こんにちは。文芸研究同好会です。
過去の部誌(刻15号・刻16号)の、ブログに掲載していない作品を公開します。
※描写はすべてフィクションです。攻撃的な意図はございません。また、作者の自由な表現を尊重しています。ご意見のある方は、文芸研究同好会までご連絡ください。
後部座席/鱸
君じゃない人に会うから仕方なく袖の毛玉を切るひとつずつ
似たような答が鈴のD香る線の隣でゆるみはじめた
歌うたい余白に黄色を敷き詰めて財布も携帯電話も持たず
ひまわりの種を数えたその日から野に降る日ざしは知らない音春風と君は鋼の龍に乗り時を止めたり巻き戻したり
それなのに起承転結トロニヘと積んだ日夜に檸檬をそっと
階段を上った暑さ空の青今日のために生きていたらしい
別に誰も読んでないと思うから言っちゃおうかな。みんな大好き
誓いのキスなんて/空色さくらもち
「ふぁ…」
全身が怠くって、鉛のように重たい。何とか持ち上げた右手で縋るように目の前のシャツを掴むと、持ち主は小さくクスっと笑う。
「ふ、ふふ。しおんさんもうちょっと上、来れますか。落ちちゃうから」
シャツを握りしめていた手をそっと解かれて代わりに、朔の冷たい手に包み込まれる。その冷たさに夢の世界から一瞬だけ引き戻される。
「ん゙…むぃ゙……」
「んはは、むりかぁ」
朔が笑うとその上に乗ってる俺まで盛大に揺れて、なに笑ってんの、と詰めてやりたいのに思うように体が動かない。だめだ夢の世界へ引きずり込まれていく。
「ね、しおんさん」
「ん…なぁに」
「すごく眠たそうなところすみません。文句なら後日ちゃんと受けます。だから、」
頭上で小さく息を飲み込む音が聞こえた。
「僕と番になりませんか」
例え熱と眠気に浮かされていた脳みそでも、その言葉はしっかりと聞き取ってしまった。番に……俺と、さくが…?
「え…なに、」
「しおんさんと、番いたいんです」
目線がはにかんだようにきょろきょろ動き回る。ふ、緊張しすぎだろ。「番になりたい」……か、ずっと言いたくて、言われたかった言葉。気を抜いたら浮かれすぎてしまいそうになる。
「ん…いいよ…」
冷静を装って顔を背けたのも、赤くなってしまっているであろう頬と、あちこち泳いでしまう目線とできっと無意味だ。
「へぁっ?」
「だからうなじ、噛んでもいいよ」
ほら、と重たい体を何とか動かして項を晒すと、小さな悲鳴が聞こえた。気遣いがちにそっと襟足に触れてくる。
「…っすっっっっごく、噛みたい…です、が!今日はだめです」
「んえ?なんで、」
「こんな衝動的なものじゃなくて、もっとちゃんと正式に噛みたい。本気だって信じてもらいたいから」
フェロモンの匂いのせいもあって、朔の顔が一層苦悩に歪む。んな顔してよく言えたなと少し可笑しく思う。それでも朔はギュムッと唇を噛みしめていて、断固として噛まないつもりなんだ。俺はいいって言ってるのに。衝動って言ったけど俺はヒートだから衝動的に許したんじゃないよ。
「じゃあ…いつか、ね」
「しおんさんがいいのなら」
「ん。いいよ」
いつか、じゃなくて今でもいいのに。朔はもう耐えられないと言ったように俺のうなじに手を添えて覆い隠す。ふは、そんなに頑なにならなくても。でもそれでも俺は愛されてんだなぁ、とか。そういう自負があった。だってあんな顔しておいて、「本気だって信じてもらいたい」だなんて恥ずかしいこと言えてしまうんだ。相当な覚悟をしてくれているんだなって思うだろ。
それでも。それなのに。
朔は翌年の夏、俺の知らない顔をして、俺の知らない人と結婚をした。俺と番になるよりも先に。あまりにも突然のことだった。祝いの席に参列した周りの友人達も驚きに満ち溢れていて。相方である俺にすら何も話してくれなかったんだ、恐らくほとんどの人にとっても急な報告だったんだろう。そりゃ驚くよなあ。
「どしたの?しおんさん」
隣の席の日向が心配そうな顔で覗き込んでくる。日向はというと何故かさほど驚いてはいない様子で、事前に聞かされていたわけじゃないなら、それはそれで状況把握能力高すぎだろと変に関心した。でも気が紛れたのはほんの一瞬で、すぐにまた気分は下がった。
「浮かない顔ですね」
「いや…」
あれだけ、俺に愛を囁いていたくせに。甘ったるい顔を見せていたくせに。番になろうって言い出したのはお前のくせに。
……キスだってしたくせに。恋人、俺じゃなかったんだね。考えれば考えるほどチリチリと傷のひとつもないうなじが痛んだ。
誓いの言葉を紡ぐあいつは綺麗という言葉がとても似合っていて。白タキシードに金色の襟足が映えて、そんな横顔は男の俺から見ても綺麗だと思う。きょろきょろと動き回る目線さえなかったら本物の王子みたいな見た目。あぁ…めでたいな。そうだ、めでたいんだ。朔が取るのは彼女の華奢な手で。気遣いがちに触れるのは彼女のヴェール。俺とは行為中ですら目も合わせなかったのに、彼女とはうっとり見つめあったりしちゃって。
……こんなこと考えるくらいならなんで俺、ここまで来ちゃったんだろ。確かに朔を祝いたかったけど、祝いたかったわけじゃなくて。幸せそうな朔を見てやりたかったけど、見たくなくて。そんな矛盾だらけでもう頭がきゅうきゅうだ。どこか期待していたのかもしれない。本当は全部ドッキリでした〜!とか、式の途中で連れ去るあの展開とか。でもいざ式が始まるとあまりにも絵になるふたりだから、俺が手を出す間もなくスムーズに進行されていって。あぁ、ドッキリじゃないんだな。なんて。余計に惨めな思いになった。
なぁ……誓いのキスなんてするなよ。
馴れ初め話ではにかんで微笑みあったりしないでよ。卑屈な心は一旦顔を出してしまうともう引っ込められなかった。
ガーデンに出ると周りから「相方だから」、「次のおめでたはしおんさんすね」なんて言われながら前の方に押されるけど、俺がブーケトスで前のめりになってたらさすがに痛々しいから適当に言って後ろの方に流れる。でもあまりに後ろ向きだとそれはそれで怪しいから程々に手を挙げてバランスをとる。
「じゃあ投げますよ〜」
朔が顔の大きさくらいのブーケを頭上に掲げた。
お前が投げるんかよ。
「せーーーーっの」
正直見るのも辛いのに取れちゃったとしても処理に困るだけだし、見る度に思い出してしまうかもしれない。思い出して、きっと朔を忘れてあげられなくなるかもしれない。目をぎゅっと瞑った。歓声がより大きくなって、そろそろ誰かの手の元に落ちた頃だろうか。と、薄目を開けようとしたその時。
ブォン!
とんでもない音がして、本当にブーケトスの音とは思えない音がして目を開くとバシュッと音の主が手に収まった。収まったというか飛び込んできた。
「え、……は?」
周りにいた奴らはなんて事ないように楽しそうにおめでとうと口々にする。いやいや……え??俺がいるここから朔まで結構距離あるよ?狙ってぶん投げたとしか…いや、まさかね。何のためにって話だし。朔が狙ったところに投げられるとも思えないし。当の朔はというと慣れない動きをしたからか、かっこいいタキシード姿で、ヘトヘトとかっこ悪いポーズになって休憩している。
あぁ、ブーケ…取っちゃった。
周りに欲しがってるやつがいたら渡してあげようと思って見渡すけれど、案外みんなあっさりと散っていく。いらない、と思っていたブーケでも花を見ていると不思議と気が逸れていって。特に青い紫陽花を見ていると少し気が楽になる。けれど少し経つといつの日か朔が笑いながら教えてくれた青い紫陽花の花言葉を思い出してまた沈む。あの時はただのジョークだったそれも、今では笑えない。
*
眩いほど華やかなガーデン。
オードブルから何種類か食べ物をよそって、薄ピンク色のお酒を取る。正直味なんて感じないけど、少しでも胃になにか入れておかないと本当に空っぽになってしまいそうで。すると不意に後ろからトン、と肩を叩かれて颯が肩口から顔を出す。
「しおんさん、楽しんでます?」
「ん?…うん、大切な相方の結婚式だからそりゃあ楽しいよ」
「ふうん?てっきり落ち込んでるものかと思ってました」
「なんで俺が落ち込むの」
「だって好きだったじゃん、さっくんのこと」
一瞬ドキ、とした。颯にまでバレてたなんて。
「……そんなことないよ。だとしても普通に嬉しい」
嬉しいのは嘘じゃない。一ミリはあの朔がそういう女性を見つけられたこと本当に嬉しいと思ったから。すると颯は「う〜〜〜〜〜〜ん、なんだかなぁ」とでかいため息をついた。
「しおんさんちょっとこっち来て」
と何故か飲まないくせにワイングラスを手に取ってどこかへ歩いていく。しばらく見送っていると「ねえ!!来て!!来いよ!!」と騒ぐので仕方なく颯についていく。
「颯、ねぇ、どこ行くの」
「……」
「颯?」
「しおんさん。しおんさん、本当は今日お祝いしに来たんじゃないでしょ」
「……何の話?」
賑わいから少し離れてさっきブーケトスをした大階段の壁あたりまで来ると、颯が意味ありげに笑う。
「話してくださいよ、俺には。誰にも言わないから」
「……やめようってこんな話。失礼だよ二人に」
「しおんさんには?」
「え、?」
「しおんさんには失礼じゃないんで?」
「……そんなこと、いいよ別に」
「はは、そこは「何の話?」って言わないんすね」
「っな、」
うわ嵌められた…っ。かけられたカマに引っかかって、まんまと自分の口で「ハイ、訳ありですよ」と言ってしまったようなものだ。もう言い逃れ出来ない。
「言っちゃえって。どうせ沈むなら二人で沈んでも同じじゃないですか」
とか何とかやたら楽しそうに言っているけど、きっと本心から俺の事心配してくれているんだろう。そこまで言うなら、少しだけ。と気が緩んだ。正直もうダメだったんだ。誰でもいいから、誰かに聞いてもらいたくていっぱいいっぱいだった。胃に詰め込んだ料理が丸々口から出てきてしまいそうなほど苦しくって。もしかしたら颯は気づいてたのかな。
「…俺さぁ、本当はヒートじゃなかったんだよね、あの時」
「あの時?」
「そう、あの時」
朔が「噛みたい」って言ったあの時。全然周期的にも俺は本当はヒートじゃなくて、頭も体もフェロモンの濃度も正常だった。だから全身力が入らなかったのも、沸騰しそな程熱かったのも。本当はぜんぶヒートじゃなくて、正真正銘、朔だけのせいだった。ヒートのせいにすれば噛んでくれるかもって。頑張ってちょっとそれっぽく誘ってみたりしたけど、ちっとも揺れなくて。それでも朔が、愛とか口にするのが苦手なあの朔が、顔を俺よりも赤くして「大切にしたいんです」とか口にするから。まぁこれもいいかなって単純に浮かれた。だけど現実はそんなんじゃなくて、本命の相手が他にいたからなんだって分かってしまった。すると俺の頭はもうまともに動いてくれなくなって、じゃああれは何だったのとか。全部嘘だったのとか。そんなので頭がいっぱいになる。
「じゃあ、さっくんがしおんさんとそういう関係を続けてたの、どう思ってるんです?」
「…それは、」
「そういうのも全部、練習とか、優しさとか……そういうのだと思ってるんですか?」
「まぁ…」
「ふうん」
自分から聞いといてふうん、で終わらせた颯の顔を窺うと怒ってるのか困ってるのかよく分からない顔をしていて。まるで当事者みたいな、なんでお前がそんな顔してるの。
「自分から言っておいてあれですけど。さっくん、そんな不貞をやらかすような人ですかね」
「それは…」
「そんな無責任な人かなぁ」
……本当は分かってる。あいつがどれだけ誠実なやつなのか。人生の半分くらいあいつを見てきたんだ、そんなことよく分かってる。だからこそ、苦しかった。いっそふざけた人間で女にだらしない無責任な奴だったら、すぐに諦めがついたのに。
『本気だって信じてもらいたいから』
じゃあなんで結婚なんてしたんだよ。なんでちゃんと振らないで、次に進んじゃうの。振り切ってくれないと考えてしまう。朔にも何か訳があるのかな、とか。本当は望んでないんじゃないかな、とか。でもどんな理由があっても、自分なりにちゃんと考えて結婚という道を選んだに朔にそんなことを考えるのは、失礼だと思うから。
「……もう、どうしたらいいかわかんない…」
「しおんさんはどうしたい?」
「俺?…俺は………ちゃんと話したい、けど」
んな遠くに行っちゃったら、もう何も言えないだろ。と、その時。
ビシャァ
という水音と共に叩きつけられるような衝撃が降り掛かってきて数秒、やっと今自分は胸元にワインをぶっかけられたのだと理解した。白いワイシャツがどんどん濃い赤色に染まっていく。
「え、?……え??なに、」
「しおんさんはさ、実はすごく愛されてるよ」
戸惑う俺を他所に颯は話続ける。意味がわからない。
「は?…え、いや、何」
「でもこんなのおかしいと思うんです。愛してるのに一緒になれないなんて、絶対間違ってる」
「だから何の、」
「そういうことだからもう、俺と付き合いません?」
ワインが染みるネクタイを引っぱられて、油断していた体は耐えれずわたわたと颯の方へ倒れ込む。
「さっくんのこと、好きなままでいいからさ」
「っ、颯、」
「お願い」
じっと真剣な眼差しで見つめられる。本当に何がしたいの、と詰めようとしたとき。
「――しおんさん!!!」
*
「えぇ!さっくんそれ本気!?」
仲の良いいつも遊ぶ友人たち4,5
人を誘って、とある相談事をすると誰からともなくそんな驚いた声が上がる。まず結婚することにすら驚かれている気がするけれど。相談事、それは二週間後の結婚式で僕の大切な人にブーケを渡したいってこと。しおんさん以外を集めた時点で大体察していたらしく、且つ、僕らの関係をなんとなく知っている皆は一旦知らんぷりをしてくれた。そんな優しさが今はとても染みる。
「そんなの無茶だよ…」
「やっぱりそう思う?」
挙式の二週間前、時間がとにかく足りない。式自体急に決まったようなものだ、無理があるってことは分かってる。僕のわがままだとしても、でもこれはどうしても譲れない。
「だってさっくんボール投げるの下手じゃん…」
「ねえ」
まったくいつの話をしているのだろう。失敬な。あんな数年前にやったキャッチボールのことなんて僕自身今の今まで忘れていた、言っとくけどあれからもう随分と進歩しているんだからね。
「ふは。まぁ冗談だけどさ、俺たちは全然いいよ」
「うん、オレたちに出来ることがあるなら協力する」
一頻り笑うとふと真面目な顔に戻って、「任せてよ」と言ってくれる彼らが心強くて。
「…っ、ありがとうみんな」
少しだけ泣いてしまったのは秘密だ。
「でもさ、協力するならちゃんと知っておきたいな」
「うん?」
「お相手のことと、ふたりのこと、それから…しおんさんのこと」
颯くんが真剣な顔付きになった。確かに、みんなに協力をしてもらうのだから話しておいた方が良いのかもしれない。僕たちのこと。
「…うん、わかった」
*
僕の思い人はとても優しい人だから、本当は肩も震えているのに「噛んでもいい」と言ってくれる。そういう人だ。そういうしおんさんだから、僕は男性とか相方とかそういうものを抜きにしても好意を抱いた。
「次にしましょう」
だってすごく震えてるし。だって勢いで噛んだと思われたくないし。するとしおんさんはあやされたと思ったのか毎回少しだけ不満そうな顔をするから、それがおかしくて。愛おしくて。
「つぎ…ね」
「次じゃ嫌ですか?」
「そういうんじゃないけどさ、でも、お前毎回そう言うじゃん」
「毎回怖がらせちゃうから。でも次はきっと出来ますよ」
「……怖がってないんだけど?」
「えぇ?ふふ、」
「ヒートだから震えちゃうんだよ」
そうやって頑張ってヒートのフリをして誘ってくれるけれど、αの僕にはわかるのだ。しおんさんのフェロモンの濃度は大して昂っていない、至って正常だ。それでもこうして照れてしまうのを惜しみながらあれこれ手を尽くしてくれている姿が尊くて。「ヒートなんて嘘でしょう?」とは言いたくなかった。だから僕はその日の晩も気づいていないフリをして、しおんさんに口先だけの約束をして終わらせたのだ。今となってはあの時噛んであげられてたら何か変わっていたのかな、とか。逆にあの時噛んでしまってたら余計に辛い思いをさせてしまっていたのかもな、とか。考えても考えても尽きない。もし時間が戻せるなら、何に替えてもまず僕はしおんさんの番になりたい。でも神様なんてきっといないのだ。番への一歩を踏み出せないまま一年が過ぎた頃、そんな僕に痺れを切らして試練を下したんだ。
*
その日、仕事でご一緒したミュージシャンの先輩に誘われ、飲みの席に同席した。二人だけだと思っていたそれは「食事会」という名の合コンだったらしく、僕は名前を使われたのだと一瞬で冷めてしまった。けれど、一応お世話になっている方の面を潰すのも気が引けて、とりあえずは乾杯に参加した。空けたジョッキの数が増えるとついにその話題は「合コン」の部分が色濃く出てきて、あまりのつまらなさにそっと席を立とうとすると先輩に呼び止められた。
「じつは…ここに呼んだのには理由があってさ、」
おずおずと口を開いて話し出す。なんでも自分の妹さんを紹介したいのだと。幼少期から病持ちで引きこもりがちだったらしく、持病が完治した今でも外に出られないでいるんだとか。
でも僕には既に恋人がいるのでと断ってみても引く様子がなくて。
「会うだけでいいんだ、長い間一人にさせたから……話し相手になって欲しい。なぁ、頼むよ」
話し相手くらいなら……まぁ、と甘い考えで僕は断りきれずに承諾してしまった。すると嬉々として呼び寄せると、しばらくして髪の黒く色白で華奢な女性がゆっくりとこちらへ姿を現した。その女性こそが不本意ながら僕の後の婚約者となる人だ。
「こちらが朔くんだ」
「…はじめまして」
緊張がちに目を伏せる動作や、僅かに震える指先を誤魔化す仕草がどことなくあの人に似ていて。姿が似ているわけでもないし、彼女にとっても失礼だとは思うけれど彼を重ねて少しだけドキっとしてしまった。
「はじめまして」
朔です、と自分も名乗ろうとしたその時だった。不意に体の力が抜けて、視界がどんどん狭くなっていく。あれ?おかしいな、飲み過ぎないようにしていたつもりだったのに。そうして完全に目が閉じてしまうその瞬間、「あ、ちがう…これ謀られたんだ」と気づいた。けれどもう後悔しても遅くって。次に目が覚めた時には見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。隣には見知らぬ黒髪に見知らぬ後ろ姿。慌てて飛び起きて彼女のうなじを確認するけど、鍵付きのチョーカーが付けられていて見れない。あぁ、なんでこうなってしまったんだろう。あの時もっと強く断っていれば。もっと強く警戒していれば。一年前からずっと下手な演技で「噛んで」と健気に誘ってくれていたしおんさんのことは何度も断ってきたのに。いいよ、ってずっと用意して待ってくれているってわかってたはずなのに。今でもきっと僕がただの飲み会に参加していると信じて、一人部屋で寝ているしおんさんを思うと後悔と自分への怒りとやり切れない脱力感で頭がめちゃくちゃになる。
……大切に、したかったのになぁ。脱力していく頭で、これからどうしようか考えているとふとあることに気がついた。チョーカーが着けられているとはいえ、これほどまでにΩの匂いがしないものかな?もしかしてと淡い期待が過ぎる。もしかして、彼女は置を彼女じゃなくて。Ωってくれ責任取って「笑り予想通とニタリうと合が目がいて。兄の彼女りると、降にロビーいてれている撮よく姿。る眠でベッドく二人仲良が彼女と僕せつけてくる。見をスマホるよな」とからこうするつもりだったんだ。最初な。あぁ、そうか。
「でも、彼女αじゃ?」
「?朔くんはΩだから問題ないだろう?」
Ω……?僕が?
「いや、僕はαですが」
「はは、あのさぁ。その程度のはったりがきくと思ってるなら大間違いだよ。俺もαだからわかるんだ、君が纏っているその匂い…どう考えてもΩのものだろ。初めて会った時から『良い』と思っていたんだ」
「匂い……って、」
「それとも、その匂いが他の誰かのものだというのなら、呼んできてごらん。その人を身代わりにしてもいいんだよ」
ふざけるな、喉から出かかったけれど、そう言ってしまったらまさに「ハイ、いますよ!」と宣言してしまっているようなものだ。この人の言うΩの匂い、きっとしおんさんのものだ。ついさっきまで一緒にいたのもあるけど、きっとしおんさんがこっそり僕の服で巣作りをしていたからその時についたものだろう。
「…それで彼女は何と」
「兄さまのご随意に、それだけだ」
「そう、ですか」
微かな希望も打ち砕かれた。偽りとは言えど写真が出てしまえば間違いなく大問題になるし、ライブやイベントの企画が進んでいる現在それは避けたい。それに、ここで僕が曖昧にすれば、Ωであるしおんさんにも手を出しかねない。元々、彼女がαなら僕じゃなくてしおんさんの方を狙おうとしていたんだ。無条件で野放しにする訳には行かない。
「……式はいつ頃にしましょうか」
僕は、しおんさんを大切にしたい。だけど、僕じゃそれは出来ないから。だから僕は、しおんさんの知らない人と、しおんさんを知らないところで、しおんさんのことを想いながら、αの女性と婚約をした。
彼女の兄は式はいい、と言ったが何とか押し通して日程を組んだ。三週間後。相手方のコネで急遽決まり、細かい確認などは省略しての挙式とはなるけど、彼女も僕もそれで十分だった。仮初の婚姻にはお誂え向きだ。ただ、どうしても僕は式を挙げたかった。しおんさんがもし来てくれたなら、ブーケを渡したい。僕の私物は全て没収だし、すぐに相手方の家へ入ることになっているから、しおんさんにはちゃんとしたお別れの言葉も言い訳も出来ない。だから挙式の日がしおんさんと話せる最初で最後のチャンスだ。きっと急に僕が結婚するだなんて言ったら悲しませてしまう、それでもしおんさんにはいつか幸せになって欲しいから。会場中の中で一番、しおんさんに幸せになって欲しいから。
「……だから、どうにかブーケをしおんさんに届けたいんだ」
一通り話すと、それまで黙って聞いていた皆は複雑そうな顔をする。こんな話されても困るかもしれないけれど、でもこれが本心なのだ。
「……うん、わかった。話してくれてありがとう」
「とりあえず当日はまかせてよ」
「ただ、そこから先はさっくんがやるんだよ」
彼らはそう言うと、「泣かないでよ」と笑顔を作ってくれる。その優しさに今度は隠す間もなくまた少し泣いてしまった。我慢、効かなくなっちゃったみたいだ。
スマホもパソコンも使えなくなって、すっかり外の世界ともネットの世界とも遮断されてしまってから早数日。そうして着々と挙式の準備が整えられていって、あっという間に当日になってしまった。ライブメンバーを通してしおんさんや他の友人に招待状を届けてもらったから、先日集まってもらった人たち以外のみんなの顔を初めて見る。少し、怖かった。なにより、会場で久しぶりに見たしおんさんの顔が、最後に見たものよりもいくらかやつれているように見えて。気が気じゃないまま、誓いの儀式が終わっていった。
肝心のブーケトスはそれはまぁ酷いもので。あれは果たしてブーケトスだったのかな…と思うくらい酷かった。みんながしおんさんの背中を押してくれたものの、しおんさんは優しい人だから遠慮して後ろへ行ってしまう。最前列にいたとしても届くかどうかな距離なのに、そんな後ろへ行ってしまわれたらもう確実に届かない。
でもだからといって諦められる訳じゃなくて。何とか持てる力を出し切って投げるものの、やっぱり 分の も行かないようなところで失速してしまう。すると、日向くんが空中でそれを受け取って後方へさらに放った。この中のたった数人にしか話していないはずなのに、それを見てなんとなく察してくれたのかまた人混みの中で失速をすると、それを誰かが投げてを繰り返して真っ直ぐにただ一人、しおんさんの元へと紡がれていった。幸いにもしおんさんは目を瞑られていて、この明らかな小細工にちっとも気がついていないようだ。そうして最後の一人、というかもうほぼしおんさんから目と鼻の先にいた颯くんが投げると油断していたしおんさんの手元にポスンと収まった。ほっと肩を撫で下ろす。形はどうであれ、よかった、渡せた…渡せたんだ……。みんなのおかげで、しおんさんにブーケを渡せた。
きっと自己満足でしかないけれど、それでも少しでもしおんさんが幸せになりますように。僕を忘れて次に進めますように。そんな願いを込めた。込めたはずだった。
でも颯くんと二人きり、しかも隙間がないほど密着をしているのを目の前にするととうに捨てたはずの感情がぶり返してくる。どの口でというのは承知で、嫉妬してしまう。いやだ、と思ってしまったんだ。自分で決めたことなのに。上手くまとまらなくて。しおんさんに僕以外とその距離にいられることがすごくいやだ。わがままだけど、でも次になんていかないでほしい、置いていかないで。とても言える立場にないことはちゃんと分かっていたけれど、気がついたらもう名前を呼んでしまっていた。
*
「――しおんさん!!!」
聞き慣れた声と共に後ろから袖を引かれると、簡単に颯の体から離れられる。久しぶりに近くで見た朔の顔は、自分でも驚いているような、それでいてどこか怒っているような表情を浮かべている。
「なにをしてるんですか」
「え?…あぁ、いや…颯とちょっと話してて」
「……ワインをひっかけて、抱き合いながら”ちょっと”お話をね」
「だっ、いてはないだろ。ただよろけちゃっただけ」
颯に目線で助けを求めても、口を挟もうとはせずただにやにやと様子を見ているだけで。なんだよ、俺だけ浮気現場押さえられた人みたいになってるじゃん。
「……少し二人きりで話しませんか。来てください」
「…え?えっ、ぁ、朔?」
どこを見てるのか分からない朔に手を引かれて、式場の中に向かう。
「とりあえず着替え用意してもらいましょう」
「ちょっ、奥さんは?」
「友人が怪我したから診てくるとだけ伝えてきました」
「俺は大丈夫だから戻りなよ」
「でもそうしたらしおんさんはどうするんですか」
「俺?」
「だってしおんさんそんなびしょ濡れで、シャツも洗わないと…」
間近で見てわかった。どこを見ているか分からないと思っていた朔の目は、どこも見てなんかいなかった。ずっと忙しなくキョロキョロと動き回っていて、自分でも混乱しているんだろう。そんな姿を見ると、少しだけ、付き合ってあげようかなという気持ちになる。
式場の控え室を借りて、朔と二人で入る。会話はほぼ無かったけど不思議と気まずくはならなかった。
「しおんさん、脱いでください」
「え。いいよ、颯にやらせるし。元々これも颯が、」
「他の男性の名前呼ぶんですか…」
明らかに朔の見えない耳としっぽがへにょ…と垂れた。いやいやいやお前が言い出したのに?
「お前のでもないけど」
なんて。さすがにブラックジョークが過ぎた。
「……本当に、颯くんとお付き合いされるんですか」
「え?颯?……あぁ、あれ聞こえてたんだ」
『そういうことだからもう、俺と付き合いません?』
『さっくんのこと、好きなままでいいからさ』
颯はどういう気持ちであんなこと言ったんだろう。あの顔を見る限り少なからず最後の方は確実にからかわれていた。だけど、全部が全部嘘だとは思えないんだよなぁ。自惚れとかじゃないんだけど。
「お付き合い、されるんですか」
「…朔には関係、」
「ないですよ、ないです……ないですけど…」
「……しないよ」
なぜか俺よりも死にそうな、今にでも泡を吹いてしまいそうな青白い顔に負けて正直に言うと、朔は緊張で上がっていた肩をようやく撫で落とした。
「俺は他に本命のやつがいるから」
「っ、そう…ですか」
…俺にだけ言わせるんだ、ずるいね。
「ん…。」
なんて当たり障りもない言葉で誤魔化すしかなくて。なんでそんなこと聞いたの?聞いて俺がもし「うん」って言ってたらどう返すつもりだったの?自分は婚約者とキスしてたくせに?
「………誓いのキスなんて、」
しないで欲しかった――。今更言っても遅いよな。最後まで言ってしまったら、もうそれっきりな気がして。どうせ言ったって朔はもう既婚者だ、何も解決しない。言いたいことが喉先まで来てるのに、あと一歩のところで俺の優秀な理性が働いてしまう。
「ねえ、なんであの日俺に『番になりたい』だなんて言ったの?」
「…しおんさん、あの日ヒート来ていたでしょう?」
「うん」
「とても辛そうで、」
だから言ったの?俺がヒートで辛そうで可哀想だったから?それで?
「最悪…」
「…」
「嘘でも聞きたくなかった」
ただでさえヒート中は思考力が鈍るのに。俺は本物のヒートじゃなかったけど。
『しおんさん…っ』
『うれしいんですっ』
あんなの、勘違いしちゃうだろ。初めから、違うよって。これはただのヒートを治めるための治療で本命はほかにいるんだよって。言っといてよ。体内時計数時間、たった数分間の沈黙が流れる。不意に朔と目が合って、これまでの何気ない日々のやり取りと同じ仕草で流れるように唇を近づけてくる。
は?キス?こんな時に、コイツ…何考えて…?
「んっ、な……さく…っ」
「……嫌、ですか?」
「ぁ、いや、だよ……」
嫌に決まってんだろ。ばか。
好いてるやつが他の誰かと誓いのキスした唇なんて、絶対嫌だろ。
「……もしかして妬いてくれてますか」
「して、ない」
ことも無いけど。
「してないですよ」
「…え、?」
「本当はね。キスしてないんです、あれ」
「え、なんで?」
「さぁ…でも誓いのキスなんて、したところでなんの意味もないですから」
俺はそのなんの意味もない誓いのキスが羨ましかったけど。
「ごめんなさい、嫌になりましたよね」
「…なった」
「では僕たち終わりですね…」
「したいの?終わりに」
「したいですよ」
本当に朔が言うように全部が俺の独りよがりだったなら、朔の言葉に頷こうと思っていた。だけど、朔の顔がそうじゃないことを物語っていて、そんなの見ちゃったら「ハイそうですか」なんて出来ないよ。
「そんな顔しといて?」
「え?」
「俺は朔のこと嫌になったけど、嫌いにはなれないから」
「……なんですかそれは…」
「だから、俺はまだ朔を諦めたくないよ」
諦め方を忘れさせたの、朔でしょ。元々番なんて求めていなかったし、要らないと思っていた。それなのにいつからか朔のこと、諦められなくなっていた。一緒にいるだけじゃどうしても本能は満たせなくて。どんどんわがままになっていった。
「っ、しお」
「だから…もし朔が、まだ少しでも俺のこと諦めないでいてくれてるなら」
少しでも、お前が今抱えている重荷を教えてくれるなら。ほんの一グラムくらいにしか変わらないかもしれないけれど、それでも俺が一緒に背負ってあげるから。だから、
「一緒に逃げてくれる?」
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