽織っただけのシンプルな服装がやけに清潔そうな雰囲気を感じさせる。重たい荷物も特に持っていないと。レンタル彼氏を利用する客にしてはかなり珍しいそのよそ行きの姿と、赤くなっている鼻に思わず吹き出す。

多分、近くで5分前になるまで待っていたんだろうな。駅の中央口とは違って、西口に近いこの辺りはカフェのような時間を潰せるお店もなければ、ゲーセンなどの娯楽も少ないから。


相手に待たせていると思わせないようになのかは分からないけれど、律儀なやつ。それが今日の彼氏の第一印象だ。


「おはよう、さいねくん」

「お、はようございます…えっと、千晃さん」


事前に決めあった呼び名を口にすると、形の良い目を緊張にキュッと瞑って応えてくれる。さいね、というのは学校でのあだ名なんだとか。予め親睦を深めるために取っていたDMのやり取りでさりげなく下の名前を訪ねた時も「本名よりこっちの方が慣れているので」と言っていたから、深く詮索しないで違う話題を取り上げたのだ。


深く関わりすぎない、耳にタコが出来そうなほど聞かされた会社のマニュアルの中のひとつ。

他にも客から希望がない場合は敬語禁止、身体的接触はハグまで、プールや温泉などの肌を露出する場所は基本禁止区域、長時間の密室での二人きり禁止……などなど細々したルールは一応あるけど、


「俺も今来たとこ」


それらの具体的な説明は既にサイト内のDMで確認しているため、早速タメ口で返すとさいねは目元を赤く染めて目を逸らした。

その初々しい反応につられてなんだか俺まで恥ずかしい気持ちになってくる。


「そう、なんですね…!よかった」


とても仮初のものとは思えないぎこちないオープニングに、あれ?俺結構この仕事慣れてきていたつもりだったんだけど、なんて思わず首を捻ってしまう。まぁ、彼氏の経験は無いし、こんな風に生真面目に利用する客も初めてに等しかったからなのかも。


とにかく、今日のレンタルの時間は1時間と決まっている。いくらウブでも、挨拶で時間を潰す訳にはいかない。こんなところでモジモジしてる場合では無いのだ。やるからには、彼女にも彼氏にもしっかり楽しんで貰いたい。


「じゃあ、まずどこ行こっか」

「この近くの中華屋さん、どうですか?おすすめなんです」

「へえ、そうなの?いいねそこにしよ」


序盤の数分は何だったのかというほど即決で一件目が決まり、さいねについて中華屋に向かう。


「さいねは特に好きなメニューとかあるの?」

「僕のですか?そうですね……ラーメンばかり食べるからそっち系しか言えませんよ…?」

「ふっ、そうなんだ。俺もラーメン好きだよ」

「ん゙…っ、そ、うですか?じゃあ…えっと、僕がよく食べるのは坦々麺とか辛いやつがほとんどですかね」

「辛いの好きなんだ?意外」

「ふふ、よく言われます」


見た目だけなら、主に髪色とか髪色とか髪色からして、流行りのスイーツとか甘いものに目が無さそうなのに意外と男らしいものが好きなんだ。


「あっ、いま似合わないって思いませんでした?」

「…そんなことないよ」


といいつつ、マスク越しに頬の辺りが少し膨らんで耳まで赤く染めて「ほらぁ、やっぱり笑ってるじゃないですか」と拗ねる姿がおかしくて。何だかんださいねも眉尻を下げて笑っている。真面目そうなさいねのちょっとだけ子供っぽい所が、一般で言うと可愛いという形容に当てはまるのだろう。男に対しても適応するかは分からないけど。


きっちりと体の横にくっついてる右手。それとなく近づいて手の甲側から指先で軽く触れると、それだけでびくぅっと肩を跳ねさせる。「うぇあ!?」と、慌てて引っ込めようとしてしまう手を追いかけて握ると、諦めたように指の力を抜いた。


「嫌?」

「びっ、くりしただけです…」

「じゃあこのままでいいよね」

「っう…はい」

「追加料金1100円でキスも出来るけど」


当然そんなルールはないけど。


「えぁ!?しませんよっ……あー、これめっちゃ緊張する」


その言葉通りガチガチに緊張しているのが手のひら越しに伝わってくる。ふっ、手ぇあっつ。


「中華屋なんて久しぶりだな。最近はコンビニがメインだったから」

「千晃さんは辛いのお好きですか?」

「んー、どちらかというと苦手かな。嫌いじゃないけどいっぱいは食べれない」

「なるほど。では味噌はどうですか?辛さ選べるんです」

「へえ、そうなんだ?ココイチみたいだね」

「ですね。ココイチほど段階はなくて、甘口、中辛、激辛、鬼辛の四つなんです」

「うわ鬼辛やばそ〜」

「僕のお気に入りです」


にっこにこの笑顔で楽しそうに話す。

だから似合わないんだって。なに「鬼」って。

整った顔で、見た事ないけど名前だけで何となく分かるあの赤黒いスープを啜ってる所を想像してまた危うく笑いが零れそうになるのを抑える。


「ほんとに?胃壊れちゃうよ」

「ふふ、壊れない壊れない。ちょーっと荒れるだけです」

「ちゃんと壊れてんじゃん」


お互い緊張もそこそこに解れてきて、そんな話をしているうちにお目当ての中華屋にたどり着く。中に入るとこれまた意外で、椅子と椅子の間が狭く、油っけの凄い熱風が天井のプロペラでグワングワンと店中にかき回された空気、あちこちに湯気が立って目の前が白んでいる。


「お好きな席をどうぞー」と白い湯気と団体席の向こう側から呼びかける威勢のいい店員さんの声が聞こえて、俺たちは出来るだけ隅の煙草の匂いがしないところを選んで座った。

座敷席もあったけど、なるべく長居したいから足の疲れなさそうな椅子の方を選んだ。他のところ行きたくないとかじゃないけど、ただ一日で色んなところ回るよりも、こうして一箇所でゆっくり話した方がさいねとならデートっぽさが出るかなと思ったから。この数十分を過ごしてそう感じた。


「すみません…『デート』、もっとオシャレなところ案内出来たら良かったんですけど」

「うん?全然。俺も結構こういう店好き」


確かに清潔感があるとは言えないけど、店に入っただけでわかる、ここは「確実に美味い店」だ。こういう雰囲気の中華屋にまずハズレはない。


「す…ッ、そ、そうですか?えっと、いいですよね僕も…す、好きです」


入口付近だともう少し声を張らないと聞こえないくらいだったけど、この席は団体席とはいくらか離れているからそこまで声を張らなくても会話ができる。その分、さいねが一瞬言葉に詰まったその些細な音まで拾ってしまう。


「っ、ぶは」


「好き」って単語に一々反応してしまっては、照れたように目を何往復かさせて何事も無かったように話を続けるさいねがあまりに面白くて、耐えきれず笑う。

きっとまだ立て直せると思っていたのだろう、俺が笑うとその隠蔽工作も意味はなくて「わっ、笑わないで下さいよ…」と顔をより赤く染めた。


「千晃さんと違って僕は初めてなんです、こういうの」

「え?絶対ウソ」


確かに初いなとは思ったけど、こんな顔整ってるんだから例えこっちから行かなくても向こうから男女問わず寄って来るでしょ。


「へ?本当にないですよ、僕人見知りなので」

「へぇ。じゃあ俺が本当に初めてなんだ」

「はい。あの…変じゃないですか?」

「んー、ずっと変だよ」


そわそわと緊張気味に上目で聞いてくるさいねに、からかってやろうとわざとそう言うと、「ぇあ!?」と形のいい目がもっと大きくなった。


「うそ!?そんなにですか?」

「ふ、嘘。全然変じゃないよ。今までで一番のエスコートだった。これは嘘じゃない」

「それなら、よかったです」


そういうとさいねはホッと安心したように息をついて、ようやく肩の力を抜いた。

こんなに素でデートしたのはいつぶりだろうか。それくらい居心地のいい雰囲気に飲まれて、俺も柄にもないことを口にしてしまう。別に『初めて』に拘っているとかじゃないけど、美形に「初めてなんです」と言われたらまぁ悪い気はしないよね。


「メニュー、決めましょうか」

「そうだね」


さいねが二冊分手に取って俺に見やすいように向けてから渡してくれる。本当に初めてか?俺の方がレンタルしてるんじゃないかというくらいスムーズな気遣いに品の良さを感じる。


「ありがと。お、ラーメンだけでも結構種類あるんだね」

「はい。おすすめは黒胡麻麻辣坦々麺ですよ」

「うわ絶対辛い」


俺には無理だ。絶対胃がやられちゃう。

するとさいねはくす、と笑って「じゃあ僕はそれにしますね」と即決してしまった。


「じゃあ俺は何ラーメンにしようかな」

「ラーメン以外も美味しいですよ」

「さいねのおすすめ食べてみたいじゃん?お、この豚骨とネギ白湯美味そう」

「ぱっ!?っ、その…違うのにしませんか?」

「え?なんで?おすすめじゃない?」

「え、えぇ。あっでも千晃さんが白湯お好きなら全然」

「ううん、いいよ。俺豚骨と迷ってたし」


この店内では押しボタンはインテリアと化して、結局口頭で注文を済ませると、さいねは「何でも美味しいって言ったのに申し訳ないです…」と目に見えない犬の耳をしょんぼりと垂れさせて謝る。


「ふっ、いいって。そんなことより聞いてもいい?」

「はい」

「俺が言うのもなんだけどさ、初デートがレンタル彼氏で良かったの?」

「あ〜……やっぱりおかしい、ですか」

「いや、経験ないから遊んでみたいっていうお客さんは結構いるから変じゃないけど。さいね、そういう風にも見えなかったから」


どちらかというと、そういうのはお互いが好き同士だから尊いんですよ、とか言いそうな。

気遣いがちなさいねのことだから、遊んでみたい、じゃなくて。例えばそう練習的な。でも普通の人とこういうことをしてしまうのは付き合わせるその人にも悪いし、好きな相手のことも裏切るようで。俺なら仕事だし、と。きっとそういう経緯なのだろう。

かなりのレアパターンだけど、こういうのも決して無くはない。


「さすがに男にレンタルされるのは初めてだけど」

「そう、ですよね……でも、どうしてもレンタルがよかったんです」

「ふぅん…?そっか」


深く関わり過ぎない、耳がタコで塞がるほど聞かされたはずなのに、いつの間にかさいねのことが知りたくてつい詮索したくなってしまう。

ひとつ知れば、さらにもうひとつを求めてしまう。こんなの、マニュアルに含まれてなんかいないのにな。


「お待たせしましたー、こちら博多とんこつラーメンひとつと、黒胡麻麻辣坦々麺ひとつです」


顔がすっぽり入るくらい大口の皿がテーブルに揃うと、割り箸をパチンと割って、「いただきます」を言い合ってからラーメンに箸をつける。俺はもう少しだけ冷ましてから食べようと、まだ湯気の立つチャーシューをスープから引き上げる。

正面ではさいねがイメージ通りの赤黒いスープから、スープの色に染まった辛そうな麺を底から持ち上げて、綺麗に口に運ぶ。ちっとも辛そうに見えないのが凄い。


「猫舌なんですね」

「そう。そういうさいねはそんな辛いの食べてるのに全然汗かいてないね。代謝悪いんじゃない?」

「うはは、結構言いますね。お互い様ですよ」

「俺割と健康体だよ」


ほら、と軽く前髪を持ち上げて浮かせると「っ、あー…そうですね」と目を逸らされる。急にそわそわしだしてどうしたんだ?と不思議に思いながらもようやく好みの塩梅に冷めたチャーシューを頬張る。お、柔らかくてとろとろでうま。


「知ってました?」

「んえ?」


チャーシューで頬袋をいっぱいにしていると、立ち直ったさいねが悪戯を仕掛ける小学生みたいな顔をした。


「メンマって、割り箸で出来てるんですよ」

「いや嘘つけ」


俺のこと何歳だと思ってんの。さすがに分かり易すぎてそんなの騙される方が無理あるだろ。


「えぇ?『あぁ〜、そうなんだぁ』とか言いそうだなって思ったんですけど」

「まさかとは思うけど今の俺のまね?」

「?はい」

「うわ。言わないし似てねぇ〜…」

「ふふ、そうですか?おかしいなぁ」


薄い肩を震わせてころころと笑うと、その度にくど過ぎない甘い香りが漂って。香水かな、ココアみたいな匂いがする。他の色んな匂いと混ざっているけど、群を抜いていい匂いだ。


「あ、千晃さん。そろそろ…」


俺が匂いにつられてふんすふんすと鼻を鳴らしていると、さいねがおずおずと声をかける。


「うん?あぁ、時間ね」


といってもまだアラームも鳴らない10分前。

それに別に少しくらい伸びてもいいのに。


「駅まで送るよ」

「いえ…この後用事があるのでこのままここに残りますよ」

「そう?」


真新しい封筒を受け取ると、さいねは「本日は付き合ってくださって、ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をした。


「ううん。今日は楽しかった」

「僕も、楽しかったです」

「またいつでも呼んで」

「っ、はい」


本音が全く混ざっていないと言えば嘘になるけど、ほぼマニュアル通りのセリフにもはにかんだようにピュアな笑みを返されてしまうと罪悪感が残る。

こんなにも長い時間を素で過ごしたのはこの仕事をするようになってから初めての経験だった。楽しかったんだ。ほとんど中身のない会話だったし、彼氏らしいこともしてないけど今までのデートで一番楽しかった。


次の指名は無いかもしれない。レンタル彼氏側からの連絡を取ることは禁止されているから、俺から約束を取りつけることも出来ない。

なんでだろうな、普段の仕事ならたとえリピートが無かったとしても特に気にならなかったのに。

少し名残惜しいだなんて考える思考を振り払う。そして残りの少量を食べきってからさいねに手を振り、会計して店を出た。



_______________________



二回目の『デート』は思っていたよりも早く来て、二週間後には指名が入っていた。


サイトの通知が来た時は驚いて何度も登録名を確認した。

サイトを閉じては開いて5回、一旦お昼寝を挟んで2回。どこで何度見ても「さいね様」という文字は変わらなくて無意識に口角が上がってしまった。



当日。

時間の10分前に備考欄にて指定された待ち合わせ場所に着く。

この前行ったお店のある通りとは違う、落ち着いた雰囲気の中に佇む何かすごそうなマンション。そして今目の前にあるのはさらに何かすごそうなキッチン。


「すみません、ここまで呼び出してしまって」

「それはいいんだけどさ、」


これは一体…?あまり使われていないような清潔感のあるキッチンの、作業するスペースに何かすごい量のチョコレートがギッシリと隙間なく敷き詰められているのを見て言葉を失う。


なにこれ…本当になにこれ?一緒に作ろうってこと?にしては半分以上はもう形になってるし。一緒に食べたいってこと?


「えっと…実はチョコレート作ろうと思ったら作りすぎちゃって……食べていただけませんか?」

「えっ、俺一人でってこと?」

「はい。僕、甘いの苦手で…」


さいねは申し訳なさそうな表情をする。

これって家…だよね?俺会社のマニュアル的に家はまずいんだけどな、なんて思いながらもここまで着いてきちゃったし。顔いいし。チョコレート食べるだけでお金貰えるなんて楽な仕事初めてだし。


「わかった。ここで食べればいい?」

「はい、今椅子とお飲み物用意します」


それにしてもすごい量のチョコ。甘いの食べれないって、これ全部どうする気だったんだろ。


「あー…千晃さん、お水とお水とお水どれがいいとかありますか?」

「は。水でいいよ」

「すみません…僕 最低限の栄養があればいいタイプなので…」

「だからこんなにもの少ないんだ」


せっかく広い家に住んでるのに、まるで物がない。本当にここで生活してるのってくらい。


さいねが後ろでトプトプと水を注いでくれている音を聴きながら、始めに手前にあった丸いチョコを手に取る。

見た目は悪くないけど。変なの入ってたりしないよな。


カリッ


一応前歯で割って確認する。中には特に何も入ってなくて、杞憂だと分かるといくつか続けて口に放る。


「甘いの苦手なのにこんなにいっぱい。誰かにあげるつもりだったの?」

「えぇ、普段料理とかしないんですけど、たまには頑張ってみようかなって」

「へえ〜。ん、これハート型だ。もしかして本命でしょ」

「いっ、いえ!これはそういうんじゃないですよっ。たまたまセットの型にハートがあっただけで」


「そもそもこの令和の時代にハート=本命って考えはどうかと思うんです!」と顔を真っ赤にして怒るさいねをからかいながら5つめのチョコレートを選ぶ。

これは今までのとは違って柔らかく、パウダーがかかっている。生チョコだ。


「俺生チョコ好きなんだよね」

「そ、うなんですか」


何となく口にしちゃったけど、まだ「好き」って言われ慣れていないんだ。

前回もしたやり取りのはずなのに、なぜか今は一瞬だけ可愛いかも、なんて思う。ほんと一瞬だけね。



チョコレートは好きだけどさすがにこの量は中々にきつくて、間にブレイクタイムの雑談を挟みながら摘む。


「すみません。次は家じゃないところを待ち合わせにしますね」

「えっ」

「え?」

「あ、いや。次も指名してくれるんだなって」

「いっ、嫌でしたか!?」


慌てて手をブンブンと振って距離をとるさいねがおかしくて。


「嫌じゃないよ」

「なら、安心しました。あっ、味、変じゃないですか?」

「うん、ちゃんと美味しい」


素直に褒めると口元がふっと緩んで、これまで見たそのどれもより柔らかく笑う。そんな顔見た事なくて。デート二回目だから当然っちゃ当然なんだけど。


でも、その顔を、俺じゃない誰かがさせているのだと思うと、急に体が冷たくなってそれまで甘く感じていたチョコレートの味が分からなくなる。


『美味しい。』

きっとそう言って貰いたいのは俺からじゃなくて、本当はこれを渡したかったその人からだろうから。


「……って、本命のやつに言って貰えたらいいね」

「え?千晃さ、」


ピピピピ…

アラームが鳴った。デートの時間終了から5分過ぎた合図。


「あぁ、すみません。時間見てませんでした」

「いや…俺も忘れてたから」

「今封筒用意してきますね」

「わかった。待ってる」


さいねが何か言いかけていたことも気づいていたけど、気付かないふりをして、真新しい封筒を受け取ったら真っ直ぐ玄関へ向かった。


「あっ、千晃さん、その…また連絡してもいいですか」

「ん?…あぁ、うん。待ってる」


今回はマニュアルだと思われたくなくて、ちゃんと目を合わせた。

本当に待ってるんだよ、さいねからの予約が入るの。


「…えへへ、よかった」


部屋を出てからも鍵を閉める音が聞こえてこなくて、やっぱり律儀なやつだなと思った。



でも、それからさらに一ヶ月が経ってもまだ、さいねからの指名は入らなかった。それこそ毎日サイトの通知を見る癖がついてしまうくらい、我ながら柄にもなく夢中になってしまっているのに、さいねからの通知だけが一向に入らない。


ピロン。

あぁ、また違う。自分を選んでくれたお客さんに失礼だとは思いつつ、少し落胆してしまうのも確かだった。



「それってさぁ、もう恋じゃん。惚気だ惚気」


大学の大教室。そのなるべく後ろの長机に座ると隣からそう野次が飛んでくる。

ひゅーひゅーとやる気のない指笛を鳴らしているのが同級生の湊人。


「馬鹿にしてんでしょ」

「いやいやいや。おめでたいことじゃないすか」

「恋とかじゃない。そもそもまだ二回しか会ってないし」

「こっちから連絡すれば?」

「俺からは連絡しちゃいけないんだよね。トラブルになるから禁止されてんの」


「へぇ〜、連絡取れない方がトラブりそうですけどね」とやけに楽しそうにしていてやっぱりからかってるな、と思うけど言ってることは真っ当だ。


あ〜…こうなるなら連絡先聞けばよかった。



講義が始まるとそれまでの元気が嘘みたいに眠たくなる。ぽやぽやと微睡んでいると、ふとだだっ広い教室のたった一席だけ空いているのに気づいた。一番前の、一番窓側の席。いつも南の日差しで照らされててあまりよく見たことがなかった。


「ねえ、湊人。あの席って誰座ってたっけ」

「え?あぁ、いつもマスクしてる子?」


それは俺らも一緒だろ。


「どんな覚え方」

「自由席の授業でも一番の一番窓側を選んでて、黙々と勉強してるイメージがあるけど」

「へぇ…今日休みなんだ」


そんな真面目なやつにとったら講義を休むなんて辛いだろうな。

まぁ断られるかもだけど一応ノート綺麗に取っておこう。別に人違いでもノート見せられて困るやつはいないでしょ、多分。


「風邪なのかな」

「さぁ……ってそれがどうかしたんです?」

「いや。なんとなく気になっただけ」

「ふぅん?確かバンドもやってるんですよね、彼」

「ほんとによく知ってるねえ。コミュニティ広いっていいな」

「へへ。名前はえっと〜…、なんだっけなぁ。ムサシ…じゃなくて…斉藤でもなくて…あっ、そう、犀音(さいね)くんだ」

「へぇ……ん?え、さい…!?」


思わぬ名前が出てきて講義中だということも忘れ、大きな声を出してしまいそうになるのを湊人に押さえられる。


「犀音って、あのさいね…?」

「どのっすか」

「あー…まぁ、そうだよね」


さいねなんて名前、あだ名でも滅多に無いもんな。

いや、でも本当に?

だってあれ一年の席だ。

勝手に同い年くらいだと思ってたけど、三歳も下だなんて思わなかった。部屋なんかすごかったし。結構ちゃんとしてたし。


「え、なに、知り合い?」

「いや…知り合いにもなれてないんだけど」


さいねはまだ気づいていないのだろうか。俺もあまりバイトのことはバレたくないけど、さいねもそれは同じなはず。レンタル彼氏を利用したなんていくら多様性の時代でもさすがに話題になっちゃうだろうし。

俺が卒業するまでの数日、どうにか気づいていないふりをしてあげないと。

そう思う反面、さいねと連絡が取れなかったのも風邪が関係しているのか、とか。もしかしたら何とかすれば学校でも話せたりしないかなんて期待してしまうのも事実だった。


「ほぉ〜。千晃くんも大概分かりやすいすよね。可愛いお顔緩んでますよ」

「…うるさい」



_________________________



それから一週間後。一度も顔を見ていないけど、それがさいねが欠席しているからなのか、ただ4年と1年とで被る授業がそもそも無いのか。


それはそうと、今日はやたらあちこちからピンキーな雰囲気がする。今日はここに通う大学生にとって一番大事な日でもあるから。

明日から春休みになるため、春休み中にあるバレンタインとホワイトデーをまとめて今日やるやつが多く、今日はどこ行ってもチョコレートの匂いがする。俺もついさっきの授業前にチョコ貰ったっけ。男から。つまらん。



「千晃く〜ん」


大教室に入ると、同じく男からチョコレートを貰っている最中だった湊人が口をもごらせながら、俺に手を振る。


「いーなー。俺にもちょうだい」

「千晃くんにはあげな〜い」

「ふっ、なんでだよ」

「裏切り者だから」


はぁ〜?と笑いながら返しつつ、湊人が指さした方を見ると俺の座席に透明の袋が置かれている。湊人のその反応を見るとどうやら彼の悪戯でもないらしい。


なにこれ、と丁寧にラッピングされた袋を覗き込んで中身を確認する。間違いかもしれないし、むやみに触れない。

しゃがんで確認すると、シンプルなデザインで簡単に中身が見えた。ハート型のチョコレートのようだ。カラースプレーのチョコすらかかってない、The チョコを溶かして固めただけの見た目。なんとなく、どこかで見覚えがある。


「モテる男は大変すねえ」

「でしょ?」

「うわ、千晃くん可愛げな」

「ね、これ誰が置いたの?」

「俺らが来たときにはもう置いてありましたよ」

「ふぅん」


「あの千晃氏にも春が来たんだな」なんてからかう湊人を無視して、彼がいつも座っているだろう窓側の一番前を見るが、どうやらまだ席には着いていないらしい。


「湊人さ、この前言ってた犀音ってやつのクラスわかる?」


この文脈でいくと「このチョコレートはその犀音くんからのですよ」と言ってしまっているようなものだけど、そんなこと気にしてられない。湊人は少し考える素振りを見せてから、「全然」と答えた。


「そっか…」

「それ、見覚えがあるんで?」

「んー…多分、というかそうだったらいいなって」


見覚えもなにも、そりゃあれだけ食えば嫌でも頭に残っている。この糖度の低いカカオの匂い、今でも鼻の奥から蘇りそう。


差出人が誰か予測が立ったから遠慮なくラッピングを解く。袋にも袋の中にも名前、クラスは書いてない。あいつらしいっちゃらしいけど。


「……はぁ」


ばか。名前くらい、書いとけよ。

これじゃあますますお返し出来ないじゃん。



しかもハートって。……いや、いやいや、あいつにとってハートは別に本命とかそういうんじゃなかったんだっけか。まぁ何型でも嬉しいけど。


一応名前が書いてあるかも、と確認のためラッピングの針金に付いていたメッセージカードを見る。


そこにはやっぱり丁寧な字で、それはそれは本当に男が書いたんかと疑うくらい丁寧に、


『千晃さん。

廊下でお見かけしたあのときから、ずっと惹かれていました。』


と、書かれていた。

名前もクラスも書かれていなかったけど、誰だか一瞬で確信した。さいねだ。


「っあ〜……ごめん、ちょっと俺行ってくる」

「えっ今からですか!?もう講義始まりますけど」

「いいよ、俺出席日数有り余ってるから、それよりさいねが教室来たら俺に連絡して」

「えっ、あっ、はい!了解っす」


そう返事はしたものの状況を掴めず困惑顔の湊人を置いて、入室する生徒をかき分け廊下に出る。


行ってくるわ、とは言ったもののあいつがいそうなところの検討なんてちっともつかない。だって二回だもん。二回しか会っていないし、そもそも同じ学校だと知ったのも一週間前のことなんだ、そりゃ分かるわけない。


「え〜…と、まぁ人が多いとこには居ないよな…」


これまでの二回ともさいねとデートした場所、待ち合わせに選んだ場所は街がそこまで栄えていない落ち着いた雰囲気の場所だ。人混みが得意では無いんだろう。あと、バンドね。湊人曰くだけど、さいねは大学でバンドをしているらしい。音楽が好きなのか?だとしたら多少雑でも絞れてくる。


「……よし、本館の図書室か、その一つ下の音楽室から当たるか」


もう学校にすらいないかもしれないけど、ここまで来たらもうとにかく行くしかない。講義始まりのチャイムと同時に、まずは本館までの廊下に向かい始めた。


「あれ、そういえばあいつに同じ学校だって言ったっけ」



________________________



この感情に恋だなんてふわふわした名前をつけたのは、いつからだっけ。


その他雑音をただ拾っていたこの耳が、彼の声を優先して拾ってしまうことに気づいたのはいつからだっけ。


下を向きがちだったこの目が、やたら彼のことを探してしまうようになったのは…きっと、あの春からだったんですよ。千晃さん。

千晃さんはあれで意外と鈍感だったりするので今も気づいていないかもしれないけれど。


それでいいんです。気づかないまま、卒業して僕のことは一度も認知しないままで終わってしまえばそれでいいんです。


最後のバレンタインにどこかの可愛らしい女性がチョコをくれた、そういう千晃さんにとって後味のいい解釈で。僕が同じ学校だということすら知らないまま、千晃さんはここを旅立つ。


そうじゃないと困るから。僕のことを万が一にでも知られたら、僕が本当はどんなことを考えているのかすらも知られてしまいそうで困る。


でも、卒業したらバイト先は辞めてしまうのだろうか。そうしたら本当にもう会えなくなってしまうなぁ。欲を言えばもう一度だけ、お話がしてみたかった。



あの日、千晃さんと初めてデートをした二ヶ月前。

本当は「千晃さん」だって初めから分かっていてレンタル彼氏のサイトに登録した。


少しダメだった時。何もかもがちょっとずつ上手くいかなかったある日の放課後。閉館後の図書館から聞こえてきた歌声が朝露のように透き通っていて。決して弱々しいわけではないのに、どこか儚いその声にたまらなくなって、一緒にバンドをしている友人に聞いて名前と、レンタル彼氏の件を知った。まさか本名まんまで登録しているとは思わなかったけれど。


初めてちゃんと話した千晃さんは意外と女性らしいところがあるのだと知った。廊下ですれ違う時はいつもご友人との会話くらいしか聞かないから、時折見せる照れたような仕草は新鮮に感じた。辛いものが得意でなくて、チャーシューも程よく冷ましてからじゃないと食べれなくて。でも話す時はちゃんと目を合わせてくれるところは、想像通りで胸が少し浮ついてしまったこと。バレていなかっただろうか。


二回目のデートはちゃんとオシャレにしようと思っていたのに、学校でご友人方とお菓子を食べている様子を見たらなんだか羨ましくて。


といっても僕にはお菓子作りの才能なんてないし、買った方が百喜ばれるだろうとは思いつつ、気づけばチョコレートを買っていた。初心者用とはいえ、見よう見まねでここまでの完成度とは我ながらなんて天才なのだろうと正直、自信のあるものだけをキッチンに並べた。ちょこっと失敗しちゃったものは冷蔵庫の奥の方に隠してあるのだ。冷蔵庫の中、見られなくてよかった。


僕の耳が正常であれば「美味しいよ」って言ってくれて、チョコより先に僕が溶けてしまうかと思った。すぐに別の言葉で誤魔化されてしまったけれど。


『また連絡してもいいですか』

『うん、待ってる』


その言葉に浮かれていたのは僕だけじゃないと。

千晃さんの顔も少し照れたように紅潮していたのは僕の自惚れでしょうか。


……なんて。



ポロン、特に訳もなく手持ち無沙汰に目の前のピアノを適当に鳴らす。やっぱり楽器はいいなぁ。無心になれる。出席日数には余裕があるし、今日も休もうかな。



そんなことを考えていると、不意に真後ろのドアがガラ、と音を立てて勢いよく開いた。


「さいね、!やっぱりここに居た…」

「ぅえ!?ちぁっ、?」


そこに居たのは信じられないけれど確かに夢に見た千晃さんの姿で、「なんでここに」とか「授業はどうしたんですか」とか、「千晃さん、音楽室のドアは静かに開けないとダメですよ」とか。言いたいことは沢山あるのにどれも上手くまとまらない。


ずっとずっと、話したかったのに。嗚咽のような呼吸が漏れるだけで何も言えない。


「っおまえなぁ、これじゃ誰からか分からないだろぉ」


僕が机に置いてきたチョコレートの袋をブンブンと振る。


「へっ?ぁ、あぁ…それは、あえて書かなかったというか」


だってこれで最後にするつもりだったし。

チョコレート、ちゃんと受け取って貰えたんだ。よかった。


「もうちょっとで怖くて捨てるところだった」

「でも、千晃さんは分かってくれたじゃないですか」


それに、千晃さんは捨てたりしないでしょう?


「…っいいから反省して」

「ふっ、……ふふ、はい」


緊張しているのに、頭は混乱しているのに今度は口が勝手に喋る。

違う、もっと「嬉しい」「ありがとう」「ごめんなさい」って言いたい。

それから、それから……



……それから、あとはなんて言えばいいのだろう。なんて言葉を使えば誤りなく僕の気持ちが伝わりますか。


話し言葉だとこうも上手くいかない。



初めて出会った日。

僕を助けてくれた日。

あの日から千晃さんは僕の…僕の、影だったんです。

光と陰どちらの意味も持つ、平安時代の影。眩しすぎない優しい明るさと、周りの強い陽射しで目が焼けてしまいそうな時にいつも千晃さんの存在に救われたから。そんなこと、本人は微塵も思ってないんでしょうけど。


漱石で言えば月。太宰なら炎、シェイクスピアの夏の日。

そのどれもに当てはまる大切な人。


そんな重たい言葉、とてもじゃないけど本人になんて言えない。



「……あの、それで千晃さんはどうしてここに…」

「俺?俺は……あれ、何しに来たんだっけ」


そう言ったきり真剣な顔付きで、本格的にウンウンとうなり出した千晃さんがおかしくて、肩の力がふっと抜ける。


「さいねは?」

「はい?」

「さいねはどうして連絡くれなかったの」


思ってもいないセリフが聞こえて、ついに都合のいい幻聴が聞こえるようになったのかと自分の耳を疑ってしまう。


「いや、それは…」

「…もう飽きたの?レンタルじゃなくてよくなった?」

「え?」

「そう、だよな…本命がいるんだもんな…たかだかレンタル彼氏との約束なんてあってないようなものだよな」


え?ええ…?

さいねさんが急にどこぞのメンヘラみたいなことを言い出して勝手に凹んでいく。えっ、ちょっと待ってください?さいねさんの中の僕ってどんな薄情者なんですか。


「いっ、ないですよ!本命も何も、僕にはさいねさんしか」

「…え?」


ほら、何も気づいてない。やっぱり鈍感だ。

確かにあえて名前も何も書かなかったし、僕のことなんて知らなくていいって思っていたけれど。でも、それが裏目に出て僕が男遊びの激しい人間だと思われているというのなら話は別だ。このまま誤解されたままでは適わない。


「もぉ…わざわざメッセージも付けたのに」

「それも練習じゃ、」

「本番ですよ。全部本番でしたよ、僕にとってはどのデートも一発勝負の本番だったんです」


さいねさんが、ハート型は本命にあげるものだって言ったんじゃないですか。


「〜っぇ、あ、そう、なの?」


すると一変して顔を耳まで赤く染めて、目をあちこちに泳がせる。

またウソだ、って言われたら「失敬なっ」と返そうと思っていたけれど、そんな可愛い顔をされてしまうとなんだか調子が狂ってしまう。こちらまでむず痒くなってくる。

その反応、今度こそ自惚れてしまいますよ。



「あっ、あの、次は絶対風邪とか引かないので、その…また連絡、してもいいですか」



三回目こそは、と頑張っていいお店を調べて、千晃さんとの会話の話題もいくつか考えていたのだ。やっと実践できると思うと自然と口角が持ち上がる。

けれど、



「それは…だめ」

「……へ?」


千晃さんの顔は苦く、今拒否されたのだと脳が理解したのはしばらく遅れてからのことだった。


「…あの、やっぱり僕、何か」

「ううん、違う。ただ、さいねにはもう二度とレンタル彼氏を利用しないで欲しいんだよね」


に、二度と…。

元々叶うと思っていなかったものだから、拒否されても特に変わらないと思っていた。けれど実際は認知されないことよりも、ハッキリと面と向かって『もう利用しないで』と言われてしまうと、結構クるものがある。一度期待してしまうと余計に。


「……っ、わかり、ました」


ごめんなさい、あとその一言でこの関係が終わってしまうと思った。だから言い慣れたはずのその言葉を口にするのが嫌だった。


「次からはさ、レンタルじゃない俺と会って」


……?


「つぎ…え、次……?」

「そう。お金も新品の封筒もオシャレな店も用意しなくていい、ただの俺としてデートしよ」


次…、次もあってくれるんだ。

終わりにしなくていいんだ。


「え゙、ちょっ、さいね!?なんで泣…!?もしかして嫌?」

「いっ、いえ!違うんです。また会ってくれるんだって思ったら急に力が…っ」


千晃さんの指が頬を撫でてその時初めて自分の目から流れているのが涙なのだとわかった。


「しかも本物とだなんて」

「っふ、本物って」


変なやつ、と千晃さんは可笑しそうにくすくす笑う。音楽室だから防音になっているし声抑えなくてたって廊下に漏れたりはしないのに、授業時間だからと控えめなその笑い声が愛おしくて。


「千晃さん、早速ですがスケジュール聞いてもいいですか?」

「え?いいけど、体調は?」

「全然大丈夫です!モーマンタイ!むしろ元気すぎて危険」

「えぇ、じゃあやだ。何されるか怖い」

「ぅえっ!?嘘です、うそ!」


本当は衛生面に配慮してチョコレートを作るために早く治そうと色々調べたのだ。

効果あったかは微妙だけれど。


「あの、待ち合わせどうしますか?二回とも僕の希望だったので千晃さん決めて良いですよ」

「え〜?じゃあ、カラオケ」

「いいですねえ。僕も好きです、カラオケ」


予定を立ているだけで最高に楽しい。レンタルでも楽しかったけれど、これが本物のデートの雰囲気なのだと実感する。甘い会話は特にしてないのにすごく甘い。


「あっ、でも、バイト先のルール的にまずいんじゃなかったです?一応傍から見たら僕は利用者になるわけですし」


初手でもろ密室っていうのも如何わしいと思われたくないし。


「あー…まぁ、バレなきゃ大丈夫でしょ」

「そんな緩いんです!?」

「いーの。それに4月からはそこら辺も自由になるから、その…会社とか気にしないでも出来るようになるよ」

「そこら辺?なにがです?」


千晃さんの目尻に紅色が戻る。そして何やら口をもごもごさせながら観念したように口を開いて、


「密室に二人きり、とか」

「へっ、ぁ、あぁ〜…?そう、ですね!」


あまりに可愛い殺し文句に一瞬ショートしかけた理性を取り戻して、慌てて次に繋ぐ言葉を探す。やばい、ちょろいと思われたくないけれど、実質なんの言葉も出てこない。


「えっ、と…じゃあカラオケはそれからにしましょうか」

「ん。そうだね」


開かれたままの扉。ぶわ、と廊下から吹き込む風で千晃さんの柔らかい黒髪が揺れる。花のような甘い香り。シャンプーかな、柔軟剤かな。


「……さいね?」

「はい?」

「次も待ってるから。さいねからの連絡待ってるから」


気のせいだろうか。それとも窓から差し込んだ日差しによる幻覚だろうか。

千晃さんの目がきらきらと光っているようにも、潤んでいるようにも見える。

もしかしたら千晃さんは、僕が思っているよりずっと前から待ってくれていたのかもしれない。そんな切なそうな顔を見ると、このまま千晃さんにとって後味のいい終わりを…だなんて僕はなんて自分勝手で独りよがりなことをしたのかと胸が締め付けられる。


「はい。次は絶対、連絡します。帰ったらすぐします」


優しい千晃さんにはそんな辛そうな顔させたくなくて。慌ててスマホを取り出して、ブンブンと振ると千晃さんはふふっと柔らかく笑った。


「だめ。お前信用ならない」

「えぇっ!?そんなっ、ほんとにしますよ!」

「…言っとくけど、3月が終わるまでは俺からは連絡できないからな」

「大丈夫ですよ。僕がいっぱいレンタルします」

「ふっ。毎日レンタルしてくれる?」

「はい!」

「出来んのかよ」


そう言って扉を後ろ手に閉めた千晃さんが、ピアノ前の椅子に腰掛ける僕に近づいてくる。少し悔しそうに、でも口角は嬉しさを隠しきれず上がってしまっている。きっと、僕もそんな感じのだらしない顔をしてしまっているんだろう。


僕の好きな人はレンタル彼氏だ。3月が終わるまでは今までみたいに色んな人とデートをするのだろう。中には僕みたいに同性とすることもあるかもしれない。僕とはしなかったことも、するかもしれない。例えば映画を見たり、華やかな通りを練り歩いたり。指と指を絡める繋ぎ方をしたり。

僕はそこまで大人じゃないから、きっとそれに気づく度に嫉妬するだろうけれど。でも、いいですよ。貸してあげる。ただ、ひとつ……


「っいいんですか?」

「いいよ」


目の前の、この可愛い顔をした本物の千晃さんのことは誰にもレンタルさせてあげないから。



『バレンタイントラブル事例集─ケース97』/鱸


 寒い日が続いているにも関わらず、全校朝礼は校庭で行われていた。生徒指導主任の広町行重はひとり朝礼台に立ち、身体を震わせながら、講話を続けている。

「みなさん。この時期はくれぐれもお菓子に注意してください。バレンタインの『かわうそ』は」

 二、三秒の間が置かれたものの、第二中学校の校庭は静まり返ったままだった。広町は語り続ける。

「みなさん。バレンタインの『かわうそ』は、買わない、渡さない、受けとらない、唆さない、ですよ」

 十年前に公正朗道省で生まれたその標語は現在、教育現場でも、避難訓練の「おかしも」や防犯の「いかのおすし」と同列に扱われるようになっていた。

「みなさん。二月中旬はバレンタインの『かわうそ』をきちんと守って、安全な学校生活を送りましょう」

 広町は講話を終えると、謝罪のような深さで最敬礼し、朝礼台の階段を降りていった。まもなく校歌の伴奏音源が流され、全校朝礼も終盤に差し掛かる。

 二年Æ組の列に並ぶ湯野玲依と湯野琉依は、校歌斉唱そっちのけで、大あくびをする百根壮太を見ていた。


 バレンタインデー菓子類所持等取締法(通称バ菓法)が公布、施行されたのは、令永元年のことである。以来、二月の第二・三週における菓子類の所持などは、この法律によって規制されていた。

「馬鹿馬鹿しいよねえ、バレンタインなんて、今どきシャリーアでも合法だよ」

 琉依は学習机に頭を乗せ、項垂れていた。眺めた窓の外には大空がある。羽を広げて飛ぶ鳥は、いつにもまして自由に見えた。毎年、二月の中旬になると、琉依は好物のチョコレートを買うことも、摘まむことも我慢しなければならなかった。

「馬鹿馬鹿しいなんて言うのはよくないわ。なんのための法律だと思っているの。法律は、私たちを守るためにあるものでしょう」

 玲依の意見はもっともであった。よって琉依に反論の余地はなかった。二人は一時間目の授業に備え、教科書、国語便覧、ノート、ペンケースを机上に準備した。

 玲依が先に述べた通り、バ菓法は国民をバレンタインの呪縛から開放するために定められた法律である。この法律が成立するまで、企業においては上司から部下に「義理チョコ」を強要する事案が労働契約法五条に違反しかねないと問題視されたり、学校においてはチョコレート収受の多少がカーストの顕在化に繋がったり、また、これによっていじめが発生した例もあった。

 このように、過去、文化としてのバレンタインの内容は、度を越す発展を遂げるようになっていた。弘灯二十九年二月には、某人気アイドルが「もらったチョコレート全部食べてみた」なる動画を投稿後、致死量を超えた砂糖の摂取により死亡した。その後彼にチョコレートを贈ったと思われる周辺人物や一部のファンが自殺するなど、事故は各方面に飛び火した。

 法律案作成の決定打となったのは、弘灯三十一年の関東チョコレート連続殺人事件である。無論、チョコレートにシアン化物のような毒性はない。二月十四日という日に限っては、他者に呼び出されれば、その理由など大方見当がつくのである。舌に甘さを期待して向かった先にはやはり、凶器を手にした者が居り、当該人物は愛を受け取るどころか命を奪われてしまうのであった。アングラサイトで知り合った幾人かが各地域で同時多発的にチョコレートを用いた誘い込みで殺人を成功させたことで、他人からの贈り物や手紙、呼び出しに警戒心を抱かないような日が存在するのは危険だという認識が新たに生まれた。

 紆余曲折を経て、二月の中旬に菓子類のやりとりをすることは、今や立派な犯罪となったのである。


 放課後になると、玲依はポスター製作を始めた。玲依が手掛けるポスターは、校内美化を促進するためのものである。玲奈が日々理科室に赴き自主的に美化委員会の仕事をこなすのは、彼女の真面目な性格に依るところも大きいが、同じく美化委員を務める百根壮太と心休まるひとときを過ごすためでもあった。

「湯野さんって絵がうまいんだな」

「ありがとう」

「僕、やることある?」

「ない……こともない。あとで題字を書いて。それから、色鉛筆を削ってほしい」

 玲依は黒い天板の上で色鉛筆を動かしながら、彼女の正面に座る壮太に対して、「もうすぐバレンタインなんだね」と小さく言った。玲依も琉依と同様に、嗜好品を制限される時期がまもなく到来する現実への懸念があった。バレンタインを含む二週間はあくまで食習慣改善の好機なのであって、修行ではない……そうして玲依は自律を試みた。壮太は玲依が描き進めるポスターを見ながら、技術室の広いテーブルに頬杖をついていた。

「湯野さんは誰かに渡すの?」

 驚くべき質問に、玲依は手を止め、顔を上げた。

「どうして。法律違反じゃない」

 壮太は玲奈の態度に失笑した。鉛筆削りを手に取り、赤の色鉛筆を差し込む。

「みんな、それなりにうまくやっているよ」

「バレンタインにお菓子を持つのは犯罪でしょう」

「兄貴が言っていたけど、大学生になると、二十歳に満たなくてもお酒を飲むし、煙草を吸うんだって。きっとそれと同じようなことなんだよ」

 玲依は顔を蒼くした。

「信じられない。私は絶対に、そんなことできない」

「そうか。やっぱり湯野さんは真面目だな。違法アップロードとか信号無視も、警察はいちいち取り締まらないみたいだけれど」

「だめなものはだめ」

 玲依は不文律の理解が苦手だった。同時に、常識という言葉の頼りなさに常々不安を感じていた。

「僕はね、挑戦しようと思っているよ」

「なにに?」

「チョコレートを買ってみようと思ってる」

「だめだし、こんな時期、どこに売っているの」

 壮太は身を乗り出し、玲依に耳打ちする。黒の天板に、赤い粉末が落ちた。

「ここだけの話だよ、湯野さん。ある喫茶店では、夜中に行って合言葉を言うと、チョコレートを出してくれるらしいんだ。その代わり、うんと高いお金を支払わないといけないけどね」

 壮太は玲依から離れると、教室内と、窓の外を見渡した。玲依は色鉛筆を握り直して溜め息を吐いた。

「それもお兄さんから聞いたの」

「そう。兄貴から聞いたんだ」

「馬鹿みたい」

「馬鹿じゃない」

 瞬時に否定されたので、玲依は壮太とのコミュニケーションに失敗してしまったと反省し、壁掛け時計の秒針の音に集中しようとした。

「僕は、チョコレートが好きだ。バレンタインデーは本来、僕にとって、とても幸福な日でなければならない。なぜなら二月十四日は、僕の誕生日だから」

 玲依は多くの悩みを抱えながら壮太にポスターを手渡し、題字も書いてね、と呟いた。


 下校し自宅に戻った玲依は、自分の心配事をすべて琉依に話してしまった。玲依と琉依の間には隠し事など存在しなかった。この世に生を享けたそのときから二人の境界線は曖昧だったのである。二人は無条件に相手を受容し、なにか起これば体験を共有してきた。就いては今度の場合も、琉依にとって、玲依の大切な友人である壮太が犯罪に手を染めようとしていることは、決して他人事ではなかった。

「ねえ、琉依。なんとかして壮太くんを止めることはできないのかしら? 未成年とはいえ、彼が警察に捕まるのは絶対に嫌なのよ、私」

「それは、誰だって嫌だよ。でも、どうしよう。彼はもう、その気になっているんでしょ」

「ええ。本当にどうしましょう。チョコレートが好物なのに、一度も誕生日プレゼントとしてもらったことがないんですって。それはそうよね、二月中旬生まれの子は法律に引っかかるから、誕生日は毎年、ケーキじゃなくてお寿司のはずだもの」

 玲依の思考は焦燥感のなかにあった。玲依が犯罪を阻止すれば、同時に壮太の夢は叶わなくなる。壮太はあくまで誕生日にチョコレートを食べたいと願っているだけだ。玲依と琉依は昨年の夏休みに、なんの躊躇いもなく誕生日ケーキを食べたではないか。なぜ君たちにはそれが許され、壮太には許されないのだろうか?

「玲依、兄さんに相談しよう」

「こんな相談に乗ってくれるかしら」

「兄さんならどんな相談にも乗ってくれると思うよ。壮太くんのお兄さんよりも、賢いやり方を教えてくれるはず」

 玲依と琉依は頷きあい、二階へと続く階段を昇った。フローリングの廊下を静かに歩き、突き当たりで閉じられたままのドアをノックする。

「兄さん」

「はい。琉依?」

「うん。玲依も」

「どうぞ」

 琉依はドアノブを握り、そっと扉を押した。二人の兄である湯野貴洋は、机に向かい、最近死亡してしまったオオクワガタの大顎を針でコルクに留めている最中だった。

「兄さん、私たち、相談があって」

「うん。どうしたの」

 玲依と琉依はこれから起ころうとしている犯罪について、熱心に話した。貴洋はオオクワガタをいじりながらも真摯な態度で二人の声を聞いていた。彼は二人の目的が犯行の抑止であることを十分に汲み取り、言った。

「そういう怪しい喫茶店って、たいていは言い逃れできるように対策をしているから、そんなに心配することはないと思うけど」

「言い逃れ?」

「これはお菓子じゃなくて薬です、とかさ」

 貴洋は一度手を止め、クワガタムシ図鑑を開き、オオクワガタが現れるまで一枚ずつページを捲った。

「薬って、もっとまずくない?」

「たしかに、言われてみれば」

 貴洋は開いたページをブックストッパーで留め、再び玉針を手に取った。手元を注視し、オオクワガタの華奢で繊細な脚が最も美しく見えるように整える。

「そうだなあ。壮太くんを止めるとしたら、犯罪にならない方法で彼の欲求を満たすのがいいのかな」

「それはその通りだけど。でも、この時期のお菓子の売買や授受はだめって、法律で決められているから」

「じゃあ、琉依。伊達巻はお菓子か?」

「え、お菓子ではないでしょ」

「どうかな。ロールケーキだろ、あんなもの」

「違うよ。だって、魚とか、使っているし」

「それならアーモンドフィッシュは絶対に、お菓子とはいえないのか?」

「知らないよそんなこと」

 琉依は自分の兄の屁理屈に辟易した。しかし、貴洋は二人のため、そして壮太のために、なんとか活路を見出そうとしていた。貴洋は親切な人間だった。

「いいか、二人とも。今の時代、裁判でもこんなくだらないやりとりをしているんだ。法律はまだ万能じゃない。壮太くんが誕生日にチョコレートを食べるのは難しいかもしれないが、チョコレートみたいな味がする別のものを食べることは、今ならできると思うよ」

 貴洋に鑑賞されるために生きたわけではないオオクワガタの展足が、着々と進んでいる。


 玲依が壮太にプレゼントを渡すにあたっては、いくつか障壁があった。玲依はまず、プレゼントの作り方について考えなければならなかった。貴洋の提案に沿うとすれば、甘い料理を用意することが最善策である。しかし、その料理にチョコレートのような風味がなければ壮太は満足しない。そこで玲依は、ペットフードショップで手に入れたキャロブを使うことにした。簡易的な検査で使用されているのはテオブロミン検知器であり、テオブロミンを含まないキャロブであれば、万が一所持が発覚してもチョコレートではないと判断される可能性が高いと考えたためである。さらに、貴洋が集めていた昆虫のなかから、竹苞蛾の幼虫を調理に使用することにした。竹苞蛾の幼虫は香りがよく、甘さに馴染むまろやかな味である。また、蟋蟀ほど食材として普及していない。そのため種実類代わりに使用しても目立つことはないという算段だった。玲依は苦心しつつも、ポットパイを焼き上げた。試作はまずまずの見た目だった。フォークでパイを崩すと、空洞の下で、ホットチョコレート風のスープが湯気を立てていた。

 第二の問題は、呼び出し方法にあった。料理の特性上、食事をとるのは湯野家となる。誕生日パーティを装うのは容易だが、二月十四日に照準を合わせて男子を誘うとなれば、それは自ら火を熾し煙を立てるようなものである。壮太の兄を除き、百根家の人々の同意が得られるとも限らない。玲依は熟慮の末、壮太の呼び出しを琉依に一任することにした。

 最も対処が困難な課題は、壮太の動向を探ることだった。壮太が玲依のポットパイに満足しない場合、彼は喫茶店に赴くだろう。何事もなければいいが、発覚すれば壮太には補導歴(あるいは非行歴)が残り、半永久的に彼自身を苦しめることになる。そもそもバ菓法への抵触以前に、十八歳に満たない子どもが深夜に外出している時点で条例違反なのである。

 玲依は試作したポットパイを食べながらあれこれ思案する。それから、二月のカレンダーをじっと見つめた。


 琉依はやや不本意に感じながらも、玲依の頼みを引き受けた。壮太との接触機会の多さという点では、たしかに琉依のほうが適任であった。また、女子生徒は教員などに特に厳しく監視されているため、玲依は平常通り、優等生であることに徹した。

「やっぱり男子は男子と話すほうが不自然じゃないから、って玲依が。とりわけ二月中旬はね」

 早朝、琉依と壮太は芝に座り、ストレッチを行っていた。監督が顔を出すまでに、バレンタインのプレゼントについて、話をつける必要があった。

「なるほど。湯野くんは湯野さんから、僕への伝言を預かったんだね。考えてみれば、しばらく委員会もないし、仕方ないね」

「まあね。でも、あの広町が顧問だっていうのに」

 琉依は股関節のストレッチを続けながら言葉を探していた。少なくとも、玲依が壮太の行動について琉依に話してしまったという事実は伏せる必要があった。

「それで、その内容なんだけど。あの、玲依が、壮太くんに誕生日プレゼントを渡したいんだって」

 壮太は膝にサポーターを通した。彼は琉依の発言を、思いの外素直に受け取っていた。

「へえ、それはありがとう。いつ?」

「誕生日当日の夜なんだけど。玲依が料理をご馳走するから、うちに来てもらえないかな」

「そうか。申し訳ないけど、その日の晩は用事があるから湯野さんとは会えないな」

 青々とした芝に、琉依の額から汗が落ちた。梨状筋が痛い。法を遵守したい玲依は、壮太が警察の世話になる事態を避けたいはずだ。しかし、壮太が物理的に自由である限り、犯行に及ぶ可能性をなくすことはできない。玲依に比べて理性的でない琉依は、いっそのこと壮太を拉致し、簀巻きの状態で一晩蒸しておくほうが手っ取り早いのではないかとさえ思った。

「壮太くんの家は、誕生日会でもするの?」

「いや、そうではないよ。兄貴が夏生まれだから、僕もそのとき一緒にケーキを食べるんだ」

「誕生日会でもないなら、どうして来られないの?」

 琉依の問いかけに壮太が焦る様子はなかったが、たしかに彼は、返答に窮した。琉依は被害を最小限にするため、最終手段を使うことにした。

「壮太くん。玲依は君を慕っているから、きっといつまでも、律儀に秘密を守ってくれる。でも、俺はそうでもない。君が少しでも怪しい素振りを見せるなら……」

 琉依は立ち上がり、壮太を見下ろして息を吸った。

「広町先生に言うからね!」


 バレンタインデー、もとい壮太の誕生日当日、部活動を終えた琉依と壮太は湯野家を目指し、並んで歩いた。今、街は季節感を失い、灰色がかっている。二月の第三週さえ過ぎてしまえば、ひなまつりという起爆剤によって歓楽街も活気を取り戻すだろう。春の到来を誰もが待ち望む冬眠の季節だった。バ菓法を公布した当時は新しかった習慣も今では人々にすっかり馴染み、国民それぞれがそれぞれの方法で菓子類のない二週間を過ごした。といっても、たいていの大人は酒さえあれば事が済んだのである。二人は非常にシンプルな街を闊歩した。十一月一日から突如として柊の実や葉となるような、十二月二十六日から矢庭にめでたい御幣となるような月日とは異なる、意図的な無の時間だった。道中、二人は憧れの選手などについて語らい、退屈を凌いだ。

 一足先に帰宅した玲依は、黙々とポットパイを作っていた。香ばしさと罪悪感が彼女の肺を満たす。試作は甘かったのである。甘いポットパイなど、紛れもない菓子ではないか。味も匂いも完全に菓子だ。これが菓子でなければなんなのだ。玲依は自分に言い聞かせた。これは菓子ではなく創作料理である。誕生日祝いの夕飯である。とはいえこれを食べた壮太が、玲依の菓子類不法所持を摘発しないとは限らない。玲依が疑り深く考えるばかりに、問題は膨張する。間もなく玲依は広町の講話を思い出した。バレンタインの「かわうそ」には、「作らない」が含まれていない。玲依の眼前に一筋の光が差す。「作らない」が含まれないのは、たしか、料理研究家を保護するためだ。しかし玲依は料理研究家ではないのだ。玲依は境界線の引き方が分からず頭を抱えた。彼女は平均的な心やさしい中学生であり、法律にはさほど詳しくなかった。

 貴洋は玲依の葛藤をよそに、余った竹苞蛾の幼虫を摘まんだ。素揚げはくせがなく食べやすかった。

 いよいよインターホンの呼び鈴が鳴り、玲依は琉依と壮太を出迎える。玲依がおかえりと言えば琉依がただいまと言う。玲依がいらっしゃいと言えば壮太がお邪魔しますと言った。二人は居間の絨毯にすべての荷物を置き、洗面所で手洗いとうがいを済ませると、玲依に促されて席についた。玲依は焼き上がった三個のポットパイをテーブルまで運び、プレースマットの上にその皿を置いた。そして、食器を並べる。

「琉依はなににする?」

「焙茶」

「壮太くんは」

「なんでもいいかな。ご馳走になるわけだし」

 なんでもいいと言われてしまうと、玲依は却って困るのである。壮太が本当に飲みたいものを見極めなければならない。実際、人間は、なんでもいいわけがないのである。しかしそれ以上に、考えるという行為は面倒臭い。なんでもいいというのは、よりよい結果を犠牲に思考を放棄しているだけだ。玲依は茶漉に茶葉を入れ、急須に戻すと、薬罐から湯を注いだ。

「二人とも焙茶ね」

 湯呑みに焙茶を注ぎ、玲依は再三迷った。ポットパイは洋食、であれば紅茶を準備し、ティーカップを使うべきではなかったか。玲依は湯呑みをある程度潤したのち、食器棚からティーカップとソーサーを取り出した。表面を拭き、改めて焙茶を注いだ。中国茶ではないが、一煎目を自分が飲んでも問題ないだろう。

 玲依は三人分の焙茶をテーブルに並べた。芳しい菓子のような香りを放つポットパイの前に、彼女自身も着席する。玲依は壮太を横目で見た。

「壮太くん、誕生日おめでとう。よかったら食べて」

 壮太はありがとうと頷き、ナイフとフォークを手に取ると、パイを崩した。茶色の柔らかな液体はパイのなかで湯気をたてている。壮太はフォークをスプーンに持ち替え、温かいそれを掬った。口に運び、味わえば、チョコレートじゃないか、と呟く。

「湯野さん、これは、歴としたお菓子だ」

 玲依は壮太の幸福そうな表情に安堵した。

「お菓子じゃなくて薬なの。……甘酒だから」

 玲依は貴洋の言葉を借りて弁明する。甘酒にキャロブを混ぜたスープは、琉依にも評判がよかった。

「それに、カカオは使っていないの。怖くて」

「そうか。でも、甘くて、茶色くて、本当にチョコレートみたいだ。湯野さんは絵もうまいけど、料理もうまいんだな」

 壮太があまりに美味しそうに食べるため、玲依と琉依も彼の速度に合わせてポットパイを食べ進めた。淹れたての焙茶は淹れたてではなくなり、パイの横で冷めつつあった。


 壮太は湯野家の廊下で乾ききった塵虫騙の幼虫を踏んだ。幼虫は色鉛筆の削り屑のような粉を出して崩れた。その幼虫は貴洋が釣りのために準備していたものであるため、損失はなにもない。しかし貴洋はそこで一芝居打った。

「よくも人の大事な標本を壊してくれたね」

「お言葉ですが、珍しいものには見えません」

「たいして珍しくない標本をドイツ箱にも入れず床で飾っていることだってあるんだよ、人間だから」

「それは失礼しました……どうお詫びすれば?」

「とりあえず、今晩は部屋で標本の修復を手伝ってもらうからね。よろしく」

 貴洋は壮太の行動に難癖をつけるような態度のままその場を去った。唖然とする壮太に、キッチンから出てきた玲依が声をかけた。

「別に、気にしないで。でも、床の掃除を手伝ってくれると嬉しい。壮太くんは美化委員なんだから。それからポスターの題字を書き終えてほしいの。締切がもうすぐでしょう」

 極めつけに、駆けてきた琉依が言った。

「ごめん、壮太くんのユニホームを自分のと間違って洗い始めちゃった。スパイクも。タオルも。なにもかも。だから今晩は泊まっていって」

 玲依と琉依は緊張感を味わいながら壮太の返答を待った。外泊を咎められるとしても、今度ばかりはやむを得ない。玲依と琉依は壮太がバ菓法に違反しないよう手を尽くしたが、それでも彼が喫茶店に行くというのであれば、二人で彼の後を追うほかないだろう。

 選択を見守る二人に対し、壮太は、寝巻きとか持ってきてないんだけど、と笑ってみせた。

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聖徳大学 文芸研究同好会

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